夏休みが終わり、カレンダー上では秋へと向かっているはずなのだけれど、相変わらずの蒸し暑い日々は続いていた。そして、相変わらずの自分の日常も。
 それでも未来に向けての種を植えるように、自分の周りで小さな変化は起きていた。家ではねーちゃんが彼氏とよりを戻したようで、「私も海外に行く!」と言って英語の猛特訓を始めている。そのせいで、姉に話しかける時は日本語禁止という謎のルールができてしまったいるので、同居人としては勘弁してほしいところだ。
 樋口に関しては、最近ダイエットを始めたらしい。理由は、あの本を一緒に探してくれていた時に、休憩がてらに入ったハンバーガーショップで可愛い女の子を見つけたらしい。何とかしてその子を振り向かせたい一心で、ジムまで通っているのだから相当本気なのだろう。ただ、その子に会うために週五でハンバーガーショップにも通っていると謎の自慢もしていたので、本当に痩せるのかどうかは、今のところ定かではない。
 宮野については、国公立大学を目指すということで、夏休みから本格的に予備校に通い始めた。もともと頭が良くて成績も良いので、たぶん推薦でも早々にとって有名な大学に行くのだと思う。進路の『し』の字も考えていない自分や樋口と違って、中学生の頃から国家公務員を目指している彼は、何事も計画的に準備をしているのだ。
 それと、宮野のおかげなのかどうかはわからないが、草間とはあの図書室の一件以来、関わってくることは無くなった。俺みたいなやつが草間とケンカをしたということで、しばらくの間有名人のようになっていたのだが、そのブームも夏休みが過ぎれば終わっていた。廊下でたまに草間一派と出会うと睨まれることもあるのだが、以前とは違い俺も顔を伏せることは無くなったので、少しは心が強くなったのだと思う……たぶん。
 そんな感じで、毎日同じように繰り返している高校生活も、未来に向かって少しずつ変化していた。そして、俺自身も……

「へぇ、あんたが小説書いてるなんて珍しいじゃない」
「うわっ!」 
 真剣に目の前のページに向き合いながらペンを走らせていた時、突然隣から声が聞こえてきて思わず飛び上がる。慌てて顔を向けると、視線の先では図書室の女王さまが面白そうにくつくつと喉を鳴らしていた。
「何もそんなにビックリすることないじゃない」
「……」
 赤いメガネをくいっとあげながら、楽しそうに自分のことを見てくる彼女に、俺は白けた視線を送る。夏休みが過ぎても……というより、高山とは卒業するまでこの関係が変わりそうにない。
 そんなことを思い、小さくため息を吐き出すと、カウンターの上に広げていた本をそっと閉じる。タイトルも、作家名も書かれていない白い本を。
 それを自分の鞄の中へと入れようとした時、突然視界の隅から高山の腕が伸びてきた。そして、俺が右手に持っていた本をぐいっと奪い取る。
「おい、返せよ!」
 慌てて自分も腕を伸ばすも、「いいじゃんべつに」と相手は身体をさっと後ろに向ける。チラリと見えたカウンターの向こう側では、「なんだなんだ?」と言わんばかりに、本を読んでいた宮野と樋口が興味津々で顔を上げてこっちを見ていた。
「えーと、なになに……『ある日俺が図書室で寝ていると……』」
「だから返せって」
 小声で人の文書を読もうとする高山の両手から、俺は本を奪い返す。すると相手は、「もう」となぜか唇を尖らしてくる。
「ちょっと、なんで図書委員の長である私に見せてくれないのよ」
「いや……べつに図書委員とか長とか関係ないでしょ」
 俺はそう言うと、高山にまた本を奪われないように、素早く鞄の中へとなおす。それでも相手は諦めていないようで、レンズ越しに見える目を細めながら、奪い取ろうとするチャンスを伺っている。
「さては……そんなに慌てて隠すところみると、小説と見せかけたラブレターとか?」
 さっきまで尖らせていたはずの唇を、今度はニヤリと形を変える。ついでに眼鏡をくいっと上げる彼女に、「ち、違うって!」と俺は思わず声をあげる。すると視線をずらした時に目が合った宮野が「しー」と人差し指を立ててきた。
「……」
 かつて図書室を守った立派な相棒をおちょくることがそんなに楽しいのか、高山はお腹を押さえると声を殺して笑っていた。そんな彼女に背を向けるように、俺はどさっとふ再び自分の席へとお尻をつける。視線の先には、チャックが開いた鞄から、取り返したばかりの本がチラリと見えていた。それを鞄の奥のほうへと押し込むと、今度じはしっかりとチャックを閉める。はあとため息をつくと、姿を消した本の代わりに、読みかけだった小説へと手を伸ばす。そして、パラパラとページをめくった。
 あれからも、読書は続けている。
 希美さんが教えてくれた本はもちろんのこと、自分が興味を持った本や、偶然本屋さんで見つけたものも。教科書や参考書を開けることにはいまだに抵抗があるが、希美さんに
勉強を教えてもらったおかげか、数学だけはちょっぴり好きになった。今はもう、親身になって教えてくれる人はいないのだけれど。
 そしてそんな生活を送りながら、俺は今『物語』も書いている。
 べつに小説家を目指しているとかそんな大それたことではないけれど、あの日々のことを少しでも形に残そうと思ったのだ。自分の目の前だけに起こった奇跡を。希美さんと過ごした、かけがえのない日々を。たぶん、誰かに話したところで信じてもらえないし、特に信じてもらう必要もない。でも自分にとってあの時経験したことは、間違いなく本当に起こったことで、それはこれからもずっと変わることはない。もちろん、色褪せることも。
 希美さんがいつか屋上で言っていたように、この先俺は色んな人に出会って、色んな場所に訪れるだろう。恋をできる気は今のところまったくしないけれど、それはまあ、今後の流れに任せることにしよう。
 でも、これだけは強く思う。
 たとえこれから先、自分がどんなにたくさんの思い出を作ったとしても、どんなにたくさんの未来を歩んだとしても、やっぱり心はまたいつか、この場所に戻ってくると思う。希美さんと初めて出会った、この図書室に。
 たぶんそれが、自分にとっての目印なのだ。もしもこの先道に迷うことがあったとしても、壁にぶつかって自分を見失いそうになったとしても、ここに戻ってくれば大丈夫だと。
 どんなに遠い場所にいても、どんなに時間が過ぎ去ったとしても、一番大切にしているものはここにあると教えてくれる目印。本に挟んだ栞が、いつだって物語の続きを思い出させてくれるように。
 だから、いつかまた彼女に会える時があれば、その時続きを話そうと思う。あれから自分がどんな世界を見てきて、どんな風に変わってきたのかを。きっと希美さんのことだから、クスリと笑いながら喜んで話しを聞いてくれるだろう。
 だからそれまでは、忘れないように自分の物語を書き続けていこうと思う。そして彼女と再会できたときは、あの時と同じように、時間も忘れていつまでも話そうと思う。
 二人の『栞』を挟んだ、この場所で。