憂鬱な世界をさらに灰色に染め上げるかのように、教室の窓の向こうでは、空が泣いていた。本格的に梅雨入りしたことを告げているのか、薄いガラス板を雨粒が音を立てて激しく叩く。濁って歪む見慣れた景色を、机に肘をつきながら、俺はただぼんやりと見つめていた。
「なあ藤川」
ふいに背中から声が聞こえ、窓に映る自分の後ろには宮野と樋口の姿が現れる。「ああ」と振り返ることもせず、言葉だけ返す。すると窓に映っている二人が怪訝そうな表情を浮かべて顔を見合わせている。そして、樋口がぎこちない口調で口を開いてきた。
「今日の帰り、久しぶりにマック行かないか? なんか新しい新メニューが出たらしいぞ」
「ああ……」
「お、ってことは図書委員は休みか?」
「ああ……」
「良かったじゃん! 俺はてっきり今日もお前が図書室に閉じ込められるのかと思ったぞ」
「ああ……」
「……」
一向に二人の顔を見ることもなく声だけ発していると、突然パシンと頭を叩かれた。「何すんだよ!」と怒って顔を向けると、二人が安堵するかのように息を漏らす。
「ちゃんと生きてたか」
「当たり前だろ。何だよ二人とも」
キリっと目を細めて睨めば、呆れたように宮野が口を開く。
「最近お前の様子が前にも増しておかしいから心配してたんだよ。遊びに誘っても全然来ないし、休み時間はずーっとボケっとしてるし……なんかあったのか?」
そう言って宮野はくいっと眼鏡をあげた。その隣では、樋口が心配そうに眉尻を下げている。
「べつに……何もないよ」
俺はそれだけ伝えると、小さく息を漏らして、机に頭を伏せた。希美さんのことは、初めて二人に話して以来、何も喋ってはいない。何度か話そうかと思った時もあったが、結局恥ずかしくなって言わなかったのだ。
頭を伏せたまま黙り込んでいると、頭上からは、やれやれと言わんばかりに二人のため息が聞こえる。
「あんま一人で無理し過ぎんなよ」
そう言い残し、二人は去っていった。胸に残ったのは、情けない自分に対しての苛立ちと、自分のことを心配してくれる友人に対しての、後悔だった。
昼休みのチャイムが鳴り、俺は一人で食堂に行こうと思ってこっそりと教室を出た。早くも解放感が溢れ出した廊下には、他の教室からも続々と生徒たちが出てくる。さっそくバカ騒ぎする奴もいれば、仲よさそうに男女で同じ方向へと向かう姿も。
いつも見ているはずの当たり前の風景が、なぜかやけに虚しく心に映る。過ぎ去っていく生徒たちの笑い声も、慌ただしい足音も、どこか違う世界から聞こえてくるように思えた。
そんなことを感じながら、ひっそりと隠れるように廊下の隅を歩いていた時、目の前から大量のプリントを両手に抱えて歩いてくる高山の姿が見えた。
マズい!
そう思うものの、時すでに遅しで、高山は俺のことを見つけるなり、「ナイスタイミング!」と目を輝かせた。そんな彼女を見て、俺は心の中でバットタイミングと呟く。
「いやーちょうど良かった! 藤川、これ頼んだ」
よいしょと言って、高山は両手で持っていた山積みのプリントを俺へと渡してくる。「ちょ、ちょっと待てよ!」と声をあげるも、もちろん聞く気配などない。
「なんだよこれ!」
「なんだよって……それはプリントです」
「……」
こういうところがうちの姉貴と似てるからちょっとムカつく。わざとらしく大きくため息を漏らしプリントを返そうとするも、相手はささっと身を後ろへと逃す。
「ごめん藤川! 私の代わりにそれ職員室の小室先生まで届けてほしいの」
「は? 何言ってんだよお前」
パチンと両手を合わせて頭を下げる彼女に、俺はすかさず口を開く。ただでさえ憂鬱な気分なのに、どうして俺が自分のクラスとは関係ないプリントを運ばないといけないのか。
「無理だって!」と今度は声を大にして伝える。が、やはり相手は聞く耳を持たない。
「お願い! 私どうしても放送部に行かなくちゃいけなくてさ。職員室に寄ってる時間がないの」
「ないのって……、俺だってそんな時間ないよ」
あからさまに嫌がった口調で答えると、さっきまでヘコヘコと頭を下げていたはずの高山の様子が一変する。眉間に皺を寄せたかと思うと、いきなりぐっと顔を近づけてきた。
「藤川……あんたこの前、最終下校時間過ぎても学校に残ってたでしょ?」
「……え?」
その言葉に、思わず呼吸が止まる。そんな自分を見て、相手は「やっぱりね」と眼鏡を光らす。どうして知ってるの? なんて墓穴を掘るような質問をするわけにもいかず、ただ口をパクパクとしていると、高山がドヤ顔で言ってきた。
「塾の帰りに、駅の近くであんたを見たからね。部活にも塾にも入ってないあんたがあんな時間に制服でウロつくなんて、それ意外考えられないでしょ」
「……」
どうやら見られてしまっていたらしい。希美さんといるところを見られたわけではないのでそこは助かったが、これじゃあ言い訳ができない。適当な嘘をついたとしてもきっと高山のことだ。すぐに詰め寄ってきてバレてしまうだろう……
職員室に行ってくれるなら黙っておくけど、と交換条件を出されてしまい、俺はしぶしぶ「わかったよ……」と返事を返す。
「よしっ! じゃあよろしくね」
軽快な口調でそう告げると、高山はそのままくるりと身体の向きを変えて人混みの中へと紛れていく。ポツンと一人残されて、俺はただ呆然と彼女が消えていった廊下を見つめていた。
「なんで俺がこんなことしなきゃいけないんだよ……」
食堂とは反対の方向に歩きながら、ぼそりと呟く。さっきまで手ぶらだったはずの両手には、高山のせいでずっしりとプリントの束の重みが伝わってくる。
放送部でもないアイツがどうして放送室に行くんだよ、なんて疑問を思っていたけれど、頭上から流れてきた『みんなのリクエスト曲』で、高山の好きなパンクロックが流れ始めてその理由を知る。
「……」
はあと思わずため息を漏らした時、バン! と前から歩いてきた生徒と肩がぶつかった。その拍子に、持っていたプリントが廊下へと散らばる。
「いってーな」
その声を聞いた瞬間、ゾクッと心臓が震えた。チラリと相手の顔を見上げれば、案の定、そこにいたのは草間とその仲間たち。「す、すいません!」と咄嗟に頭を下げて、そのまま床に散らばったプリントを拾っていく。
「陰キャラのくせに、堂々と道の真ん中歩いてんじゃねーよ」
唾でも吐き捨てるかのような口調で草間が言った。その後に、頭上からはクスクスと嫌な笑い声をあげる女子や草間の子分たち。ギシリと痛む胸を隠すように、俺は顔を上げずにプリントを拾い続ける。
草間はそのまま歩き始めたかと思ったら、わざとらしく左足を俺の肩にぶつけてきた。そして、金魚の糞みたいにぞろそろと他の連中を連れて去っていく。
「……」
右手で拾い上げたプリントは、いつの間にか強く握りしめ過ぎて、皺くちゃになっていた。情けない自分を誤魔化すように「クソっ」と一人呟いた言葉が、相手を見つけることができず空回りする。
どうせ俺なんて……
胸の奥に隠していた黒い感情が、ほんの少し顔を出す。わかってる。俺の現実なんてこんなもの。たいして目立つこともなければ、ひっそりと息を潜めるように毎日を過ごしているだけ。楽しいことや嬉しいことなんて、何もない。それが本来の自分の日常。
「希美さん……」
ぼそりと呟いた名前は、廊下で楽しそうにはしゃぐ生徒たちの喧騒にすぐに飲み込まれて消えていった。
その次の水曜日も、希美さんは図書室には現れなかった。
もしかしたら、という期待を込めて最終下校時間のギリギリまで鍵のかかった図書室の中で待っていたが、しんと静まり返った室内に、扉をノックする音が響くことはなかった。
まるで病院の待合室にいるかのように、得体の知れない不安が、べったりと心にへばりつく。そんな感情が、図書室で希美さんを待っている時も、家にいる時も、学校で授業を受けている時も、常に胸の中で感じていた。
「はあ……」
ため息をついてカウンターに頭を下げた時、いきなり後頭部を何かが直撃した。
「だからサボるなって言ってるでしょ」
イテッと顔を上げれば、頭上では高山が目を細めて睨んでいる。その左手には、やっぱり凶器の文庫本。
「べつにサボってないって……」
俺はそう言って面倒くさそうに上半身を起こす。視界には毎日見ているいつもの光景。でも、なぜか心にはいつもと同じように映らない。味気のない、モノクロ映画みたいに。
再びため息をつくと、俺は鞄から本を取り出してページをめくった。寝ていたらサボるなって怒るくせに、本は読んでいても怒らないのだ。
何の差別だよ……
そんなことを心の中でぼやきながら、視線で文字を追っていく。すると再び隣から高山の声が聞こえてきた。
「ね、今度私のお勧めの本教えてあげよっか? その名も、『高山が勧める人生を変えるベスト百冊!』」
嬉しそうに言ってくる彼女の言葉に、俺はすぐさま首を横に振る。
「いや、別にいらないって。それにお勧めの本なら教えてくれる人がいるし……」
そう言った直後、胸がチクリと痛んだ。希美さんと最後に会ってからも、読書は続けている。もちろんそれは、次に彼女の会えた時に感想を伝えて喜んでもらうためだ。
そんなことをぼんやりと考えていると、続け様に高山が言った。
「教えてくれる人って……女の人?」
ああ、と話し半分で聞いていた俺は、そのままの流れで素直に答えた。すると高山からの返答はなくなり、妙な沈黙が生まれる。
「あんたまさかとは思うけど……その女の人と仲良くなるために本を読み始めたわけじゃないでしょうね?」
「え?」
突然耳に届いた質問に、思わずページをめくる手がビクっと止まる。ぎこちなく首を上げれば、すでに相手は雷神様になっていた。言い訳する間も拝む間もなく、怒りの雷が落とされる。
「ほんっと信じられない! 何その不純でふしだらな動機? あんたにしては珍しくここ最近ずっと本を読んでるなって感心してたけど、女性と仲良くなるためのツールとして本を利用してたのね!」
荒れ狂う雷神様のお言葉が、静まり返った図書室に響きわたる。なんだなんだ? と言わんばかりに、テーブルから顔を上げてこちらを見てくる生徒たち。その突き刺さるような視線と、すぐにでもこの場から逃げ出したい衝動に、俺は慌てて高山に向かって両手を広げた。
「ちょ、ちょっと待てって! 何もそんな理由で本を読み始めたわけじゃ……」
「じゃあどういう理由なのよ?」
「……」
二発目の雷が頭に落ちてきそうな勢いで質問してくる高山に、俺は一瞬口ごもる。そしてゴクリと唾を飲み込むと、とりあえずその場しのぎの言い訳を口にする。
「か……かしこくなるために……」
もうその答えが、賢くなかった。目の前にいる相手が大きなため息を漏らす。
「ダメだわ……あんたみたいな不衛生な人間に、神聖で清らかな本を貸し出すわけにはいかないわ」
高山はそう言うと、ぐいっと無理やり俺の読んでいた本を取り上げて、あろうことか勝手にバーコードをスキャンして『貸出中』から『返却済』へと切り替える。「おい!」の後に続きの言葉を発する間もなく、さっきまで手元にあった希美さんとの繋がりは、無残にも棚戻し用のカゴの中へと入れられてしまう。
「ちょっと待てよ高山! いくら何でも……」
「ムリです。あなたの潔白が証明されるまでは本の貸し出しを禁止させて頂きます」
「貸し出し禁止って……俺は図書委員だぞ!」
「だからよ! 図書委員であるなら、全校生徒の模範となるような本の借り方をしないといけないの。姿勢は正しく、常に清らかな心で読みたい本に手を伸ばすべし。それが我々、図書委員が持つべき信条よ!」
「……」
こいつ、変な宗教にでも入ってんじゃないかって本気で思った。あまりにもひどい仕打ちに、胸の裏側でぐっと怒りの感情がこみ上げてくる。でも、高山相手ではもちろん言い出せない。
結局あらぬ疑いは晴れぬまま、図書委員でありながら何故か本が借りれないという謎の禁止令が出てしまった。が、仕事はしっかりとやらされたばかりか、「罰として本棚掃除!」といつもの業務が終わった後に命じられてしまい、一人居残る羽目になってしまったのだ。
「ほんとあいつメチャクチャだよな……」
校舎を出ると、黄昏はいつの間にか闇色に変わっていた。そんな空を何となく見つめんがら、暗くなった道を歩く。
「もう助からないみたいよ……」
「やだわね……そういえばうち旦那の実家も」
ふと聞こえた通行人の言葉に、ドクリと心臓が跳ねた。違う、希美さんのことじゃない。そう頭で考えるも、心には黒いものが渦巻く。そんな感情から目を逸らすかのように頭を上げる。ぎゅっと細めた視線の先には、彼女が入院している病院が、闇空の中にぼんやりと浮かんでいた。
「なあ藤川」
ふいに背中から声が聞こえ、窓に映る自分の後ろには宮野と樋口の姿が現れる。「ああ」と振り返ることもせず、言葉だけ返す。すると窓に映っている二人が怪訝そうな表情を浮かべて顔を見合わせている。そして、樋口がぎこちない口調で口を開いてきた。
「今日の帰り、久しぶりにマック行かないか? なんか新しい新メニューが出たらしいぞ」
「ああ……」
「お、ってことは図書委員は休みか?」
「ああ……」
「良かったじゃん! 俺はてっきり今日もお前が図書室に閉じ込められるのかと思ったぞ」
「ああ……」
「……」
一向に二人の顔を見ることもなく声だけ発していると、突然パシンと頭を叩かれた。「何すんだよ!」と怒って顔を向けると、二人が安堵するかのように息を漏らす。
「ちゃんと生きてたか」
「当たり前だろ。何だよ二人とも」
キリっと目を細めて睨めば、呆れたように宮野が口を開く。
「最近お前の様子が前にも増しておかしいから心配してたんだよ。遊びに誘っても全然来ないし、休み時間はずーっとボケっとしてるし……なんかあったのか?」
そう言って宮野はくいっと眼鏡をあげた。その隣では、樋口が心配そうに眉尻を下げている。
「べつに……何もないよ」
俺はそれだけ伝えると、小さく息を漏らして、机に頭を伏せた。希美さんのことは、初めて二人に話して以来、何も喋ってはいない。何度か話そうかと思った時もあったが、結局恥ずかしくなって言わなかったのだ。
頭を伏せたまま黙り込んでいると、頭上からは、やれやれと言わんばかりに二人のため息が聞こえる。
「あんま一人で無理し過ぎんなよ」
そう言い残し、二人は去っていった。胸に残ったのは、情けない自分に対しての苛立ちと、自分のことを心配してくれる友人に対しての、後悔だった。
昼休みのチャイムが鳴り、俺は一人で食堂に行こうと思ってこっそりと教室を出た。早くも解放感が溢れ出した廊下には、他の教室からも続々と生徒たちが出てくる。さっそくバカ騒ぎする奴もいれば、仲よさそうに男女で同じ方向へと向かう姿も。
いつも見ているはずの当たり前の風景が、なぜかやけに虚しく心に映る。過ぎ去っていく生徒たちの笑い声も、慌ただしい足音も、どこか違う世界から聞こえてくるように思えた。
そんなことを感じながら、ひっそりと隠れるように廊下の隅を歩いていた時、目の前から大量のプリントを両手に抱えて歩いてくる高山の姿が見えた。
マズい!
そう思うものの、時すでに遅しで、高山は俺のことを見つけるなり、「ナイスタイミング!」と目を輝かせた。そんな彼女を見て、俺は心の中でバットタイミングと呟く。
「いやーちょうど良かった! 藤川、これ頼んだ」
よいしょと言って、高山は両手で持っていた山積みのプリントを俺へと渡してくる。「ちょ、ちょっと待てよ!」と声をあげるも、もちろん聞く気配などない。
「なんだよこれ!」
「なんだよって……それはプリントです」
「……」
こういうところがうちの姉貴と似てるからちょっとムカつく。わざとらしく大きくため息を漏らしプリントを返そうとするも、相手はささっと身を後ろへと逃す。
「ごめん藤川! 私の代わりにそれ職員室の小室先生まで届けてほしいの」
「は? 何言ってんだよお前」
パチンと両手を合わせて頭を下げる彼女に、俺はすかさず口を開く。ただでさえ憂鬱な気分なのに、どうして俺が自分のクラスとは関係ないプリントを運ばないといけないのか。
「無理だって!」と今度は声を大にして伝える。が、やはり相手は聞く耳を持たない。
「お願い! 私どうしても放送部に行かなくちゃいけなくてさ。職員室に寄ってる時間がないの」
「ないのって……、俺だってそんな時間ないよ」
あからさまに嫌がった口調で答えると、さっきまでヘコヘコと頭を下げていたはずの高山の様子が一変する。眉間に皺を寄せたかと思うと、いきなりぐっと顔を近づけてきた。
「藤川……あんたこの前、最終下校時間過ぎても学校に残ってたでしょ?」
「……え?」
その言葉に、思わず呼吸が止まる。そんな自分を見て、相手は「やっぱりね」と眼鏡を光らす。どうして知ってるの? なんて墓穴を掘るような質問をするわけにもいかず、ただ口をパクパクとしていると、高山がドヤ顔で言ってきた。
「塾の帰りに、駅の近くであんたを見たからね。部活にも塾にも入ってないあんたがあんな時間に制服でウロつくなんて、それ意外考えられないでしょ」
「……」
どうやら見られてしまっていたらしい。希美さんといるところを見られたわけではないのでそこは助かったが、これじゃあ言い訳ができない。適当な嘘をついたとしてもきっと高山のことだ。すぐに詰め寄ってきてバレてしまうだろう……
職員室に行ってくれるなら黙っておくけど、と交換条件を出されてしまい、俺はしぶしぶ「わかったよ……」と返事を返す。
「よしっ! じゃあよろしくね」
軽快な口調でそう告げると、高山はそのままくるりと身体の向きを変えて人混みの中へと紛れていく。ポツンと一人残されて、俺はただ呆然と彼女が消えていった廊下を見つめていた。
「なんで俺がこんなことしなきゃいけないんだよ……」
食堂とは反対の方向に歩きながら、ぼそりと呟く。さっきまで手ぶらだったはずの両手には、高山のせいでずっしりとプリントの束の重みが伝わってくる。
放送部でもないアイツがどうして放送室に行くんだよ、なんて疑問を思っていたけれど、頭上から流れてきた『みんなのリクエスト曲』で、高山の好きなパンクロックが流れ始めてその理由を知る。
「……」
はあと思わずため息を漏らした時、バン! と前から歩いてきた生徒と肩がぶつかった。その拍子に、持っていたプリントが廊下へと散らばる。
「いってーな」
その声を聞いた瞬間、ゾクッと心臓が震えた。チラリと相手の顔を見上げれば、案の定、そこにいたのは草間とその仲間たち。「す、すいません!」と咄嗟に頭を下げて、そのまま床に散らばったプリントを拾っていく。
「陰キャラのくせに、堂々と道の真ん中歩いてんじゃねーよ」
唾でも吐き捨てるかのような口調で草間が言った。その後に、頭上からはクスクスと嫌な笑い声をあげる女子や草間の子分たち。ギシリと痛む胸を隠すように、俺は顔を上げずにプリントを拾い続ける。
草間はそのまま歩き始めたかと思ったら、わざとらしく左足を俺の肩にぶつけてきた。そして、金魚の糞みたいにぞろそろと他の連中を連れて去っていく。
「……」
右手で拾い上げたプリントは、いつの間にか強く握りしめ過ぎて、皺くちゃになっていた。情けない自分を誤魔化すように「クソっ」と一人呟いた言葉が、相手を見つけることができず空回りする。
どうせ俺なんて……
胸の奥に隠していた黒い感情が、ほんの少し顔を出す。わかってる。俺の現実なんてこんなもの。たいして目立つこともなければ、ひっそりと息を潜めるように毎日を過ごしているだけ。楽しいことや嬉しいことなんて、何もない。それが本来の自分の日常。
「希美さん……」
ぼそりと呟いた名前は、廊下で楽しそうにはしゃぐ生徒たちの喧騒にすぐに飲み込まれて消えていった。
その次の水曜日も、希美さんは図書室には現れなかった。
もしかしたら、という期待を込めて最終下校時間のギリギリまで鍵のかかった図書室の中で待っていたが、しんと静まり返った室内に、扉をノックする音が響くことはなかった。
まるで病院の待合室にいるかのように、得体の知れない不安が、べったりと心にへばりつく。そんな感情が、図書室で希美さんを待っている時も、家にいる時も、学校で授業を受けている時も、常に胸の中で感じていた。
「はあ……」
ため息をついてカウンターに頭を下げた時、いきなり後頭部を何かが直撃した。
「だからサボるなって言ってるでしょ」
イテッと顔を上げれば、頭上では高山が目を細めて睨んでいる。その左手には、やっぱり凶器の文庫本。
「べつにサボってないって……」
俺はそう言って面倒くさそうに上半身を起こす。視界には毎日見ているいつもの光景。でも、なぜか心にはいつもと同じように映らない。味気のない、モノクロ映画みたいに。
再びため息をつくと、俺は鞄から本を取り出してページをめくった。寝ていたらサボるなって怒るくせに、本は読んでいても怒らないのだ。
何の差別だよ……
そんなことを心の中でぼやきながら、視線で文字を追っていく。すると再び隣から高山の声が聞こえてきた。
「ね、今度私のお勧めの本教えてあげよっか? その名も、『高山が勧める人生を変えるベスト百冊!』」
嬉しそうに言ってくる彼女の言葉に、俺はすぐさま首を横に振る。
「いや、別にいらないって。それにお勧めの本なら教えてくれる人がいるし……」
そう言った直後、胸がチクリと痛んだ。希美さんと最後に会ってからも、読書は続けている。もちろんそれは、次に彼女の会えた時に感想を伝えて喜んでもらうためだ。
そんなことをぼんやりと考えていると、続け様に高山が言った。
「教えてくれる人って……女の人?」
ああ、と話し半分で聞いていた俺は、そのままの流れで素直に答えた。すると高山からの返答はなくなり、妙な沈黙が生まれる。
「あんたまさかとは思うけど……その女の人と仲良くなるために本を読み始めたわけじゃないでしょうね?」
「え?」
突然耳に届いた質問に、思わずページをめくる手がビクっと止まる。ぎこちなく首を上げれば、すでに相手は雷神様になっていた。言い訳する間も拝む間もなく、怒りの雷が落とされる。
「ほんっと信じられない! 何その不純でふしだらな動機? あんたにしては珍しくここ最近ずっと本を読んでるなって感心してたけど、女性と仲良くなるためのツールとして本を利用してたのね!」
荒れ狂う雷神様のお言葉が、静まり返った図書室に響きわたる。なんだなんだ? と言わんばかりに、テーブルから顔を上げてこちらを見てくる生徒たち。その突き刺さるような視線と、すぐにでもこの場から逃げ出したい衝動に、俺は慌てて高山に向かって両手を広げた。
「ちょ、ちょっと待てって! 何もそんな理由で本を読み始めたわけじゃ……」
「じゃあどういう理由なのよ?」
「……」
二発目の雷が頭に落ちてきそうな勢いで質問してくる高山に、俺は一瞬口ごもる。そしてゴクリと唾を飲み込むと、とりあえずその場しのぎの言い訳を口にする。
「か……かしこくなるために……」
もうその答えが、賢くなかった。目の前にいる相手が大きなため息を漏らす。
「ダメだわ……あんたみたいな不衛生な人間に、神聖で清らかな本を貸し出すわけにはいかないわ」
高山はそう言うと、ぐいっと無理やり俺の読んでいた本を取り上げて、あろうことか勝手にバーコードをスキャンして『貸出中』から『返却済』へと切り替える。「おい!」の後に続きの言葉を発する間もなく、さっきまで手元にあった希美さんとの繋がりは、無残にも棚戻し用のカゴの中へと入れられてしまう。
「ちょっと待てよ高山! いくら何でも……」
「ムリです。あなたの潔白が証明されるまでは本の貸し出しを禁止させて頂きます」
「貸し出し禁止って……俺は図書委員だぞ!」
「だからよ! 図書委員であるなら、全校生徒の模範となるような本の借り方をしないといけないの。姿勢は正しく、常に清らかな心で読みたい本に手を伸ばすべし。それが我々、図書委員が持つべき信条よ!」
「……」
こいつ、変な宗教にでも入ってんじゃないかって本気で思った。あまりにもひどい仕打ちに、胸の裏側でぐっと怒りの感情がこみ上げてくる。でも、高山相手ではもちろん言い出せない。
結局あらぬ疑いは晴れぬまま、図書委員でありながら何故か本が借りれないという謎の禁止令が出てしまった。が、仕事はしっかりとやらされたばかりか、「罰として本棚掃除!」といつもの業務が終わった後に命じられてしまい、一人居残る羽目になってしまったのだ。
「ほんとあいつメチャクチャだよな……」
校舎を出ると、黄昏はいつの間にか闇色に変わっていた。そんな空を何となく見つめんがら、暗くなった道を歩く。
「もう助からないみたいよ……」
「やだわね……そういえばうち旦那の実家も」
ふと聞こえた通行人の言葉に、ドクリと心臓が跳ねた。違う、希美さんのことじゃない。そう頭で考えるも、心には黒いものが渦巻く。そんな感情から目を逸らすかのように頭を上げる。ぎゅっと細めた視線の先には、彼女が入院している病院が、闇空の中にぼんやりと浮かんでいた。