地元滋賀にある大きな小児病院。
何かモヤモヤ、解消できないものが芽生えた時、僕はいつもここに来てピアノを弾いている。
双体菅輸血症候群――双子の胎児期、共通胎盤上の吻合血管に異常が起こり、循環不全に陥る状態。
そのせいで産まれつき脳性麻痺だった二人の妹の内姉の方が、今はもう亡くなってしまっているが、よくここで世話になっていた縁があって、幼少からピアノを習っていた僕は、発表会やコンクール前になると、見舞いついでにここのメインホールにあるグランドピアノを借りていたのだ。
家にもピアノはあるけれど、安いアップライトだ。
音も響きも全然違う。
そんな妹も、亡くなってから早十年が経つ。
社会人として働き始めて数年、二十五歳になった今ではもう習ってはいないけれど、妹によくしてくれた看護師の山下さんが僕の演奏を好きでいてくれたおかげで、意味なくも通わせて貰っている。
上の方の人には、何やら話は通っているらしいが。
時期が重なれば、七夕祭りやクリスマスパーティにも呼んでもらった。
以前はたまに妹のことを思い出して苦しくもなったが、僕の演奏に喜んで目を輝かせる無邪気さを見ると、それ以上の喜びと達成感があった。
ただ。
重度な子も多く入院、通院しているだけに、十年以上も通っていれば、よく話して仲良くなった子が先に旅立ってしまうこともあって。
ここの関係者だなんて到底言えはしない僕が、出会いと別れを繰り返していた。
そんなある日は、大雨降りしきる土曜の昼下がり。また僕は病院に足を運んでいた。
一曲目に選んだのは『月の光』――クラシック方面に疎い人でも知っていよう有名な、ドビュッシーの作曲だ。
飽きる程に弾いたこれは山下さん一番のお気に入りで、たまにやって来てはこうして最初に弾くようになっている。
非番かも分からないと言うのに。
和音、転調、そしてまた主題に戻ってと、繰り返すこと五分と少し。
最後の一音を響かせた指を離し、踏み込んでいたペダルから足も離すと、聊かの余韻を残してから完全に音が消えた。
瞬間にやってくる、全くの無ともいえる静寂に浸る。
ものの数秒でそれも消えると、閉じていた目を開いた。
「うん、良いね。やっぱり大好きだなぁ、君の音」
ペチペチペチ、と控えめな拍手が響く。
音の発信源は、誰あろう山下さん。
また随分と伸びてしまっている髪を一つにまとめたアップスタイルでの登場だ。
譜面台を挟んだ対面で、蓋に頬杖をつく姿勢で聴き入っていた。
僕の演奏を聴いている時は、いつもこうだ。
「お仕事はいいんですか?」
「仕事の内よ。ほら、これ。書類を受け付けにね」
「あぁ、なるほど」
ひらと振って見せびらかしてくるものは、多分本当にそうなのだろうファイルに入ったそれ。
専門外の僕には、中身こそ分からないけれど。
そんな山下さんは、僕の十個上の大人のお姉さん。
妹が亡くなるまでの最期三年間、新任で受け持ってくれていたのだ。
当初から折に触れて同じことを言ってくれていたのは、ただ単に世辞の類などではなく、山下さんも同じピアノ弾きであったから。
コンクール本選で賞も取ったことがある程の腕らしい。
「今日はオフなんだ?」
「ええ。いやいや、でなければここには来ませんって。ただのサボりじゃないですか」
「それもそっか」
口元に手を添えて上品に笑う姿も、当時から全く変わらない。
妹の病室から見えるステーションで、同僚と話している姿を何度も視たけれど、たまに見せるこの表情に魅せられていたことを思い出す。
今だって、何割かはこの人の為に通っているようなものだ。
「ねぇ、次、弾いてよ。何でも良いからさ」
「仕事は?」
「短いやつで頼みます、先生!」
「何でも良い、はどこにいったのやら……まぁ、構いませんけど」
応じてすぐ、鍵盤に指を置く。
選曲は『雨の庭』。同じくドビュッシー作曲の、三分と少し程度の、短い曲だ。
何かモヤモヤ、解消できないものが芽生えた時、僕はいつもここに来てピアノを弾いている。
双体菅輸血症候群――双子の胎児期、共通胎盤上の吻合血管に異常が起こり、循環不全に陥る状態。
そのせいで産まれつき脳性麻痺だった二人の妹の内姉の方が、今はもう亡くなってしまっているが、よくここで世話になっていた縁があって、幼少からピアノを習っていた僕は、発表会やコンクール前になると、見舞いついでにここのメインホールにあるグランドピアノを借りていたのだ。
家にもピアノはあるけれど、安いアップライトだ。
音も響きも全然違う。
そんな妹も、亡くなってから早十年が経つ。
社会人として働き始めて数年、二十五歳になった今ではもう習ってはいないけれど、妹によくしてくれた看護師の山下さんが僕の演奏を好きでいてくれたおかげで、意味なくも通わせて貰っている。
上の方の人には、何やら話は通っているらしいが。
時期が重なれば、七夕祭りやクリスマスパーティにも呼んでもらった。
以前はたまに妹のことを思い出して苦しくもなったが、僕の演奏に喜んで目を輝かせる無邪気さを見ると、それ以上の喜びと達成感があった。
ただ。
重度な子も多く入院、通院しているだけに、十年以上も通っていれば、よく話して仲良くなった子が先に旅立ってしまうこともあって。
ここの関係者だなんて到底言えはしない僕が、出会いと別れを繰り返していた。
そんなある日は、大雨降りしきる土曜の昼下がり。また僕は病院に足を運んでいた。
一曲目に選んだのは『月の光』――クラシック方面に疎い人でも知っていよう有名な、ドビュッシーの作曲だ。
飽きる程に弾いたこれは山下さん一番のお気に入りで、たまにやって来てはこうして最初に弾くようになっている。
非番かも分からないと言うのに。
和音、転調、そしてまた主題に戻ってと、繰り返すこと五分と少し。
最後の一音を響かせた指を離し、踏み込んでいたペダルから足も離すと、聊かの余韻を残してから完全に音が消えた。
瞬間にやってくる、全くの無ともいえる静寂に浸る。
ものの数秒でそれも消えると、閉じていた目を開いた。
「うん、良いね。やっぱり大好きだなぁ、君の音」
ペチペチペチ、と控えめな拍手が響く。
音の発信源は、誰あろう山下さん。
また随分と伸びてしまっている髪を一つにまとめたアップスタイルでの登場だ。
譜面台を挟んだ対面で、蓋に頬杖をつく姿勢で聴き入っていた。
僕の演奏を聴いている時は、いつもこうだ。
「お仕事はいいんですか?」
「仕事の内よ。ほら、これ。書類を受け付けにね」
「あぁ、なるほど」
ひらと振って見せびらかしてくるものは、多分本当にそうなのだろうファイルに入ったそれ。
専門外の僕には、中身こそ分からないけれど。
そんな山下さんは、僕の十個上の大人のお姉さん。
妹が亡くなるまでの最期三年間、新任で受け持ってくれていたのだ。
当初から折に触れて同じことを言ってくれていたのは、ただ単に世辞の類などではなく、山下さんも同じピアノ弾きであったから。
コンクール本選で賞も取ったことがある程の腕らしい。
「今日はオフなんだ?」
「ええ。いやいや、でなければここには来ませんって。ただのサボりじゃないですか」
「それもそっか」
口元に手を添えて上品に笑う姿も、当時から全く変わらない。
妹の病室から見えるステーションで、同僚と話している姿を何度も視たけれど、たまに見せるこの表情に魅せられていたことを思い出す。
今だって、何割かはこの人の為に通っているようなものだ。
「ねぇ、次、弾いてよ。何でも良いからさ」
「仕事は?」
「短いやつで頼みます、先生!」
「何でも良い、はどこにいったのやら……まぁ、構いませんけど」
応じてすぐ、鍵盤に指を置く。
選曲は『雨の庭』。同じくドビュッシー作曲の、三分と少し程度の、短い曲だ。