「伊野くん、ちょっと頼みごとがあるんだけど」
土曜の朝っぱら(AM7:00)から、開け放たれた家の古戸。
それがアパートの大家であっても、まず取り替えたはずの鍵を開けて入って来るこの行為、好ましいとは言えない。
「すいません櫨山さん?鍵は…」
「ちょっと出てきてくれない」
「いや、あの」
寝ぼけ眼でボサボサの頭をかきむしりながら、普段着兼寝巻きのスウェット姿で伊野が思うには。
朝っぱらからこの無駄に元気な大家の活力の源は、年の功から来ると言うことだ。
連れられるがまま錆びだらけの階段を降り、アパート全体を見渡せる前まで出ると、
櫨山さんは右手人差し指を宙に突き出した。
「あれ」
「?」
そもそも良くはない視力がいくつか忘れたが。日頃の不摂生が祟り、学生時代0.1だったものの今はもっと悪いだろう。
加えて常日頃かけている黒縁眼鏡すら忘れた。
それでもなんとかなけなしの視力で目を凝らして見ると、アパートの二階・一番隅の屋根の角に、バスケットボール程の球体があるのが見えた、気がした。
「スズメバチの巣みたいでね」
「はぁ」
「すごく危ないと思わない?」
「危ないですね、二度刺されたらアナフィラキシーショックで死にますね」
無駄な知識を当て付けたい伊野。
「あそこの角の部屋誰だったか知ってる?」
「えーと…知りません」
「僕なんだよ」
「そうなんですか」
伊野くん君いつも家賃僕が回収しに行くまで出さないから知らなかったでしょ。
蜂の巣を見ながら言われ、心中で舌を出す。
「壱万出すよ」
「え?」
「バイトしてくれる?あの巣駆除して欲しいわけ」
この人俺をアナフィラキシーショックで殺すつもり満々だな。と伊野の心中。