予備の制服に着替えて店に出ると、丁度店の扉が横に動く。
高い吹き抜け天井のせいか、来客を知らせる鈴が、どこまでも響いていくように澄んだ音を鳴らす。
「いらっしゃいま……せ……」
本日最初の――もちろん、営業時間前に押し入った常連は抜きだ――お客様だ。元気よく挨拶をしようとした俺だったが、あまりにも意外すぎるお客様の姿に、途中で声が途切れてしまう。
「……あ、あの」
和風な引き戸に手をかけたまま、もじもじしている本日のお客様第一号は……真っ赤な頬の、子供だった。
「あ~……えっと……、いらっしゃいませ」
気を取り直し近付くと、子供はびくっと肩をすくめオロオロと視線を彷徨わせる。
「今日は、ひとり……かな?」
いつまでも親が出てこない事を不思議に思いながら、しゃがみ込んでたずねると、子供は俺の顔をまじまじと見上げたあと、こくりと頷いた。
「誰か、大人の人は一緒じゃない?」
「お、おれ、ひとり」
たどたどしくも、はっきりと子供は「ひとりで来た」と宣言した。
まだ小さい……小学生にもなっていないだろう小さな子が、わざわざひとりでお茶を飲みに来るだろうか?
(もしかして、迷子か……?)
とっさにそう考え、後ろを振り返り、店長の判断を仰ごうとした。そんな俺の袖を、つんと小さな手が引っ張る。
「ん? どうした?」
大学の友人曰く、俺は胡散臭い顔立ちらしい。
眼鏡の奥の細い目が、まったく笑っていないからだなどと、失礼な事を言われた記憶がある。あの友人は「童話とかで人を騙す悪い狐みたいだな!」などと抜かしていた。思い出すと腹が立ってきたが、不安そうな子供を前にして取る態度ではない。
なるべくこの子を怖がらせないようにと注意を払いながら笑いかけると、子供は再び俺の顔をじっと見上げてくる。
「……あ、あの」
「うん?」
「あの、な、……友だち、さがしてほしいんじゃ」
「……え?」
俺の声は、よっぽど間抜けに聞こえたらしい。子供は焦れたように地団駄を踏み、繰り返した。
「おれの友だち、さがしてほしいんじゃ! どこにもおらんけ、さがしてくれ!」
「待て待て待て!」
身を乗り出し、すがりつく勢いで言い募られ、俺は慌てて子供を押しとどめる。
「友達が、いない? ケンカでもした?」
「しとらん! なのに、きのうもおとといも、いつもの場所に、おらんかった……」
大きな目に、じわりと涙が溜まっていく。
「わわっ、泣くな……! あのな、そういう事は、お父さんとお母さんにまず相談しような? それから、警察に……」
俺の言葉は、最後まで続かなかった。
「お父もお母も、おれにはおらん! けいさつっちゅうのは、分からん!」
ぶん、と大きく腕が振られて、眼鏡に当たる。
ちょっとずれた眼鏡を直そうと子供から距離を取った瞬間、俺は〝見てはいけないもの〟を見てしまった。
子供の小さな影。
その頭の部分から、ぴょこんと二本の影が突き出ていたのだ。
まるで、角のように。
「ぁ、ご、ごめんな、兄ちゃん……! いたかったか……!?」
〝それ〟が何か、確認することも無く眼鏡を戻した俺の沈黙を不安に思ったのか、子供は慌てたように、また取りすがってきた。
「――っ」
ぎくりと体が強張り、無意識に逃げるように立ち上がってしまう。
「……だ、大丈夫、なんともない。眼鏡にちょっと、当たっただけ。君の方は痛くしなかったか?」
避けた事への後ろめたさから、取って付けたような言葉が口から出てきたが、子供は気が付かない。
「おう! おれは、強いからの!」
俺がなんともないと知ると、子供はパッと八重歯を見せて無邪気に笑った。
その頭に、不自然な突起は見当たらない。
(じゃあ……やっぱり、あれは……)
瞬間で判断した通り……〝普通は見えるはずが無いもの〟。そう再確認した途端、胸の奥が冷えていく。
〝見えるはずが無いもの〟ならば――俺は何も見ていない。
俺に、見えるはずが無い。
そう心の中で呪文のように繰り返しながら俺は、今度は中腰で子供に話しかけた。
「でも、ごめんな、坊や……ここは、お茶を飲んだりお菓子を食べたりするところで、人捜しはしていないんだよ」
「え? でも……表に……」
不意を突かれたような顔をした子供は、俯きもごもごと何事かを唱えた。
一体、どうしてただの飲食店に人捜しを頼もうなんて思いついたのか――不思議がっていた俺のすぐ後ろで、声がする。
「どきたまえ、狐。彼は、僕のお客だよ」
「うわっ!」
びっくりして飛び退く俺をうるさげに見たのは、さっきまで定位置に座っていた安倍だった。足音ひとつ立てず、いつの間にか近付いてきたらしい。
「この店員が不躾な対応をして悪かったね。彼は、まだ入ったばかりの新入りだから、もののイロハがわからんのさ。中へどうぞ、君の話を、詳しく聞かせてくれたまえ」
そう言って、俺よりも断然人当たりの良い笑顔を浮かべた安倍に、子供はホッと一安心するかと思いきや、「ぴゃっ!」と悲鳴を上げて、なぜか俺の足にしがみついた。
意外な反応に目を丸くしていたのは俺だけで、店長はもちろん当の安倍まで苦笑している。
まるで、何時もの事だというように。
(……老若男女に好かれそうな、きれーな顔してんのに、意外だな)
まさか、子供に怖がられるタイプだったとは……と、安倍を見やる。
すると、奴はなぜか真顔で俺を凝視していた。
「…………」
「な、なんですか……?」
「……狐なだけに、好かれるんだな」
「はい? 意味が分かりません、狐とか今関係ありますか?」
子供が好きな動物で、狐がダントツ人気なんて聞いた事がない。
そもそも、狐なんてのは、この男が勝手に呼んでいるだけの、不本意なあだ名のようなものだ。初対面である子供が知るはずない。
この子に人見知りされたショックで、どっかネジが抜けたのだろうか?
俺は少しだけ心配になったが、安倍はすぐさまニコリとさっきと同じ笑みを浮かべて見せた。
「狐。お客人を席までお連れしろ」
「……は?」
「彼は、君の足がお気に召したようだからな」
言われて視線を下に落とす。
俺の足には、赤い頬の子供が、コアラのようにしがみついたままプルプル震えている。
「あ、あの、離れてもらっても……」
「っ!」
びくっと大げさなまでに肩をはねさせ、子供はこの世の終わりに直面したような涙目で、ぶんぶんと首を横に振った。
(……安倍、そこまで顔怖くないと思うんだけど……)
子供も、人見知りというほどでもない気がしたのだが、この怖がりようはどうした事だろう。
けれど、今にも泣き出しそうな小さな子を無理矢理引っぺがしたりなんて、出来るはずも無い。安倍に従うのは癪だが、そうせざるを得ないと感じて、俺は「行こう」と子供を促した。
「に、兄ちゃんも、おる?」
「え?」
「お、おれ、強い! じゃけんど、兄ちゃんが、ど……どうしてもってい言うなら、い、いっしょにいても、いいぞ……?」
どうしたらいいのだと迷っている間に、安倍は何時ものカウンターではなく、一番端のボックス席に移動していた。
「狐、早くしたまえ」
偉そうに呼びつけられ眉間にシワが寄る俺だったが、子供は全く違う反応を示した。まるで親に怒られたかのように、ひゅっと亀のように首を竦ませ震えている。
「……あー……」
これはちょっと、放っておけないかもしれない。
ちらりと店長を見れば、温和な笑みでひとつ頷いてくれた。
それでようやく覚悟を決めた俺は、足に子供をひっつかせたまま、ずるずると移動する。
――これまで誰も座っているのを見たことが無い、一番奥のボックス席へ。