少年チューンナップ

 ふと、表からクルマの音が聞こえた。スバルさんが帰ってきたらしい。
 壁に掛けられた時計を見ると、そろそろ午後五時だ。まだ外は十分に明るい。日本でも西の外れにある龍ノ里島は、日が暮れるのが遅い。

 ただいまー、というスバルさんの声がして、返事したほうがいいのかなと思っているうちに、足音が階段を上ってきた。おれはベッドの上で体を起こした。
 開けっ放しのドアをコツコツとノックしてから、スバルさんは部屋に顔をのぞかせた。

「ただいま。やっぱりユリトくんひとりだったか」
「おかえりなさい。カイリとハルタは釣りに行ってます。ぼくだけが家にいるって、靴でわかりました?」
「うん。どうした? 何かあった? 体調が悪い?」

 おれは一瞬、正直に言うべきかどうか迷った。スバルさんはおれの体調のこと、知っているんだろうか?
「スバルさん、田宮先生から、ぼくの体調について聞いてますか?」

 言葉を選ぶような間があった。スバルさんは真顔になって口を開く。
「睡眠発作を抱えてるという問題のこと?」
「ご存じなんですね。カイリは知らなかったみたいだけど」
「デリケートな問題だと思って、教えておかなかったからね。もしかして、発作が起こってしまった?」

「はい。龍ノ原小中学校を見学に行ったときに、急に。いつも、きっかけや前触れもなく起こるんですよね。ハルタたちにフォローしてもらえるタイミングでよかったです」

 おれは笑顔で嘘をついている。フォローなんて、されたくなかった。カイリに睡眠発作のことを知られたくなかった。ハルタに借りを作りたくなかった。
 部屋に入ってきたスバルさんは、ダイニングテーブルの椅子に腰掛けた。

「ぼくと田宮先輩の思惑は、外れちゃったな」
「え? 思惑って何ですか?」
「龍ノ里島の自然の中にいだかれたら、ユリトくんの睡眠障害が治るんじゃないかって、楽観的なことを考えていたんだ。田宮先輩も、生き方に悩んだときにこの島に来て、元気になって帰っていったから」

「田宮先生が、生き方に悩んでいたんですか? それ、いつのことですか?」
「学生時代だよ。ぼくが大学三年生で、田宮先輩が大学院の一年目だったころだ。田宮先輩は、本当は研究の道に進みたかった。でも、そのためにはお金も時間も掛かる。田宮先輩のご実家は当時、苦しい状態だったらしくて、早く就職するよう言われていた」

 大学院時代に教師になるかどうか悩んだという話は、田宮先生からチラッと聞いたことがある。笑い話みたいに軽い口調だった。でも、研究者か教師か、一生を左右する大きな分かれ道だ。笑い話程度の悩みじゃなかったはずだ。

「田宮先生は、どうして龍ノ里島に来たんですか? スバルさんが誘ったんですか?」
「夏休みに実家に帰りたくないと言っていた田宮先輩に、それじゃうちに来ますかって声を掛けてみたんだ。半分冗談だったんだけど、田宮先輩は本当に付いてきた」

「スバルさんのご実家、龍ノ里島なんですか?」
「いや、ぼくの実家はこの隣の島なんだけどね。せっかくだから、もっといなかに行こうって話になって、龍ノ里島の親戚の家に、田宮先輩と二人で転がり込んだ。楽しかったなあ。朝から晩まで、小学生に戻ったみたいに、海でも山でも遊んで回ったんだよ」

 スバルさんは、遠い目をして微笑んでいる。
 二十歳を過ぎた大人の男ふたりが遊んで回る姿なんて、うまく想像できない。例えば、おれとハルタの十年後? 無理だ。思い描こうとしても、イメージは真っ白にかすんでしまう。

「田宮先生は龍ノ里島で過ごして元気になって、結局、家族に言われたとおり就職したんですね。研究者じゃなくて、教師になった。後悔しなかったんでしょうか?」
「したと思うよ。今でも未練は残ってると思う」
「やっぱり、そっか」
「誰だってそうさ。何かを選んで別の何かを捨てたら、後悔するし未練もいだく。だけど、田宮先輩は教師になって、後悔や未練以上に大きなものを獲得できたはずだ。だから、今でもあんなに生き生きしてる。ユリトくんは、そう感じない?」

 生き生きしている、か。確かに、田宮先生はほかの先生方と何かが違う。物理学や機械工学の知識が膨大なだけじゃなく、頭の回転が速いから授業がおもしろいだけでもなく、もっと別のどこかが特別なんだ。

 田宮先生の何が違ってどこが特別なのか、今、少しわかった気がする。
 悩んだり迷ったりする気持ちをちゃんと覚えているからだ。大人になる前のおれたちがたくさん悩んで迷うことを、忙しい大人たちは忘れがちだけれど、田宮先生は違う。だから、おれに龍ノ里島に行くことを勧めることもできた。
 おれの睡眠障害を理解しようとしない先生も、実はいる。まさかあの剣持ユリトがサボり病にかかるなんて、と冗談っぽく話す声を、職員室のそばで聞いてしまった。睡眠発作を心配する母親がおれに学校を欠席させた翌日だった。
 サボってない。本当につらいんだ。自分で自分をコントロールできない。この苦しみとみじめさを疑うなら、サボり病なんて言うあなたが同じ症状に陥ってみればいい。

 悔しいのと同時に、ふつりと、張り詰めた糸の一本が切れた。他人からの信用を失うって、胸に隙間風が吹くような気分だ。寂しさと悲しさの中間。むなしさって言葉が、いちばん近い。
 おれはそっとかぶりを振った。ネガティブにねじれた胸の内をスバルさんに悟られないように、用心深い笑顔の仮面をかぶっている。

「田宮先生には感謝しています。おもしろい本を紹介してくださったり、大学時代に研究されていたことを教えてくださったり。田宮先生とお話ししてると、楽しいんです」
「中学生にして研究の話が楽しいとは、ユリトくんは将来有望だよ。まあ、実際、田宮先輩やぼくの専門は、サイエンスの中でも特に楽しい研究の一つなんだけどね」

 スバルさんはいたずらっぽく笑った。田宮先生と同じ笑い方だ。ワクワクできる魔法がここにあるんだよ、と自慢するみたいな笑顔。おれの嘘くさい笑顔の仮面なんかより、ずっと純粋で子どもっぽい。

「流体力学って、すごく幅が広い分野で、おもしろいですよね。気体でも液体でも同じ原理が観測されるし、電子の渦も流体力学で説明できるし、宇宙関連の技術ではいろんな場面で登場するし」
「よく知ってるね。ぼくや田宮先輩の大学時代の研究は、主に気体の流体力学で応用寄りだった。つまり、電子や粒子みたいな基礎科学を理論するんじゃなくて、商品として工業化する一歩手前のあたりを研究していたんだ」

「具体的には、風力発電の風車の空力をコンピュータでシミュレートする研究だったんでしょう? 理論上の世界で風車を作って風を当てて、どれくらい効率よくタービンを回して発電することができるか、計算して調べるんだって聞きました」

「風車以外にも、風をつかまえる形をしたものの空力は、いろいろ調べたよ。ヘリコプターのプロペラや飛行機の翼、火力発電や原子力発電のタービン。風をつかまえるのと表裏一体の、風を逃がして活かす構造も見てみたくて、F1マシンもシミュレーションの素材にした」
「あ、F1マシンのダウンフォースですね。風を味方に付ける発想のあのデザイン、カッコいいですよね」

 F1マシンのボディは、空力を徹底的に追究したデザインになっている。このデザインによって、マシンの空気抵抗が限界まで削られると同時に、空気がマシンを地面に押し付ける強烈な力、ダウンフォースが獲得される。

 ダウンフォースがなければ、マシンは安定しない。軽量化するほうがいいんじゃないかと穴だらけのスカスカの車体を作っても、そんなのは吹っ飛びやすくてかえって遅い。空気抵抗を利用して地面に貼り付く走りをするほうが圧倒的に速いんだ。

「ハイスピードで移動する乗り物は、クルマでも新幹線でも飛行機でも、全部そうさ。いかにして空気抵抗を、ダウンフォースや揚力として利用するかが大事。強引にぶつかっていくだけじゃダメだ。うまく、いなしていかなきゃ」

「正面から邪魔しに来る風を味方にするっていう発想、逆転的ですよね。最初にきちんと証明して理論化した人はすごいなって思います」
「だよね。理論的に証明した人、工業的に実証した人、既存のデザインに飽き足らず、より効率的な形を目指して研究を重ねる人、いろいろ。物好きなマニアじゃないと、こういう分野には携われない。ぼくもそのうちの一人だね」

「物好きなマニア、ですか」
「サイエンスが好きで好きでしょうがないマニアだよ。ぼくの場合は、自分で設計した風車の羽の形が本当に好きで、ずっと見ていても飽きない。いや、もっと美しくしてやる方法はないかと、いつも考えてる」

 目を輝かせるスバルさんに圧倒される。何でこの人はこんなに無防備でいられるんだろう? 物好きなマニアだなんて、どうして平気で名乗れるんだろう?

「スバルさんは、自分の好きな研究を仕事にされてるんですね」
「ああ、ちょっと語りすぎかな。ごめん」
「いえ……うらやましいです」

 おれは目を伏せる。スバルさんが柔らかく笑う気配があった。
「ぼくなりに迷う気持ちもあったけどね。どんな形でサイエンスに携わるのがいいのか。都会の研究所でこれをやるか、現場である離島に拠点を据えるか」

「やっぱり、迷ったんですか?」
「迷ったよ。だって、都会の大きな会社で風力発電のプロジェクトリーダーにでもなれば、大出世間違いなしだ。だけど、ぼくは現場を選んだ。生まれ育った離島という環境で、好きな研究ができるなんて、最高じゃないか」
 龍ノ里島を始めとする離島には、風力発電や海流発電、太陽光発電の施設がたくさん建てられている。住む人が減って余った土地を、次世代エネルギーの発電施設の実験場として、いろんな企業に貸しているためだそうだ。

 スバルさんも実は、大きな重工業会社の社員として龍ノ里島に派遣されている。島暮らしの気楽な格好で発電施設を管理する仕事で、都会のオフィスでネクタイを締めて働くのと同じ給料をもらっているらしい。

「後悔や未練、スバルさんにもありますか?」
「もちろんあるよ。ぼくも一度は島を離れて暮らしたことがあるから、ここの不便さは身に染みてわかる。コンビニもファーストフード店もない。新聞の朝刊は夕方にしか届かない。台風が来たら船が止まって、店から商品が消えてしまったりね」

「ぼくはまだここに来て二日目で、きれいな場所だなってくらいにしか思っていないけど、生活するのはやっぱり大変なんですね」
「大変だ。でも、ぼくは島が好きなんだよ。龍ノ里島は特にね、生まれ故郷ではないのに、すごくなつかしい。できれば龍ノ里島から離れたくないけど、八月いっぱいで全員移住するって決まっちゃったから、こればっかりは仕方ないな」

 最後の夏、と田宮先生から聞いたとき、どういう意味かと質問した。何かの比喩かと思った。でも、島に人が住む最後なんだと、本当に文字どおりの意味なんだと説明されて、言葉に詰まった。そんな寂しい場所が日本にあるなんて、想像したこともなかった。

「人がいなくなって、建物だけ残るんですか?」
「うん。家も学校も神社も波止場も、そのまま残していく。だんだん自然が呑み込んで、いつか壊れてしまうのを待つ。壊そうにも、ここには重機もないし、予算も付かない。どうしようもないんだ」

「廃墟の島になるんですね。スバルさんが龍ノ里島に来たのは、八年くらい前でしたっけ? そのころには、ここが無人島になるなんて予想できなかったんじゃないですか?」
「いや、わかってたよ。こんなに早いとは思ってなかったけど、いつかはきっと、人が全員いなくなるのはわかってた。龍ノ里島との別れは、最初から覚悟してた」
「覚悟しなきゃいけないのに、ここに来たんですか? どうして?」

 スバルさんは、嘘偽りのない笑顔で答えた。
「好きだから。ユリトくんは、出会った瞬間に魂が震える体験をしたこと、ない?」

「魂が震える、ですか?」
「ありふれた表現で申し訳ない。人でも島でも町でも、研究や興味の対象でも何でもいいんだけど、その理由を言葉で表せないくらい本気で、一瞬で好きになってしまうものって、あると思うんだ。そういうとき、魂が震える」
「わかる気がします」

 おれにとって、プラモートがそうだった。一台六百円、全長十五センチちょっとの自動車模型。
 かつてはブームになったらしいけれど、おれが小さいころなんて、まわりの子どもは誰もプラモートをやっていなかった。たまたま近所に模型屋があって、たまたまそこにプラモートが売られていて、たいして高くないことがわかって、お小遣いで買ってみたんだ。

 指先に神経を集中して、父親に借りた工具を使って、細かいパーツを組み立てる。プラスチック製の小さなギザギザの組み合わせがモーターの回転を車軸に伝えて、コインくらいの直径のタイヤが勢いよく回る。シンプルなおもちゃだ。
 シャーシに動力を組み込んで、ボディをかぶせて、キャッチを留めて、車体の裏のスイッチを初めてオンにした瞬間、その軽快なモーター音のとりこになった。家の狭い廊下を疾走するプラモートの雄姿は、すごくキラキラしていた。

 スバルさんは、優しい声で噛みしめるように語る。
「ぼくが龍ノ里島を選んだ理由は、特にないよ。ただ、どうしようもなく心を惹かれただけ。大好きなこの島の最後の時間に居合わせることができるのは、きっと幸運だ。こんな寂しさを味わえば、ぼくは一生、この島が好きだったことを忘れないだろうから」

 終わってほしくないと願っても、必ずいつか終わりは訪れる。島も人間も同じだと、カイリが言っていた。
 窓の外からハルタの大声が聞こえてきた。釣りから戻ってきたらしい。スバルさんがクスッと笑った。

「ハルタくんは元気がいいね」
「うるさくて、すみません」
「いやいや。ああいう元気いっぱいの男の子は、昔からうらやましかった。ぼくは本が好きなインドア派だったからね。今思えば、もったいないな。せっかく島で暮らしていたんだから、もっと外で遊んでおけばよかったよ」

 ただいまーっ! と、ハルタが勢いよく玄関を開ける音がした。カイリが少し笑っているのも聞こえた。
 ああ、まただ。ハルタばっかり、カイリと仲良くしている。あっという間に人と友達になって、一生忘れられないくらいの思い出を簡単に作ってみせる。
 うらやましいを通り越した嫉妬が、おれの胸の奥に、じわりと黒い染みを作った。頭痛がぶり返してきた。
 カイリとハルタのアジ釣りは大漁だったみたいだ。食卓には、活きのいいアジの刺身と塩焼きが並んだ。
 新鮮な刺身はグリグリと歯ごたえが強くて、身に乗った脂が虹色っぽく光を反射している。少しも臭みがなくて驚いた。刺身にできるくらい新鮮な魚を塩焼きにしてしまうのも、もったいなくて驚いた。

「なあ、兄貴も明日は来いよ! すっげーいっぱい魚がいるんだ。まともに釣りやったの初めてだけど、メチャクチャおもしろかった。魚が掛かったときのビクビクッて来る感じ、釣り以外じゃ絶対、味わえないって!」
「今日これだけ釣っておいて、明日も釣るのか?」
「明日はまた全然違う魚を狙うんだよ! な、カイリ?」

 カイリは刺身を口に運びながらうなずいた。魚をさばいた後、夕食の直前にシャワーを浴びたカイリの髪は、濡れてペタリとしている。朝、全身ずぶ濡れだったカイリの姿とその体の柔らかさを思い出して、おれは勝手にドギマギした。

 スバルさんが、余った刺身を翌日もおいしく食べる方法を披露した。
「醤油と砂糖と酒に、生姜やニンニクや胡麻を入れた漬けだれを作って、刺身を一晩、漬け込むだけ。翌日の朝、あつあつのごはんに載せて食べると最高だよ。お茶漬けにしてもまたおいしい」

 翌日でも刺身として十分おいしく食べられそうだけれど、島の人は、釣ってさばいた当日じゃないと、魚を生で食べないらしい。不便な島とはいいつつ、ある意味ではものすごく贅沢な環境だ。

 どこに飛び込んでも話題の中心をさらっていくハルタは、この食卓でも主役だった。釣りのことをにぎやかにしゃべりまくって、勢い付いた言葉が意味不明になって、カイリにフォローされている。
 普段ならハルタの話をフォローするのはおれなのに、今は透明な分厚い壁が目の前にあるみたいだ。おれだけが、夕食の会話から隔離された場所にいるように感じる。

「おれら、魚釣った後にさ、そのまま海に飛び込んだんだ。涼しくて、超気持ちよかった! 水中眼鏡で潜って、魚、追っ掛けたりした。でさ、カイリはやっぱすっげー泳ぐのうまいんだよな。スーッて、メチャクチャ自然に泳ぐんだ。人魚みたいだった」

「ハルタも、泳ぐのうまいよ。島で育ったわけじゃないのに」
「おれはスポーツ系なら何でもできんの! でも、釣ったのも泳いだのも、ほんっとに楽しかった。海から上がった後にさ、近所のばあちゃんが出てきて、ホースで真水ぶっ掛けてくれたのも楽しかった。だから、明日は兄貴も絶対一緒だぞ!」

 正面から、ハルタに笑顔を向けられる。おれは目をそらして箸を置いた。睡眠発作が起こった日は、あまり食欲が出ない。透明な壁も消えない。

「体調がよければ、一緒に行く。でも、明日はスバルさんの発電施設を見学させてもらう予定だから、遊ぶならその後だ。ハルタは別に、見学には来なくていいけど」
「おれも行く! 風車、見たい! なあ、スバルさん、兄貴だけじゃなくて、おれも連れてってもらえるだろ?」

 ハルタは本当に丁寧語を使えない。学校でもさんざん注意されているというのに一向に身に付かなくて、おれが先生方の愚痴を聞かされる羽目になる。ハルタが大人としゃべる場面に居合わせると、胃が痛い。
 でも、スバルさんはハルタの無礼を気にしていないらしい。のんびりした笑顔には少しも無理がない。それどころか、おれの目にも明らかに、スバルさんはハルタを気に入っている。

「もちろんだよ、ハルタくん。ほかにも行ってみたい場所があれば、クルマで連れていくよ」
「じゃあさ、龍ノ原とは反対側、行ってみたい。ネットで写真見たんだ。日本じゃないみたいな景色で、びっくりした。おれもあの写真、自分で撮りたい。とうちゃんのデジカメ、借りてきてんだ」

 スバルさんが、了解と言って笑う。子どもみたいに率直なハルタは、何の努力もしなくても大人に好かれる。おれには真似できない、ハルタだけの特別な才能だ。昔からそう。ハルタは、勉強はできないくせに、勘がよくて要領がよくて。

 何だか、ダメだな。今日はイヤな考え方ばかりしてしまう。
 いや、今日に限らないか。倒れた後はいつも、まわりに迷惑を掛けたり心配されすぎたりして、気持ちが卑屈になる。
 もう、いいや。

「すみません、ごちそうさまです。ちょっと頭が痛いので、先に部屋に戻ります」

 席を立ったら、三方から真剣な目を向けられた。おれはごまかすように笑って、使った食器を台所まで運んだ。
 頭が重くて体がだるい。ここが学校なら無理して頑張れるけれど、カイリもハルタもスバルさんもおれの体調のことを知っている。甘えてしまっていいか、と思った。もう、どうでもいい。

 また一つ、ふつりと、糸が切れる。宙吊りにした、剣持ユリトという名の操り人形。演じる役柄は、いつも笑顔の優等生。
 だんだん危うくなってきた。いつ、全部の糸が切れてしまうんだろう? いつ、おれは落ちてしまうんだろう? いつ、これが自分だと信じてきた人間が中身のない仮面だと、決定的に突き付けられてしまうんだろう?
☆.。.:*・゜

 夜更け過ぎだ。夏の間に読もうと思っていた本を結局、今日だけで読み終えてしまった。明日からどうしよう?

 読書の途中、電気がついていたら眠れないだの何だのとハルタが騒いだ。おれが生返事で応じているうちに、ハルタはいつの間にか寝入っていた。
 おまえ、明るい部屋でも普通に眠れるじゃないか。また一段と日に焼けた寝顔を見下ろして、今さらだけど電気を消してやる。

 コロコロ、リィリィ、と虫の音が聞こえる。白いレースのカーテンが夜風にそよいでいる。月と星の明かりが窓に切り取られて、床に四角く落ちている。
 暗い部屋の中にたたずんでみる。小学生のころは、夜の暗さが怖くてたまらなかった。夜の真ん中で運悪く目覚めてしまったら、不気味な何かがすぐ後ろから迫ってくるんじゃないかと、ありもしない幻におびえて、首を縮めてうずくまった。

 いつから平気になったんだっけ? 眠れない体質になるより前だと思うけれど、記憶が曖昧だ。ハルタの寝顔を見やる。夜更かしが苦手な子どもっぽい体質。健康的なやつだ。

 そういえば、おれは昔から、暗いのは苦手でも夜更かし自体は平気だった。レース直前の調整は、真夜中までやっていた。一緒に起きていたはずのハルタは、いつの間にか、つぶれていた。起こしてやったら、ハルタが不機嫌になって、結局ケンカになったりした。
 あのころは、おれもハルタも、怒ったり笑ったり忙しかった。最近、おれはうまく笑えない。いらだつけれど、怒れない。

 おれはため息をついて、ベランダに出た。しっとりとした夜気が頬を撫でる。虫の音が近付く。
 何気なく見上げて、びっくりした。星だ。洋館の瓦屋根と裏手の山とに挟まれた空に、びっしりと、まばゆい星がまたたいている。

「きれいだ」
 ただそこにあるだけで美しい風景を、この島に来て、一体いくつ目撃しただろう? ここには宝物みたいな瞬間が無数にある。

 初めて肉眼で見た天の川は、その名のとおり本当に、うっすらと白く輝く川の姿をしている。白い輝きのひとつひとつは、地球からじゃ見分けることができないけれど、全部が太陽よりも明るい星だ。何万年も昔に放たれた光が今、音もなく地球に降り注いでいる。

 宇宙って、好きだ。地球の重力から解き放たれて、どこまでも広い星の海に飛び込んでみたい。そう思ってから矛盾に気付いて、そっとひとりごちる。
「矛盾してるよ、おれ。風が好きで、風を科学することが好きで、風をこの目に見せるF1マシンや風車のデザインが好きで。なのに、風のない、空気のない宇宙にも憧れてる」

 夏の大三角の端っこがのぞいている。あれは白鳥座のデネブだ。大三角のあと二つ、こと座のベガである織姫と、わし座のアルタイルである彦星は、屋根に隠れて見えない。ベランダの手すりから身を乗り出してみたけれど、やっぱり見えない。

「ユリト、どうしたの?」
 いきなり声がした。驚いたおれは、一瞬バランスを崩した。心臓の奥がヒヤリとする。手すりにしがみ付いたまま声のほうを向くと、カイリが隣の部屋のベランダに出ていた。

「ちょっと空を見たくて。カイリ、起きてたんだ?」
「うん。ユリト、星が好き?」
「星っていうか宇宙っていうか、何となくだけど、好きだよ」
「じゃあ、屋根に上ろう」
「はい?」
「屋根の上なら、ここより広い空が見えるから」

 言うが早いか、カイリはベランダの手すりに上って、屋根の雨どいに手を掛けて、身軽に体を持ち上げた。唖然としているおれのほうへ、屋根の上で四つん這いになったカイリが手を差し伸べる。

「つかまって。引っ張るから」
「こ、これくらい、一人で上れるよ」

 微妙に傷付いたぞ、今。おれは確かにカイリより背が低いけど、それなりに運動のできる中学生男子だ。同い年の女子にできる動きを、できないはずがない。
 おれはカイリと同じやり方で屋根に上ってみせた。カイリは、猫みたいな四つん這いのまま、おれを待っていた。

「いちばん高くなってるとこ、座りやすいから」
 カイリは恐れる気配もなく立ち上がって、屋根の高いほうへと歩いていく。慣れているんだろうか。それはさすがに真似できない。中腰になって、そろそろと進む。ここで転んだり睡眠発作を起こしたりしたら悲惨だ。

 屋根の中心線の丸瓦に腰掛けたカイリの隣に、おれも腰を下ろした。カイリが黙って空を指差す。おれは改めて、空を仰いだ。
 さっきとは比べ物にならない広さの宇宙が、そこに輝いていた。
 白い星、青い星、赤い星、またたく星、流れる星、ぶちまけた砂粒みたいな星の集まり。ほぼ完全に満ちた月は、クッキリと模様を描くクレーターを抱え込んで、その黄金色の光で銀河をかすませている。

 地上は暗い。海には一つ、灯台が海面に淡い光を落としている。波のきらめきに目を凝らすと、かすかな潮騒を風が耳に届けた。風に誘われて、おれはまた空を仰ぐ。さっきは見えなかったベガとアルタイルが、天の川のほとりに輝いている。

「きれいすぎて、信じられないな。ずっとこうして眺めていたい」
 自分の中が空っぽになって、透明で温かい何かによって満たされていく。今おれを取り巻いている景色は圧倒的で、感動なんていう平凡な言葉じゃ、少しも追い付かない。

「ユリトは龍ノ里島が気に入った?」
「この島の景色が嫌いな人なんていないと思う」
「ここには景色しかないよ。人間が便利に暮らすためのもの、何もない」

「何もない場所で生きていけるくらい、おれもシンプルでピュアな人間だったらいいのに」
「とうさんのこと?」
「悪い意味じゃないんだ。純粋に、スバルさんがうらやましい。好きな場所で、好きな仕事をして生きてる。理想的な大人だ」

 ふと疑問を思い出した。星空からカイリへと視線を下ろす。月を見上げていたカイリも、おれの視線に気付いた様子で、こっちを向いて首をかしげた。
「何?」

「変なこと言うんだけど、スバルさんの年齢、若いなと思って。今、三十六歳だよな? で、カイリはおれと同じで中三だから、スバルさんの二十一歳くらいのときの子どもだろ? スバルさんは二十七歳まで大学院で研究してたって聞いたから、学生結婚ってこと?」
「そっか。そういうことになるね」
「あっ、ごめん、あの……ごめん……」

 カイリの母親、スバルさんの奥さんの話は、本人たちからも田宮先生からも聞いていない。調子に乗って突っ込んだことを言ってしまった。
 気まずい沈黙が落ちた。潮騒、風の音、虫の声。
 ふっと、かすかな息の音をたてて、カイリが微笑んだ。さっきとは違う話題だった。
「今日はハルタとたくさん話したよ。でも、ハルタのことよりユリトのことをたくさん知った」
「おれのこと?」

「ハルタが話すのは、ユリトのことばっかり。ハルタは、ユリトが大好きなんだね。何をするにも、どこに行くにも、ユリトがいちばん近くで背中を押してくれるから心強いって言ってた」
「あいつ、あまりにも危なっかしいから、ほっとけないんだ」
「危なっかしいのは、ユリトもそうだと思うけど」

 ぐうの音も出ない。昼間、いきなり倒れて迷惑を掛けたのは、ほかでもないおれだ。今はもはや見栄を張るのも疲れてしまった。格好を付ける余裕もない。こんなの、自分らしくないはずだけど。

「どうしてこうなっちゃったのかな……」
「眠れなかったり、倒れたりすること?」
「それもひっくるめて、今の状況、全部。最初の原因は何だったんだろう? 調子が狂い出した直接のきっかけは何だったんだろう? どこまでさかのぼって答えを探せばいいんだろう?」

「それがわかったら、ユリトのためになるの?」
「答えがハッキリしない問題って、苦手なんだ。だから、きちんと答えが出せる数学や理科が好きで」

 その一方で、おれが抱えるこの問題は、ハッキリした答えを出すのが怖い。おれの調子を狂わせる大きな要因は、間違いなく、ハルタだから。
 おれにできないことを、ハルタは平然とやってのける。何でもできるはずのおれが、どうしてもハルタに勝てない。

 ハルタがおれを嫌っているなら、それか、ハルタがどうしようもない不良だったら、おれは気楽だ。あいつのせいでおれがおかしくなったんだと上手に訴えて、まわりに納得してもらえる。おれは味方に囲まれて、王さまになれるだろう。
 なのに、ハルタはいいやつだ。世話が焼ける弟だけど、おかげでおれは孤独だったことがない。学校での評価はおれのほうが上だけど、本当はハルタのほうが輝かしい才能を持っている。

 自慢の弟なんだ。ハルタに言ってやったことはないし、誰の前でもそれを語ったことはない。でも、ハルタはおれの自慢だ。そして、だからこそ、おれはハルタに嫉妬する。おれがハルタに勝てないことをいちばんよく知っているのは、おれ自身だ。

「ハルタの将来の夢は、レーサーなんだってね」
「ああ、うん。あいつらしいよな」
「ユリトがいっぱい調べてくれたって。ハルタひとりじゃ何もできなかったけど、ユリトが手伝ってくれたから、レーサーになる方法がわかったって。ハルタは、ユリトを喜ばせるためにも、いつか必ずチャンピオンになるって言ってた」

 スーッと、心に隙間風が吹いた。喜べないと思った。今のおれは、ハルタの活躍を受け止めることができない。あいつが輝けば輝くほど、影みたいなおれは、どんどん黒ずんで闇に呑まれていく。

「勝手なんだよ、ハルタは。おれの気も知らないで」
 ハルタのバカ野郎。おまえと違って、おれは純粋な人間じゃないんだ。おれはおまえに、どうしようもない劣等感をいだいている。

「ユリトは、将来なりたいもの、ないの?」
 カイリの透明な声は、龍ノ里島のきれいな景色の一つみたいで、おれはカイリの前で嘘をついちゃいけない気がした。

「レース、いいなって、おれも思ってた。ハルタと一緒に初めて本物のサーキットに行ったとき、レーサーになりたいって言ったハルタはすごく正しいと感じた。でも、おれには、レーサーになれるような才能はない。ハルタの真似をしたくないしな」

「ハルタは、ユリトのほうがいろんな才能があるって言ってたよ」
「まさか。そんなことないって、おれ自身がいちばんわかってる。おれはちょっと手先が器用なだけで、サーキットで高速マシンを走らせるような反射神経も動体視力もない。マシンのカッコよさに憧れても、乗ってみたいとは思えない」

「乗りたくないの?」
「能力的に無理だ。自分の身の丈はわかってる。そこがハルタとのいちばんの違いかもな。あいつには、何も考えずに突っ込んでいく勢いと度胸がある。おれは、何か全部わかっちゃって、できないことはやりたくない。だから、何でもできるように見える」

 言葉にして、気付いた。おれが何で立ち止まっているのかが、ストンと理解できた。
 おれ、できないと思っているんだ。まっすぐ生きていくことができそうになくて、このまま進んでいきたくないせいで、体が拒否反応を起こしている。
 カイリが、また違うことをおれに尋ねた。
「ユリトは、クルマ、好き?」
 その「好き」という響きがくすぐったくて、一瞬だけ戸惑う。呑みかけた息とともに、答えを吐き出す。

「好きだよ。クルマは好きだ」
「ほかにも、好きなものがある?」
 問われるままに思い描けば、素直な言葉が口からあふれる。
「クルマだけに絞れない。機械が好きだ。流線型のボディで風を味方にする、そういうデザインや機構が好き。この手で作り上げたマシンを走らせる、マシンに走ってもらう、その感覚が好き。機械に命が宿る瞬間を感じるのが好き」

 レーサーは一人じゃマシンを走らせられない。マシンを設計するエンジニアがいて、レースの現場でピットインをする整備士がいて、チームをまとめるリーダーがいる。おれが憧れるのは、レーサーとマシンを支えるピットインチームのほうだ。
 だけど、その憧れは本物なんだろうかと、何度も何度も自分に問い掛けている。レーサーになる才能がないから、自分にできそうな仕事を仕方なく選んで、それを憧れという言葉にすり替えているんじゃないか?

「好きなものを仕事にしたい?」
「それができたら最高だと思う。でも、どうなんだろ? できるのかな?」
「自信ないの?」
「自信ないよ。本当はいつだってそうだ。自分の計算高さというか、卑怯さを知ってる。自分で自分を疑ってる。でも……弱音吐いて、ごめん」
「謝らなくていい。話していいよ」

 どうしてカイリは、おれの言葉を簡単に引き出してしまうんだろう? 複雑なやり方で封印しておいたはずの本音が、あっさりとこぼれていく。

「やってみたいことも好きなことも、できるとわかってからじゃなきゃ、口に出せない。おれはいつも兄貴役で、学校では優等生役で、できないとか自信がないとか言えない。おれには、口に出しちゃいけないことがいっぱいある」
「苦しいんだね」

 夜の色に染まったカイリの目は、星の光をいくつも宿して、キラキラしている。
 誰かの目を正面から見つめたことは、この島に来るまで、最近なかったかもしれない。カイリと目を合わせていると息ができなくなるのに、カイリの目はあまりにもきれいだから視線をそらしたくない。

「おれは、プラモートが大好きだから実車のレースに興味を持って、風をつかんで走るマシンに憧れて、自分でも作ってみたいと思ってた。子どもっぽい夢で、誰にも言えなかった」
「ユリトらしい夢だね」
「でも、おれはもっと別のものを目指すべきだって、学校や親は期待してるよ。いい大学に行って、いい会社に就職したり官僚になったりして、いい生活をする。そういうレールの上を走るべきだって」

 いい大学、いい会社なんて言い方をされると、おれの大好きなサイエンスの世界さえ一気に色あせる。興ざめだ。でも、鈍感な大人たちはそれに気付かない。
 だけど、何だかんだ言って、器用なおれはレールの上にいる。嫌が応にも時間は過ぎていく。このままじゃ、おれも鈍感な大人になってしまう。大人に近付くにつれて、自分が嫌いになっていく。

 ユリト、と、歌うように澄んだ声がおれの名前を呼んだ。カイリが、ほんの少し、微笑んでいる。
「わたしは、学校でのユリトを知らない。ユリトがちょっとずつ自分のことを話してくれて、ハルタからたくさんユリトのことを聞いて、それだけしか知らない。わたしはただ、シュトラールに命を与えた、風が好きなユリトだけを知ってる」

 おれの手に、カイリの手から生まれた熱の記憶がよみがえった。命あるものに奇跡が訪れると告げて、カイリはシュトラールの割れたシャーシを直した。奇跡? 魔法? カイリにはどうしてそんなことができる?

 疑問を蒸し返さなかった自分に、今さらながら違和感を覚えた。いや、疑問に思うことへの違和感、だろうか。
 龍ノ里島の景色のひとつひとつに、命の躍動を感じる。一瞬一瞬が奇跡みたいにキラキラして、なまなましい。命の形に手で触れることができる気がする。どんな奇跡も起こっておかしくないんじゃないか。

 でも。だけど。
「カイリは、どうしてここにいるんだ?」
 直感的に口を突いて出た問いは、自分でも思いがけない形をしていた。カイリが、ふわりと笑った。

「わたしがここにいる理由? そうだね。ただの気まぐれ。ちょっと見てみたくなっただけ。ありふれた夢を、最後に一つ」
「夢? 眠ってるときに見る夢のこと? それとも、目を開けて見る夢?」
「さあ? わたしにもわからない」

 カイリは星空を仰いだ。きれいな横顔。長いまつげ。細い首筋。急に、カイリに触れてみたくなった。抱き寄せたら柔らかいことを、おれの体は覚えている。
 ダメだ。触れたらきっと止まらなくなる。自分でもろくに知らない、体の奥のドロドロと熱いものが、一瞬でおれを支配してしまう。そんなのは汚い。吐き気をもよおすくらい醜いおれを、出会ったばかりのカイリには見せられない。

「カイリは……カイリが好きなものは、何? おれのシュトラールみたいな何かが、カイリにもある?」
「何だろう? たくさんある。でも、たくさんあったら、一つもないのと同じかもね。ああ、そういえば、歌がある」
「歌?」
「歌うことは好き。体で感じるもの全部を歌にする」
「聴いてみたい」
 うなずいたカイリは、少し照れているように見えた。


しおさいさわぐ つきよのかげに
ほしをあおげば みちるなみだの
ゆめじをたずね まようはだれぞ

いのちあるもの たゆたいゆけば
いつかねむりに おちるときまで
みみをすませて ちしおのながれ

かぜのかなたに さやかにひかる
きみのゆくえは とわずがたりの
せつなにであい わかれはとわに

ねむりねむれば いつかはあわん
かたるにたりぬ ゆめまぼろしよ
いのちあるもの きみにさちあれ
「兄貴! おい、兄貴、起きろってば!」
 肩をつかんで揺さぶられて、痛くて不快で、それで目が覚めた。ベッドサイドのハルタを、寝起きの機嫌の悪さのまま、思いっ切りにらんでやる。

「何だよ。おまえの声、うるさいんだよ」
「よく言うぜ。朝もけっこう耳元で呼んだのに、兄貴、全然起きなかったんだぞ。こんな時間まで寝やがって。さすがに寝すぎだっての」
「こんな時間?」
「十一時過ぎてんぞ。もうすぐ昼飯だから起こしてやったんだ」
「は? 十一時?」

 言われてみれば確かに、電気をつけなくても部屋は明るくて、窓にのぞく外の景色は、太陽の光と黒い影のコントラストがまぶしい。あれは真っ昼間の日差しだ。
 おれは体を起こした。寝坊するなんて、いつ以来だろう? それに、ずいぶんぐっすり眠っていた。夢を見たかどうか覚えていない。普段は、途切れがちな浅い夢の中で、ああでもないこうでもないと悩んで迷ってばかりなのに。

 ハルタが妙に嬉しそうにニマニマしている。
「兄貴の寝顔、久々に見たぜ。超レアだと思ったから、デジカメで写真撮っといた」
「バカ、消せよ。誰にも見せるな」
「もう遅いっての! カイリに見せたら、かわいいっつってたぜ」
「み、見せたのかよ? しかも、かわいいって何だよ!」
「だって、かわいいじゃん、兄貴。化粧してる女子より、まつげ長いもんな!」
「黙れ、この野郎! 写真、今すぐ削除しろ!」

 ハルタにつかみ掛かろうとしたけど、運動能力でおれが勝てるわけもない。身軽に逃げ出したハルタは、後ろ手に隠していたデジカメを出して、画面をおれに向けた。おれの寝顔が表示されている。最悪だ。

「この写真見せたら、絶対、かあちゃんが喜ぶぜ。倒れるんじゃなく、普通に寝てる兄貴の顔、最近ほんとレアだし」
「消せって言ってんだよ! 寝顔なんか、人に見せるもんでもないだろ!」
「兄貴、冷たーい。家族なんだからいいじゃねぇか」

「カイリにも見せたくせに」
「起こしたのに起きなかったっていう証拠写真だったんだよ。おれとカイリ、朝から港に行ってきたんだ。兄貴は珍しく熟睡してたから、それ以上、声掛けなかったんだけど」
「港? そういえば、釣りに行くって言ってたな」

 ハルタはデジカメのスイッチをオフにしながら、開けっ放しのドアのほうを指差した。
「とにかく、そろそろ昼飯だから、着替えて下りてこいよ。あんまり寝すぎると、それはそれでカイリが心配するからな」

「カイリカイリって、おまえ、さっきからしつこくないか?」
「あ、バレたか。だってさ、兄貴とカイリ、ちょっといい雰囲気じゃねえ?」
「はぁ? ふざけてんのか?」

「ふざけてねぇよ。兄貴が女子とまともにしゃべるとこ、珍しいだろ。最近はチナミとも全然しゃべんねぇし。チナミがさ、ユリくんに避けられてるかもーとか言ってたぜ。避けてんのか?」
「別に、そういうわけじゃない」

「ふぅん。まあ、とにかく、すぐ飯だから、さっさと来いよ。どーせ兄貴は、パジャマのままじゃ部屋から出たくねぇとかゴネるんだろうし、おれ、先に行くからな。腹、減ったしさ」
「ああ、先に行ってろ」

 ハルタを見送って、おれはベッドから下りながら、昨日の夜の記憶をたどった。
 カイリと一緒にベランダから屋根に上って、星を見ながら話をした。将来の夢、好きなもの、正直な気持ち。歌が好きだと、カイリが言ったところまでは覚えている。カイリの歌を聴いたことも覚えている。静かで透き通った子守唄みたいな曲だった。

 あの後、どうしたっけ?
 そこで記憶が途切れている。おれはいつ屋根から下りたんだろう?

 兄貴、早く来い、とハルタがしつこくおれを呼んでいる。階下から魚を焼く匂いがする。ひどく喉が渇いていることに気付いた。十一時過ぎまで寝ていれば、当然か。
 おれは着替えて、手早く髪を直してから、一階の台所へ下りた。

 料理係のカイリを手伝って、冷やしうどんと焼き魚の昼食を食卓に並べていたら、スバルさんが帰ってきた。四人で食卓を囲んで、いただきますと手を合わせる。
 スバルさんが気楽な調子で提案した。

「昼を食べたら、風車の見学を兼ねて龍ノ背山と、海流発電をやってる龍ノ尾崎までドライブに行こうか。海流発電の設備は海の下にあるから見えないけど、龍ノ尾崎の断崖絶壁からの景色がすごいんだよ」
「ぜひ行ってみたいです」

「ユリトくんは、もう眠気は取れた? 午前中に声を掛けようと思ったら、ぐっすり寝てるってハルタくんに聞いてさ」
「おかげさまで、こんなに寝たのは久しぶりです。自分でも驚きました」
「よかったじゃないか。ここにいる間は時間を気にせずに、ゆっくりしてほしいな」

 スバルさんの笑顔に、素直にうなずけない。みんなが起きて動いていたときに、おれだけ眠って、何もせずにサボっていた。胸に罪悪感がある。頑張って働き続けなければ、この世に存在することを許されないような気がする。
 昼食の後、スバルさんに仕事関係の電話が掛かってきた。三十分くらい待っててと言って、スバルさんは部屋に引っ込んだ。

「ドライブとか、仕事の邪魔にならないのかな?」
 皿洗いを手伝いながらカイリに訊いたら、カイリは小さく肩をすくめた。
「大丈夫だよ。風車の見回りはとうさんの日課だし。ユリトたちをクルマに乗せて一緒に回っても、別に問題ない」
「それならいいんだけど」

「ユリト、今日は顔色いいね」
「ちゃんと眠れたみたいで、自分でもびっくりしてる。頭はスッキリしたけど、時間を無駄にしちゃったよな」
「無駄じゃないよ。眠る時間も、人間にとっては大事」
「わかってるつもり。ああ、それと、カイリに訊こうと思ってたんだった。おれ、昨日の夜、迷惑かけなかったか? いつ自分が眠ったのか、全然覚えてなくて」

 ハルタに聞かれないように、カイリに顔を近付けて、早口でささやいた。カイリがかぶりを振ったら、ふわっと揺れた髪から、いい匂いがした。あ、ヤバい。近すぎる。

 次の瞬間。
「あっれー? おれ、来ちゃまずかった?」
 ニヤニヤしたハルタが台所の入口から顔をのぞかせている。

「な、何だよ、おまえ? 洗濯物、もう干してきたのか?」
「洗濯、まだ終わってなかった。で? 兄貴はいつの間にカイリと仲良くなってたわけ? 昨日も今日も、兄貴は部屋にこもってばっかで、カイリはおれと一緒にいたのに。あー、もしかして、昨日ぶっ倒れたとき? 膝枕なんかしてたもんな」

「お、おまえには関係ないだろ。だいたい、仲良くなるって、含みのある変な言い方するなって」
「含みとか、別にねぇよ。ただ、やっぱお似合いだと思ってさ」
「バカ、何言ってんだ!」
「何って、事実じゃん。兄貴、女子が苦手だろ? 追い掛け回されたり声掛けられたりしたら話すけど、そうじゃなきゃ近寄らねぇもん。そのくせ、カイリとは接近しても大丈夫なんだな? それ、すっげー特別だろ」

 ハルタのからかいに、おれはとっさに反撃できない。口をパクパクしていたら、からかわれている片割れのくせにマイペースなカイリが、きょとんと首をかしげた。
「ユリト、女の子に追い掛け回されたりするの?」
「や、別にそんな……」

 おれの弁解を、ハルタがへし折った。
「カイリ、兄貴は超モテるんだぜ! 成績はダントツで学年一だし、生徒会長だし、おれと同じでイケメンだし、スポーツもけっこうできるし、女子にとっちゃ減点するとこねぇじゃん? ま、おれから見りゃ、兄貴は口うるさくて年寄りくさすぎるけどな」
「そっか。ユリト、モテるんだ」

 素直に納得しないでほしい。ハルタが言うように、おれは女子が苦手だ。女子という言葉でひとまとめにしてしまうのは失礼だとわかっているけれど、まとめてみんな苦手なんだ。だって、話が噛み合わない。ノリについていけない。

 定期的に、おれを巡る噂が立つ。たいてい、学校でも目立つ女子がおれのことを好きだという内容だ。じゃあ剣持くんのほうはどうなのかと、おれは根掘り葉掘りしつこく問いただされる羽目になる。
 おれは無難で八方美人な答え方をしてしまうからダメなんだ。噂の相手がだんだん本気になる。まわりにあおられて、おれに告白する。「そんなつもりじゃなかった、ごめん」って、何度、同じ断り方で女子を泣かせてしまっただろう?

 一人二人、たまにそういう人が現れることがあるくらいなら、まだいい。もっと極端な話も、最近聞く。剣持ユリトを落としてしまえって、ゲームや賭けみたいなことをしている女子グループもいるらしい。囲い込まれるみたいで、すごく怖い。
 おれは、まるでモノだ。条件がいいから手に入れたいって。それを恋だと呼ばれても、うんざりしてしまう。好きだっていう言葉さえ、何もかも信用できなくなる。

「浮ついた感情なんて、押し付けられても困るんだよ。女子は面倒だ」
 口を突いて出た本音に、ハルタが冷やかしの声を上げた。
「うっわー。世の中のフツーの男子にそれ聞かれたら、兄貴、袋叩きだぞ」
「黙れ」

 ハルタだってモテる。飛び抜けて運動ができて、元気いっぱいで目立って、誰とでも分け隔てなく仲良くなれる。弱い者いじめみたいに理不尽なことがあれば、先輩だろうが先生だろうがおかまいなしで食って掛かる。

 モテるというより、そうだ、ハルタの場合はおれとは違うんだ。ちゃらちゃらした憧れなんてものを超えた強い想いを、相手にいだかせる。本当の本気で惚れられる。
 残酷なことに、ハルタは何も気付いていない。レーサーになりたいという夢だけが、ハルタの唯一絶対の関心事だ。恋愛が入る隙間なんてないらしい。

「そういや、兄貴、思い出したんだけどさ、おれのクラスの女子から、ユリト先輩に訊いといてって言われてたことがあって」
 皿洗いを終えたカイリが手を拭いて、興味深そうにおれを見る。おれはカイリから目をそむけた。

「何を訊いとけって?」
「八月最後の土曜日、空いてるかどうか」
「空いてないって言え。おれは学校の女子と花火大会なんか行くつもりはない」

「あ、なるほど、花火の日だったのか」
「毎年だろ。覚えろよ」
「いつもチナミが呼びに来てから、そういや花火だったって思い出すんだよなー。今年も三人で行くか?」

 幼なじみのチナミちゃんの名前に、胸の奥がズキッとした。春先には断ち切ったはずの想いが、まだ痛む。

「おれは行かない。ハルタとチナミちゃんだけで行ってこいよ」
「えーっ、何でだよ? 兄貴が行かねぇんなら、おれも行かなくていいや。わざわざ人が多くて暑いとこに出ていかなくても、花火なら、うちのベランダから見えるしな」

「それじゃ、チナミちゃんがかわいそうだろ。毎年、浴衣まで着て張り切ってるのに」
「あいつはあいつで、ほかの友達でも誘えばいいんだ。てか、誰かに誘われてんじゃねぇかな。兄貴、知ってるか? チナミのこと好きってやつ、意外といるんだぜ」

 知らないわけがない。この目で見た。チナミちゃんが何を思っているのかも、チナミちゃんの口から語られるのを聞いた。そのときようやく、おれは自分の想いに気付いた。気付いた瞬間に失恋するって、最悪だ。

 とにかく、と、おれは声を大きくした。
「おれは花火大会には行かない。ハルタ、おまえはチナミちゃんと一緒に行け。チナミちゃんちのおじさんも、ハルタを頼りにしてるんだ」
「命令かよ? おい、兄貴、何で急に機嫌悪くなってんだ?」
「おまえには関係ない」
 思いっ切り、嘘だ。ハルタ、おまえが元凶だ。

 おれは、うるさいハルタのそばをすり抜けて台所を出た。
 ちょうどのタイミングで、洗濯機が仕事の完了を知らせて鳴った。大雑把なハルタに任せるより、おれが洗濯物を干したほうがいい。おれはハルタに声を掛けず、一人で、家の裏手にある洗濯小屋へ向かった。