美保は好きな芸能人のSNSを徘徊し尽くした後、大きく背伸びをした。
机の上にはまだ片付けられていない宿題が並べられているが、残された数学に手をつけることを億劫に感じていた。美保は数学が苦手だ。三年生になれば、私立文系大学へ進学希望ゆえに数学から少しは解放されるとは思うけれど、来年の話をしても仕方がない。今はとにかく、目の前の問題集を片付けなければならない。そう頭ではわかっていても、嫌だなと思ったときの九割は逃避に走ってしまうのだ。
今日も例に漏れず、美保はつけっぱなしにしていたノートパソコンの前に戻った。パソコンは高校入学前の春休みに父親にねだって買ってもらったものだ。進学校に合格したことに対するご褒美兼、真面目な娘に限っておかしなことには使わないだろうという、父親の信頼から勝ち取った戦利品である。
同級生のケイコにメッセージを送った。
ミホ《真衣ちゃんの動画見て現実逃避してたらまんず、宿題進まねーべ》
五分もしない内に返信が来た。
ケイコ《おめ、そっだら言葉遣いしてコメントしたんじゃねーべな? 東京さいっだら馬鹿にされっぜ?W》
ミホ《バリヤバー☆ 超頑張る! ギャルになって帰ってきちゃおうかな~?》
ケイコ《その言葉遣いも合ってんのか、おらじゃ判断できねえから悔しいじゃW》
青森県の田舎町で生まれ育った美保は、東京に憧れていた。同級生たちとはいつも自分たちの住んでいる場所がいかに田舎かを卑下して笑い、テレビと雑誌、インターネットで得た東京の店や芸能人、お洒落の情報交換に励んでいる。美保は高校を卒業したら絶対にこの町を出て東京の大学へ行こうと、ずっと前から決めていた。
ケイコ《そんだ、美保って「新宿駅の死神」の噂知ってっか?》
随分と恥ずかしい名前が噂になっているらしい。美保は素直に《知らね》と返信した。
ケイコ《人間の願いを叶えてくれる神様だってよ。死神なのに願いを叶えるってよくわがんねえけど、今ネット上で噂だけが広がってんだず》
ミホ《死神て響きはおっかねえな。でもおらには関係ねえべ。少なくともあと一年は青森で高校生だし、東京の大学に受かったときに覚えてたら、探してみるかなW》
その後少しだけメッセージのやりとりをした後、美保はしぶしぶパソコンを落とし数学の宿題を片付けてから、眠りについた。
☆
青森の冬は寒いというレベルではない。一時間前からおはようタイマーでストーブをつけているのにもかかわらず、布団から出るのに相当の気合と勇気がいるのだ。美保は悲鳴をあげながら身支度を済ませ、朝ご飯を胃に詰め込み素早く家を出た。
アイスバーンで凍った道路を車で走る雪国の大人たちは、雪道を走る術を心得ている。十七年間この町で生きている美保も、転ばない程度の最大速度で、白い息を吐きながら固くなった雪を踏みしめて上手く歩いて学校へ向かった。
美保は毎朝、必ず顔見知りの町人たちに声をかけられる。角の駄菓子屋のタミおばちゃんに、いつも雪かきしている権ジイ、煙草臭い派出所の安井さん。人口二万人のこの町では少子高齢化が進んでおり、若者は地域ぐるみで大切にされていることを、美保は子どもながらに感じていた。
「東京の大学さ行っても、いずれはここさ帰って来てけろな?」
大人たちにはよく言われるが、美保は東京へ出たら戻る気なんてなかった。一刻も早くここから出たい気持ちをモチベーションに勉強に励んでいるのだ。
(……サボることもあっけどな。さて、だば今日も大人しく学生しますか!)
学校に着いた美保は、コートについた雪を振り落としながら気合を入れた。
☆
夕食を食べ終え、宿題をしながら今日も休憩中にパソコンを立ち上げた。いつもの流れで一通りネットサーフィンを楽しんだ後でメールをチェックしていると、差出人《シロヤマ》から件名《初めまして》というメールが届いていた。どうせ迷惑メールだろうと思いながらも一応クリックして中を確認してみた。
シロヤマ《新宿駅の死神を一緒に討ちませんか? もし成功すれば、そうですね。報酬は央田大学合格、ってことでどうですか?》
美保は一瞬で戦慄を覚えた。シロヤマと名乗る差出人が、美保の進学希望大学である央田大学を知っていたからだ。
しかし冷静に考えてみると、自分をよく知る友人の悪戯の可能性が高いと思った。
ミホ《あなたは誰ですか? あたしの友達ですか?》
シロヤマ《いずれは友達になりたいと思っていますが、今はただの応援者です》
ミホ《質問に答えないなら、これ以降はスルーします》
シロヤマ《待ってください。ねえミホさん、東京旅行へ来ませんか? 真っ白い雪に囲まれた日常にいると、ネオンを見たくなる日もありますよね?》
ミホ《そんな簡単に行けるわけがないでしょう? 交通費だってかかるんですよ? お父さんとお母さんには、なんて言えばいいんですか?》
シロヤマ《二週間後、十二月二十日土曜日。この日、央田大学でオープンキャンパスがあるはずです。それに行きたいと言えばご両親は必ず行かせてくれますよ》
ミホ《必ずって……その根拠は? 前に一度お願いしたときは、絶対にダメって言われてるんですけど》
シロヤマ《私は神ですから。必ずと言えば必ずなんです》
美保はシロヤマが友人ではないと判断し、警戒した。まるで漫画の世界の人物みたいに発言が痛々しいが、何がしたいのだろうか。考えてみてもわからないので、美保は試しにほんの出来心のつもりで、一階に降りて居間の扉を開いた。
「……ねえ父ちゃん。今月の二十日に央田大学のオープンキャンパスがあるって、前に言ったべ? その……やっぱり行ってみでえんだけど、どうしてもダメがな?」
炬燵の中で横になってテレビを見ている父親におそるおそる訊いてみると、父親は体を起こして美保の方に向き直った。しつこいと怒られるかもしれないと、美保は構えた。
「……いんや、美保がこっがらの勉強のやる気に繋げてくれるのであれば、行ってもいいど。どうせなら一泊くらいして、東京の空気を感じてごい」
世の中を知らない田舎の高校生は、シロヤマへの警戒心をあっという間に氷解させた。東京に行ける喜びに脳内のアドレナリンが大量放出して、それこそシロヤマを神であるかのように信じ込んでしまったのだった。
美保はそれから《シロヤマ》と何度かメールでやりとりをして、指折り数えながら東京へ行けるその日を待った。
☆
自分にできる最大限のお洒落をして、新幹線に乗ってはるばるやって来た初めての東京に感動して写真を撮っている余裕があったのは、最初だけだった。
美保の住む町の駅は電子掲示板もなく、二時間に一本の電車が当たり前だ。だからぼうっとしているだけで次の電車がやってくる都会の電車が羨ましいと思っていたのだが、人の多すぎる電車に早くも辟易していた。
「これが満員電車かあ! 東京っぽい!」
なんて感動は、何一つなかった。暑いし痛いし、それに運が悪かったのか車内が臭かったために、早く降りたいという気持ちしか湧いて来なかった。東京に住んでいる人はこれに毎日乗っているのかと考えただけで、都民全員を敬いたくなった。
だが央田大学でのオープンキャンパスでは、とても有意義な時間を過ごすことができた。より一層この大学に入りたいという思いを強めた美保が次に向かったのは、新宿駅だった。気持ちが昂っている今の状態なら、シロヤマの依頼も難なくこなせるような気がしていた。それにやらなければならないことは早く終わらせて、東京観光に集中したかったのだ。
シロヤマは新宿駅の死神を討つための手段として、銃殺を提案していた。
ミホ《待って下さい。人殺しはやりたくないです》
シロヤマ《相手は人間ではないから平気ですよ》
ミホ《人が多いと思うんですけど、撃つところを見られたら、あたしの人生終わりじゃないですか?》
シロヤマ《安心してください。人払いはしていますので、存在するべき人しか立ち入れないようになっています》
シロヤマは聞く耳を持たず、美保の家に新宿駅東口のコインロッカーの鍵を郵送してきた。当然のように、差出人の名前と住所の記載はなかった。
魔境と呼ばれる新宿駅の構造に見事に迷子になりつつも、何度も駅員に東口への行き方を訊いて美保はようやく目的地に辿り着いた。鞄に入れていた鍵を該当するロッカーの鍵穴に差し入れると、ロックが外れる音が聞こえた。美保は慎重に中を覗き、唾を飲み込んだ。白い袋に包まれてはいるものの、隠し切れない存在感。あの中には間違いなく銃が入っていることがわかった。
学芸会レベルという、お遊び演技のことを指すあまり誉れのない言葉があるが、今の美保の演技はまさにそのものだった。人を殺すわけではないと言っても、銃を持つことが違法だということくらい美保だって知っている。自然にしようと努力はしているものの、周りから見ればまるで不自然な動きで、美保はロッカー内から銃を取り出して逃げるようにその場から走り去った。
美保は携帯電話を取り出し、もう一度画像を確認した。シロヤマから《彼が新宿の死神だよ》とメールで送られてきた男の画像は、短髪を金色に染めている二十代前半に見える男だった。画像だけで判断すると、頭は悪そうだがくっきりした顔立ちで、美保の通う高校にいたら間違いなく人気の出るタイプだと思った。
名前は境高士というらしく、今日の十二時頃に新宿三丁目の細い裏道で煙草をふかしているところを狙え、という指示だった。
(てかこの人、本当に死神なんだべか? 普通の人間にしか見えねえけど……)
直前になって不安になりながらも、シロヤマの言うことだから間違いはないのだろうと素直に従った。極度の興奮と緊張から、深く考える思考能力がなかったとも言える。十二時よりかなり早めに目的地に到着した美保は、行き交う人々がみんな自分を見ているような気がしてならなかった。
(おら、田舎臭いから馬鹿にされてんのかな? 変な人に攫われたりしねえよな? 新宿の死神さん早く来てけろ! おっかねえじゃ!)
恐怖と戦いながら祈るような思いで待っていると、ついに待ち人はやって来た。彼は中学生くらいの少女と一緒にやってきて、煙草に火を点けた。行動を共にしている少女がいるのは聞いていないが、間違いなく境高士である。美保は上がりきった心拍数を下げるため一度深呼吸をして、銃を取り出そうとし――目を丸くした。
少女が高士に銃を突きつけていたのだ。本来自分がやるべき役割を、少女が担当しているということになる。
どうすればいいのだろうか。判断に困った美保は急いでシロヤマにメールを送ってみたが、返事は返ってこなかった。
予想していた以上に、人が人に銃を向ける光景というのは恐ろしいものだった。引き返すなら今しかないと思った。シロヤマは「相手は人間ではない」と言っていたけれど、境高士の姿形はやはりどうみても人間だ。自分やあの少女が彼を殺してしまえば、絶対に罪になると思った。しかし、一人で彼らに声をかけに行くのは怖い。誰か大人と一緒に声をかけようと考え周りを見渡してみたが、人払いをしていると言ったシロヤマの言葉は本当だったようで、こんな衝撃的な光景が目の前で繰り出されているのに周辺には誰もいなかった。
美保はこの場を離れ大通りに出た。大通りは打って変わって人が多く、声をかけるのにも慎重になるくらいだった。下手に怖い人に声をかけて状況が悪化したら最悪だし、弱そうな人に声をかけて返り討ちにあったら目も当てられない。
どうしようかと焦って走り回っているうちに、新宿駅東口前の広場に辿り着いていた。そこで美保の視界に入ったのは、スーツ姿の地味な男だった。サラリーマンならしっかりしてそうだと考えたのだ。女の人と一緒にいることも安心材料に見えて、美保は二人に駆け寄った。
突然息を切らして前に立った美保を見て、二人とも驚いているようだった。スーツの男は近くで見ると想像以上に細くて弱弱しく、美保を見ただけで動揺していて何かあっても責任逃れをしそうだと思った。対して、女の方は美保を品定めするかのようにじっと見据えていて、その視線が少し怖かったものの堂々として頼れる雰囲気だった。
美保の本能が、女の方に頼めと指令する。
「ひ、人が撃たれそうなんです! 助けてください!」
美保の予想は当たっていた。男は狼狽えているだけだったが、女は落ち着いていた。
「場所は?」
「あ、あっちです! あたしについて来てください!」
走り出した美保の後をついてくる女は、ブーツなのにスニーカーの美保よりも俊敏に走っていて格好いいなと思った。男はその後ろを慌てたようについて来た。呼んでないのにと声をかける時間すら惜しく、美保は二人を引き連れて現場に向かった。
戻ってみると、まだ少女は高士に銃口を向けたままの硬直状態にあった。美保は二人を指差し、
「この人たちです!」
息を切らしながら告げた。女は頷き、冷静にかつ堂々と少女に近づいた。
「あなた、銃を下ろした方がいいわよ」
「……どうして?」
「あなたがここでこの人を撃ったら、わたしは目撃者になる。警察に行くのって面倒でしょ?」
沈黙が空間を包んだ。瞬きも出来ないくらい緊張していた美保は、この時間が果てしなく長い時間に思われた。
やがて少女は満足そうに微笑み、銃を下げた。
「……やっと、揃った」
銃口が人に向けられていないことにようやく安堵した美保だったが、
「おい!? お前、喋れるのかよルーシー!」
高士の意味不明な言葉に小首を傾げた。
机の上にはまだ片付けられていない宿題が並べられているが、残された数学に手をつけることを億劫に感じていた。美保は数学が苦手だ。三年生になれば、私立文系大学へ進学希望ゆえに数学から少しは解放されるとは思うけれど、来年の話をしても仕方がない。今はとにかく、目の前の問題集を片付けなければならない。そう頭ではわかっていても、嫌だなと思ったときの九割は逃避に走ってしまうのだ。
今日も例に漏れず、美保はつけっぱなしにしていたノートパソコンの前に戻った。パソコンは高校入学前の春休みに父親にねだって買ってもらったものだ。進学校に合格したことに対するご褒美兼、真面目な娘に限っておかしなことには使わないだろうという、父親の信頼から勝ち取った戦利品である。
同級生のケイコにメッセージを送った。
ミホ《真衣ちゃんの動画見て現実逃避してたらまんず、宿題進まねーべ》
五分もしない内に返信が来た。
ケイコ《おめ、そっだら言葉遣いしてコメントしたんじゃねーべな? 東京さいっだら馬鹿にされっぜ?W》
ミホ《バリヤバー☆ 超頑張る! ギャルになって帰ってきちゃおうかな~?》
ケイコ《その言葉遣いも合ってんのか、おらじゃ判断できねえから悔しいじゃW》
青森県の田舎町で生まれ育った美保は、東京に憧れていた。同級生たちとはいつも自分たちの住んでいる場所がいかに田舎かを卑下して笑い、テレビと雑誌、インターネットで得た東京の店や芸能人、お洒落の情報交換に励んでいる。美保は高校を卒業したら絶対にこの町を出て東京の大学へ行こうと、ずっと前から決めていた。
ケイコ《そんだ、美保って「新宿駅の死神」の噂知ってっか?》
随分と恥ずかしい名前が噂になっているらしい。美保は素直に《知らね》と返信した。
ケイコ《人間の願いを叶えてくれる神様だってよ。死神なのに願いを叶えるってよくわがんねえけど、今ネット上で噂だけが広がってんだず》
ミホ《死神て響きはおっかねえな。でもおらには関係ねえべ。少なくともあと一年は青森で高校生だし、東京の大学に受かったときに覚えてたら、探してみるかなW》
その後少しだけメッセージのやりとりをした後、美保はしぶしぶパソコンを落とし数学の宿題を片付けてから、眠りについた。
☆
青森の冬は寒いというレベルではない。一時間前からおはようタイマーでストーブをつけているのにもかかわらず、布団から出るのに相当の気合と勇気がいるのだ。美保は悲鳴をあげながら身支度を済ませ、朝ご飯を胃に詰め込み素早く家を出た。
アイスバーンで凍った道路を車で走る雪国の大人たちは、雪道を走る術を心得ている。十七年間この町で生きている美保も、転ばない程度の最大速度で、白い息を吐きながら固くなった雪を踏みしめて上手く歩いて学校へ向かった。
美保は毎朝、必ず顔見知りの町人たちに声をかけられる。角の駄菓子屋のタミおばちゃんに、いつも雪かきしている権ジイ、煙草臭い派出所の安井さん。人口二万人のこの町では少子高齢化が進んでおり、若者は地域ぐるみで大切にされていることを、美保は子どもながらに感じていた。
「東京の大学さ行っても、いずれはここさ帰って来てけろな?」
大人たちにはよく言われるが、美保は東京へ出たら戻る気なんてなかった。一刻も早くここから出たい気持ちをモチベーションに勉強に励んでいるのだ。
(……サボることもあっけどな。さて、だば今日も大人しく学生しますか!)
学校に着いた美保は、コートについた雪を振り落としながら気合を入れた。
☆
夕食を食べ終え、宿題をしながら今日も休憩中にパソコンを立ち上げた。いつもの流れで一通りネットサーフィンを楽しんだ後でメールをチェックしていると、差出人《シロヤマ》から件名《初めまして》というメールが届いていた。どうせ迷惑メールだろうと思いながらも一応クリックして中を確認してみた。
シロヤマ《新宿駅の死神を一緒に討ちませんか? もし成功すれば、そうですね。報酬は央田大学合格、ってことでどうですか?》
美保は一瞬で戦慄を覚えた。シロヤマと名乗る差出人が、美保の進学希望大学である央田大学を知っていたからだ。
しかし冷静に考えてみると、自分をよく知る友人の悪戯の可能性が高いと思った。
ミホ《あなたは誰ですか? あたしの友達ですか?》
シロヤマ《いずれは友達になりたいと思っていますが、今はただの応援者です》
ミホ《質問に答えないなら、これ以降はスルーします》
シロヤマ《待ってください。ねえミホさん、東京旅行へ来ませんか? 真っ白い雪に囲まれた日常にいると、ネオンを見たくなる日もありますよね?》
ミホ《そんな簡単に行けるわけがないでしょう? 交通費だってかかるんですよ? お父さんとお母さんには、なんて言えばいいんですか?》
シロヤマ《二週間後、十二月二十日土曜日。この日、央田大学でオープンキャンパスがあるはずです。それに行きたいと言えばご両親は必ず行かせてくれますよ》
ミホ《必ずって……その根拠は? 前に一度お願いしたときは、絶対にダメって言われてるんですけど》
シロヤマ《私は神ですから。必ずと言えば必ずなんです》
美保はシロヤマが友人ではないと判断し、警戒した。まるで漫画の世界の人物みたいに発言が痛々しいが、何がしたいのだろうか。考えてみてもわからないので、美保は試しにほんの出来心のつもりで、一階に降りて居間の扉を開いた。
「……ねえ父ちゃん。今月の二十日に央田大学のオープンキャンパスがあるって、前に言ったべ? その……やっぱり行ってみでえんだけど、どうしてもダメがな?」
炬燵の中で横になってテレビを見ている父親におそるおそる訊いてみると、父親は体を起こして美保の方に向き直った。しつこいと怒られるかもしれないと、美保は構えた。
「……いんや、美保がこっがらの勉強のやる気に繋げてくれるのであれば、行ってもいいど。どうせなら一泊くらいして、東京の空気を感じてごい」
世の中を知らない田舎の高校生は、シロヤマへの警戒心をあっという間に氷解させた。東京に行ける喜びに脳内のアドレナリンが大量放出して、それこそシロヤマを神であるかのように信じ込んでしまったのだった。
美保はそれから《シロヤマ》と何度かメールでやりとりをして、指折り数えながら東京へ行けるその日を待った。
☆
自分にできる最大限のお洒落をして、新幹線に乗ってはるばるやって来た初めての東京に感動して写真を撮っている余裕があったのは、最初だけだった。
美保の住む町の駅は電子掲示板もなく、二時間に一本の電車が当たり前だ。だからぼうっとしているだけで次の電車がやってくる都会の電車が羨ましいと思っていたのだが、人の多すぎる電車に早くも辟易していた。
「これが満員電車かあ! 東京っぽい!」
なんて感動は、何一つなかった。暑いし痛いし、それに運が悪かったのか車内が臭かったために、早く降りたいという気持ちしか湧いて来なかった。東京に住んでいる人はこれに毎日乗っているのかと考えただけで、都民全員を敬いたくなった。
だが央田大学でのオープンキャンパスでは、とても有意義な時間を過ごすことができた。より一層この大学に入りたいという思いを強めた美保が次に向かったのは、新宿駅だった。気持ちが昂っている今の状態なら、シロヤマの依頼も難なくこなせるような気がしていた。それにやらなければならないことは早く終わらせて、東京観光に集中したかったのだ。
シロヤマは新宿駅の死神を討つための手段として、銃殺を提案していた。
ミホ《待って下さい。人殺しはやりたくないです》
シロヤマ《相手は人間ではないから平気ですよ》
ミホ《人が多いと思うんですけど、撃つところを見られたら、あたしの人生終わりじゃないですか?》
シロヤマ《安心してください。人払いはしていますので、存在するべき人しか立ち入れないようになっています》
シロヤマは聞く耳を持たず、美保の家に新宿駅東口のコインロッカーの鍵を郵送してきた。当然のように、差出人の名前と住所の記載はなかった。
魔境と呼ばれる新宿駅の構造に見事に迷子になりつつも、何度も駅員に東口への行き方を訊いて美保はようやく目的地に辿り着いた。鞄に入れていた鍵を該当するロッカーの鍵穴に差し入れると、ロックが外れる音が聞こえた。美保は慎重に中を覗き、唾を飲み込んだ。白い袋に包まれてはいるものの、隠し切れない存在感。あの中には間違いなく銃が入っていることがわかった。
学芸会レベルという、お遊び演技のことを指すあまり誉れのない言葉があるが、今の美保の演技はまさにそのものだった。人を殺すわけではないと言っても、銃を持つことが違法だということくらい美保だって知っている。自然にしようと努力はしているものの、周りから見ればまるで不自然な動きで、美保はロッカー内から銃を取り出して逃げるようにその場から走り去った。
美保は携帯電話を取り出し、もう一度画像を確認した。シロヤマから《彼が新宿の死神だよ》とメールで送られてきた男の画像は、短髪を金色に染めている二十代前半に見える男だった。画像だけで判断すると、頭は悪そうだがくっきりした顔立ちで、美保の通う高校にいたら間違いなく人気の出るタイプだと思った。
名前は境高士というらしく、今日の十二時頃に新宿三丁目の細い裏道で煙草をふかしているところを狙え、という指示だった。
(てかこの人、本当に死神なんだべか? 普通の人間にしか見えねえけど……)
直前になって不安になりながらも、シロヤマの言うことだから間違いはないのだろうと素直に従った。極度の興奮と緊張から、深く考える思考能力がなかったとも言える。十二時よりかなり早めに目的地に到着した美保は、行き交う人々がみんな自分を見ているような気がしてならなかった。
(おら、田舎臭いから馬鹿にされてんのかな? 変な人に攫われたりしねえよな? 新宿の死神さん早く来てけろ! おっかねえじゃ!)
恐怖と戦いながら祈るような思いで待っていると、ついに待ち人はやって来た。彼は中学生くらいの少女と一緒にやってきて、煙草に火を点けた。行動を共にしている少女がいるのは聞いていないが、間違いなく境高士である。美保は上がりきった心拍数を下げるため一度深呼吸をして、銃を取り出そうとし――目を丸くした。
少女が高士に銃を突きつけていたのだ。本来自分がやるべき役割を、少女が担当しているということになる。
どうすればいいのだろうか。判断に困った美保は急いでシロヤマにメールを送ってみたが、返事は返ってこなかった。
予想していた以上に、人が人に銃を向ける光景というのは恐ろしいものだった。引き返すなら今しかないと思った。シロヤマは「相手は人間ではない」と言っていたけれど、境高士の姿形はやはりどうみても人間だ。自分やあの少女が彼を殺してしまえば、絶対に罪になると思った。しかし、一人で彼らに声をかけに行くのは怖い。誰か大人と一緒に声をかけようと考え周りを見渡してみたが、人払いをしていると言ったシロヤマの言葉は本当だったようで、こんな衝撃的な光景が目の前で繰り出されているのに周辺には誰もいなかった。
美保はこの場を離れ大通りに出た。大通りは打って変わって人が多く、声をかけるのにも慎重になるくらいだった。下手に怖い人に声をかけて状況が悪化したら最悪だし、弱そうな人に声をかけて返り討ちにあったら目も当てられない。
どうしようかと焦って走り回っているうちに、新宿駅東口前の広場に辿り着いていた。そこで美保の視界に入ったのは、スーツ姿の地味な男だった。サラリーマンならしっかりしてそうだと考えたのだ。女の人と一緒にいることも安心材料に見えて、美保は二人に駆け寄った。
突然息を切らして前に立った美保を見て、二人とも驚いているようだった。スーツの男は近くで見ると想像以上に細くて弱弱しく、美保を見ただけで動揺していて何かあっても責任逃れをしそうだと思った。対して、女の方は美保を品定めするかのようにじっと見据えていて、その視線が少し怖かったものの堂々として頼れる雰囲気だった。
美保の本能が、女の方に頼めと指令する。
「ひ、人が撃たれそうなんです! 助けてください!」
美保の予想は当たっていた。男は狼狽えているだけだったが、女は落ち着いていた。
「場所は?」
「あ、あっちです! あたしについて来てください!」
走り出した美保の後をついてくる女は、ブーツなのにスニーカーの美保よりも俊敏に走っていて格好いいなと思った。男はその後ろを慌てたようについて来た。呼んでないのにと声をかける時間すら惜しく、美保は二人を引き連れて現場に向かった。
戻ってみると、まだ少女は高士に銃口を向けたままの硬直状態にあった。美保は二人を指差し、
「この人たちです!」
息を切らしながら告げた。女は頷き、冷静にかつ堂々と少女に近づいた。
「あなた、銃を下ろした方がいいわよ」
「……どうして?」
「あなたがここでこの人を撃ったら、わたしは目撃者になる。警察に行くのって面倒でしょ?」
沈黙が空間を包んだ。瞬きも出来ないくらい緊張していた美保は、この時間が果てしなく長い時間に思われた。
やがて少女は満足そうに微笑み、銃を下げた。
「……やっと、揃った」
銃口が人に向けられていないことにようやく安堵した美保だったが、
「おい!? お前、喋れるのかよルーシー!」
高士の意味不明な言葉に小首を傾げた。