『我輩は猫である』の猫。彼は天才だなとつくづく思う。
私はあんなに上手い、一言で読者を惹き込ませるような自己紹介を、どうしても思いつくことができない。
悩めば悩む程、考えれば考える程に、冗長したセンスの欠片もないものになってしまう。彼に心から憧れつつも、仕方がないかという諦めもあるから、時折自身の不甲斐なさを思って始末に終えない気持ちを燻らせている。
羨望と劣等感を抱えつつも諦念している理由の一つに、そもそも彼は猫で、私は烏という種別の違いが挙げられる。脳味噌の大きさも違うし、人間からの愛され方も大きく違う。ゆえに、私は彼と同じ目線で語ることはできないのだ。
猫という種族。その中でも飼い猫は、とてつもなく頭が良いと断言する。
一日中寝ていても、誰にも咎められないどころか暖かい目で見守られ、甘ったるい声で鳴くだけで衣食住の提供を確約されるなんて、愛され方をわかっている者でなければ到底不可能な、神のごとき才能としか思えないからだ。
それに対して、私たち烏という種族は正反対だ。人間からはそこにいるだけで嫌そうな顔を向けられ、縁起が悪いだの不吉だの、勝手な都合で煙たがれていることには異を唱えたい。私たちとしても、種を後世に残すために必死なのである。
嘴を持ったこの姿の状態では、私は人間語を話すことはできないのだが、どうしても伝えたいことが一つある。
我々烏は、愛嬌という点では猫には到底敵わないのかもしれない。だが、頭が良いという定義が記憶力、洞察力、計算力に限ればの話にはなるが、鳥頭などと例えられ、嘲笑されてはいても決して頭が悪いわけではない、ということだけはどうかご理解いただきたいのである。
給料を貰って仕事をしている身分、限度を超えて休憩していてはいけないという考えの下、私は休めていた黒い翼を羽ばたかせて空を舞った。多くの人間が集うあの街に向かうため、冷たい風を切り裂きながら直進する。
今日は彼のところへ顔を出さなくてはならない。面倒だという気持ちがないといえば嘘になるが、仕事とはそういうものだろう。
前文で私が言わんとしたことが勘違いや自惚れではないのだと、今から行動で示せたらと考えている。
だから、私の仕事を知る気持ちがあるのなら、ぜひご覧いただきたい。
そして願わくば、こんな大層な仕事は烏には決して勤まらないだろうと油断している貴方にこそ、私のような存在は実は貴方のすぐ側にいるのかもしれないのだと、少しでも緊張していただけるなら幸いである。
「よっしゃあ! 来た! リーチ!」
「ロン」
リーチ一発を狙っていた高士を嘲笑うかのように、対面に座る男は冷静に死刑宣告を告げた。
「えーと……今回はでかいぞ。四暗刻、役満だ」
「……はあ!? 嘘だろ!?」
白煙で曇る雀荘内で卓を囲う男の一人、境高士は声を荒らげた。
「お前ホント麻雀下手くそだな。頭使えねえし、向いてねえよ」
笑いながら煙草に火を点けた対面の男に、高士は点棒を叩き付けた。対面の男とは一時間程前に出会ったばかりだが、人数調整で一緒の卓を囲った結果、高士の金は次々と彼に吸い上げられているのだった。
「うっせえ! もう一回だ!」
「カモられてんだよ。止めとけって」
友人の忠告を完全に無視して、高士は再び全自動卓のボタンを押した。
☆
二十二歳にもなって、金色に染められている高士の髪の毛が夜空に目立つ十二月。街も高士の懐も、凍死寸前の状態だった。
すっからかんにされて雀荘を出た高士は、愛する赤マルを吸いながら、対面の男の勝ち誇った表情が頭から離れずにイライラしていた。次は絶対泡を噴かせてやると復讐を誓いつつ、ジーンズのポケットに入っていた携帯電話を取り出した。
『……なによ? お金なら貸さないわよ』
八コール目で出た機嫌の悪そうな女は、昔からつるんでいる友人の一人だ。
「そんなこと言うなよ、これで絶対最後にするから! な! 頼む、三万貸してくれ! 一ヵ月後に倍にして返すから!」
『……ふーん。で? 貸してもいいけど、どうやって倍にするつもり?』
「決まってんだろ? 麻雀だよ!」
耳に『ツー、ツー』という無機質な音が届けられた。
適当なアルバイトをして稼いだ金は、すぐにギャンブルにつぎ込むろくでもない男。それが境高士だった。
アルバイト先から給料を貰ってまだ一週間だが、すでに一文無しになってしまった高士は今月残り三週間をどうやって生活していくか考える必要があった。だがそんな風に考えられる脳味噌を持っていたなら、今日のように後先考えずに全財産を使い切ることはないのだ。
根元まで吸った煙草を捨て、次の煙草に火を点けようと思ったが、箱の中は空だった。高士が吐いた白い溜息が薄っすらと夜空に消えていく。溜息を吐いたところで、財布の中身が増えることはない。
「……これじゃあ、煙草一箱も買えやしねえな」
「煙草が吸いたいのか?」
突然、一人の女が高士に声をかけてきた。
「あ? 吸いてえよそりゃ。俺、そんなに顔に出てんのか?」
「出ているよ。仕方ない、これをあげよう」
女は手に持っていたセブンスターの箱を高士に差し出した。細身の体に白いコートを羽織っている女は背が高く、暗くてよく見えない部分もあるが切れ長の瞳が印象的で、有り体に言って美人と呼べる容姿をしていた。
「見ず知らずの女に貰う義理はねえけど」
「たった今禁煙しようと思っただけだ。気にするな」
「そうか? じゃあ貰おうかな」
高士は軽く礼を言って箱ごと煙草を受け取り、上着に入れていたライターで火を点けた。
「君は単純な男だと言われないか?」
「よくわかったな。親からはもっと考えて行動しろって、いつも言われてたよ」
女は笑いながら高士の手から煙草を一本抜き取り、ジッポで火を点けた。
「おい、禁煙するんじゃなかったのか?」
「これで最後だよ。……ところで、君は金に困っているんじゃないのか? 私が助けてやろうか?」
白い煙を吐きながらそう言った女に、高士は苦笑いで答えた。
「いや、確かに煙草を買う金もねえくらい金に困っているけどさ、いくら馬鹿な俺でも疑うだろフツー。助けるって何だよ。俺に臓器でも売らせるつもりか?」
「とんでもない。ただ私の言う通りに動いてほしいだけさ」
女は大袈裟に目を丸くして否定した。
「いやいや、ただ動くだけって言っても、どうせチャカとかヤクの運び屋だろ? やんねえって」
「そんなわけないさ。まあ、聞いておくれよ。十二月二十日に地下鉄半蔵門線に乗って東京駅に行き、東京駅からは中央線に乗り換えて、新宿駅に行ってほしいんだ」
「……は? それだけでいいのか? ……それで、いくら払ってくれるんだよ?」
「少なくとも一千万」
拍子抜けしたところに即答されたことで、高士の心は一気に揺さぶられた。
「……待て待て。冗談だろ?」
「本当さ。私は嘘を吐くくらいなら、大嫌いなブロッコリーをマヨネーズも付けずに食べるよ。まあ、最終的に信じる信じないは君次第だけどね」
心臓が早鐘を打ちつつも、元々楽観的思考の持ち主である高士の気持ちはすでに固まっていた。
「信じるぜ。やる!」
考えた時間はおよそ三秒程度だが、少しでも考えただけ大人になったと言える。
「君はやっぱり、単純なんだな」
女は楽しそうに笑った。
☆
普段半蔵門線は使わないため勝手がよくわからなかったが、駅員に聞いたところ東京駅には停まらないことを知った。大手町から歩くか、丸の内線に乗り換えなければならないらしい。女がなぜ乗り換えなしで到着できる路線を指定しなかったのかは謎であったが、多少の面倒は一千万の前では仕方がないのかもしれないと思い込んだ。
電車内で幸運にも端席に座れた高士は大手町まで寝ようと目を瞑ったが、圧迫感を覚えてすぐに目を開いた。かなりの近距離で、目の前に女子中学生が立っていた。車内は大して混んでいないようだし、こんな不自然に接近される理由はわからない。だが被害を被ったわけではないし、少女は歳相応の瑞々しい肌をしていて顔も可愛らしく、高士としては別段悪い気はしなかったため、そのまま放置して再び目を瞑った。
だが、事件というのはいつだって予測不可能なところで発生するものだ。
「水天宮前、水天宮前。お出口右側です」
電車が駅に着きドアが開いたとき、ここでの降車予定はなかった高士も降りるはめになったのだ。
「……おい。なんだよお前?」
一駅前で、高士は前に立っていた少女に起こされてメモ用紙を渡された。怪訝に思いながらそれを開くと、
『次の駅で降りないと、私死にます』
可愛らしい少女の可愛らしいメモ用紙には、とても物騒な単語が書かれていたのだった。
「聞いてる? 俺の質問に答えてくれないかなあ?」
少女はA4ノートを取り出し、ボールペンを走らせた。
『私は聞くことはできても、話すことができません。筆記でやり取りさせてください』
「……え? マジ?」
少女はすらすらとノートに文字を書いていく。
『声を盗まれてしまったんです』
信憑性が急降下していった。なんだそりゃ? 盗まれた? 誰に? どうやって?
『声を取り戻したいのです。協力してくれませんか?』
「……そんなさあ、人魚姫じゃあるまいし、突然声が出なくなるってことがあるかよ。魔女に願いでも叶えてもらったのか?」
『魔女はいませんよ。神様ならたくさんいますけどね』
「……まあ、いっか。旅は道連れ、世は博士……だっけ? 俺の一千万を得る過程の思い出の一つにしてやるよ。声うんぬんはどうにもできねえけど、とりあえず新宿までだったら付き合うぜ」
少女は目を輝かせて嬉しそうに頷いた。
「で、お前の名前は?」
『ルーシーです』
これもまた信憑性に欠ける名前だと思ったが、最近の子どもの名前は想像を遥かに超えるキラキラネームが多いと、合コンで保育士が言っていたのを思い出した。深く考えないことにした高士は、少女を連れて再び歩き出した。
『高士さんは、何のお仕事をされてるんですか?』
女子中学生の歩幅を考えずに歩いていた高士に、しっかりとついて来た逞しいルーシーがノートに質問を綴った。
「ああ、俺はギャンブラーだよ。適当にバイトして稼いだ金を、何倍にもする仕事だ」
『すごいですね! 才能がある人にしかできないことだと思います!』
こんなに素直な返事をされたのは初めてだった高士は、面を食らった。
「……まあな。たとえ負けてもくじけない精神力も必要になる、過酷な職業だ」
『格好いいですね! どんな風に戦っているのですか?』
気を良くした高士は、少しだけゆっくり歩いてあげることにした。
☆
東京駅に着いた高士は駅構内を見て回ることはせずに、すぐに女の指示通り中央線に乗り換えて新宿へ向かった。ルーシーは高士の意図不明の乗り換えに愚痴も零さず質問もせず、当たり前のように後をついてきた。しかし高士の行動に口出しはしないものの、歩いていても電車の中でも、高士自身に対する質問は止まらなかった。
『何歳ですか?』『趣味は何ですか?』『お風呂に入ったらどこから洗いますか?』
中身のない質問に高士は適当に答えつつ、ようやく二人は新宿駅に到着した。煙草が吸いたくなった高士は人で溢れかえる駅前から少し歩き、裏通りに出てから火を点けた。珍しく人に言われたことを最後までやり遂げたという達成感も大きかったが、ルーシーというイレギュラーが介入してきたために、予想以上に疲れてしまった。ルーシーと別れ、さっさとあの女を見つけて金を貰って遊びに行こうと思った。
「おい、ここで解散しようぜ。早く話せるようになるといいな」
ルーシーに適当な別れの言葉を告げて片手を上げると、ルーシーはノートにペンを走らせて高士に見せつけた。
『ここまでご一緒してくれて、ありがとうございました。最後に質問をさせてください。高士さん、あなたは死ぬことについてどう思いますか?』
「死ぬこと? んー、あんま考えたことねえけど、そりゃあ嫌なことなんじゃねえの?」
最後まで適当に答えた高士に微笑んだルーシーは、スカートの中に隠していたリボルバー式の拳銃を、目にも止まらぬ速さで突きつけた。
「……は?」
母親に小さいころから耳にタコができるくらいに言われた言葉を今更になって思い出したが、どうやら遅すぎたようだ。
高士はルーシーの唇が「さよなら」の形に動いたのを視認した。
部屋に入ってくる日光の眩しさで、胡桃は目を覚ました。
昨夜の就寝時間の遅さと太陽の高さから推測するに、十三時から十四時くらいだろう。枕の横に置いてある携帯電話で正確な時刻を確認すると、十三時半だった。予想は的中したものの、またやってしまったという後悔で目覚めはいいものとは言えなかった。
バナナと牛乳だけの簡単な食事を済ませ、着替えをしながらヘアアイロンの電源を入れた。口元よりも目元に重点を置いたメイクはお手の物だ。髪も顔も誰が見ても美人だと称賛するレベルまで仕上げ、全身鏡で洋服のバランスを見てから、最近買ったばかりのお気に入りのブーツを履いて家を出た。
底冷えするような冬の東京の寒さを経験するのも、今年で二度目になる。大学入学と同時に愛知県から上京してきた胡桃は、「勉強に恋愛にアルバイト、すべて全力で取り組もう!」という女子高生時代に立てた目標を、入学三ヵ月で早々に諦めた。アルバイトをすると勉強が追いつかなくなり、恋をするとアルバイトどころではなくなり、勉強に力を入れるとお金がなくて遊べなくなってしまうからだ。
大体、欲張りすぎるのがいけないのだ。何事も適度に、現実的な範囲で。夢と現実の境界線を学ぶことこそ、大学生活で学ぶことなのだろう。そう結論づけた胡桃は現在、彼氏も好きな人もいない冬休みというアドバンテージを生かしてアルバイトに精を出していた。
今日もまた都内で適当に時間を潰した後、アルバイト先へ向かった。
「おはようございまーす」
胡桃のアルバイト先はキャバクラでは、どんな時間に出勤しても必ず「おはようございます」と挨拶するのがルールである。洋服や食事にお金をかけたい胡桃は普通のアルバイトではなかなか貯金ができなかったのだが、
「時給いいみたいだしさ、キャバクラで働いてみない? わたし一人で始めるのは心細いから胡桃も一緒にやってみようよ!」
と、友人に勧められたことがきっかけで半年前からキャバ嬢として働いていた。幸いなことに、胡桃は一般的に見て人並み以上の容姿とスタイル、トークスキルを持っていたために店内ではそこそこの人気を博していた。嫌な客が来ることも少なくないが、短時間で高収入が得られる効率の良い仕事だと胡桃は計算し、就職活動で忙しくなるまでは続けてみようと思っている。
「夕菜ちゃん、指名入ったよ」
夕菜とは胡桃の源氏名である。ボーイからそう言われた胡桃は、接客中の四十代サラリーマンに哀しそうな顔をして見せた。
「ごめんね、呼ばれちゃったみたい。また遊びに来てね? 待ってるから」
男は不満そうな顔をしていたが、胡桃が手を握って上目遣いで見つめると「ああ、また来るよ」と答えて胡桃を見送ってくれた。
胡桃はボーイに案内され、指名してくれたという男性客の隣に座った。
「初めまして。ご指名ありがとうございます」
人の顔を覚えるのが得意な胡桃は、自信を持って「初めまして」と言った。店のホームページに顔を載せていない胡桃のことは、店に来なければ知ることができない。つまり、以前に来店した際に彼は他の嬢から接客を受けたものの、店内にいた胡桃が気になったという可能性が高い。誇らしく思えた胡桃は、いつもよりサービスして接客しようかなという気持ちになっていた。
「嬉しいな。ずっと夕菜ちゃんと話したかったんだ」
男の穏やかな微笑みに少しだけ見惚れた。爽やかで端正な顔立ちをしている男は、お金を持った雰囲気まで纏っている。端的に言えば、とても格好良かった。
「何か飲む? 好きな飲み物頼んでいいよ」
「えー嬉しい。じゃあ、これなんてどうですか?」
胡桃がぶりっ子しながら高い酒を提案すると、男は二つ返事で注文してくれた。
シロヤマと名乗った男は二十八歳で、都内で会社を経営していると言った。話し上手で聞き上手でもあるシロヤマとの時間は心地良く、お酒もお喋りも進み久々に仕事の時間を楽しく過ごすことができていた。
初指名でこんなにお金をかけてくれるなんて、どれだけ気に入ってもらえたのだろうと、胡桃は女としての優越感で満たされていくのを感じた。シロヤマは胡桃と二人で話したいと注文したのか、周りの女の子たちもいなくなり気がつけば胡桃とシロヤマの一対一になっていた。
ドンペリを半分ほど胃の中に収めたあたりで、酔った気配を見せないシロヤマが胡桃の瞳をじっと見つめた。
「今からはキャバ嬢としての夕菜ちゃんじゃなくて、素の夕菜ちゃんと話してみたいんだけどいいかな?」
「ええー? わたしはいつも自然体だよ? 特にシロヤマさんと話していると、リラックスできちゃう気がする」
決して崩さない胡桃の営業スマイルを見たシロヤマは、白い歯を見せた。
「それだ。そういうのを止めにしようって言ったんだよ」
一瞬、狼狽させられた。シロヤマが持っている男としての色気と放たれるオーラに、飲まれそうになったのだ。ペースを取り戻すために胡桃は一度息を吐いた。
「……まあ、いっか。こんなにお金使ってもらったし、出来るだけ要望には応えるよ。何を話せばいい? 訊きたいことがあるならどうぞ?」
「特に訊きたいことがあるわけじゃないな。好きな男のタイプとかも興味ないし……じゃあ、好きな食べ物は? 料理は作る方?」
今まで大人の会話を楽しんでいたのに、いきなり中学生みたいなことを訊いてくるなんてよくわからない男だと思った。笑顔を取り繕おうとしたが、営業モードは気に入らないようなので思ったことをそのまま口にした。
「好きな食べ物は白米。料理は時間があれば作ってる。……っていうか、女はみんな料理するものだって思ってる? そんな男はモテないよ?」
「そう? でもさ、男はみんな料理ができる女の方が好きだって思いこんでいる女の子だって、幸せになれないと思うな」
揚げ足を取られたようで、不快な気持ちになった。
「ごめんね。本当にくだらないことを言ってしまった。実はね、君には僕のお願い事を三つ聞いてほしいんだ」
「なにそれ。体売るとかは絶対嫌だからね」
「違うよ。もっとくだらなくて、つまらないことだよ。聞いてくれたなら、僕は君のお願いをなんでも叶えてあげるよ」
「全然信じられないけど、ここはキャバクラだしね。話だけは聞いてあげる」
シロヤマはにっこりと微笑み、胡桃に近づいた。
「一つ目。この番号に電話をかけて、どうでもいいことを一つだけ訊いてすぐに切ってほしい」
シロヤマから渡された紙に書いてある電話番号は、0120から始まるフリーダイヤルだった。
「どうでもいいことって何? 食べたいものとか、嫌いな芸能人の名前とか?」
「理解が早いね、素晴らしい。そんな感じでOKだよ」
胡桃は紙とシロヤマの顔を見比べた。彼が何をしたいのかまるで見当がつかない。
「二つ目。十二月二十日に京王線を使って、新宿駅に行ってほしい」
「え、それだけ? ……それで、新宿に行って何をさせるつもり?」
「いや、駅に行くだけでいいよ」
行くだけでいいなんて現実的に考えてありえるのだろうか。きっと駅に行ったら見るからに怖そうな人たちが胡桃を囲んでどこかに連れ去り、想像もしたくないようなことをされるのだろう。そう予想した胡桃は急にシロヤマが胡散臭い男に見えてきた。
「……怪しすぎるでしょ。行くわけないじゃん、そんなの」
「僕は君のそういう賢いところが好きだよ。でもね……」
シロヤマは胡桃の耳元に唇を近づけた。
「……もし断ったら、君がここで働いていることを君の友人や家族、君が知られたくないと思っている全員にバラす」
「……脅しでしょ? あんたがわたしの対人関係を把握しているわけないし」
「そう思うならご自由に。ただ……君の本名は相葉胡桃、ご両親の名前は康夫さんと和子さんで間違いないね?」
「……なんなのよ、あんた」
最低な脅しにこの場は一旦屈服せざるを得なかった。店を出たらこの男のことを調べて法的な制裁を加えてやると決めた。
「……で、三つ目は?」
「三つ目は新宿駅に着いてから話すよ。安心して。君の身の安全は絶対に保証するから。ああ、そうそう。事が終わってからはどうしようとも君の勝手だけど、三つの約束は必ず守ってね。賢い君なら、僕の言っている意味がわかるでしょ?」
「よくわかったわよ、あんたが最低野郎だってことがね。どうせろくなことにならないなら早く終わらせた方が効率的よね。……ほら、酒がなくなったんだからもう帰ったらどう?」
逃げ場を失った胡桃が自暴自棄に目の前にあったドンペリを一気飲みすると、シロヤマは笑って帰り支度を始めた。
☆
嫌なことはさっさと終わらせたいと思い、一つ目の依頼は次の日に片付けた。
胡桃が適当に訊いた質問は『冬って好きですか?』だった。相手の反応も待たずに切ったため電話先のことはほとんど覚えていないが、どこかのメーカーのお客様相談室だったような気がする。
数日経って、二つ目の依頼を実施する十二月二十日がやってきた。目覚ましもかけずに好きな時間に起床し、時間をかけて化粧をして、黒ストッキングにブーツ、キャメルのチェスターコートという装いで家を出た。
京王線は普段通学で使う路線で、勝手がわかっているため何も苦労はなかった。新宿だってよく来るから別段思うところもない。駅に着いた胡桃は改札を出て、一番人の多い東口に向かうことにした。
胡桃は人ごみが嫌いではないが、一人で手持ち無沙汰にしているとナンパや勧誘が鬱陶しくて不快な思いをすることが多い。しかしここからどうすればいいのかわからなかった胡桃は、仕方なくライオンひろばに腰掛けてシロヤマがいないか周りを見渡してみた。
すると、細身で眼鏡をかけたスーツのサラリーマンらしい男が胡桃の方を見ていることに気がついた。男の視線を感じるのは珍しくもないけれど、彼はおずおずしていて気持ちが悪かった。話しかけられたら嫌だなと思っていた矢先、男は意を決したように表情を固くして近づいて来た。
「あ、あの……シロヤマさんですよね?」
脳内の記憶を懸命に辿ってみたが、彼は過去に出会った男としての検索に引っ掛からなかった。そもそも、シロヤマとはあの男の名前だ。この人もあいつに何かされたのだろうか?
思考に集中して発声を失念していると、男は不安になったのか質問を連投してきた。
「あの、昨日電話で話しましたよね? 僕が今日出版の話をさせていただく約束をしております、芳野文健です。今日はよろしくお願いいたします!」
勘違いさせたままでは面倒くさい。胡桃は自己紹介を終えた男にさらりと告げた。
「……人違いじゃないですか?」
人の顔色がはっきりと変わる瞬間を見てしまった。だがこの人が落ち込もうが恥ずかしがっていようが、今の胡桃にはどうだっていい。
さて、これからどうすればいいのだろう。胡桃は携帯電話を取り出し、意味もなくSNSにログインして時間を潰すことにした。
都内のとある大手住宅メーカーのお客様相談室では、パソコンのキーボードを叩く音と電話の声が飛び交っている。多くの派遣社員たちが時給分の仕事をこなす中、文健は大きな溜息を吐いた。
奥から二番目の女が、もうかれこれ三十分は「申し訳ございません」と謝罪ばかりを口にしている。そろそろお呼びがかかるだろう。
そらみろ、女の手が上がった。面倒だと思う気持ちを顔に出さないように急ぐ素振りで駆け寄ると、女はデスクの上の裏紙に『クレームです。上司を出せと言っています』と書いていた。字は綺麗ではなかった。
「わかった。一旦保留にして」
文健がそう言うと女は安心したように、
「上司に代わりますので、少々お待ちください」
と言って保留ボタンを押した。
「芳野さん、この客頭おかしいんですけど! 商品の原価を教えることはできないってずっと言ってんのに、『なぜ言えないんだ』『お前じゃ話にならないから上の奴を出せ』ってしつこくて! 超ムカつくんですけど!」
「うん。とりあえず代わるからこれ付けて」
若い派遣社員の女は感情を抑えられず、上司である文健の前でも平気で客の悪口を言っていた。文健は女からヘッドセットを受け取って彼女にヒアリング用のイヤホンを渡し、保留解除ボタンを押した。
朝一から厄介で面倒な客だった。あの客を宥めるのに一時間半かかった挙句、終わったと思ったら今度は別のオペレーターの手が上がり、もう一セット対応に追われた。
都内の私立大学を卒業した文健が、人材派遣会社の正社員としてメーカーのコールセンター業務を取りまとめる部署に配属されてから、二年目になる。
文健には不満を持っていることがたくさんある。一つ目は、朝一で難癖をつけてくる客。もちろん、電話では丁寧な謝罪と納得のいく説明を心がけているが、胸中で悪態をつくことなんて日常茶飯事だ。
二つ目は、従業員たちの態度。上司である文健に対しての口の利き方や、対応を代わってもらっても当たり前だと思っているのか、お礼も言わない態度が気に入らなかった。「クレーム処理も自分たちの仕事だろうが」と彼女たちに面と向かって言えない文健は、ストレスを募らせていた。
そして三つ目は、アナログの機械である。今時のコールセンターはパソコン一つで通話履歴も残せるし、チャットのようにパソコンにメッセージを飛ばすこともできるのが当たり前なのに、文健の職場ではまだ取り入れられていない。クライアントが導入資金を渋っているからだ。
だから問題が起こらないように、起きてしまってもすぐに対応できるように、窓口の責任者である文健は常に島全体に目を配らせなければならず、無駄な体力を使っているのだった。
長く辛い一日を終えて2DKのアパートに帰宅しても、一人暮らしの文健の部屋には待っている人は誰もいない。ただいまも言わずに電気をつけ、何よりも先にパソコンの電源を入れるのが文健の習慣だった。スーツを脱ぎ、手を洗って、買ってきた弁当を食べながら立ち上げたパソコンでお気に入りのサイトを巡回していく。
腹が膨れ食欲が満たされたら、ワードを立ち上げる。いつかこんな会社辞めてやる、文健がそう思わない日はない。まだ誰にも言っていない野望を、文健は縦書き設定にしたワードの空白に叩き込む。
文健が書いているのは、妄想を詰め込んだ小説だった。こいつを新人賞に出して賞を獲り、ゆくゆくはベストセラー作家になって印税生活をする。文健の夢は、彼の日常に光を与える貴重な活力源であった。今日もまた文字を打ちながら、文健の夜は更けていくのだった。
☆
基本的に、毎日が同じことのローテーションだ。
「上司に代われって言ってます」
今日もまたクレームが来たようだ。
「言ってますじゃねえよ! 他に言うことあるだろうが!」
そう思いながらも口にすることはせず、文健は冷静な素振りで不機嫌そうな女からヘッドセットを受け取った。女は相当腹が立っていたらしく、文健が渡したヒアリング用のイヤホンをデスクの上に置き、激しく物音を立ててどこかへ行ってしまった。
電話が終わって彼女が戻って来たら、面談という名の説教をする必要がある。面倒ごとが増えたことに眉根を揉みながら、文健は保留を解除した。
「お電話代わりました。神田の上司の、芳野と申します」
『こんにちは。君は何色のパンツ履いているの?』
電話応対でやってはいけない行為だということはわかっているが、思わず沈黙してしまった。この間も冬は好きですかなんてくだらないイタズラ電話があったばかりだが、まだあれは可愛いものだった。今日は本物の基地外が来てしまったかもしれない。
電話の相手は恐らく二十代から三十代であろう女だった。若い女性オペレーターにセクハラ紛いのことを言う輩は珍しくないが、自分にこんなことを言ってくる相手は初めてだった。
文健は唾を飲み込み、続けた。
「お電話が遠いようですので、もう一度仰ってもらえますか?」
『パンツのことはもういいや。突っ込みに反射神経のない男は面白味がないね』
「……さようでございますか。誠に申し訳ございません」
暇つぶしに遊ばれていると判断した文健は、電話を切りたくてしょうがなかった。何を言われても言い返さず謝っておけば、飽きて電話を切るだろう。そう考えていたのだが、
『でも君の小説は面白いと思うよ』
「な……!?」
度肝を抜かれ、またしても黙りこんでしまった。なぜこの女は俺が誰にも言っていない趣味であり野望であり、かつ知られたくない秘密を知っているんだ? 訊きたいことが次々に頭に浮かんだが、ここは職場だ。下手なことを口走ればただでさえ女が多い職場だ、あっという間に噂が広まってしまうだろう。
しかし幸いにも、クレームを報告した女はヒアリング用のイヤホンを付けずにどこかへ行ってしまっている。文健は周囲にばれないよう慎重に、小声で疑問を口にした。
「……お客様はどうして、そのようなことをご存じなのですか?」
『そんなことはどうでもいい。芳野さん、君が本当に知りたいのは、自分の小説が世の中に認められるのかどうかだ。違うかい?』
「ち……がいませんが、今、あなたと話してもしょうがないことです」
文健は一層声を潜めた。
『初投稿で運よく一次審査を通ってしまったから、自分には才能があると思い込んだんだろ? その後の投稿はぜーんぶ一次落ちをくらっているくせにね』
誰にも話していないはずの秘密を知られているという恐怖と、文健の小説を面白いと言ったり貶めたり、女の意図がまるで掴めずに混乱を極めた文健は泣きそうになっていた。
『いやいや、落ち込むことはないよ。まず君はね、名前がいいよ。文健。名前に『文』が入っているなんて、小説家になるために生まれてきたみたいなものじゃないか』
苗字しか名乗っていないのに、名前、それも漢字まで知られてしまっていることには、さほど驚かなかった。どうせなんでも知っているのだろうと、投げやりになっていたくらいだ。
『……ところでさ。私が君の夢を叶えてあげるって言ったら、乗るかい?』
文健は一瞬躊躇したため、唾を飲み込む一秒間の間に女を優位にさせてしまった。
『君は頭の回転が遅いね。他人を見下すくせに、馬鹿なんだな。じゃあ明日の十二時に新宿駅東口で待っているよ。黒いブーツに青いスカートを穿いて、キャメルのコートを着ている茶色いロングヘアの二十代の女に声をかけてくれ。それが私、某有名出版社の編集者シロヤマだ。詳しいことは明日話すよ。またね』
「ちょっ……」
文健の返事を待たずに電話は切れ、機械音だけが文健の鼓膜に響いた。
女のすべてが怪しすぎて、逆に疑う気持ちが薄れたくらいだ。女には訊きたいことが山ほどある。明日は土曜日で仕事は休み、予定もない。会うだけ会ってみて、話を聞いてみるのがいいのではないだろうか。
自分に都合のいいように出かける理由を見繕っている文健は、夢を叶えてくれるという言葉に見事に踊らされていた。1パーセントでも夢に近づく可能性があるなら、賭けてみてもマイナスにはならないのではないか。毎日コツコツ頑張ってきたから、神様がわかりやすいチャンスをくれたのだ。文健はこのとき、そう信じて疑わなかった。
芳野文健は疑り深い性格のくせに、依存心が高い人間だ。だからこそ、あっという間につけこまれたのだった。
☆
文健は大人しそうな顔をしているが、基本的に短気な性格だ。ATMでもたもたしている人を見ればイライラするし、電車で扉付近にいるのに扉が開いても避けない人は大嫌いだ。
文健のそんな性格は特に、こんな風に落ち着きなく一人でいる街中で存分に発揮される。新宿駅東口のライオンひろばで、不自然にはならない程度に目玉を動かしながら、他人から気持ち悪いと思われないようにシロヤマを待った。電話口で聞いたシロヤマという女の特徴は、『茶髪ロングの二十代の女。黒いブーツに青いスカートを穿いて、キャメルのコートを着ている』というものだ。しかしこの人ごみの中には条件に該当する女は大勢いて、文健は判断に困っていた。
待つこと二十分。それらしき女性が一人、手すりに腰掛けた。――この人だ、と思った。誰かを待っているように見えるし、何より直感めいたものが働き、文健は彼女がシロヤマだと信じて疑わなかった。
女は目鼻立ちのバランスがずば抜けて整った容姿をしていて、特に大きな双眸には人を惹き付ける魅力があった。文健が想像するより女がずっと美人だったため、ただでさえ初対面の女性と話すことに緊張する性質だというのに、ハードルがぐっと上がってしまった気がした。だが気分が高揚したことも事実だ。文健は深呼吸をして、女に近づいていった。
「あ、あの……シロヤマさんですよね?」
勇気を振り絞って声をかけると、女は警戒した顔を見せた。緊張している文健の頭はそれを『積極性とコミュニケーション能力を試すテスト』だと勝手に判断し、続きを口にしなくてはという焦燥に駆られた。
「あの、昨日電話で話しましたよね? 僕が今日出版の話をさせて頂く約束をしております、芳野文健です。今日はよろしくお願いいたします!」
女はやっと腑に落ちた顔をした。ああ、良かった。やっぱりこの人がシロヤマなのだ。
しかし、安心したのも束の間だった。
「……人違いじゃないですか?」
言われた瞬間、文健の背中に冷や汗が噴き出した。勘違いが恥ずかしくてこの場からすぐにでも逃げ出したかったが、口も体も硬直して動けなかった。成程、これが死後硬直というものかと、訳のわからないことを考えながら現実逃避していると、どこか田舎臭い女子高生が真っ直ぐに自分の方へ向かってきた。化粧気のない顔で文健を見たかと思えば落胆したような顔をして、少女は女の方に向き直り懇願した。
「ひ、人が撃たれそうなんです! 助けてください!」
まさか自分がこんなドラマみたいな経験をすることになるとは、想像もしていなかった。少女が誰彼構わずからかって遊んでいる可能性が高いとは思うが、こんなに真面目そうな少女が息を切らして走って来て、真剣な顔をして言ったものだから、真っ向から否定してしまうのも気が引けた。女はどう反応するのだろうと思っていると、
「場所は?」
「あ、あっちです! あたしについて来てください!」
少女と一緒に女は走って行ってしまった。少女に声をかけられていない俺は関係ない。文健は自分にそう言い聞かせようとしたが、本当に事件だったなら後味が悪い。
文健は恐怖と良心の呵責を天秤にかけ、彼女たちを追いかける選択をとった。
美保は好きな芸能人のSNSを徘徊し尽くした後、大きく背伸びをした。
机の上にはまだ片付けられていない宿題が並べられているが、残された数学に手をつけることを億劫に感じていた。美保は数学が苦手だ。三年生になれば、私立文系大学へ進学希望ゆえに数学から少しは解放されるとは思うけれど、来年の話をしても仕方がない。今はとにかく、目の前の問題集を片付けなければならない。そう頭ではわかっていても、嫌だなと思ったときの九割は逃避に走ってしまうのだ。
今日も例に漏れず、美保はつけっぱなしにしていたノートパソコンの前に戻った。パソコンは高校入学前の春休みに父親にねだって買ってもらったものだ。進学校に合格したことに対するご褒美兼、真面目な娘に限っておかしなことには使わないだろうという、父親の信頼から勝ち取った戦利品である。
同級生のケイコにメッセージを送った。
ミホ《真衣ちゃんの動画見て現実逃避してたらまんず、宿題進まねーべ》
五分もしない内に返信が来た。
ケイコ《おめ、そっだら言葉遣いしてコメントしたんじゃねーべな? 東京さいっだら馬鹿にされっぜ?W》
ミホ《バリヤバー☆ 超頑張る! ギャルになって帰ってきちゃおうかな~?》
ケイコ《その言葉遣いも合ってんのか、おらじゃ判断できねえから悔しいじゃW》
青森県の田舎町で生まれ育った美保は、東京に憧れていた。同級生たちとはいつも自分たちの住んでいる場所がいかに田舎かを卑下して笑い、テレビと雑誌、インターネットで得た東京の店や芸能人、お洒落の情報交換に励んでいる。美保は高校を卒業したら絶対にこの町を出て東京の大学へ行こうと、ずっと前から決めていた。
ケイコ《そんだ、美保って「新宿駅の死神」の噂知ってっか?》
随分と恥ずかしい名前が噂になっているらしい。美保は素直に《知らね》と返信した。
ケイコ《人間の願いを叶えてくれる神様だってよ。死神なのに願いを叶えるってよくわがんねえけど、今ネット上で噂だけが広がってんだず》
ミホ《死神て響きはおっかねえな。でもおらには関係ねえべ。少なくともあと一年は青森で高校生だし、東京の大学に受かったときに覚えてたら、探してみるかなW》
その後少しだけメッセージのやりとりをした後、美保はしぶしぶパソコンを落とし数学の宿題を片付けてから、眠りについた。
☆
青森の冬は寒いというレベルではない。一時間前からおはようタイマーでストーブをつけているのにもかかわらず、布団から出るのに相当の気合と勇気がいるのだ。美保は悲鳴をあげながら身支度を済ませ、朝ご飯を胃に詰め込み素早く家を出た。
アイスバーンで凍った道路を車で走る雪国の大人たちは、雪道を走る術を心得ている。十七年間この町で生きている美保も、転ばない程度の最大速度で、白い息を吐きながら固くなった雪を踏みしめて上手く歩いて学校へ向かった。
美保は毎朝、必ず顔見知りの町人たちに声をかけられる。角の駄菓子屋のタミおばちゃんに、いつも雪かきしている権ジイ、煙草臭い派出所の安井さん。人口二万人のこの町では少子高齢化が進んでおり、若者は地域ぐるみで大切にされていることを、美保は子どもながらに感じていた。
「東京の大学さ行っても、いずれはここさ帰って来てけろな?」
大人たちにはよく言われるが、美保は東京へ出たら戻る気なんてなかった。一刻も早くここから出たい気持ちをモチベーションに勉強に励んでいるのだ。
(……サボることもあっけどな。さて、だば今日も大人しく学生しますか!)
学校に着いた美保は、コートについた雪を振り落としながら気合を入れた。
☆
夕食を食べ終え、宿題をしながら今日も休憩中にパソコンを立ち上げた。いつもの流れで一通りネットサーフィンを楽しんだ後でメールをチェックしていると、差出人《シロヤマ》から件名《初めまして》というメールが届いていた。どうせ迷惑メールだろうと思いながらも一応クリックして中を確認してみた。
シロヤマ《新宿駅の死神を一緒に討ちませんか? もし成功すれば、そうですね。報酬は央田大学合格、ってことでどうですか?》
美保は一瞬で戦慄を覚えた。シロヤマと名乗る差出人が、美保の進学希望大学である央田大学を知っていたからだ。
しかし冷静に考えてみると、自分をよく知る友人の悪戯の可能性が高いと思った。
ミホ《あなたは誰ですか? あたしの友達ですか?》
シロヤマ《いずれは友達になりたいと思っていますが、今はただの応援者です》
ミホ《質問に答えないなら、これ以降はスルーします》
シロヤマ《待ってください。ねえミホさん、東京旅行へ来ませんか? 真っ白い雪に囲まれた日常にいると、ネオンを見たくなる日もありますよね?》
ミホ《そんな簡単に行けるわけがないでしょう? 交通費だってかかるんですよ? お父さんとお母さんには、なんて言えばいいんですか?》
シロヤマ《二週間後、十二月二十日土曜日。この日、央田大学でオープンキャンパスがあるはずです。それに行きたいと言えばご両親は必ず行かせてくれますよ》
ミホ《必ずって……その根拠は? 前に一度お願いしたときは、絶対にダメって言われてるんですけど》
シロヤマ《私は神ですから。必ずと言えば必ずなんです》
美保はシロヤマが友人ではないと判断し、警戒した。まるで漫画の世界の人物みたいに発言が痛々しいが、何がしたいのだろうか。考えてみてもわからないので、美保は試しにほんの出来心のつもりで、一階に降りて居間の扉を開いた。
「……ねえ父ちゃん。今月の二十日に央田大学のオープンキャンパスがあるって、前に言ったべ? その……やっぱり行ってみでえんだけど、どうしてもダメがな?」
炬燵の中で横になってテレビを見ている父親におそるおそる訊いてみると、父親は体を起こして美保の方に向き直った。しつこいと怒られるかもしれないと、美保は構えた。
「……いんや、美保がこっがらの勉強のやる気に繋げてくれるのであれば、行ってもいいど。どうせなら一泊くらいして、東京の空気を感じてごい」
世の中を知らない田舎の高校生は、シロヤマへの警戒心をあっという間に氷解させた。東京に行ける喜びに脳内のアドレナリンが大量放出して、それこそシロヤマを神であるかのように信じ込んでしまったのだった。
美保はそれから《シロヤマ》と何度かメールでやりとりをして、指折り数えながら東京へ行けるその日を待った。
☆
自分にできる最大限のお洒落をして、新幹線に乗ってはるばるやって来た初めての東京に感動して写真を撮っている余裕があったのは、最初だけだった。
美保の住む町の駅は電子掲示板もなく、二時間に一本の電車が当たり前だ。だからぼうっとしているだけで次の電車がやってくる都会の電車が羨ましいと思っていたのだが、人の多すぎる電車に早くも辟易していた。
「これが満員電車かあ! 東京っぽい!」
なんて感動は、何一つなかった。暑いし痛いし、それに運が悪かったのか車内が臭かったために、早く降りたいという気持ちしか湧いて来なかった。東京に住んでいる人はこれに毎日乗っているのかと考えただけで、都民全員を敬いたくなった。
だが央田大学でのオープンキャンパスでは、とても有意義な時間を過ごすことができた。より一層この大学に入りたいという思いを強めた美保が次に向かったのは、新宿駅だった。気持ちが昂っている今の状態なら、シロヤマの依頼も難なくこなせるような気がしていた。それにやらなければならないことは早く終わらせて、東京観光に集中したかったのだ。
シロヤマは新宿駅の死神を討つための手段として、銃殺を提案していた。
ミホ《待って下さい。人殺しはやりたくないです》
シロヤマ《相手は人間ではないから平気ですよ》
ミホ《人が多いと思うんですけど、撃つところを見られたら、あたしの人生終わりじゃないですか?》
シロヤマ《安心してください。人払いはしていますので、存在するべき人しか立ち入れないようになっています》
シロヤマは聞く耳を持たず、美保の家に新宿駅東口のコインロッカーの鍵を郵送してきた。当然のように、差出人の名前と住所の記載はなかった。
魔境と呼ばれる新宿駅の構造に見事に迷子になりつつも、何度も駅員に東口への行き方を訊いて美保はようやく目的地に辿り着いた。鞄に入れていた鍵を該当するロッカーの鍵穴に差し入れると、ロックが外れる音が聞こえた。美保は慎重に中を覗き、唾を飲み込んだ。白い袋に包まれてはいるものの、隠し切れない存在感。あの中には間違いなく銃が入っていることがわかった。
学芸会レベルという、お遊び演技のことを指すあまり誉れのない言葉があるが、今の美保の演技はまさにそのものだった。人を殺すわけではないと言っても、銃を持つことが違法だということくらい美保だって知っている。自然にしようと努力はしているものの、周りから見ればまるで不自然な動きで、美保はロッカー内から銃を取り出して逃げるようにその場から走り去った。
美保は携帯電話を取り出し、もう一度画像を確認した。シロヤマから《彼が新宿の死神だよ》とメールで送られてきた男の画像は、短髪を金色に染めている二十代前半に見える男だった。画像だけで判断すると、頭は悪そうだがくっきりした顔立ちで、美保の通う高校にいたら間違いなく人気の出るタイプだと思った。
名前は境高士というらしく、今日の十二時頃に新宿三丁目の細い裏道で煙草をふかしているところを狙え、という指示だった。
(てかこの人、本当に死神なんだべか? 普通の人間にしか見えねえけど……)
直前になって不安になりながらも、シロヤマの言うことだから間違いはないのだろうと素直に従った。極度の興奮と緊張から、深く考える思考能力がなかったとも言える。十二時よりかなり早めに目的地に到着した美保は、行き交う人々がみんな自分を見ているような気がしてならなかった。
(おら、田舎臭いから馬鹿にされてんのかな? 変な人に攫われたりしねえよな? 新宿の死神さん早く来てけろ! おっかねえじゃ!)
恐怖と戦いながら祈るような思いで待っていると、ついに待ち人はやって来た。彼は中学生くらいの少女と一緒にやってきて、煙草に火を点けた。行動を共にしている少女がいるのは聞いていないが、間違いなく境高士である。美保は上がりきった心拍数を下げるため一度深呼吸をして、銃を取り出そうとし――目を丸くした。
少女が高士に銃を突きつけていたのだ。本来自分がやるべき役割を、少女が担当しているということになる。
どうすればいいのだろうか。判断に困った美保は急いでシロヤマにメールを送ってみたが、返事は返ってこなかった。
予想していた以上に、人が人に銃を向ける光景というのは恐ろしいものだった。引き返すなら今しかないと思った。シロヤマは「相手は人間ではない」と言っていたけれど、境高士の姿形はやはりどうみても人間だ。自分やあの少女が彼を殺してしまえば、絶対に罪になると思った。しかし、一人で彼らに声をかけに行くのは怖い。誰か大人と一緒に声をかけようと考え周りを見渡してみたが、人払いをしていると言ったシロヤマの言葉は本当だったようで、こんな衝撃的な光景が目の前で繰り出されているのに周辺には誰もいなかった。
美保はこの場を離れ大通りに出た。大通りは打って変わって人が多く、声をかけるのにも慎重になるくらいだった。下手に怖い人に声をかけて状況が悪化したら最悪だし、弱そうな人に声をかけて返り討ちにあったら目も当てられない。
どうしようかと焦って走り回っているうちに、新宿駅東口前の広場に辿り着いていた。そこで美保の視界に入ったのは、スーツ姿の地味な男だった。サラリーマンならしっかりしてそうだと考えたのだ。女の人と一緒にいることも安心材料に見えて、美保は二人に駆け寄った。
突然息を切らして前に立った美保を見て、二人とも驚いているようだった。スーツの男は近くで見ると想像以上に細くて弱弱しく、美保を見ただけで動揺していて何かあっても責任逃れをしそうだと思った。対して、女の方は美保を品定めするかのようにじっと見据えていて、その視線が少し怖かったものの堂々として頼れる雰囲気だった。
美保の本能が、女の方に頼めと指令する。
「ひ、人が撃たれそうなんです! 助けてください!」
美保の予想は当たっていた。男は狼狽えているだけだったが、女は落ち着いていた。
「場所は?」
「あ、あっちです! あたしについて来てください!」
走り出した美保の後をついてくる女は、ブーツなのにスニーカーの美保よりも俊敏に走っていて格好いいなと思った。男はその後ろを慌てたようについて来た。呼んでないのにと声をかける時間すら惜しく、美保は二人を引き連れて現場に向かった。
戻ってみると、まだ少女は高士に銃口を向けたままの硬直状態にあった。美保は二人を指差し、
「この人たちです!」
息を切らしながら告げた。女は頷き、冷静にかつ堂々と少女に近づいた。
「あなた、銃を下ろした方がいいわよ」
「……どうして?」
「あなたがここでこの人を撃ったら、わたしは目撃者になる。警察に行くのって面倒でしょ?」
沈黙が空間を包んだ。瞬きも出来ないくらい緊張していた美保は、この時間が果てしなく長い時間に思われた。
やがて少女は満足そうに微笑み、銃を下げた。
「……やっと、揃った」
銃口が人に向けられていないことにようやく安堵した美保だったが、
「おい!? お前、喋れるのかよルーシー!」
高士の意味不明な言葉に小首を傾げた。
冷静な表情を取り繕ってはいるものの、普段は滅多なことでは物怖じしない胡桃ですら困惑していた。
女子高生に「助けてください」と言われて連れてこられた路地裏で、平然とした顔で銃を持っている女子中学生と、今にも銃殺されそうな金髪男がいただけでも驚きなのに、なんだろうこの展開は。
「おい!? お前、喋れるのかよルーシー!」
ルーシーと呼ばれた銃を持った女子中学生は、金髪男を完全に無視して違う方向を向いていた。同じ方向に視線を移した胡桃が見たのは、
「すまんな。今日お前たちをここに集めたのは、私の都合だ」
黒目の大きな瞳に、体温が感じられない程に白い肌を持つ、黒髪のショートボブがよく似合う十代にしか見えない容姿の少女だった。ルーシーは偉そうな口調の少女の姿を確認すると、丁寧な礼をした後でふっと姿を消した。
脳味噌の整理が追いつかず唖然とする胡桃を置いて、金髪男が一歩前に出て少女に問いかけた。
「お前、誰だ?」
「私は死神だ。名前は持たないが、便宜上この世界ではシロヤマと名乗っている」
――シロヤマ。キャバクラにやってきたあの男と同じ姓だ。胡桃が二人の共通点を探そうと思考回路を働かせ始めた頃、眼鏡男と女子高生は目を丸くし、悲鳴にも似た声を上げていた。今の話を二人は素直に信じたようだが、死神という単語は胡桃にとって非現実的過ぎて、胡散臭く思えてならなかった。
胡桃と同様、金髪男も平然としていた。やっぱり、いい大人がこんな嘘を信じて怖がる訳ないわよね、と眼鏡男に軽い軽蔑の気持ちを抱きつつ胡桃は溜息を吐いた。
「驚かないのか、お前たちは」
シロヤマと名乗った少女は、胡桃と金髪男を見て興味深そうに訊いた。
「だって死神とか有り得ないし。子どもじゃないんだから、信じるわけないじゃん。普通はそう思うよね?」
胡桃は同意を得るために金髪男に話を振った。
「え、死神って存在するだろ? 公務員みてえな仕事だって、ダチが言ってたし」
金髪男があっけらかんと答えた瞬間、その場の空気が変わった。予想外の回答に硬直してしまった胡桃の代わりに、おどおどしていた眼鏡男が勢いよく突っ込みを入れた。
「ちょ、どう考えても公務員っておかしいだろ! そんなの嘘に決まってるわ!」
「は? マジかよ!? 俺、中学生の従妹に得意気に教えちゃったけど!?」
「だ、大丈夫ですよ! 従妹さんはきっと冗談だと思って、乗ってあげただけだと思います!」
金髪男のフォローをした女子高生は、癖のある黒髪をサイドに纏め、膝丈のプリーツスカートから細い脚を覗かせていた。素朴で愛嬌のある顔をしているのに、不慣れであろう化粧が可愛らしさを殺していて勿体ないと思った。初めて話しかけられたときも思ったが、彼女はイントネーションがどこかおかしい。おそらく田舎からたまたま東京に遊びに来た子なのだろうと予想した。
「私にはお前たちが騒いでいる理由が理解できないが、高士が言ったことは当たっている。死神の仕事は正社員の形態をとっていて、年功序列の終身雇用だ。安定した職業だから、特に日本の死人たちから人気がある職業の一つということに間違いはない」
「俺、就職したいんだけど! 採用してくれ!」
「死んでから出直して来い。採用率は六千万分の一の超狭き門だがな」
シロヤマに一刀両断で不採用通知を出された金髪男を見て、少し笑ってしまった。
「……それで、死神さんがわたしたちになんの用なの?」
緩んでしまった口元を隠すように、あくまで冷静な声色で胡桃は訊いた。
「胡桃の質問はもっともだ。しかし私はお前たちに直接用があるわけではなく、ある女との五十年前の約束を果たそうとしただけだ。悪いが、お前たちのことは利用させてもらったぞ」
「ど、どういうことですか?」
眼鏡男が動揺していた。
「文健、神の名前をどれくらい言える? ギリシャ神話に出てくる有名な神ですら、正確に全員言うことは困難だろう? 世界にはいろいろな神がいて、お前たちが知っている神なんてほんの一部に過ぎない。まあ数が多いといっても、私たち神と呼ばれる種族が住んでいるのは神の国《プラマリア・センタ》に限られるから、近所だったり職場が同じだったりする神同士には交友がある。世話になった神にはお歳暮を贈ったりもするぞ」
「お、お歳暮……」
あまりに神のイメージとはかけ離れた単語に、思わずオウム返しをしてしまった。
「それでな、私は人間の運命を扱う神《運命の女神》とはどうも馬が合わなくて仲が悪いんだ。いや、神として彼女は先輩にあたるのだが、私が新卒のときからやけに突っかかってくるんだよ。そんなある日、酒を飲んでいた私たちは少々口論になった。私が『運命というのは必然なのだから、お前の力は関係ない』と言ったら、『じゃあ、私が予想もできない運命が存在するのかどうか証明してみてよ』なんて言われてな。売り言葉に買い言葉で、つい」
あまりの胡散臭さに誰も口を開けずにいる間にも、シロヤマは話を続けていった。
「私は、運命の女神に予想外だと言わせる何かを起こしたかった。一泡吹かせてやりたかったのだ。それで、考えた。神というのは皆例外なく天才だから、反対に馬鹿を何人か集めたならば、そいつらは神には予想もできない何かをしてくれるんじゃないかってね。だから私は、馬鹿な人間を集めようとした。お前らみたいなタイプの違う馬鹿が同じ時代に揃うまで、五十年待ったのだ。お前たちを同時間に一箇所に集めるために、努力したんだぞ? 青年実業家を装いキャバクラに行ったり、ネットで痛いハンドルネームを名乗ってみたり、対応の悪いコールセンターに電話をかけたりね」
やはり、キャバクラに来たシロヤマと目の前の死神は同一人物だった。眼鏡男も女子高生も腑に落ちた顔をしていたが、なぜか金髪男だけが首を傾げて頭を掻いていた。
「そしてやっと訪れた、お前たちが集まる今日という日。目的地までの道が直線では運命の女神の予想範囲内になってしまうかもしれないと懸念して、なるべく遠回りに動かし、意味のない行動もさせた。そんな手間をかけてまで馬鹿な人間を四人も集めたのだから、『運命』という因果の螺旋から外れた、予定調和外の面白い何かが起こるかと期待したのだが……まあ、なかなか上手くいかないものだな。結局、面白いことが起きることはなかった。運命の女神の力を認めざるを得ない結果となってしまった。……おい、今もどうせどこかで見て、嘲笑しているのだろう?」
誰に問いかけたのかわかりにくいシロヤマの言葉に胡桃が首を傾げたそのとき、なんの前触れもなく雪が降り出した。天気予報士も真っ青の見事な予報外れ、新宿に降る今年初の雪に、人々は空を見上げて湧き上がっているに違いない。
――この雪を他の三人はどう思っているのだろう。少なくとも胡桃は『運命の女神』の存在を肌で感じたことに、寒さのせいではない鳥肌を立てていた。
「正直、この結果は残念でならない。予想を誤った私が悪いのだが、お前たちに期待していた分落胆も大きいのだ。私はこの辺で撤退することにする。ああ、安心しろ。私は鬼じゃない、死神だ。その時期ではない人間の命を無闇に奪うことはしない。私が消えたら、私の存在も話した内容もすべて忘れているから杞憂もいらないぞ。じゃあな」
別れの挨拶にもなっていない簡潔な説明だけして、シロヤマは消えようとした。あまりにも一方的な態度に「ちょっと」と胡桃が手を伸ばすより先に、その腕を掴んで引き止めた男がいた。
「あのさー、勝手に期待して勝手に失望されちゃ、たまったもんじゃねえんだよ」
金髪男に細い腕を乱暴に掴まれたシロヤマは、不快そうに眉を顰めた。
「俺たちが馬鹿だから集めた? 俺はこいつらのことは何も知らねえけど、自分が馬鹿だってことは言われなくても知ってんだよ。素行も良くなかった俺は、昔から周りの大人には『ろくな大人にはならない』って諦められてた。……だからよ。どんな形であれ、お前に少しでも期待されたことは……単純に嬉しかったんだわ」
シロヤマは金髪男に腕を掴まれたまま、無機質な瞳で彼を見ていた。
胡桃は「わたしは馬鹿じゃないわよ」と反論したい気持ちもあったが、声にならないのはきっと自分自身のどこかで、彼の言葉を認めているからだった。眼鏡男も女子高生も胡桃の気持ちと同様だったのかもしれない。はらはらと舞う粉雪が世界を囲い込む中、誰も口を開かなかった。
「……それで? それが私の腕を掴む理由になるのか? さっきは無闇に命を奪わないと言ったが、これでも神だ。理由があれば、今すぐにお前を殺すことだって容易いのだぞ」
「お前は俺たちを利用したんだろ? いいじゃん、上等! 期待に応えてやる。俺たちがお前の役に立ってやるよ! なあ? お前らも面白そうだと思うだろ?」
金髪男は振り向いて胡桃を含む三人の顔を見渡した。こういう馬鹿っぽくて軽そうな男は、慎重で安全思考の男が多い胡桃の周りにはいないタイプだった。
「ちょ、ちょっと待て! か、勝手に話を進めてどういうつもりだ! そういうことは俺たちの意思を聞いてからだろ!」
眼鏡男の反発も当然だと思った。おそらくこの中で一番年上のサラリーマンにとって、勢いで話しているようにしか見えない金髪男には腹が立つに違いない。どちらかと言えば胡桃も眼鏡男の考えに賛同だった。シロヤマに期待されたことは嬉しかったが、達成できなかったときのリスクや具体的な案が浮かばない限り、安請け合いするべきではない。
あんたには悪いけど、と言いかけたそのとき、
「あたしは、高士さんの話に乗ります!」
意外なところから金髪男の味方が増えた。女子高生が頬を紅くしながら、手を挙げたのだ。
「いいじゃないですか、やりましょう! 運命がすでに決められていて、それに従っていく人生なんて受験生としては否定したいですし! ここで何かを変えられたら、今後の人生、色々なことが頑張れると思うんです!」
田舎臭い少女が訛りながらも懸命に言葉を紡ぐ姿に、不思議と心が揺さぶられた。かつては自分も持っていたはずの、真っ直ぐな純粋さを突きつけられた気がしたからだろうか。言葉にできない想いはやがて胸いっぱいに広がり、胡桃の喉を突き抜けようとせんばかりに、堪えきれない感情に変わった。
ここでやらなければ、元には戻れない。勘としか言えない直感が胡桃を突き動かした。それは胡桃にとっては珍しい衝動的な行動で、何か見えないものに急かされたかのようだった。
「……やっぱ、わたしもその話に乗らせてもらうわ」
胡桃の言葉に、眼鏡男は目を丸くした。
「何か奇跡を起こしてやろうと計算して行動したとき、結果として起こった出来事は奇跡ではなく、運命と呼ぶのではないか?」
「違うわ。人が誰かのために動きたいと思うことは本能だから、運命じゃない」
シロヤマを否定した言葉が自分の口から出たものとは思えず、恥ずかしさが体中を駆け巡った。だが、不思議と悪い気分にはならなかった。
「んで? お前はどうすんの? 乗るのか? 乗らないのか?」
眼鏡男に向かって金髪男が訊いていたが、胡桃にはもう眼鏡男の答えはわかっていた。周りに流されやすそうで、マイノリティが苦手であろうこの男なら、
「……なんだよもう。やればいいんだろう、やれば! わかったよ、やるよ! 成功は約束できないけど、やれることはやるよ!」
賛同するに決まっているのだ。金髪男はニヤリと笑った。
「シロヤマ、三日だ。三日後には、お前も運命の女神も目玉がひっくり返るような何かを見せてやるよ」
人差し指をシロヤマに向けて堂々と宣言した金髪男に対して、女子高生が申し訳なさそうに手を挙げた。
「あ、あの……あたし、明日の夜には新幹線に乗って、青森に帰らなきゃいけないんですけど……」
五秒の沈黙の後、金髪男は咳払いをした。
「……シロヤマ、明日だ。明日の夕方までには、お前も運命の女神も目玉がひっくり返るような何かを見せてやるよ」
宣言のやり直しに、シロヤマは呆れたように笑っていた。
「決まらない男だな。わかった、明日だな。明日私と運命の女神は、お前たちの様子をどこかで見ている。わかっているとは思うが……二度も失望させるなよ?」
「おう、楽しみにしてろ。よし、行くぞお前ら」
歩き出した金髪男につられ、胡桃たちはその場を後にした。
ふと振り返ってみると、シロヤマの姿はもうそこになかった。
シロヤマと別れた四人は今後の作戦会議を行うべく、名前と年齢だけ軽く情報交換しながら電車を乗り継ぎ、文健の家に向かった。
「ね、お互いさ、きちんとお互いの自己紹介をしようよ。明日の夜には他人になっている関係だとしても、お互いの立場や性格をある程度把握することは、運命の女神の期待を裏切る案を閃くためには必要だと思うの」
江戸川区にある文健の2DKのアパートに到着するやいなや、胡桃が提案した。暖房がまだ効いていない八畳間に、エアコンの空気を送り出す音がやけに響いて聞こえた。
「……じゃあ、とりあえずわたしから。わたしは相葉胡桃。二十歳で愛知県出身。普段は大学生なんだけど、キャバでバイトしてるんだ。シロヤマとはそこで会ったの。趣味はショッピングと旅行かな。家で映画見るのも好きだけど」
(キャ、キャバって、あのキャバクラのことだべか? うわあ、やっぱ都会の綺麗な人はすげえなあ~……)
美保は胡桃を見ながら憧れに似た気持ちを抱いた。美保にとって、東京に住んでいる綺麗な人というだけで尊敬に値する。美保が夢見る将来像に近い存在が近くにいるのだ。人生の先輩と話す機会があっただけでも、東京に来た意味があったというものだ。
「キャバ嬢か。お前、店で人気あったの?」
高士が直球の質問を投げていた。
「まあね。週二のわりには稼いでいる方かも」
「へー。じゃあ今度指名するから割引してよ」
「お金のない指名客は時間の無駄」
「んだよ、サービス精神の足りない嬢だな。なあ文健、俺ビール飲みてえんだけど」
「少しは遠慮しろよ……大体、なんで許可もしてないのに俺んちで話し合いなんだよ!」
「……ちょっとあんたたちさあ、ちゃんとわたしの自己紹介聞いてた? キャバ嬢ってとこしか聞いてなかったでしょ?」
(っていうか、なんか流れで、と、都会の一人暮らしの男の部屋に入っちまってるだ! おら、危ねえんでねえのか!? おらみてえな田舎娘なんて、ぱっぱと食われて異国に売られちまうんでねえのか!?)
一人内心パニックを起こしている美保の心境など露知らず、文句を言いながらも冷蔵庫からビールを取り出した文健に「サンキュ」と言って、高士は喉を鳴らして美味しそうに飲んでいた。
「あー、美味え! んじゃ、次は俺な。俺は境高士。今年二十二歳だけど、定職には就いてねえな。単発のバイトをやりながら麻雀とかパチンコしてる」
「……それって、稼げるのか?」
「稼げるときは、一日で一ヶ月は余裕で生活できるくらいには。ダメなときは一日で一ヶ月生活できないくらいに負けるけどな。ま、文健みたいな真面目そうな奴は、趣味で遊ぶくらいにしといた方がいいぞ」
(こ、この人……とんでもねえワルだべ! やっぱり売られる!?)
美保が硬直している中で、高士は文健にもビールを勧めた。
「まあ飲めよ、お前のだけど」
「俺の方が年上なんだよ。なんでお前はそんなに偉そうに話すんだ」
文健は文句を言いながらも姿勢を正し、胡桃と美保を見ながら咳払いをした。
「えー……と。俺は、芳野文健。二十四歳で、えー……会社員だ」
言葉の続かない文健に、胡桃がやや冷ややかな笑顔を浮かべた。
「……え? それだけ?」
「……どうせ俺は、つまんない奴だよ」
中身のない文健の自己紹介を聞きながらぼうっとしていると、三人の視線が自分に集まっていることに気がついた。次は美保が自己紹介をする番のようだ。文健のことを特徴ないなと思いつつも、人のことを言えないくらい地味な美保は急に緊張してきた。
「あ、あたしは椎名美保です。こ、高校二年生です! たまたま東京に来ている青森の人間なので、方言や鈍りで言葉が伝わりにくいこともあると思いますが、こ、これがら一日半、どうぞよろしくお願いします!」
いつもより高くなった声を恥ずかしく思った。頭を下げると高士が「おおー」と感嘆の声をあげた。
「やっべ、リアルJKだ。ガッコ楽しい?」
「は、はい!」
「俺さー、わかんないことがあるんだけど。なんで美保ちゃんはシロヤマに馬鹿の括りにされてんだろな? 賢そうなのに」
自惚れにはなるが、それは美保も不思議に思っていた。進学校に通っているし、志望している大学だって偏差値は高い。生活態度も悪くないはずだし、田舎で普通に生活して来ただけなのにシロヤマは美保を馬鹿呼ばわりしていた。腑に落ちない点は多々ある。
だけど「期待されて嬉しかった」と言った高士の言葉に、心の底から同感した気持ちに嘘偽りはなかった。
「まあ、自分で気がついていないだけかもしれないし。それを考えるのも良い機会なんじゃない? なかなかないよ? 死神と運命の女神が目を掛けてくれるって」
この冷静で落ち着いている胡桃も、堅実にサラリーマンをしている文健もきっと、馬鹿呼ばわりされたことに納得はしていないのだろうと思った。東京の大人にもわからないことはあるのだなと、一つ賢くなった気になりながら美保は愛想笑いで返した。
「ところで文健。『出版の話をする約束』って、なんだったの?」
たわいのない話で親睦を深めている最中のことだった。ふいに思い出したかのように胡桃が訊いた瞬間、文健は見て取れるくらいに動揺していた。
(な、なんだ? あんなに目が泳ぐ人、初めて見たっぺ)
「お、俺の勘違いだったんだから、気にするなよ」
「そうなの? じゃあさ、あんたがわたしに会うときに持っていた鞄の中には何が入っていたの? わたしの予想だと、漫画か小説だと思うんだけど」
「ば、馬鹿言うな。そんなわけ……」
「見せてよ、見てみたい。ね、高士も美保もそう思うでしょ?」
急に話を振られた美保だったが、興味はあったため素直に頷いた。
「隠し事はやめようぜー? それに、俺たちはどうせ明後日には他人だ。見られたって別に恥ずかしくないだろ?」
高士は見た目通り力づくでねじ伏せるタイプのようだ。文健が抵抗しても高士は平然とした顔で文健を左手で抑えつつ、右手で文健の鞄を胡桃に投げた。胡桃は「失礼しまーす」と告げてから鞄を開けた。
「あ、小説だったか。読んでいい?」
「くそ……もう好きにしろよ!」
諦めたのか、文健はふて腐れるように部屋を出ていった。少し気の毒に思ったが、彼が書いた小説を読んでみたいという好奇心が罪悪感より勝ってしまった美保は何も言えなかった。先に原稿の一枚目を読んだ胡桃が美保に渡し、美保が読んだら高士に渡す。そうして文健の書いた小説を順々に読んでいった。
一枚目を読んだ。日本語がわかりにくかった。
二枚目を読んだ。主人公とヒロインが誰なのかはわかったけれど、二人の会話に寒気がした。
三枚目を読んだ。あまりのご都合主義に思わず笑ってしまった。
…………。
十五枚目を読んだ。もういいかな、と思った。
高士はもうとっくに飽きてしまったようで、五枚目を過ぎた辺りからは読まずにゲームをしていた。胡桃はまだ読んでいたが、
「……面白いですか?」
と美保が訊くと、わざとらしい作り笑顔をしながら答えた。
「多分ね、美保と同じ感想だよ」
しばらくして戻って来た文健は、ふて腐れた顔をしつつも感想が欲しそうだった。
(うわ、面倒くさい人だべ……!)
面白いとは思えなかった小説の感想を素直に口にすることは憚られたし、だからと言ってお世辞を延べて賞賛するのも気が引ける。文健と目を合わせないようにしていると、
「お前の小説さー、超つまんねえな!」
あっけらかんと高士が言った。美保と胡桃がおそるおそる文健の表情を窺うと、彼は顔を真っ赤にしていた。
「な……わ、わかってるよ! でも、ほ、本を読まなそうなお前に言われたくはない!」
「本を読まない俺みたいな奴にも面白いって思わせるのが、面白い小説なんじゃねえの?」
高士の歯に衣着せぬ感想に、美保は感動すら覚えた。
(こ、高士さん、おらが言えねえことを……すごい!)
しかし感動したのも一瞬、高士は文健の小説をけなしながらも驚くべき提案をしてきた。
「なあ、明日はお前が作った小説を俺たちで演劇するっていうのはどうだ? 運命の女神が『あ~ん! こんなの初めて~!』なんて思うような面白いやつ、書いてくれよ」
「……はあ!? お、俺が!? なんでだよ! 無理に決まってるだろ!? だ、第一お前、俺の小説、つまらないって言ったじゃないか!」
「おう、俺はつまんねえって思ったよ。でもよ、お前は面白いと思って書いた自信作なんだろ? 自信が持てるっていうのは才能だと思うぜ。だから大丈夫だ」
唖然とする文健を放置して、高士は胡桃と美保の方を見た。
「な? お前らもいいと思うだろ?」
「あんたはまたそうやって……。あのね、ゴリ押しすればなんでも通るって思っていたら痛い目みるわよ? 作者が面白いと思っていても売れない小説なんて、世の中には腐るほどあると思う。……だけど、出会って一日の他人同士が、オリジナルの劇を演じたのにもかかわらず成功させるって、確かに予想外かもしれない。時間もないし他に代替案も浮かばないし、いいんじゃない?」
憧れの胡桃がそう言うならいいかと思った美保も、首を縦に振った。
「決まりだな。……しっかしさあ、フツメンで取り得もなくて男としての魅力が全然ない主人公が、美女にモテまくるってのはおかしくね? これ、お前の理想なの? 自己投影ってやつ? 痛いねー!」
「ち、違う! 読者のことを考えてこういうキャラ設定にしたんだ! こういう話には需要があるんだよ!」
文健の顔が真っ赤になっているのを見て、悲しいことに高士の憶測が的中していることを美保は確信してしまった。
「それに話もさあ、ありきたりなんだよな。普段本を読まない俺にすら展開が読めるんだぜ? もう少し考えて話作れよ」
「だったらお前ならどうするんだよ! 書けもしないくせに、偉そうなこと言わないでくれよ!」
激昂している文健に対して、高士はふむ、と腕を組んた。
「……そうだな。俺なら主人公を超スーパーエリート人にするね。そいつはあまりに頭が良いから、世界中の問題をささっと解決すんだよ。有名人で金もあってマッチョだから女にもモテモテで、とっかえひっかえ遊んでいるうちに、一度だけ関係を持った宇宙人に見初められて、宇宙規模の結婚式を挙げんの。そんで産まれてくる子どももスーパーマンにすれば、続編も簡単だろ?」
「お前の考えた話の方がありえないだろ! 小説をなめるな!」
得意気な高士を指差して文健は怒鳴った。美保は文健を見ていて彼のことが心配になってきた。知り合ったばかりの人間に怒ったり叫んだりして、ストレスと血圧が急上昇しているはずだ。落ち着かせなければと思い、意を決して高士に意見することを決めた。
「ちょっと、高士さん言い過ぎです! 文健さんの小説はあたしには思いつかない話ですし、すごいなあって思いますよ!」
「……じゃあ、美保ならどんな話を作るんだよ?」
唇を尖らせながら窺ってきた文健の面倒くささに、イラっとしたのは内緒だ。
「フォローしてあげたんだから、そこで満足しておいてくださいよ!」と届かない声を上げながら、美保は懸命に頭の中で話を急造する。
「え、えーと……。あ、地味で目立たない主人公が、ひょんなことから学校でも有名な超イケメンの秘密を知ってしまって、だんだん……」
「俺の小説の主人公とヒロインが逆になっただけじゃないか!」
文健の悲しき突っ込みに、高士が声を出して笑った。
「美保ちゃん、面白れえなー。なあ文健、ヒロインにはなりにくそうな胡桃みたいな女をお前の小説に出してみたらどうだ?」
「……難しいな。基本的に読者人気を出すためには、ヒロインは清楚で美人、萌え要素がないと厳しいんだが……まあ状況によってはありかな」
「状況って?」
「例えば、家族のために仕方なくキャバ嬢をやっているけど実は全然男経験がないとか、大学では眼鏡で三つ編みの地味なイジメられっ子とかさ」
「おー、なるほど! ギャップにそそるってわけか!」
盛り上がりを見せている男二人に、胡桃が心底軽蔑した眼差しを向けていた。
「……あんたたちさあ、キモ過ぎ」
「そ、そんなつもりじゃない」と必死になって否定する文健と笑う高士を見て、タイプは違うけれどこの二人はなかなかいいコンビになりそうだなと思った。
「あー、キモ。……でもさ、なんとかなる気がしてきたわ。大体、年代バラバラで普段は違う生活している人間が一箇所に集められて何かするって、この現実自体がしょぼい小説みたいな話じゃん? だから文健、背負うことはないわよ。何やったって現実よりは上手くいく気がするもの」
胡桃の言葉を聞いた文健が目を逸らしつつも少しだけ赤くなったのを、美保はしっかりと見てしまったのだった。
演劇用の脚本を書くことが決まった文健のアイデア探しのため、胡桃たちは外に出ることにした。
「どうせ大したもんはできねえんだから、リラックスしろよ」
難しい顔をして歩く文健の肩に、高士が腕を回して笑っている。美保は歩きながら忙しなく首を動かして、東京の風景にいちいち感動しているようだ。本人は言われたくないだろうけど、その田舎臭さがどこか可愛い。素直で、穢れてなくて、未来がある。正直、羨ましいと胡桃は思った。
自分は大学に入ってから、真面目に勉強してきただろうか。化粧の腕を上げて、お洒落をして、良い男と付き合って、SNSに近況を報告して、どれだけ友人たちの中でランクを上げるか、それだけを考えている気がする。大学に入る前は何を思っていただろう? もっと違うことを考えていなかっただろうか。
今の胡桃の夢は、良い会社に入ってお金持ちと結婚すること。別に悪いことじゃない。現実的なだけだ。だけど今、こんなに焦った気持ちになっているのはどうしてだろう――美保の無垢な若さに嫉妬しているからだろうか。それとも、実力は伴っていないものの自分の力で夢を叶えようとする文健から刺激を受けたからだろうか。
今すぐに答えが出せないのなら、考えていても仕方がない。やるべきことの優先順位をつけるなら、まずは明日、運命の女神を満足させることが最優先だ。キャバクラに足を運ぶ男たち相手だったら、何を話して何をしてあげれば喜んでくれるのか大体わかるようにはなったけれど、女神様は勝手が違う。テンプレじゃない、予想外の面白さをご所望とのことだ。
改めて目標達成が難しいことを思い知り、溜息が零れた。胡桃は自分には想像力が足りないと自己分析できている。自分がいいアイデアを思いつかないなら、これから文健が書く脚本を否定する権利はない。どうなるのか先が見えない経験をするのは久しぶりだなと思いながら歩いていると、「あの」と美保が手を上げた。
「文健さんが書かなきゃいけないのは小説って言うより、その、脚本ですよね? 誰か演劇や脚本に詳しい方っていらっしゃるんですか……?」
美保の言葉に誰も手を挙げなかった。高士にいたっては「脚本ってなんだ?」と首を傾げている始末だし、文健は「詳しいわけないだろ」とまたふて腐れた顔をしている。美保が助けを求めて胡桃を見ているが、胡桃も演劇方面には明るくないため何も言えない。高士に話を振って逃げよう。
「……それより早く、何か文健のアイデアになるようなモノを探そうよ。ほら、高士。あんたがリーダーなんだから指示出して」
「あ? 俺がリーダーなのか?」
みんなもそう思っていたのだろう、反論は起こらなかった。高士は嫌がることも辞退することもなく歩き続けていたが、バス停のベンチに人影を見つけると振り返った。
「まずはリーダーの俺があそこにいるばあちゃんたちに話しかけてくるから、ちょっと待ってろ」
「え? どうしておばあちゃんに?」
「バカ、ばあちゃんたちは物知りだし、会話が面白れえんだぞ? 俺のばあちゃんなんてな……いや、いいわ。ちょっと行って来る」
高士はバスを待つおばあちゃん二人に気さくに声をかけ始めた。胡桃たちは少し離れたところで様子を見ていたが、特に何か特別なことをしているわけではなさそうだった。高士が何かを話して、おばあちゃんたちは笑っている。高士は人見知りしないと思っていたが、予想を裏切らない男だ。あれでもっと賢くて、お金を持っていたら好きになっていただろうなと考えてしまった胡桃は自嘲した。結局、自分は男をステータスでしか見ていない。この男となら恋愛できて、この男とはできないと勝手に品定めしてしまう。こんな考えを美保の近くですることは抵抗があった。
「……戻って来ませんね」
美保が呟き、胡桃が時計を確認するとすでに十五分が経っていた。おばあちゃんたちはバスを見送ってまで高士と談笑している。これは止めに行かないと、いつまで経っても戻って来ないだろう。胡桃は溜息を吐きながら高士に近づいた。
「高士、もう時間だよ。早く行こ?」
彼女っぽい振る舞いで高士の腕を掴むと、おばあちゃんたちは「あらー」なんて笑いながら、
「こうちゃんまたね。彼女さんと仲良くね」
そう言って手を振ってくれた。おばあちゃんたちの微笑みに胸が温かくなる。一礼して歩き出すと、高士は「またなー!」と子どものように手を振っていた。
高士を連れて文健と美保に合流すると、文健は待ちくたびれたのか不機嫌そうだった。
「随分遅かったな。何か参考になりそうな話は聞けたのか?」
「おう。ちっこい方のばあちゃんさ、正月に孫が遊びに来たときに肩叩き券を貰ったんだけどもったいなくて使えねえって言っててさあ。早く使わないとあの世に行っちまうぞ? って忠告してやったら、ひ孫を見るまで死なないってよ。明日シロヤマに会ったら、ばあちゃんたちの魂を持っていかねえように言っとかねえとな」
対照的に高士はとても上機嫌で、文健の不機嫌なオーラを全く意に介さず饒舌に会話内容を報告していた。
「今の話はどう? 文健、脚本の参考になった?」
「……ひ孫の誕生を楽しみにするって話は、俺らが演じられる話じゃないだろう」
なるほど同感だ。高士が楽しかっただけの徒労に終わった十五分だったということだ。再度胡桃が時計を見ると十八時半になっていた。冬至まで後数日。陽が落ちるのは早く、辺りはもう真っ暗だ。陽が落ちても何の成果も得られていない四人は、とりあえず公園に行ってみることにした。胡桃はあまり来る機会のない江戸川区だが、緑も公園も多くていい街だなと思った。
少し歩いて広めの公園に辿り着くと、小学校四、五年生くらいの男の子たちが三人、外灯の下で夢中になって携帯ゲーム機を向け合っていた。
「こんな暗い中でゲームやっていたら、すごく目が悪くなりそうね。ね、今ってなんのゲームが人気あるの?」
全くゲームをやらない胡桃は、マリオとカービィ、ポケモンくらいしか知らない。
「あたしもそれ程詳しくはないですが、あの子たちがやっているのは多分モンハンだと思います。狩りがどうとか言っていますし」
モンハン。どんなゲームかはわからないが、言葉だけなら聞いたことがある。
「それって、流行ってるの?」
「流行っていますよ! 人気が高くてシリーズ化していますし、売れています」
流行っていて売れているものは、人の注目を浴びやすいのではないだろうか。設定を丸ごと引用したら問題だろうけれど、少しアレンジして演劇としてやってみるなら、食いつく人たちは少なからずいるはずだ。人の足を止めることができるなら、題材にするのもアリだと思った。
「ね、文健。あの小学生たちにゲームの内容詳しく訊いてきなよ。参考になりそう」
「お、俺? 俺はこういうの苦手なんだよ、高士が行ってきてくれよ」
「俺が行ってもいいけどよー。もし決まったとしたら話を書くのはお前なんだから、お前が行った方がいいんじゃねえの?」
文健は困ったように胡桃を見た。その視線を不快に感じた胡桃は冷たく言い放った。
「脚本家はあんたよ。逃げないで」
文健はごにょごにょと濁していたが、美保の心配そうな瞳に大人のプライドが耐えられなかったのか、ついに小学生軍団の中に突進していった。ベンチから様子を見ていると、文健は不自然な笑顔、不自然な動きでまるで不審者のようだった。
小学生たちは文健を訝しそうな視線で見つめた後、携帯電話を取り出した。文健が必死に何かを否定していると、彼らはゲーム機を持ったまま立ち上がり公園を出て行った。
とぼとぼと胡桃たちの元に戻ってきた文健を、美保が心配そうな顔をして出迎えた。
「お、おかえりなさい! どうでしたか?」
「……通報されかけた」
げらげらと笑う高士に「お前のせいだからな!」と文健は理不尽に怒っている。八つ当たりもいいところだなと、胡桃は溜息を吐いた。
「……あ、あの、胡桃さん、どうかしましたか?」
「……なんでもないわ。ねえ、小学生への取材も失敗しちゃう文健にも小説家になるって夢があるじゃない? 美保は将来やりたいこととか決まっているの?」
「えっと、実を言うとですね、大学に行きたい一番の理由は東京に出たいっていう不純な動機でして。でも、方向性は決まっています。在学中に短期留学をして、英語圏の国に行きたいと考えています。それから栄養士の資格を取って、病院に勤務したいんです。栄養士で英語も話せたら勤め先の幅が広がりそうですし! 担任の先生にいろいろと相談に乗ってもらっていますけど、もう少し頑張って勉強しなさいって言われます。あ、でも今はとにかく、東京のことで頭がいっぱいです! あはは!」
夢を語る美保の姿が眩しくて、思わず目を背けてしまった。それに、美保の口から出た「先生」という単語が、かつて胡桃が過去に抱いたモノを思い出す起爆剤になり、精神が大いに揺さぶられた。
胡桃は複雑な心境を決して顔に出さないよう、大人ぶって訊いてみた。
「そっか。だったら美保は、先生や学校は好き?」
美保はにっこりと笑って答えた。
「田舎だということを差し引いて考えれば、ですけどね」