希美さんと図書室で再会を果たした日を境に、俺は文字通り『本の虫』となった。
恋愛、ファンタジー、ミステリー……希美さんが勧めてくれた本は片っ端から借りていき、そして時間があれば読むようにした。目的はもちろん、彼女に喜んでもらうためだ。
ただ、図書委員のくせに普段活字と接していないので読むペースは非常に遅い。それに、小説の物語の中に足を踏み入れていたはずが、いつの間にか夢の世界へと旅立っていることも多々ある。それでも俺は、少しでも希美さんとの会話を楽しみたくて、常に片時も離さず本を持ち歩いていた。
「ちょっと学、晩御飯のときぐらい本を読むのはやめなさい!」
右手に箸、左手に文庫本を握っていると、母の怒鳴り声が聞こえてきた。「うん……」と返事をしながらも、もうすぐ殺人事件の犯人がわかりそうなので視線は文字から離れない。するとページをめくろうとした瞬間、突然左手から本が消える。
「あんたね、お母さんの言うことちゃんと聞きなさいよ!」
そう言って目の前にいる姉は、キリッと目を細めて睨んできた。その手には、ミステリーという名の人質が握られている。「返せよ!」と声を張るも、「まずは食べろ!」と親子のハモった声が返ってきた。
「だいたいあんた、なんで最近そんな本ばっか読んでんのよ。気持ち悪い」
「気持ち悪いってなんだよ。俺は図書委員だぞ!」
この前希美さんに褒めてもらったおかげが、いつもより自信を持って自分の役職を伝えることができた。が、相手は「図書委員とかダッサ!」とばっさり切り捨ててくる。その言葉の鋭さに、思わず箸先から茄子がポロリと落ちた。
「図書委員でそんなに威張れるんだったら、私なんて中高六年通して風紀員だったわよ」
姉はそう言うと、ふんと鼻を鳴らして口の中へと大きな唐揚げを放り込む。そのワイルドな食べっぷりに、思わず心の中で呟く。
こんな人が風紀委員をやってた学校なんて、ただの無法地帯だろ。
そんなことを思いながら、麦茶の入ったグラスに口をつけた時、コツンと元風紀委員が右足の弁慶を蹴ってきた。
「いって!」と俺は思わず口に含んだ麦茶を吹き出す。
「こら! 汚いでしょ」
ペシンと今度は隣に座っている母親が頭をはたいてきた。「だってねーちゃんが……」とすぐさま言い訳をしようとするも、「あんたが素直にお母さんの言うこと聞かないからでしょ」と姉のほうが先に自分の無実を主張する。
「……」
黙ったまま目を細めて相手を睨めば、「それになんか腹たつ顔してたし」とまさかの一言。この家での俺のポジションは限りなく低そうだ。そんな不満を声には出さず、口に含んだ白米と一緒に飲み込む。
くそ……今に見てろよ。
このまま読書家になって、こんな姉よりも立派な大学に行ってやる。俺は心の中でそう呟くと、力強く箸を握りしめた。
「おい藤川。お前……最近、頭大丈夫か?」
なんだか昨夜の夕食の会話を思い出すような台詞が頭上から聞こえた。開いていた本を机に置いて顔を上げると、目の前には宮野と樋口の姿。怪訝そうに自分のことを見ている二人に、「何がだよ」と俺は呆れたようにため息をもらす。
「何がだよってお前、ここんとこずっと本ばっかり読んでんじゃん」
そう言って宮野がくいっと眼鏡をあげる。その隣では「そうそう」と樋口が頷く。
「急に読書に目覚めたから、俺たち心配してるんだよ。もしかして、変な薬でも飲まされたんじゃないかって」
「あのなー……」
どこまで本気でどこまで冗談なのかわからない樋口の言葉に、俺はさらに大きなため息をつく。そういえば先日も昼休みに夏目漱石を読んでいたら、樋口たちは俺が登校してくる時に車に頭をぶつけられたと心配していたらしい。そんな話しも思い出し、思わず眉間に寄せた眉毛がピクリと動く。
姉貴といいコイツらといい、一体自分にどんなイメージを持っているのだろう?
そんなことを思いながら黙っていると、突然廊下からうるさい笑い声が聞こえてきた。そして、教室の扉が勢いよく開く。
下品な笑い声と共に教室に入ってきたのは草間とその子分、そして派手な女子たちだった。どうやらさらに子分を集めに来たようで、同じクラスにいる似たような男子に話しかけている。その光景を見て、俺は再びため息をついた。
またうるさいやつらがきた……
冷めた視線で彼らの様子を見ていると、どうやら周りのクラスメイトも同じことを思っているのか、怪訝そうな表情を浮かべている。
「おう、宮野!」
前の席でバカ騒ぎしていた草間がこちらに向かって手を挙げた。その言葉に、「よお」と宮野は同じように返事を返す。本来であれば自分たちのグループなんて、彼らに搾取されるような存在なのだけれど、宮野がいるおかげで均衡が保たれている。そういう意味では、宮野のことは凄いと思う。もちろん口では絶対に言わないけれど。
「ほんとあいつらバカだよな」
楽しそうに騒いでいる草間たちを見て、宮野がクスリと笑った。口ではそう言っているが、どうやら見ているのを楽しんでいるようだ。
「あーあ、草間といい同じように騒いでる女子といい、もう少し大人になれないのかよ」
ため息混じりにそう呟くと、「お前が言うなよ」と宮野と樋口が笑う。何だと! と唇を尖らせて言えば、宮野がニッと口端を上げる。
「でもせっかく高校生やってるなら、あんな風に女子と一緒にバカ騒ぎできるほうが羨ましくないか?」
自分とは違ってクラスの女の子とも仲が良い宮野が、余裕たっぷりの口調で言ってきた。その言葉に、一瞬だけ口を噤む。
「べ、べつに羨ましいなんて思ってないって。だいたい俺は……」
話しながら、チラリと前方を見る。そこには、草間と一緒に騒いでいる女子たち。茶髪にピアス。シャツのボタンを外し、大きく開かれた胸元はちょっと気になるけれど、その威圧的な雰囲気と容姿はどことなくうちの姉貴と重なるから怖い。だから、そんなギャルたち見て思う。
俺はやっぱり、希美さんみたいな正統派女子がタイプだ。
水曜日。再びこの日がやってきた。
前回と同じく、六時ピッタリになると図書室に残っている生徒を追い出し、扉を閉めて鍵をかける。いつもと同じはずの行動が、この時ばかりは特別に感じてしまうから不思議だ。
俺は大急ぎで乱れた室内の整理整頓を始めると、いつでも希美さんが来ても大丈夫な状態に整える。
よし、今日もばっちりだ。
そんなことを思い、さっきからうるさく鳴っている心臓を少しでも落ち着かせようと室内を散歩する。前回話しが盛り上がったおかけで、少しは二人っきりで話すことが慣れたかと思いきや、どうやら日があくと元に戻ってしまうようだ。
今日は何を話そう……なんてことを考えていた時、静かな室内に扉をノックする音が響く。
「は、はい!」
その音にビクリと肩を震わせると、慌てて扉まで駆け寄る。そして自分で閉めた鍵を、もう一度この手で外す。ゆっくりと深呼吸をして、扉を開け……
「今日も来たよ!」
「うわっ!」
心の準備が整う前に、目の前で扉が勢いよく開いた。いきなり至近距離に現れた希美さんの姿に、俺は思わず後ろへと飛び跳ねる。そんな自分を見て、彼女がぷっと吹き出す。
「もう、驚き過ぎだよ」
そう言って希美さんはお腹を押さて肩を震わす。またもやってしまった恥ずかしい失態に、俺は顔を赤くすると目線を伏せる。すると希美さんが、「それじゃあ今日も失礼します」と言って、誰もいない図書室へと足を踏み入れた。
図書室の扉を閉めると、さっきまで同じ空間にいたはずなのに、急に違う世界へとやってきたように感じる。
そんなことを思っていると、目の前で希美さんが気持ち良さそうに伸びをした。
「やっぱりこの空気が好きだな」
「この空気?」
その言葉に首を傾げると、両腕を下ろした希美さんがこちらを振り返った。視線が合い、思わず心臓が跳ねる。
「うん。図書室ってなんだか不思議な匂いがしない? 紙の匂いというか、本の匂いっていうか……」
適切な言葉を探すように「うーん」と唸る彼女を見て、俺は鼻から息を吸い込んでみる。たしかに、言われてみれば他の教室とは違う匂いが……
毎日いるとあんまりわかんないな。
図書室にこもり過ぎて鼻が慣れたせいか、それともつまっているのか、はっきりとは違いがわからなかった。眉間に皺を寄せて考え込む自分を見て、希美さんがクスッと笑った。そして彼女はゆっくりと歩き出すとカウンターの中へと入っていく。
「あれ?」
椅子に座るなり、彼女が不思議そうな声を漏らした。その視線はカウンターの上に置かれた一冊の本に向けられる。
「これって……」
本を手に取り呟く希美さんに、俺は慌てて口を開く。
「そ、その本このあいだ希美さんが面白いって教えてくたから今読んでて……」
俺はそう言うと、咄嗟に右手で頭をかいた。べつにやましいことをしているわけではないが、何だがちょっと恥ずかしくなる。そんな俺のことを見て、希美さんが嬉しそうに口端をあげる。
「そうだったんだ。なんかそう言ってもらえるとすごく嬉しい! 私、自分が好きな本とかあんまり人に勧めたことなかったからさ」
ニッ白い歯を見せる彼女。もちろん俺も嬉しくなって鼻をかく。周りの人間には、急に本を読み始めたことを散々バカにされてしまったけれど、こんな風に希美さんが喜んでくれるならやっぱり読んでいて良かった。そう思い、俺は一人で何度も頷く。
「ね、今どの辺りまで読んでるの?」
再び耳に希美さんの声が聞こえて、「え?」と俺は慌てて小説の内容を思い出そうとした。
たしか……、密室で起こった殺人事件の犯人を主人公が見つけて、そいつが男かと思ったら、実は男装していた女の人で……。
頭の中で読み進めているところまで早送りしながら、それを拙い表現で希美さんに伝えていく。
「あーあそこか……。じゃあまだ学くんにはこの話しはできないや」
「えっ、なんですかそれ?」
勿体ぶった口調で言葉を濁す希美さんに、俺はピクリと眉毛を動かす。
「この小説の作家さん。最後のどんでん返しがいつも面白いんだけど、たぶん学くん、ビックリし過ぎて夜眠れなくなるよ」
「え! あの女の人が犯人じゃないんですか?」
「さあ、それはどうでしょう」
そう言って希美さんは、イタズラっぽくニヤリと笑う。自分の顔を見つめて話す希美さんにドキッとしながらも、俺は話しの続きが非常に気になって仕方がない。
「ヒント、何かヒントだけでも!」
「ダメだよ。それは読んだ人のお楽しみ! あー早く学くんとこの話しがしたいなー」
「……」
絶対今日中に読破しよう。晩御飯の時に、姉と母親に怒られたとしても読み切ろう。そして、来週こそは希美さんとこの話しで盛り上がるんだ。もちろん、二人っきりで。
俺は心の中でそう決意すると、右手で作った拳をぎゅっと握る。
「学くんは座らないの?」という声が聞こえてハッと我に戻った俺は、慌ててカウンターの方へと駆けていく。そしてもはや自分の特等席だと言わんばかりに、希美さんの隣へと座った。
「何だが不思議だね」
「えっ?」
さっきよりも近い距離で聞こえてくる希美さんの声に少し動揺しながら、俺は彼女の横顔を見た。その二つの大きな瞳が、ゆっくりと孤を描く。
「ずっと一人でいるとね、私は誰とも繋がってないんだって不安に思うの。実は自分は小説の登場人物と一緒で、読んでくれる人がいなかったら存在しないのと同じなんじゃないかって……。だから、こうやって学くんと話しができたり、自分の勧めた本を読んでもらえるのはすごく嬉しいし、なんだか不思議な感じがする」
「……」
その言葉の意味を、俺は胸の中でそっと考える。自分とは違い、ずっと病室に一人で過ごしている希美さん。たぶん希美さんにとって毎日を生きることは、孤独の中に常に閉じ込められているのと同じなのだろう。自分と同じ世界で、同じ時間の中を生きているのに。
そんなことを思うと、胸の奥がぎゅっと強く握られるような気がした。
「の、希美さん!」
込み上げてくる感情そのままに彼女の名を呼ぶ。「えっ?」と少し驚いた表情を浮かべながら希美さんがこっちを見た。俺はすっと息を吸うと、固く結んでいた唇をゆっくりと開く。
「もっと……もっと希美さんのことや、希美さんが好きな本のこと教えて下さい! 俺、希美さんのこと……全部知りたいです!」
恥ずかしさよりも衝動の方が勝ったのか、希美さんの目を真っ直ぐに見つめながら俺は言った。嘘偽りのない、自分の本心を。すると希美さんは目をパチクリとさせたかと思うと、少しだけ顔を伏せた。
「なんか私のこと全部知りたいって言われると、ちょっと恥ずかしいなぁ」
珍しく頬を赤くする希美さんのことを見て、ハッと我に返った俺は慌てて口を開く。
「ち、違うんです! その、変な意味じゃなくて……なんかこう、希美さんの考えていることとか好きな食べ物とか……。だから、その……なんかすいません!」
ぎこちない口調で話せば話すほど、ますます希美さんが顔を伏せていく。どうしよう俺、もしかして変な誤解をされたんじゃ……
そんなことを思って焦っていると、突然希美さんがクスクスと肩を震わせ始めた。それを見て俺は、「へ?」と間の抜けた声を漏らす。
「べつに謝らなくても大丈夫だよ。そんなこと初めて言われたから、ちょっとビックリしちゃった」
そう言いながら希美さんは目にたまった涙を指先で拭う。冷静になればなるほど、自分で言ってしまった言葉に今更恥ずかしくなってきて、今度は俺の方が顔を伏せる。
「私も、学くんのこともっと色々と知りたいな」
「え?」
恥じらいと後悔で胸がいっぱいになりそうだった時、思わぬ希美さんの言葉に慌てて顔を上げた。すると目の前の相手が、ニコッと微笑む。
希美さんが……俺のことを知りたいだって?
その言葉の意味を考えれば考えるほど、顔が火を噴きそうなほど熱くなっていく。
「お、俺なんて希美さんに知ってもらうほど大した人間じゃないですよ! 面白いとこなんて一つもないし……」
返答に困り、両手を慌ただしく振りながらそう伝えた時、思わず右手をカウンターに置いてあった自分の鞄にぶつけてしまう。まるで動揺している気持ちを表すかのように、鞄は飛び跳ねて、中身を思いっきりぶちまける。汚い字で書かれたノートや、落書きだらけの教科書。しかも、こんな時に限って食べかけだった菓子パンまで姿を現す始末。もっと自分のことを知りたいと言ってもらった直後だけれど、希美さんもこんな部分は知りたくないだろう。
「す、すいません!」と顔を赤くしたまま急いで教科書を拾い上げると、はらりと一枚のざら半紙が抜け落ちた。「何か落ちたよ」と笑っていた希美さんがそれを拾った時、ふっと彼女の顔から笑顔が消えた。
「これって……」
読みかけだった本を見つけた時よりも、希美さんが2トーン低い声で呟いた。なんとなく嫌な予感がした俺は、恐る恐るその紙をのぞく。すると、最初に視界に飛び込んできたのは『0』の数字。
まさか……
ぎょっとした表情のまま固まっている希美さんの右手から、慌てて紙を抜き取ると、その中身を確認する。案の定、それは五教科七科目の中で最も苦手とする数学の小テストだった。
「こ、これは違うんです!」と咄嗟に言い訳をしようと口を開くが、続く言葉が出てこない。樋口のテストが紛れこんだことにしようかと一瞬思いつくも、名前の欄には間違いなく『藤川学』と汚い字で書かれている。
飛んだ災難だ……穴があったら隠れたい……
あまりの情けなさと恥ずかしさに希美さんの顔を見ることができず、小テストで視界を遮っていると、突然ぷっと吹き出す声が耳に届く。ゆっくりとざら半紙を鼻のあたりまで下げれば、目の前で希美さんがお腹を押さえて笑っている。あれだけ勢い余って希美さんにカッコつけるようなことを言ったばかりなのに、これじゃあまるでカッコがつかないじゃないか。
ふるふると唇だけ震わせて、どうやってこの場を切り抜けようかと考えていた時、自分の失態を丸ごと包んでくれるような希美さんの優しい声が聞こえた。
「それじゃあ今度、図書室に連れて来てくれたお礼に私が勉強教えてあげよっか?」
「え! ほんとですか!」
ガタン、と大きな音を鳴らして思わず立ち上がると、「う、うん……」と希美さんは少し驚いたように目をパチクリとさせていた。てっきり頭の悪さがバレてしまって嫌われたのかと思ったけれど、まさかの展開だ。ただでさえこうやって希美さんと二人っきりっで会えるだけでも奇跡なのに、勉強まで教えてもらえるなんて……
一人で何度も頷きながら喜びを噛み締めていると、ふふっと希美さんの笑い声がまた聞こえてきた。
「私よりも学くんの方がやっぱり面白いよ」
「……」
本当はもっと胸を張れるようなことで褒めてほしい。そんな願望を喉の奥で転がすも、まあでも、希美さんが笑ってくれるならそれもまた良しとしよう。
それからも毎週水曜日になると、希美さんは本当に図書室へとやってきてくれた。時間も二人っきりになれる時間からで、その度に俺は大急ぎで図書委員としての仕事を終わらし、完璧な状態で彼女を迎え入れた。
希美さんとの会話はいつも大盛り上がりで、勧めてもらった本の感想について話すこともあれば、俺が普段姉や友人たちからどんな仕打ちを受けているかについて報告することも。特にゴミ袋を自分の部屋に捨てられた時の話しは希美さんのお気に入りのようで、事あるごとに、「先週は大丈夫だった?」と笑いながら聞いてくるので、そこはちょっと困った話しだ。それでも俺は、自分の話しで希美さんが喜んでくれることが嬉しくて、どんな些細なことでも面白おかしく話していた。それがきっと、自分が希美さんに対してできる、彼女の世界を広げる方法だと思ったから。
「うーん、ここは先にカッコを取ってから計算しないとダメだよ」
二人っきりの図書室のテーブルに広げたノートを指差しながら、希美さんが言った。その言葉に俺は、慌てて自分で書いた計算式を見る。
「……ほんとだ、間違ってる」
汚い字で余計に分かりづらくなっているが、希美さんのご指摘通り、自分が導き出した答えは間違っていた。
「学もまだまだダメだなー」と希美さんはそんな俺を見て、楽しそうに笑っている。こうやってせっかく勉強を教えてもらっているのに、カッコを取ることができなかったのは非常に悔しいが、いつの間にか『君付け』が取れているぐらい仲良くなれたことは非常に嬉しい。ただ……自分の方は相変わらず『希美さん』なのだけれど。
次の目標は「希美」と呼べる関係になることだ。
計算式を見つめるふりをしながら、違う課題にうんうんと力強く頷いていると、ふいに希美さんの声が聞こえてきた。
「学はさ、将来やってみたいこととかあるの?」
「え?」
慌ててハッと我に戻って顔を上げると、くるんとしたまつ毛を上げて希美さんが微笑んでいた。そんな姿を見るだけで、両頬が熱を持つ。
「い、いや……特にはないですね」
見惚れてしまっていたことを隠すように、俺はぎこちなく口を開く。すると希美さんが、「そっか」と小さく呟いた。こんな時、すかさず「国家公務員」と即答できる宮野が羨ましい。
いやまてよ……大人っぽい男性を目指すならバーテンダーとかの方がいいのか?
そんな問答を一人頭の中を繰り返していると、相手が黙り混んでしまったので、俺は慌てて口を開いた。
「の、希美さんは何かあるんですか?」
同じ質問をする自分に、「私?」と希美さんが自分の顔を指差す。「そうだな……」と考えるように希美さんは声を漏らすも、その表情がどことなく曇って見えた。いつもとは違う希美さんの様子に、胸の奥でざわりと何かが動く。それはこうやって楽しい時間を過ごしている裏側にある、もう一つの現実。
ぎゅっと唇を結んだままの希美さんを見て、再び俺は口を開いた。
「の、希美さんなら小説家とかもなれそうですけどね!」
その言葉に、「え?」と彼女が少し驚いた顔をする。
「だって希美さん、本が好きでたくさん読んでるじゃないですか。それに……希美さんがもし本を書いたら、俺も読んでみたいです」
「……」
本当は「俺が一番初めに読みます!」とカッコいいことを言いたかったが、もちろん言える度胸はない。それでも、今自分が伝えられる言葉を精一杯気持ちを込めて伝えると、希美さんの口元がふっと軽くなった。そして、明るい声が聞こえてくる。
「じゃあもし私が小説家になった時は……学が一番最初に読んでね」
「も、もちろんです!」
ニコリといつもの笑顔で言ってくれた希美さんの言葉に、俺はこれでもかと言わんばかりに大きく首を振って答えた。希美さんが書く物語なら、きっとどんな話しでも面白いに違いない。
図書委員であることに誇りとやる気を感じるのは、基本的に水曜日の時だけであって、そのほかの曜日はやっぱり干からびていた。希美さんに会えない図書室なんてスクリーンのない映画館のようなもので、ただ意味もなく時間を過ごしているような感じだった。
それでも俺は、そんな時間を少しでも有効的に使おうと思って、図書室のカウンターに座っている間も、隙あらば読書を続けていた。おかげで最近はだいぶ活字にも慣れてきて、画数が多い漢字を見ても、吐き気がしなくなった。
「喜びなさい、藤川」
右手でページをめくろうとした時、唐突に図書室の女王様の声が聞こえてきた。「え?」と胸騒ぎを感じながら首を動かすと、眼鏡のレンズを光らせながら「ふふふ」と高山が不敵な笑みを浮かべている。
「なんとこの度、この図書室にある本が大きくリニューアルされることになりました!」
そう言って力強く右手の拳を握る彼女に、「そ、そうなの?」と俺はとりあえず返事を返す。
「なによーその冷めたリアクション。もっとこう喜び方ってもんがあるでしょ。『ほんとに!』とか『これで人生悔いなし!』とか」
いやそんなこと言われても……と思うも、口にすると怒られそうなので、心の中だけでそっと呟く。それに、図書室の本がリニューアルされるだけで人生終わってしまえば、絶対悔いしか残らないだろ。
「良かったね」と取ってつけたような言葉を口にすると、「ほんとアンタは干し椎茸みたいにシケた男ね」となんだか早口言葉みたいな悪口が返ってきた。
「あのね、こんな機会滅多にないんだよ? 今まで定期的に新書は何冊か入れることがあったけど、今回は半分以上の本棚を……」
「あーもうわかったよ! すいませんでした、リアクションが下手くそで。以後気をつけます」
物語が面白くなったところで読書を邪魔されたばかりか、意味不明な悪口まで言われてしまい、俺は少し苛立った口調で相手の話しを区切った。すると、それ以上に苛立った声で、高山の言葉が返ってきた。
「もう! せっかくあんたも最近本を読むようになって喜ぶと思って話してるのに、何その態度!」
ピシャリと勢いよく襖を閉めるような口調に、「す、すいません!」と反射的に謝ってしまう。……きっとこういうところが、俺のダメな部分なのだろう。
そんなことを思う自分にさらに追い討ちをかけるように、再び高山の鋭い声が届く。
「本の入れ替えは来月最初の土曜日の予定だから、その日は絶対予定空けといてよね!」
「え……」
その言葉に、思わず嫌そうな表情を浮かべると、「なんか文句でもあんの?」と雷神様の顔をした高山が言ってきた。「い、いえ……」と咄嗟に視線を逸らして顔を伏せると、バレないようにため息をつこうとする。と、その時。ふとある考えが頭の中に浮かんだ。
待てよ……新しい本がたくさん入ってくるってことは、希美さんも喜んでくれるのではないか?
そうだ、きっとそうに違いない! 高山の発言のせいで曇っていた心に、今度は希美さんという希望の光が差し込む。俺は「ふふふ……」とさっきの高山のような不敵な笑い声を漏らすと、ゆっくりと顔を上げた。
「任せろ高山。ばっちり入れ替え手伝うよ!」
「……」
突然やる気になって親指を立てる自分に、なぜか高山は怪訝そうな表情を浮かべた。そして、きゅっと横一直線に結んでいた口を静かに開く。
「まさかとは思うけど……そのやる気の裏側に、変な下心とはないわよね?」
「……」
ありません、とワンテンポ遅く返答した自分の言葉を、結局図書委員の長が信じてくれることはなかった。
恋愛、ファンタジー、ミステリー……希美さんが勧めてくれた本は片っ端から借りていき、そして時間があれば読むようにした。目的はもちろん、彼女に喜んでもらうためだ。
ただ、図書委員のくせに普段活字と接していないので読むペースは非常に遅い。それに、小説の物語の中に足を踏み入れていたはずが、いつの間にか夢の世界へと旅立っていることも多々ある。それでも俺は、少しでも希美さんとの会話を楽しみたくて、常に片時も離さず本を持ち歩いていた。
「ちょっと学、晩御飯のときぐらい本を読むのはやめなさい!」
右手に箸、左手に文庫本を握っていると、母の怒鳴り声が聞こえてきた。「うん……」と返事をしながらも、もうすぐ殺人事件の犯人がわかりそうなので視線は文字から離れない。するとページをめくろうとした瞬間、突然左手から本が消える。
「あんたね、お母さんの言うことちゃんと聞きなさいよ!」
そう言って目の前にいる姉は、キリッと目を細めて睨んできた。その手には、ミステリーという名の人質が握られている。「返せよ!」と声を張るも、「まずは食べろ!」と親子のハモった声が返ってきた。
「だいたいあんた、なんで最近そんな本ばっか読んでんのよ。気持ち悪い」
「気持ち悪いってなんだよ。俺は図書委員だぞ!」
この前希美さんに褒めてもらったおかげが、いつもより自信を持って自分の役職を伝えることができた。が、相手は「図書委員とかダッサ!」とばっさり切り捨ててくる。その言葉の鋭さに、思わず箸先から茄子がポロリと落ちた。
「図書委員でそんなに威張れるんだったら、私なんて中高六年通して風紀員だったわよ」
姉はそう言うと、ふんと鼻を鳴らして口の中へと大きな唐揚げを放り込む。そのワイルドな食べっぷりに、思わず心の中で呟く。
こんな人が風紀委員をやってた学校なんて、ただの無法地帯だろ。
そんなことを思いながら、麦茶の入ったグラスに口をつけた時、コツンと元風紀委員が右足の弁慶を蹴ってきた。
「いって!」と俺は思わず口に含んだ麦茶を吹き出す。
「こら! 汚いでしょ」
ペシンと今度は隣に座っている母親が頭をはたいてきた。「だってねーちゃんが……」とすぐさま言い訳をしようとするも、「あんたが素直にお母さんの言うこと聞かないからでしょ」と姉のほうが先に自分の無実を主張する。
「……」
黙ったまま目を細めて相手を睨めば、「それになんか腹たつ顔してたし」とまさかの一言。この家での俺のポジションは限りなく低そうだ。そんな不満を声には出さず、口に含んだ白米と一緒に飲み込む。
くそ……今に見てろよ。
このまま読書家になって、こんな姉よりも立派な大学に行ってやる。俺は心の中でそう呟くと、力強く箸を握りしめた。
「おい藤川。お前……最近、頭大丈夫か?」
なんだか昨夜の夕食の会話を思い出すような台詞が頭上から聞こえた。開いていた本を机に置いて顔を上げると、目の前には宮野と樋口の姿。怪訝そうに自分のことを見ている二人に、「何がだよ」と俺は呆れたようにため息をもらす。
「何がだよってお前、ここんとこずっと本ばっかり読んでんじゃん」
そう言って宮野がくいっと眼鏡をあげる。その隣では「そうそう」と樋口が頷く。
「急に読書に目覚めたから、俺たち心配してるんだよ。もしかして、変な薬でも飲まされたんじゃないかって」
「あのなー……」
どこまで本気でどこまで冗談なのかわからない樋口の言葉に、俺はさらに大きなため息をつく。そういえば先日も昼休みに夏目漱石を読んでいたら、樋口たちは俺が登校してくる時に車に頭をぶつけられたと心配していたらしい。そんな話しも思い出し、思わず眉間に寄せた眉毛がピクリと動く。
姉貴といいコイツらといい、一体自分にどんなイメージを持っているのだろう?
そんなことを思いながら黙っていると、突然廊下からうるさい笑い声が聞こえてきた。そして、教室の扉が勢いよく開く。
下品な笑い声と共に教室に入ってきたのは草間とその子分、そして派手な女子たちだった。どうやらさらに子分を集めに来たようで、同じクラスにいる似たような男子に話しかけている。その光景を見て、俺は再びため息をついた。
またうるさいやつらがきた……
冷めた視線で彼らの様子を見ていると、どうやら周りのクラスメイトも同じことを思っているのか、怪訝そうな表情を浮かべている。
「おう、宮野!」
前の席でバカ騒ぎしていた草間がこちらに向かって手を挙げた。その言葉に、「よお」と宮野は同じように返事を返す。本来であれば自分たちのグループなんて、彼らに搾取されるような存在なのだけれど、宮野がいるおかげで均衡が保たれている。そういう意味では、宮野のことは凄いと思う。もちろん口では絶対に言わないけれど。
「ほんとあいつらバカだよな」
楽しそうに騒いでいる草間たちを見て、宮野がクスリと笑った。口ではそう言っているが、どうやら見ているのを楽しんでいるようだ。
「あーあ、草間といい同じように騒いでる女子といい、もう少し大人になれないのかよ」
ため息混じりにそう呟くと、「お前が言うなよ」と宮野と樋口が笑う。何だと! と唇を尖らせて言えば、宮野がニッと口端を上げる。
「でもせっかく高校生やってるなら、あんな風に女子と一緒にバカ騒ぎできるほうが羨ましくないか?」
自分とは違ってクラスの女の子とも仲が良い宮野が、余裕たっぷりの口調で言ってきた。その言葉に、一瞬だけ口を噤む。
「べ、べつに羨ましいなんて思ってないって。だいたい俺は……」
話しながら、チラリと前方を見る。そこには、草間と一緒に騒いでいる女子たち。茶髪にピアス。シャツのボタンを外し、大きく開かれた胸元はちょっと気になるけれど、その威圧的な雰囲気と容姿はどことなくうちの姉貴と重なるから怖い。だから、そんなギャルたち見て思う。
俺はやっぱり、希美さんみたいな正統派女子がタイプだ。
水曜日。再びこの日がやってきた。
前回と同じく、六時ピッタリになると図書室に残っている生徒を追い出し、扉を閉めて鍵をかける。いつもと同じはずの行動が、この時ばかりは特別に感じてしまうから不思議だ。
俺は大急ぎで乱れた室内の整理整頓を始めると、いつでも希美さんが来ても大丈夫な状態に整える。
よし、今日もばっちりだ。
そんなことを思い、さっきからうるさく鳴っている心臓を少しでも落ち着かせようと室内を散歩する。前回話しが盛り上がったおかけで、少しは二人っきりで話すことが慣れたかと思いきや、どうやら日があくと元に戻ってしまうようだ。
今日は何を話そう……なんてことを考えていた時、静かな室内に扉をノックする音が響く。
「は、はい!」
その音にビクリと肩を震わせると、慌てて扉まで駆け寄る。そして自分で閉めた鍵を、もう一度この手で外す。ゆっくりと深呼吸をして、扉を開け……
「今日も来たよ!」
「うわっ!」
心の準備が整う前に、目の前で扉が勢いよく開いた。いきなり至近距離に現れた希美さんの姿に、俺は思わず後ろへと飛び跳ねる。そんな自分を見て、彼女がぷっと吹き出す。
「もう、驚き過ぎだよ」
そう言って希美さんはお腹を押さて肩を震わす。またもやってしまった恥ずかしい失態に、俺は顔を赤くすると目線を伏せる。すると希美さんが、「それじゃあ今日も失礼します」と言って、誰もいない図書室へと足を踏み入れた。
図書室の扉を閉めると、さっきまで同じ空間にいたはずなのに、急に違う世界へとやってきたように感じる。
そんなことを思っていると、目の前で希美さんが気持ち良さそうに伸びをした。
「やっぱりこの空気が好きだな」
「この空気?」
その言葉に首を傾げると、両腕を下ろした希美さんがこちらを振り返った。視線が合い、思わず心臓が跳ねる。
「うん。図書室ってなんだか不思議な匂いがしない? 紙の匂いというか、本の匂いっていうか……」
適切な言葉を探すように「うーん」と唸る彼女を見て、俺は鼻から息を吸い込んでみる。たしかに、言われてみれば他の教室とは違う匂いが……
毎日いるとあんまりわかんないな。
図書室にこもり過ぎて鼻が慣れたせいか、それともつまっているのか、はっきりとは違いがわからなかった。眉間に皺を寄せて考え込む自分を見て、希美さんがクスッと笑った。そして彼女はゆっくりと歩き出すとカウンターの中へと入っていく。
「あれ?」
椅子に座るなり、彼女が不思議そうな声を漏らした。その視線はカウンターの上に置かれた一冊の本に向けられる。
「これって……」
本を手に取り呟く希美さんに、俺は慌てて口を開く。
「そ、その本このあいだ希美さんが面白いって教えてくたから今読んでて……」
俺はそう言うと、咄嗟に右手で頭をかいた。べつにやましいことをしているわけではないが、何だがちょっと恥ずかしくなる。そんな俺のことを見て、希美さんが嬉しそうに口端をあげる。
「そうだったんだ。なんかそう言ってもらえるとすごく嬉しい! 私、自分が好きな本とかあんまり人に勧めたことなかったからさ」
ニッ白い歯を見せる彼女。もちろん俺も嬉しくなって鼻をかく。周りの人間には、急に本を読み始めたことを散々バカにされてしまったけれど、こんな風に希美さんが喜んでくれるならやっぱり読んでいて良かった。そう思い、俺は一人で何度も頷く。
「ね、今どの辺りまで読んでるの?」
再び耳に希美さんの声が聞こえて、「え?」と俺は慌てて小説の内容を思い出そうとした。
たしか……、密室で起こった殺人事件の犯人を主人公が見つけて、そいつが男かと思ったら、実は男装していた女の人で……。
頭の中で読み進めているところまで早送りしながら、それを拙い表現で希美さんに伝えていく。
「あーあそこか……。じゃあまだ学くんにはこの話しはできないや」
「えっ、なんですかそれ?」
勿体ぶった口調で言葉を濁す希美さんに、俺はピクリと眉毛を動かす。
「この小説の作家さん。最後のどんでん返しがいつも面白いんだけど、たぶん学くん、ビックリし過ぎて夜眠れなくなるよ」
「え! あの女の人が犯人じゃないんですか?」
「さあ、それはどうでしょう」
そう言って希美さんは、イタズラっぽくニヤリと笑う。自分の顔を見つめて話す希美さんにドキッとしながらも、俺は話しの続きが非常に気になって仕方がない。
「ヒント、何かヒントだけでも!」
「ダメだよ。それは読んだ人のお楽しみ! あー早く学くんとこの話しがしたいなー」
「……」
絶対今日中に読破しよう。晩御飯の時に、姉と母親に怒られたとしても読み切ろう。そして、来週こそは希美さんとこの話しで盛り上がるんだ。もちろん、二人っきりで。
俺は心の中でそう決意すると、右手で作った拳をぎゅっと握る。
「学くんは座らないの?」という声が聞こえてハッと我に戻った俺は、慌ててカウンターの方へと駆けていく。そしてもはや自分の特等席だと言わんばかりに、希美さんの隣へと座った。
「何だが不思議だね」
「えっ?」
さっきよりも近い距離で聞こえてくる希美さんの声に少し動揺しながら、俺は彼女の横顔を見た。その二つの大きな瞳が、ゆっくりと孤を描く。
「ずっと一人でいるとね、私は誰とも繋がってないんだって不安に思うの。実は自分は小説の登場人物と一緒で、読んでくれる人がいなかったら存在しないのと同じなんじゃないかって……。だから、こうやって学くんと話しができたり、自分の勧めた本を読んでもらえるのはすごく嬉しいし、なんだか不思議な感じがする」
「……」
その言葉の意味を、俺は胸の中でそっと考える。自分とは違い、ずっと病室に一人で過ごしている希美さん。たぶん希美さんにとって毎日を生きることは、孤独の中に常に閉じ込められているのと同じなのだろう。自分と同じ世界で、同じ時間の中を生きているのに。
そんなことを思うと、胸の奥がぎゅっと強く握られるような気がした。
「の、希美さん!」
込み上げてくる感情そのままに彼女の名を呼ぶ。「えっ?」と少し驚いた表情を浮かべながら希美さんがこっちを見た。俺はすっと息を吸うと、固く結んでいた唇をゆっくりと開く。
「もっと……もっと希美さんのことや、希美さんが好きな本のこと教えて下さい! 俺、希美さんのこと……全部知りたいです!」
恥ずかしさよりも衝動の方が勝ったのか、希美さんの目を真っ直ぐに見つめながら俺は言った。嘘偽りのない、自分の本心を。すると希美さんは目をパチクリとさせたかと思うと、少しだけ顔を伏せた。
「なんか私のこと全部知りたいって言われると、ちょっと恥ずかしいなぁ」
珍しく頬を赤くする希美さんのことを見て、ハッと我に返った俺は慌てて口を開く。
「ち、違うんです! その、変な意味じゃなくて……なんかこう、希美さんの考えていることとか好きな食べ物とか……。だから、その……なんかすいません!」
ぎこちない口調で話せば話すほど、ますます希美さんが顔を伏せていく。どうしよう俺、もしかして変な誤解をされたんじゃ……
そんなことを思って焦っていると、突然希美さんがクスクスと肩を震わせ始めた。それを見て俺は、「へ?」と間の抜けた声を漏らす。
「べつに謝らなくても大丈夫だよ。そんなこと初めて言われたから、ちょっとビックリしちゃった」
そう言いながら希美さんは目にたまった涙を指先で拭う。冷静になればなるほど、自分で言ってしまった言葉に今更恥ずかしくなってきて、今度は俺の方が顔を伏せる。
「私も、学くんのこともっと色々と知りたいな」
「え?」
恥じらいと後悔で胸がいっぱいになりそうだった時、思わぬ希美さんの言葉に慌てて顔を上げた。すると目の前の相手が、ニコッと微笑む。
希美さんが……俺のことを知りたいだって?
その言葉の意味を考えれば考えるほど、顔が火を噴きそうなほど熱くなっていく。
「お、俺なんて希美さんに知ってもらうほど大した人間じゃないですよ! 面白いとこなんて一つもないし……」
返答に困り、両手を慌ただしく振りながらそう伝えた時、思わず右手をカウンターに置いてあった自分の鞄にぶつけてしまう。まるで動揺している気持ちを表すかのように、鞄は飛び跳ねて、中身を思いっきりぶちまける。汚い字で書かれたノートや、落書きだらけの教科書。しかも、こんな時に限って食べかけだった菓子パンまで姿を現す始末。もっと自分のことを知りたいと言ってもらった直後だけれど、希美さんもこんな部分は知りたくないだろう。
「す、すいません!」と顔を赤くしたまま急いで教科書を拾い上げると、はらりと一枚のざら半紙が抜け落ちた。「何か落ちたよ」と笑っていた希美さんがそれを拾った時、ふっと彼女の顔から笑顔が消えた。
「これって……」
読みかけだった本を見つけた時よりも、希美さんが2トーン低い声で呟いた。なんとなく嫌な予感がした俺は、恐る恐るその紙をのぞく。すると、最初に視界に飛び込んできたのは『0』の数字。
まさか……
ぎょっとした表情のまま固まっている希美さんの右手から、慌てて紙を抜き取ると、その中身を確認する。案の定、それは五教科七科目の中で最も苦手とする数学の小テストだった。
「こ、これは違うんです!」と咄嗟に言い訳をしようと口を開くが、続く言葉が出てこない。樋口のテストが紛れこんだことにしようかと一瞬思いつくも、名前の欄には間違いなく『藤川学』と汚い字で書かれている。
飛んだ災難だ……穴があったら隠れたい……
あまりの情けなさと恥ずかしさに希美さんの顔を見ることができず、小テストで視界を遮っていると、突然ぷっと吹き出す声が耳に届く。ゆっくりとざら半紙を鼻のあたりまで下げれば、目の前で希美さんがお腹を押さえて笑っている。あれだけ勢い余って希美さんにカッコつけるようなことを言ったばかりなのに、これじゃあまるでカッコがつかないじゃないか。
ふるふると唇だけ震わせて、どうやってこの場を切り抜けようかと考えていた時、自分の失態を丸ごと包んでくれるような希美さんの優しい声が聞こえた。
「それじゃあ今度、図書室に連れて来てくれたお礼に私が勉強教えてあげよっか?」
「え! ほんとですか!」
ガタン、と大きな音を鳴らして思わず立ち上がると、「う、うん……」と希美さんは少し驚いたように目をパチクリとさせていた。てっきり頭の悪さがバレてしまって嫌われたのかと思ったけれど、まさかの展開だ。ただでさえこうやって希美さんと二人っきりっで会えるだけでも奇跡なのに、勉強まで教えてもらえるなんて……
一人で何度も頷きながら喜びを噛み締めていると、ふふっと希美さんの笑い声がまた聞こえてきた。
「私よりも学くんの方がやっぱり面白いよ」
「……」
本当はもっと胸を張れるようなことで褒めてほしい。そんな願望を喉の奥で転がすも、まあでも、希美さんが笑ってくれるならそれもまた良しとしよう。
それからも毎週水曜日になると、希美さんは本当に図書室へとやってきてくれた。時間も二人っきりになれる時間からで、その度に俺は大急ぎで図書委員としての仕事を終わらし、完璧な状態で彼女を迎え入れた。
希美さんとの会話はいつも大盛り上がりで、勧めてもらった本の感想について話すこともあれば、俺が普段姉や友人たちからどんな仕打ちを受けているかについて報告することも。特にゴミ袋を自分の部屋に捨てられた時の話しは希美さんのお気に入りのようで、事あるごとに、「先週は大丈夫だった?」と笑いながら聞いてくるので、そこはちょっと困った話しだ。それでも俺は、自分の話しで希美さんが喜んでくれることが嬉しくて、どんな些細なことでも面白おかしく話していた。それがきっと、自分が希美さんに対してできる、彼女の世界を広げる方法だと思ったから。
「うーん、ここは先にカッコを取ってから計算しないとダメだよ」
二人っきりの図書室のテーブルに広げたノートを指差しながら、希美さんが言った。その言葉に俺は、慌てて自分で書いた計算式を見る。
「……ほんとだ、間違ってる」
汚い字で余計に分かりづらくなっているが、希美さんのご指摘通り、自分が導き出した答えは間違っていた。
「学もまだまだダメだなー」と希美さんはそんな俺を見て、楽しそうに笑っている。こうやってせっかく勉強を教えてもらっているのに、カッコを取ることができなかったのは非常に悔しいが、いつの間にか『君付け』が取れているぐらい仲良くなれたことは非常に嬉しい。ただ……自分の方は相変わらず『希美さん』なのだけれど。
次の目標は「希美」と呼べる関係になることだ。
計算式を見つめるふりをしながら、違う課題にうんうんと力強く頷いていると、ふいに希美さんの声が聞こえてきた。
「学はさ、将来やってみたいこととかあるの?」
「え?」
慌ててハッと我に戻って顔を上げると、くるんとしたまつ毛を上げて希美さんが微笑んでいた。そんな姿を見るだけで、両頬が熱を持つ。
「い、いや……特にはないですね」
見惚れてしまっていたことを隠すように、俺はぎこちなく口を開く。すると希美さんが、「そっか」と小さく呟いた。こんな時、すかさず「国家公務員」と即答できる宮野が羨ましい。
いやまてよ……大人っぽい男性を目指すならバーテンダーとかの方がいいのか?
そんな問答を一人頭の中を繰り返していると、相手が黙り混んでしまったので、俺は慌てて口を開いた。
「の、希美さんは何かあるんですか?」
同じ質問をする自分に、「私?」と希美さんが自分の顔を指差す。「そうだな……」と考えるように希美さんは声を漏らすも、その表情がどことなく曇って見えた。いつもとは違う希美さんの様子に、胸の奥でざわりと何かが動く。それはこうやって楽しい時間を過ごしている裏側にある、もう一つの現実。
ぎゅっと唇を結んだままの希美さんを見て、再び俺は口を開いた。
「の、希美さんなら小説家とかもなれそうですけどね!」
その言葉に、「え?」と彼女が少し驚いた顔をする。
「だって希美さん、本が好きでたくさん読んでるじゃないですか。それに……希美さんがもし本を書いたら、俺も読んでみたいです」
「……」
本当は「俺が一番初めに読みます!」とカッコいいことを言いたかったが、もちろん言える度胸はない。それでも、今自分が伝えられる言葉を精一杯気持ちを込めて伝えると、希美さんの口元がふっと軽くなった。そして、明るい声が聞こえてくる。
「じゃあもし私が小説家になった時は……学が一番最初に読んでね」
「も、もちろんです!」
ニコリといつもの笑顔で言ってくれた希美さんの言葉に、俺はこれでもかと言わんばかりに大きく首を振って答えた。希美さんが書く物語なら、きっとどんな話しでも面白いに違いない。
図書委員であることに誇りとやる気を感じるのは、基本的に水曜日の時だけであって、そのほかの曜日はやっぱり干からびていた。希美さんに会えない図書室なんてスクリーンのない映画館のようなもので、ただ意味もなく時間を過ごしているような感じだった。
それでも俺は、そんな時間を少しでも有効的に使おうと思って、図書室のカウンターに座っている間も、隙あらば読書を続けていた。おかげで最近はだいぶ活字にも慣れてきて、画数が多い漢字を見ても、吐き気がしなくなった。
「喜びなさい、藤川」
右手でページをめくろうとした時、唐突に図書室の女王様の声が聞こえてきた。「え?」と胸騒ぎを感じながら首を動かすと、眼鏡のレンズを光らせながら「ふふふ」と高山が不敵な笑みを浮かべている。
「なんとこの度、この図書室にある本が大きくリニューアルされることになりました!」
そう言って力強く右手の拳を握る彼女に、「そ、そうなの?」と俺はとりあえず返事を返す。
「なによーその冷めたリアクション。もっとこう喜び方ってもんがあるでしょ。『ほんとに!』とか『これで人生悔いなし!』とか」
いやそんなこと言われても……と思うも、口にすると怒られそうなので、心の中だけでそっと呟く。それに、図書室の本がリニューアルされるだけで人生終わってしまえば、絶対悔いしか残らないだろ。
「良かったね」と取ってつけたような言葉を口にすると、「ほんとアンタは干し椎茸みたいにシケた男ね」となんだか早口言葉みたいな悪口が返ってきた。
「あのね、こんな機会滅多にないんだよ? 今まで定期的に新書は何冊か入れることがあったけど、今回は半分以上の本棚を……」
「あーもうわかったよ! すいませんでした、リアクションが下手くそで。以後気をつけます」
物語が面白くなったところで読書を邪魔されたばかりか、意味不明な悪口まで言われてしまい、俺は少し苛立った口調で相手の話しを区切った。すると、それ以上に苛立った声で、高山の言葉が返ってきた。
「もう! せっかくあんたも最近本を読むようになって喜ぶと思って話してるのに、何その態度!」
ピシャリと勢いよく襖を閉めるような口調に、「す、すいません!」と反射的に謝ってしまう。……きっとこういうところが、俺のダメな部分なのだろう。
そんなことを思う自分にさらに追い討ちをかけるように、再び高山の鋭い声が届く。
「本の入れ替えは来月最初の土曜日の予定だから、その日は絶対予定空けといてよね!」
「え……」
その言葉に、思わず嫌そうな表情を浮かべると、「なんか文句でもあんの?」と雷神様の顔をした高山が言ってきた。「い、いえ……」と咄嗟に視線を逸らして顔を伏せると、バレないようにため息をつこうとする。と、その時。ふとある考えが頭の中に浮かんだ。
待てよ……新しい本がたくさん入ってくるってことは、希美さんも喜んでくれるのではないか?
そうだ、きっとそうに違いない! 高山の発言のせいで曇っていた心に、今度は希美さんという希望の光が差し込む。俺は「ふふふ……」とさっきの高山のような不敵な笑い声を漏らすと、ゆっくりと顔を上げた。
「任せろ高山。ばっちり入れ替え手伝うよ!」
「……」
突然やる気になって親指を立てる自分に、なぜか高山は怪訝そうな表情を浮かべた。そして、きゅっと横一直線に結んでいた口を静かに開く。
「まさかとは思うけど……そのやる気の裏側に、変な下心とはないわよね?」
「……」
ありません、とワンテンポ遅く返答した自分の言葉を、結局図書委員の長が信じてくれることはなかった。