部屋に入ってくる日光の眩しさで、胡桃は目を覚ました。
昨夜の就寝時間の遅さと太陽の高さから推測するに、十三時から十四時くらいだろう。枕の横に置いてある携帯電話で正確な時刻を確認すると、十三時半だった。予想は的中したものの、またやってしまったという後悔で目覚めはいいものとは言えなかった。
バナナと牛乳だけの簡単な食事を済ませ、着替えをしながらヘアアイロンの電源を入れた。口元よりも目元に重点を置いたメイクはお手の物だ。髪も顔も誰が見ても美人だと称賛するレベルまで仕上げ、全身鏡で洋服のバランスを見てから、最近買ったばかりのお気に入りのブーツを履いて家を出た。
底冷えするような冬の東京の寒さを経験するのも、今年で二度目になる。大学入学と同時に愛知県から上京してきた胡桃は、「勉強に恋愛にアルバイト、すべて全力で取り組もう!」という女子高生時代に立てた目標を、入学三ヵ月で早々に諦めた。アルバイトをすると勉強が追いつかなくなり、恋をするとアルバイトどころではなくなり、勉強に力を入れるとお金がなくて遊べなくなってしまうからだ。
大体、欲張りすぎるのがいけないのだ。何事も適度に、現実的な範囲で。夢と現実の境界線を学ぶことこそ、大学生活で学ぶことなのだろう。そう結論づけた胡桃は現在、彼氏も好きな人もいない冬休みというアドバンテージを生かしてアルバイトに精を出していた。
今日もまた都内で適当に時間を潰した後、アルバイト先へ向かった。
「おはようございまーす」
胡桃のアルバイト先はキャバクラでは、どんな時間に出勤しても必ず「おはようございます」と挨拶するのがルールである。洋服や食事にお金をかけたい胡桃は普通のアルバイトではなかなか貯金ができなかったのだが、
「時給いいみたいだしさ、キャバクラで働いてみない? わたし一人で始めるのは心細いから胡桃も一緒にやってみようよ!」
と、友人に勧められたことがきっかけで半年前からキャバ嬢として働いていた。幸いなことに、胡桃は一般的に見て人並み以上の容姿とスタイル、トークスキルを持っていたために店内ではそこそこの人気を博していた。嫌な客が来ることも少なくないが、短時間で高収入が得られる効率の良い仕事だと胡桃は計算し、就職活動で忙しくなるまでは続けてみようと思っている。
「夕菜ちゃん、指名入ったよ」
夕菜とは胡桃の源氏名である。ボーイからそう言われた胡桃は、接客中の四十代サラリーマンに哀しそうな顔をして見せた。
「ごめんね、呼ばれちゃったみたい。また遊びに来てね? 待ってるから」
男は不満そうな顔をしていたが、胡桃が手を握って上目遣いで見つめると「ああ、また来るよ」と答えて胡桃を見送ってくれた。
胡桃はボーイに案内され、指名してくれたという男性客の隣に座った。
「初めまして。ご指名ありがとうございます」
人の顔を覚えるのが得意な胡桃は、自信を持って「初めまして」と言った。店のホームページに顔を載せていない胡桃のことは、店に来なければ知ることができない。つまり、以前に来店した際に彼は他の嬢から接客を受けたものの、店内にいた胡桃が気になったという可能性が高い。誇らしく思えた胡桃は、いつもよりサービスして接客しようかなという気持ちになっていた。
「嬉しいな。ずっと夕菜ちゃんと話したかったんだ」
男の穏やかな微笑みに少しだけ見惚れた。爽やかで端正な顔立ちをしている男は、お金を持った雰囲気まで纏っている。端的に言えば、とても格好良かった。
「何か飲む? 好きな飲み物頼んでいいよ」
「えー嬉しい。じゃあ、これなんてどうですか?」
胡桃がぶりっ子しながら高い酒を提案すると、男は二つ返事で注文してくれた。
シロヤマと名乗った男は二十八歳で、都内で会社を経営していると言った。話し上手で聞き上手でもあるシロヤマとの時間は心地良く、お酒もお喋りも進み久々に仕事の時間を楽しく過ごすことができていた。
初指名でこんなにお金をかけてくれるなんて、どれだけ気に入ってもらえたのだろうと、胡桃は女としての優越感で満たされていくのを感じた。シロヤマは胡桃と二人で話したいと注文したのか、周りの女の子たちもいなくなり気がつけば胡桃とシロヤマの一対一になっていた。
ドンペリを半分ほど胃の中に収めたあたりで、酔った気配を見せないシロヤマが胡桃の瞳をじっと見つめた。
「今からはキャバ嬢としての夕菜ちゃんじゃなくて、素の夕菜ちゃんと話してみたいんだけどいいかな?」
「ええー? わたしはいつも自然体だよ? 特にシロヤマさんと話していると、リラックスできちゃう気がする」
決して崩さない胡桃の営業スマイルを見たシロヤマは、白い歯を見せた。
「それだ。そういうのを止めにしようって言ったんだよ」
一瞬、狼狽させられた。シロヤマが持っている男としての色気と放たれるオーラに、飲まれそうになったのだ。ペースを取り戻すために胡桃は一度息を吐いた。
「……まあ、いっか。こんなにお金使ってもらったし、出来るだけ要望には応えるよ。何を話せばいい? 訊きたいことがあるならどうぞ?」
「特に訊きたいことがあるわけじゃないな。好きな男のタイプとかも興味ないし……じゃあ、好きな食べ物は? 料理は作る方?」
今まで大人の会話を楽しんでいたのに、いきなり中学生みたいなことを訊いてくるなんてよくわからない男だと思った。笑顔を取り繕おうとしたが、営業モードは気に入らないようなので思ったことをそのまま口にした。
「好きな食べ物は白米。料理は時間があれば作ってる。……っていうか、女はみんな料理するものだって思ってる? そんな男はモテないよ?」
「そう? でもさ、男はみんな料理ができる女の方が好きだって思いこんでいる女の子だって、幸せになれないと思うな」
揚げ足を取られたようで、不快な気持ちになった。
「ごめんね。本当にくだらないことを言ってしまった。実はね、君には僕のお願い事を三つ聞いてほしいんだ」
「なにそれ。体売るとかは絶対嫌だからね」
「違うよ。もっとくだらなくて、つまらないことだよ。聞いてくれたなら、僕は君のお願いをなんでも叶えてあげるよ」
「全然信じられないけど、ここはキャバクラだしね。話だけは聞いてあげる」
シロヤマはにっこりと微笑み、胡桃に近づいた。
「一つ目。この番号に電話をかけて、どうでもいいことを一つだけ訊いてすぐに切ってほしい」
シロヤマから渡された紙に書いてある電話番号は、0120から始まるフリーダイヤルだった。
「どうでもいいことって何? 食べたいものとか、嫌いな芸能人の名前とか?」
「理解が早いね、素晴らしい。そんな感じでOKだよ」
胡桃は紙とシロヤマの顔を見比べた。彼が何をしたいのかまるで見当がつかない。
「二つ目。十二月二十日に京王線を使って、新宿駅に行ってほしい」
「え、それだけ? ……それで、新宿に行って何をさせるつもり?」
「いや、駅に行くだけでいいよ」
行くだけでいいなんて現実的に考えてありえるのだろうか。きっと駅に行ったら見るからに怖そうな人たちが胡桃を囲んでどこかに連れ去り、想像もしたくないようなことをされるのだろう。そう予想した胡桃は急にシロヤマが胡散臭い男に見えてきた。
「……怪しすぎるでしょ。行くわけないじゃん、そんなの」
「僕は君のそういう賢いところが好きだよ。でもね……」
シロヤマは胡桃の耳元に唇を近づけた。
「……もし断ったら、君がここで働いていることを君の友人や家族、君が知られたくないと思っている全員にバラす」
「……脅しでしょ? あんたがわたしの対人関係を把握しているわけないし」
「そう思うならご自由に。ただ……君の本名は相葉胡桃、ご両親の名前は康夫さんと和子さんで間違いないね?」
「……なんなのよ、あんた」
最低な脅しにこの場は一旦屈服せざるを得なかった。店を出たらこの男のことを調べて法的な制裁を加えてやると決めた。
「……で、三つ目は?」
「三つ目は新宿駅に着いてから話すよ。安心して。君の身の安全は絶対に保証するから。ああ、そうそう。事が終わってからはどうしようとも君の勝手だけど、三つの約束は必ず守ってね。賢い君なら、僕の言っている意味がわかるでしょ?」
「よくわかったわよ、あんたが最低野郎だってことがね。どうせろくなことにならないなら早く終わらせた方が効率的よね。……ほら、酒がなくなったんだからもう帰ったらどう?」
逃げ場を失った胡桃が自暴自棄に目の前にあったドンペリを一気飲みすると、シロヤマは笑って帰り支度を始めた。
☆
嫌なことはさっさと終わらせたいと思い、一つ目の依頼は次の日に片付けた。
胡桃が適当に訊いた質問は『冬って好きですか?』だった。相手の反応も待たずに切ったため電話先のことはほとんど覚えていないが、どこかのメーカーのお客様相談室だったような気がする。
数日経って、二つ目の依頼を実施する十二月二十日がやってきた。目覚ましもかけずに好きな時間に起床し、時間をかけて化粧をして、黒ストッキングにブーツ、キャメルのチェスターコートという装いで家を出た。
京王線は普段通学で使う路線で、勝手がわかっているため何も苦労はなかった。新宿だってよく来るから別段思うところもない。駅に着いた胡桃は改札を出て、一番人の多い東口に向かうことにした。
胡桃は人ごみが嫌いではないが、一人で手持ち無沙汰にしているとナンパや勧誘が鬱陶しくて不快な思いをすることが多い。しかしここからどうすればいいのかわからなかった胡桃は、仕方なくライオンひろばに腰掛けてシロヤマがいないか周りを見渡してみた。
すると、細身で眼鏡をかけたスーツのサラリーマンらしい男が胡桃の方を見ていることに気がついた。男の視線を感じるのは珍しくもないけれど、彼はおずおずしていて気持ちが悪かった。話しかけられたら嫌だなと思っていた矢先、男は意を決したように表情を固くして近づいて来た。
「あ、あの……シロヤマさんですよね?」
脳内の記憶を懸命に辿ってみたが、彼は過去に出会った男としての検索に引っ掛からなかった。そもそも、シロヤマとはあの男の名前だ。この人もあいつに何かされたのだろうか?
思考に集中して発声を失念していると、男は不安になったのか質問を連投してきた。
「あの、昨日電話で話しましたよね? 僕が今日出版の話をさせていただく約束をしております、芳野文健です。今日はよろしくお願いいたします!」
勘違いさせたままでは面倒くさい。胡桃は自己紹介を終えた男にさらりと告げた。
「……人違いじゃないですか?」
人の顔色がはっきりと変わる瞬間を見てしまった。だがこの人が落ち込もうが恥ずかしがっていようが、今の胡桃にはどうだっていい。
さて、これからどうすればいいのだろう。胡桃は携帯電話を取り出し、意味もなくSNSにログインして時間を潰すことにした。
昨夜の就寝時間の遅さと太陽の高さから推測するに、十三時から十四時くらいだろう。枕の横に置いてある携帯電話で正確な時刻を確認すると、十三時半だった。予想は的中したものの、またやってしまったという後悔で目覚めはいいものとは言えなかった。
バナナと牛乳だけの簡単な食事を済ませ、着替えをしながらヘアアイロンの電源を入れた。口元よりも目元に重点を置いたメイクはお手の物だ。髪も顔も誰が見ても美人だと称賛するレベルまで仕上げ、全身鏡で洋服のバランスを見てから、最近買ったばかりのお気に入りのブーツを履いて家を出た。
底冷えするような冬の東京の寒さを経験するのも、今年で二度目になる。大学入学と同時に愛知県から上京してきた胡桃は、「勉強に恋愛にアルバイト、すべて全力で取り組もう!」という女子高生時代に立てた目標を、入学三ヵ月で早々に諦めた。アルバイトをすると勉強が追いつかなくなり、恋をするとアルバイトどころではなくなり、勉強に力を入れるとお金がなくて遊べなくなってしまうからだ。
大体、欲張りすぎるのがいけないのだ。何事も適度に、現実的な範囲で。夢と現実の境界線を学ぶことこそ、大学生活で学ぶことなのだろう。そう結論づけた胡桃は現在、彼氏も好きな人もいない冬休みというアドバンテージを生かしてアルバイトに精を出していた。
今日もまた都内で適当に時間を潰した後、アルバイト先へ向かった。
「おはようございまーす」
胡桃のアルバイト先はキャバクラでは、どんな時間に出勤しても必ず「おはようございます」と挨拶するのがルールである。洋服や食事にお金をかけたい胡桃は普通のアルバイトではなかなか貯金ができなかったのだが、
「時給いいみたいだしさ、キャバクラで働いてみない? わたし一人で始めるのは心細いから胡桃も一緒にやってみようよ!」
と、友人に勧められたことがきっかけで半年前からキャバ嬢として働いていた。幸いなことに、胡桃は一般的に見て人並み以上の容姿とスタイル、トークスキルを持っていたために店内ではそこそこの人気を博していた。嫌な客が来ることも少なくないが、短時間で高収入が得られる効率の良い仕事だと胡桃は計算し、就職活動で忙しくなるまでは続けてみようと思っている。
「夕菜ちゃん、指名入ったよ」
夕菜とは胡桃の源氏名である。ボーイからそう言われた胡桃は、接客中の四十代サラリーマンに哀しそうな顔をして見せた。
「ごめんね、呼ばれちゃったみたい。また遊びに来てね? 待ってるから」
男は不満そうな顔をしていたが、胡桃が手を握って上目遣いで見つめると「ああ、また来るよ」と答えて胡桃を見送ってくれた。
胡桃はボーイに案内され、指名してくれたという男性客の隣に座った。
「初めまして。ご指名ありがとうございます」
人の顔を覚えるのが得意な胡桃は、自信を持って「初めまして」と言った。店のホームページに顔を載せていない胡桃のことは、店に来なければ知ることができない。つまり、以前に来店した際に彼は他の嬢から接客を受けたものの、店内にいた胡桃が気になったという可能性が高い。誇らしく思えた胡桃は、いつもよりサービスして接客しようかなという気持ちになっていた。
「嬉しいな。ずっと夕菜ちゃんと話したかったんだ」
男の穏やかな微笑みに少しだけ見惚れた。爽やかで端正な顔立ちをしている男は、お金を持った雰囲気まで纏っている。端的に言えば、とても格好良かった。
「何か飲む? 好きな飲み物頼んでいいよ」
「えー嬉しい。じゃあ、これなんてどうですか?」
胡桃がぶりっ子しながら高い酒を提案すると、男は二つ返事で注文してくれた。
シロヤマと名乗った男は二十八歳で、都内で会社を経営していると言った。話し上手で聞き上手でもあるシロヤマとの時間は心地良く、お酒もお喋りも進み久々に仕事の時間を楽しく過ごすことができていた。
初指名でこんなにお金をかけてくれるなんて、どれだけ気に入ってもらえたのだろうと、胡桃は女としての優越感で満たされていくのを感じた。シロヤマは胡桃と二人で話したいと注文したのか、周りの女の子たちもいなくなり気がつけば胡桃とシロヤマの一対一になっていた。
ドンペリを半分ほど胃の中に収めたあたりで、酔った気配を見せないシロヤマが胡桃の瞳をじっと見つめた。
「今からはキャバ嬢としての夕菜ちゃんじゃなくて、素の夕菜ちゃんと話してみたいんだけどいいかな?」
「ええー? わたしはいつも自然体だよ? 特にシロヤマさんと話していると、リラックスできちゃう気がする」
決して崩さない胡桃の営業スマイルを見たシロヤマは、白い歯を見せた。
「それだ。そういうのを止めにしようって言ったんだよ」
一瞬、狼狽させられた。シロヤマが持っている男としての色気と放たれるオーラに、飲まれそうになったのだ。ペースを取り戻すために胡桃は一度息を吐いた。
「……まあ、いっか。こんなにお金使ってもらったし、出来るだけ要望には応えるよ。何を話せばいい? 訊きたいことがあるならどうぞ?」
「特に訊きたいことがあるわけじゃないな。好きな男のタイプとかも興味ないし……じゃあ、好きな食べ物は? 料理は作る方?」
今まで大人の会話を楽しんでいたのに、いきなり中学生みたいなことを訊いてくるなんてよくわからない男だと思った。笑顔を取り繕おうとしたが、営業モードは気に入らないようなので思ったことをそのまま口にした。
「好きな食べ物は白米。料理は時間があれば作ってる。……っていうか、女はみんな料理するものだって思ってる? そんな男はモテないよ?」
「そう? でもさ、男はみんな料理ができる女の方が好きだって思いこんでいる女の子だって、幸せになれないと思うな」
揚げ足を取られたようで、不快な気持ちになった。
「ごめんね。本当にくだらないことを言ってしまった。実はね、君には僕のお願い事を三つ聞いてほしいんだ」
「なにそれ。体売るとかは絶対嫌だからね」
「違うよ。もっとくだらなくて、つまらないことだよ。聞いてくれたなら、僕は君のお願いをなんでも叶えてあげるよ」
「全然信じられないけど、ここはキャバクラだしね。話だけは聞いてあげる」
シロヤマはにっこりと微笑み、胡桃に近づいた。
「一つ目。この番号に電話をかけて、どうでもいいことを一つだけ訊いてすぐに切ってほしい」
シロヤマから渡された紙に書いてある電話番号は、0120から始まるフリーダイヤルだった。
「どうでもいいことって何? 食べたいものとか、嫌いな芸能人の名前とか?」
「理解が早いね、素晴らしい。そんな感じでOKだよ」
胡桃は紙とシロヤマの顔を見比べた。彼が何をしたいのかまるで見当がつかない。
「二つ目。十二月二十日に京王線を使って、新宿駅に行ってほしい」
「え、それだけ? ……それで、新宿に行って何をさせるつもり?」
「いや、駅に行くだけでいいよ」
行くだけでいいなんて現実的に考えてありえるのだろうか。きっと駅に行ったら見るからに怖そうな人たちが胡桃を囲んでどこかに連れ去り、想像もしたくないようなことをされるのだろう。そう予想した胡桃は急にシロヤマが胡散臭い男に見えてきた。
「……怪しすぎるでしょ。行くわけないじゃん、そんなの」
「僕は君のそういう賢いところが好きだよ。でもね……」
シロヤマは胡桃の耳元に唇を近づけた。
「……もし断ったら、君がここで働いていることを君の友人や家族、君が知られたくないと思っている全員にバラす」
「……脅しでしょ? あんたがわたしの対人関係を把握しているわけないし」
「そう思うならご自由に。ただ……君の本名は相葉胡桃、ご両親の名前は康夫さんと和子さんで間違いないね?」
「……なんなのよ、あんた」
最低な脅しにこの場は一旦屈服せざるを得なかった。店を出たらこの男のことを調べて法的な制裁を加えてやると決めた。
「……で、三つ目は?」
「三つ目は新宿駅に着いてから話すよ。安心して。君の身の安全は絶対に保証するから。ああ、そうそう。事が終わってからはどうしようとも君の勝手だけど、三つの約束は必ず守ってね。賢い君なら、僕の言っている意味がわかるでしょ?」
「よくわかったわよ、あんたが最低野郎だってことがね。どうせろくなことにならないなら早く終わらせた方が効率的よね。……ほら、酒がなくなったんだからもう帰ったらどう?」
逃げ場を失った胡桃が自暴自棄に目の前にあったドンペリを一気飲みすると、シロヤマは笑って帰り支度を始めた。
☆
嫌なことはさっさと終わらせたいと思い、一つ目の依頼は次の日に片付けた。
胡桃が適当に訊いた質問は『冬って好きですか?』だった。相手の反応も待たずに切ったため電話先のことはほとんど覚えていないが、どこかのメーカーのお客様相談室だったような気がする。
数日経って、二つ目の依頼を実施する十二月二十日がやってきた。目覚ましもかけずに好きな時間に起床し、時間をかけて化粧をして、黒ストッキングにブーツ、キャメルのチェスターコートという装いで家を出た。
京王線は普段通学で使う路線で、勝手がわかっているため何も苦労はなかった。新宿だってよく来るから別段思うところもない。駅に着いた胡桃は改札を出て、一番人の多い東口に向かうことにした。
胡桃は人ごみが嫌いではないが、一人で手持ち無沙汰にしているとナンパや勧誘が鬱陶しくて不快な思いをすることが多い。しかしここからどうすればいいのかわからなかった胡桃は、仕方なくライオンひろばに腰掛けてシロヤマがいないか周りを見渡してみた。
すると、細身で眼鏡をかけたスーツのサラリーマンらしい男が胡桃の方を見ていることに気がついた。男の視線を感じるのは珍しくもないけれど、彼はおずおずしていて気持ちが悪かった。話しかけられたら嫌だなと思っていた矢先、男は意を決したように表情を固くして近づいて来た。
「あ、あの……シロヤマさんですよね?」
脳内の記憶を懸命に辿ってみたが、彼は過去に出会った男としての検索に引っ掛からなかった。そもそも、シロヤマとはあの男の名前だ。この人もあいつに何かされたのだろうか?
思考に集中して発声を失念していると、男は不安になったのか質問を連投してきた。
「あの、昨日電話で話しましたよね? 僕が今日出版の話をさせていただく約束をしております、芳野文健です。今日はよろしくお願いいたします!」
勘違いさせたままでは面倒くさい。胡桃は自己紹介を終えた男にさらりと告げた。
「……人違いじゃないですか?」
人の顔色がはっきりと変わる瞬間を見てしまった。だがこの人が落ち込もうが恥ずかしがっていようが、今の胡桃にはどうだっていい。
さて、これからどうすればいいのだろう。胡桃は携帯電話を取り出し、意味もなくSNSにログインして時間を潰すことにした。