いつになく緊張した面持ちで、俺は玄関の扉を開けた。こんな日に限って空は曇り空で、先の見えない不安が心の中でざわりと動く。いつか希美さんが食べたいと言っていた有名なクッキーを片手に、俺は一歩外へと踏み出した。
やっと決意が出来た。
自分が希美さんに伝えたいこと。言いたいこと。そして何よりも、会いたいということ。
図書室での草間との一件が後押しとなったのか、希美さんのお見舞いに行くことに、以前よりも怖さを感じなくなった。
伝えられる時に伝えときなよ、という姉の言葉を無意識に思い浮かべながら、玄関の扉をそっと閉める。
マンションを出ると、いつもとは違うルートで学校までの道のりを歩いた。病院は学校のすぐ近くにあるので、もしかしたら高山たちとバッタリ会うかもしれない。一応、山形の実家に帰っていることになっているので、出くわすわけにはいかないのだ。
曇っていても七月の暑さが、じわりと額の汗となって現れてくる。公園で遊んでいる子供達や、穏やかな表情で過ぎ去っていく街の人たちを見て、今日は平日ではなく休みの日だと改めて感じる。そんな開放感あふれる空気とは裏腹に、自分の心はピシッと固まったままだった。
違う道を通ってきたおかげで、図書委員の誰とも会うことはなく、病院の入り口までたどり着いた。こう見えて普段滅多に風邪は引かず、大きな事故や病気にもあったことがなかったので、この病院に来るのは初めてだった。
最近建て替えられたばかりなのか、入り口の自動ドアを抜けると、想像していたよりもずっと綺麗なロビーが視界に飛び込んできた。勝手に想像していた昔ながらの病院ではなく、リノリウムの床も白い壁も、天井からの光を反射して輝いていた。それだけのことで、心に感じていた不安が少し消える。
こんな立派な病院に入院しているのであれば、きっと希美さんの身体は良くなっているはずだ。
 そう自分に言い聞かすように胸の中で呟くと、ゴクリと唾を飲み込んで受付へと向かう。
「すいません。北条希美さんのお見舞いに来たんですけど……」
受付でカルテのようなものをめくっていた看護師さんに声を掛けた。すると相手はこちらを見てニコリと微笑むと、「少々お待ちくださいね」と言ってパソコンのキーボードを叩いた。
まずは何を話そう。希美さんとの会話を頭の中で練習していた時、少し困ったような口調で看護師の声が聞こえた。
「すいません。もう一度相手の方のお名前を教えてもらってもいいですか?」
は、はい。と慌てて我に戻った自分は、彼女の名前を再び目の前の看護師に伝える。「ほうじょう……」と呟きながら、相手は先ほどよりも画面にぐっと顔を寄せて調べている。そんな看護師の姿を見て、何となく胸騒ぎがした。
「申し訳ありません……今この病院に、そのような名前の方は入院されていません」
「へ?」
その言葉に、思わず声が漏れた。
希美さんが、入院していないだって?
混乱する頭を必死に整理しながら、俺はもう一度口を開く。
「たしかにこの病院のはずなんですけど……高校三年生の女の子で、黒髪の……」
慌てる心がそうさせるのか、記憶の中にある希美さんの姿が何故か一瞬ボヤける。何か、触れてはいけないものから目をそらすように、俺は知ってる限りの希美さんの情報を伝える。が、看護師さんが何度調べてくれても、その名前を見つけることができなかった。
「……どういうことだ?」
再び病院を出ると、入り口で立ち止まりながら呟いた。たしかに希美さんはこの病院に入院していると以前自分に教えてくれた。実際学校から二人で帰る時もこの病院の方向に向かっていたし、病院の名前も合ってある。なのに、どうして……
もしかして、病気が悪化してもっと大きな病院に移ったのか?
考えたくない想像が一瞬頭の中をよぎり、俺は慌てて首を振る。そんな自分の不安を冷たく感じさせるかのように、額にポツリと雨が降ってきた。見上げると、さっきよりも分厚い雲が空を覆っている。
もう一度受付に戻って確認してもらおうかと思った時、ふと屋上で希美さんが言っていたことを思い出した。
ここからだと、私の家も見えるんだ――
病院から少し歩いたところ、駅の方面へと向かう途中にあるマンションを指差していた希美さん。記憶を確かめるようにその方角にぐっと目を凝らすと、あの時彼女が指差してマンションの姿が見えた。
あそこなら……
俺は再び早足で元来た道を歩き出すと、真っ直ぐに希美さんの家へと向かった。病院にいなかったのは、もしかさたら元気になって退院しているからかもしれない。
必死に希望にしがみつくかのようにそんなことを考えながら、灰色の空に浮かぶマンションを目指す。ポツリポツリと降り始めていた雨は、マンションの下に着く頃には本降りとなっていた。
ギリギリ助かったと、わずかに濡れた髪の毛を右手で払うと、ゆっくりと自動ドアを抜ける。まさかここでも、という不安を胸の奥で感じながら、郵便受けの名前を一つずつ確認していく。すると、『北条』という文字に視線がピタリと止まった。
やっぱりここだ!
さっきまで胸の中で渦巻いていた不安に光が差し込む。すぐに後ろを振り返ってエントランスのインターフォンへと向かう。震える指先で『906』と順に押していくと、大きく一度深呼吸をした。
……よし。
ゴクリと唾を飲み込むと、再び右手の人差し指で呼出ボタンを押す。ピンポンと鳴った無機質な音が、やけに耳に響いた。普段意識することがない僅かな沈黙が、やたらと長く感じてしまう。
スピーカーの向こうからはガチャっと音が聞こえて、慌てて背筋を伸ばした。すると、落ち着いた女性の声が聞こえてきた。
『どなたですか?』
希美さんじゃない。そう思いながらも、ゴクッと唾を飲み込むと再び口を開く。
「あ、あの……のぞみ……北条希美さんのお宅でしょうか?」
告げた名前に、相手は少し黙ったかと思うと、今度は怪訝そうな声で言った。
『そうですけど……どちら様ですか?』
その言葉に、良かったと胸の中に安堵感が広がる。やっぱりここで間違いなかったんだとほっと胸を撫で下ろすと、すぐに言葉を返した。
「あの、僕は藤川学です。希美さんと同じ学校に通ってて友達……」
ふとそこで、唇が止まった。俺は、希美さんにとって友達なのだろうか? それとも、先輩と後輩?
ベストな言葉が思い浮かばず、中途半端なまま話しをやめてしまうと、スピーカーからすぐに返事が返ってくる。
『あら、希美のお友達? ちょっと待っててね』
パッと明るくなった声が途切れると、エレベーターホールへと続く自動ドアがゆっくりと開いた。どうやら歓迎してくれるみたいだ。そんなことを思い再び小さく胸を撫でおろすと、つま先の向きを変えてエレベーターホールへと歩き出す。自分の家のマンションとは違い、中には小さな待合室のような場所があった。
希美さんって立派なマンションに住んでるんだ。
そんなことを思うと、急に身だしなみが気になってくる。まさか家にやってくるとは想像もしていなかったので、Tシャツにジーンズ。差し入れは持って来ているものの、雨に濡れてしまったせいで、紙袋が情けない姿になっている。
「……」
 エレベーターの姿見で自分の身体をチェックしながら、思わず逃げ帰りたい衝動にかられる。が、そんな自分をさらに追い込むように、チンという音と共に扉が開いた。
 ゴクリと喉を動かすと、視界には雨の色に染まった街が見える。風も強いようで、廊下にも雨粒が侵入していた。
 902、903、904……と心の中で指差し確認を行いながら、目的のドアの前で足を止める。906と書かれた文字の下には、たしかに『北条』と記されている。
 本当に来てしまった……
 足がすくみそうになるのを、ぎゅっと唇を噛んで我慢する。ブルブルと震えている人差し指をインターホンへと近づけた時、突然カチャリと音が鳴った。
「うわっ」
 心の準備が整う前にドアが開き、思わず後ろへと飛び跳ねる。すると、中から見知らぬ女性が現れた。
「いらっしゃい」
 クスリと微笑む相手を見て、目の前にいる人が希美さんのお母さんだとすぐにわかった。長いまつ毛にパッチリとした目、それに優しそうな雰囲気が彼女と似ている。
 たぶん希美さんが大人になったらこんな人になるのだろう。何となく、そんなことを思った。
「あ、あの……」
 突然すいません! と言葉を続けるよりも前に、「さ、中に上がって」とおばさんが言った。その言葉に誘われるがままに、「お邪魔……します」とぼそりと呟くと、玄関へと足を踏み入れる。
「希美のお友達が来てくれるなんて、久しぶりだわ」
 おばさんは嬉しそうにそう言うと、先に廊下へと一歩上がる。そして「あら」と声を漏らすと、ちょっと待っててねと言って足早に奥へと消えていった。
「……」
 さすが希美さんの家、すでに玄関から綺麗だ。自分の家のようにそこら中にヒールやスニーカーは転がっていないし、捨て忘れた新聞紙や雑誌の束なんてもちろん置かれていない。ほんのりと漂っている柑橘系の香りが、鼻腔の奥をくすぐってくる。
「待たせてごめんなさいね」と言って戻ってきたおばさんの手には、淡いピンク色のタオルが握られていた。どうぞ使ってと差し出されたそのタオルを受け取ると、「ありがとうございます……」と言って恐る恐る濡れた髪の毛や肩を拭いた。
「お邪魔します」
 その声と共に、俺は緊張した足取りでフローリングの廊下へと一歩足を踏み入れた。するとおばさんの声が再び耳に届く。
「希美とはいつからお友達なの?」
「え?」
 その質問に、思わず宙に浮かせた左足がピタリと止まる。「そ、そうですね……」と時間稼ぎの言葉を呟くと、大急ぎで頭の中をフル回転させた。
 希美さんはこっそり病院を抜け出していると言っていたので、「最近仲良くなりました」とはさすがに言えない……
「その、昔からの友達というか何というか……」
 右手で頭をかきながら「あはは……」と苦笑いを浮かべると、そんな自分を見ておばさんがクスリと笑った。その姿が、希美さんに重なる。
「希美が待ってるわ。先に挨拶してあげてくれる?」
「は、はい!」
 まるで結婚を前提にお付き合いさせてくださいと頭を下げにきたような、ぎこちない足取りで廊下を一歩ずつ進んでいく。歩く振動が全身に伝わるたびに、心臓が思わずビクリと飛び跳ねる。
 突き当たりの扉をおばさんが開けると、広いリビングに出た。やはり想像していた通り、部屋はとても綺麗だった。テーブルやソファは一目でオシャレなものだとわかるし、壁や棚にはアートや雑貨が飾られている。まさに、雑誌に出てきそうな家だ。
 すごい……と心の中で声を漏らすと、「こっちよ」とおばさんがリビングの隣に見える襖へと向かった。その後を、俺も付いていく。
「きっと希美も喜ぶわ」
 そう言っておばさんはゆっくりと襖を開けた時、踏み出そうとしていた右足が思わず止まった。
 えっ?
 視界に入ってきたのは、何もない、整然とした畳の部屋だった。人の気配は、ない。
 ……。
 呆然としたまま突っ立っていると、「こちらにどうぞ」とおばさんが先に和室へと入った。その後を、ゴクリと喉を動かしてから一歩踏み出さす。浮いた右足の感触が畳に触れた時、ふと視界の端に何かが映った。それが何なのかすぐに理解できるはずなのに、心が受け入れない。
 嘘だ……
 部屋の中を進んでいくおばさんを見つめがら、俺は胸の奥で呟く。
 これはきっと……何かの間違いだ。
 そう思って歩き出そうとするも、両足が鉛になったみたいに重い。すると、部屋の入り口で立ち尽くす自分の前で、おばさんが優しい声で言った。
「希美、あなたのお友達が来てくれたわよ」
 おばさんはそう言うと、ゆっくりと畳に膝をつける。その目の前には、大きな仏壇があった。
「……」
 あげたばかりの線香の匂いが、鼻先をかすめた。静かに立ち上っていく煙が、自分の心と一緒に空へと消えていく。頭が、身体が、五感のすべてが無くなったかのように何も感じない。
「藤川くんもどうぞ」
 おばさんはそう言うと、少し身体を横にずらした。何か言葉を発しようと口を開くも、声が出てこない。焼けるように、喉の奥が渇いていく。
「……」
 顔を伏せたまま、おぼつかない足取りでおばさんの隣に並んだ。恐怖や不安が、まるで巨大な蛇のように足元から這い上がってくる。それに飲み込まれるかのように、力なくその場に座った。
 嘘だ……
 伏せたままの頭の中で、希美さんの姿が浮かぶ。彼女の声も、彼女の笑顔や仕草も、全部鮮明に覚えている。元気なままの希美さんを、俺はついこの間まで見ていた。隣で感じていた。だから……
 現実を否定するために見上げた瞳に映ったのは、自分がよく知っている希美さんの笑顔だった。四角いフレームに切り取られたその姿が、彼女がもう、自分とは違う世界にいることを告げている。
「……そんな」
 呆然と希美さんの顔を見つめながら、言葉にもならない声で呟いた。すると隣にいるおばさんが静かに口を開く。
「ちょうど今日はね、あの子の『命日』なの」
「……命日?」
 その言葉に、プツリと思考が途切れた。状況が理解できず、黙ったままでいると、再びおばさんがゆっくりと唇を動かす。
「ちょうど二年前の今日、あの子は病気で亡くなったの」
「え?」
 ざわりと奇妙な感覚が、胸の奥で疼いた。俺は目を見開いたまま、もう一度仏壇の写真を見る。そこに写っているのは、間違いなくつい最近まで自分が見ていたはずの笑顔。
 希美さんが……二年前に亡くなった?
 言葉の意味がまったく理解できず、思考が空回りする。無意識に早くなっていく動悸が、呼吸のリズムを乱していく。
 ありえない……だって希美さんはたしかに……たしかに俺の前で……
 頭に浮かぶのは、今日まで希美さんと過ごしてきた日々のこと。公園で出会ったことも、図書室で一緒にいたことも、全部覚えている。なのに……希美さんが二年前に亡くなっているだって?
 まったく現実感のない話しに、言葉どころか声さえ出てこなかった。唇の隙間からは、ただ空気が漏れる音だけが聞こえてくる。
「希美はね、よく自分のことを『私は織姫だ』って言ってたのよ」
「おり……ひめ?」
 何も考えることできず、同じ言葉だけを繰り返すと、「そうよ」とおばさんがクスリと笑った。そして彼女の顔を見つめる。
「あの子の誕生日は七月七日。七夕の日に生まれて、七夕の日に空に帰っていくなんて、ほんとに織姫みたいな子だったわ」
「……」
 おばさんはそう言うと、懐かしむように目を細めた。
「希美は生まれた時から心臓が弱くてね、ほとんど外では遊べなかったの。だから、家でも学校でもよく本を読んでた」
 希美さんとの思い出を確かめるように、おばさんは話しを続けた。
「ほんとに読書が好きな子でね、どんな時もいつも片手には本を持ってたの。小さい頃なんて、お風呂にも持って行こうとするからもう困っちゃって。……きっと、本の世界に自由を求めていたんでしょうね」
 おばさんの話しに、いつかの希美さんの言葉が浮かぶ。
「病気がちで身体は弱かったけど、優しくて、芯がしっかりしてる子だった。でもたまに変なこだわりもあってね。最後に外出許可が降りた時も、『どこに行きたい?』って尋ねたら『学校の図書室に行きたい』って言うんですもの。それが何だかおかしくて、私も思わず笑っちゃって」
 そう言っておばさんはクスリと笑うと、ほんの少しだけまつ毛を伏せた。
「そしたらあの子、『久しぶりにお母さんの笑顔が見れたって』って喜んでたの。……たぶん、ずっと気を遣ってたのは、あの子の方だったんでしょうね」
「……」
 おばさんの話しを聞きながら、頭の中では無意識に希美さんとの思い出が流れる。自分の記憶と一致するおばさんの話しに、ますます思考が混乱していく。すると、ふと思い出したかのようにおばさんが口を開いた。
「そういえばあの子、自分でも小説を書いててね。不思議なことを言ってたのよ。この小説をいつか誰かが読んでくれたら、私はもう一度この世界に戻ってこれるのかなって」
「小説……」
 その言葉に、胸の奥で何かが引っかかった。思考は相変わらず止まったままで、自分が今何を思っているのかもわからない。でも、おばさんの話しを聞きながら、無意識に心の中で一つの考えが浮かび上がってくる。 
「……まさか」
 思わず漏らした言葉の裏側で、今度はバラバラに散らばっていた記憶が次々に繋がっていく。どうしてあの日、希美さんが誰もいないはずの図書室に現れたのか。どうして希美さんが自分の家の公園にいたのか。そして、どうして図書室に毎週やってきたのか……
 パズルのように組み上がっていく仮説が、自分の頭の中に一つの地図を描く。それは今までの人生で、もっともありえない現実を示していた。でもなぜか、頭では否定しているはずなのに、心がそれを素直に受けれいてる。
 ありえない、と何度も胸の中で呟くほど、その仮説が強く自分の心に訴えかける。
「あの……」
 再び口を開くと、俺はゆっくりと立ち上がった。おばさんがそんな自分を不思議そうに見上げる。
「希美さんが書いていた小説って……」