胡桃は誰かの声を聞いた。誰の声なのかはわからないけれど、他人よりも近く、友達よりは遠い。そんな誰かの声だと思った。

 胡桃の眼前には、小さい頃に読んだ絵本に出て来たような、白くて三角屋根のあるありふれた洋風の城が存在感を主張していた。神の国《プラマリア・センタ》は、中世のヨーロッパを基準にした街づくりをしているのだろうか。

「……何あれ。シンデレラ城? 高士を助けに来てお城の前に着いたってことは、あいつはお姫様だったってこと?」

 高士を探し出して一緒に東京に戻ることを目的としていても、自分がどこにいるのか、どんな状況下にいるのか、全く把握出来ていない。眉根を揉みつつ冗談めいたことを考えていると、

「姫様! また一人で街をほっつき歩いて! いけませんと言ったでしょう!」

 黒服に白い手袋をはめた、セバスチャンという名前がよく似合う老紳士がいつの間にか現れて、胡桃の手を引いて歩き始めた。

「ちょ、ちょっと待ってよ! 説明して! わたしは今どこにいるの? っていうか、姫様って何? あなたは誰なの?」

「ははあ、成程。今日はそうやってじいをからかうおつもりなのですね? ええ、じいはよく存じておりますよ。あなたはこの国の第一王女・クルミ様で、私はあなた様が幼い頃から執事としてお世話をさせて頂いております、セバスチャンです。今宵は外交のためのダンスパーティーがございますので、部屋にいて下さいと申し上げましたのに」

「……本当にセバスチャンだったのね」

 理解不能な回答ではあったものの、セバスチャンはいたって落ち着いた様子で答えた。

 再び質問する余裕すら与えられないまま城の中に入っていくと、たくさんの兵士たちや使用人たちが胡桃を見て頭を下げた。この大袈裟な敬われ方を見るに、どうやらセバスチャンが言っていたことは嘘ではないようだ。豪華絢爛な大きな両開きの扉の前に連れてこられると、たくさんの侍女たちが胡桃の着替えと化粧を買って出てきた。

「それでは、パーティーの時間になったらまたお迎えに上がります。それまでごゆっくりとお寛ぎ下さいませ」

 侍女の中でも最も位の高そうな女が頭を下げて部屋を出て行くと、胡桃は広い部屋に一人残された。体重に合わせて沈むベッドに腰掛けながら、着せられた赤いパーティードレスを見つめた。何も食べられない程きつく巻かれたコルセットのせいで、非常に窮屈な気分だ。

 ここにいる自分の立場はわかったけれど、状況は何一つわからない。この豪華だけど閉鎖された部屋の中にいては状況の打破など出来るはずもないと考えた胡桃は、シロヤマに話を訊くことが正解だと思った。

「……シロヤマ、お願い。出てきて」

 呼びかけてしばらく待ったが、シロヤマが出て来る気配はなかった。

「あ~! いけないんだ~! 一人で何とかしろって、シロちゃんに言われたんじゃなかったの~?」

 しかしシロヤマの代わりに、予想外の人物がベッドの上に座っていた。西洋人の容姿を持つ彼女の人間離れした美しさと、胡桃の心の中を見透かしたかのような言葉に、神様の誰かなのだろうと即座に推測した。

「あなたは……どの神様なの? わたしが王女として存在するこの国が《プラマリア・センタ》なの?」

「やっぱり、神ってわかっちゃう~? うん、私は運命の女神だよ~☆ あなたたちにはアイザワって呼ばれてるんだっけぇ? ニックネームつけてくれてありがとね~! あのねー、ここは確かに《プラマリア・センタ》だけど、今いるのは胡桃ちゃんの世界を少しだけ大袈裟にして、ちょびっと夢を加えたときに起こりうる世界の一つなんだ~☆ ここでの胡桃ちゃんはねえ、外見を磨くことに手間をかけられて、特に苦労もせずお金を持っていて、慕ってくれる人だって多くて、いつだってぬるま湯に浸かりながら何一つ不自由のない世界を体感出来るんだよ☆ ね? いいでしょ~? ずっとここで生きていってもいいんだよ~?」

 文健と美保と三人で決めたあだ名を彼女が知っているということは、すでに二人のどちらかもしくは両方に会ったということだ。二人が無事に到着していることにまずは安堵した。

 確かにアイザワの言う通り、ここでの待遇に不満はない。だけど、ここで生きていくという選択肢は有り得なかった。目的が違えてしまうという理由も勿論あるけれど、胡桃はこの二日間で自分が欲しいものに気づいてしまったのだ。

 それはここでの生活を受け入れたならば、もう永遠に手に入ることのないものだった。

「……わたしってさ、いかに無難に現実的に効率的に生きていくのかを、常に考えてきたんだよね。だけど、夢や未来に向かって真っ直ぐ進んでいく奴らと出会って、刺激されちゃったみたい。今までは、そういうのって言うのもやるのも格好悪いと思ってたんだけど……羨ましいな、楽しそうだなって思うようになっちゃったんだ。だから、もう少し無理してみようと思うの。無難な道より、やりたいことってやつ?」

 夢、未来。これらの単語を口にしたのはいつ以来だろう。無意識に避けてきた言葉は、自分でも驚くくらい胸の中を熱くさせた。

「ふ~ん、そうなんだあ~? でもね、胡桃ちゃんの決意を聞かされた私が『はーい、わかった☆』って、ここから出すと思うのかなあ? シロちゃんがあなたたちにリスクをどう話しているのかは知らないけどお~、神の国に足を踏み入れるっていうのは、そういうことだよぉ? 幸せな状態のまま、ここで永遠の時間を過ごせる運命をあげるなんて、とっても優しい配慮だと思うんだけどなあ~?」

 アイザワは楽しそうに胡桃を見つめていた。ああ、そうだ。シロヤマから聞いていた話では、運命の女神とは何よりも愉悦を好む神ではなかったか。大変な女にからまれてしまったものだ。ここでアイザワを何とかしなければ、高士を連れて東京に帰るどころの話ではない。

 人間の運命を操作する、運命の女神。

 本来彼女の手中にある人間の運命だが、胡桃たちがアイザワにとって予想外の行動を起こしたことで、「運命の女神の仕事から外れた」とシロヤマは言っていた。

 ならば、ここで生きていくという未来がまだ確定したわけではない。それさえわかれば十分に戦えるというものだ。

「じゃあ、あなたとわたしで勝負しましょうよ。わたしが勝ったらここから出して、高士のところに連れて行って欲しいの」

「勝負~? クロちゃんと同じようなこと言うのね~?」

「勝負内容は……そうね。今日のパーティーで男から誘われた回数が多い方が勝ち、でどうかしら?」

「……胡桃ちゃん。それ、本気で言ってるの~?」

 胡桃にとって勝負内容は賭けだった。アイザワが自分の容姿に自信を持っているであろうことを当てたのは、女の勘以外に理由はない。安い、見え透いた挑発だった。しかし、煽ることは好きでも煽られることは慣れていないのか、アイザワはいとも簡単に乗ってきた。

「いいよお~。でもお、胡桃ちゃんが言い出した勝負だってことは忘れないでね~? 負けたときのことも、ちゃんと考えておくんだよ~?」

「ありがとう。でも、神様だろうと約束はきっちり守って貰うからね」

「だいじょーぶ! 神に誓って守るよ~☆ まあ、誓う神が勝利の女神なわけだし、私的には笑っちゃうんだけどね~☆」


 三日月が綺麗な煌びやかな夜。パーティーは定刻通りに始まった。

 ダンスフロアは華やかな世界そのものであった。シャンデリアが照らす赤い絨毯の上に紳士淑女が集い、気に入った相手と舞っている。高度な政治戦略と欲望に満ち溢れている世界だから失礼のないようにと、セバスチャンには口を酸っぱくして言われている。

 とはいえ、胡桃にとって政治の話などどうでもよかった。これは生死と女の意地をかけた一番勝負だ。否が応にも緊張してしまうけれど、怖い顔をした女に声をかける男なんていないことはわかっている。ダンスフロアでの嗜み方なんて未知の世界だが、淑女として振舞う以上、微笑みながら声がかかるのを待つのが最善だと思った。

 胡桃の考えは正解だったらしく、すぐに一人の男が近づいてきた。

「素敵なレディー、私と一緒に踊りませんか?」

 胡桃は優雅に背筋を伸ばしてその手を取って、男に身を委ねながらステップを踏んだ。一流の男は、女性のエスコートの仕方を心得ているのだなと実感した。愛でられながら踊ることは想像を遥かに上回る快感だった。

 一人と踊り終えてからは代わる代わる誘いを受けた。その都度胡桃は微笑みで承諾し、ステップを踏み、自分の中にある最大限の魅力を引き出しながら舞った。

 踊った人数が二桁を超え、窓から見える三日月の位置が変わってきた頃、胡桃は気がついてしまった。

 ――アイザワの姿を見かけない。

 はっとしてその姿を探すと、アイザワはまるで胡桃が気づくタイミングを見計らっていたかのように、あるいはハンデと言わんばかりに、派手に遅れて登場してきた。そして他を寄せ付けない美貌と圧倒的なオーラで、あっという間に男たちの視線をかっさらっていった。

 ほとんどの男が彼女に群がってダンスを申し込んでいる状況の中、胡桃に声をかける男はいなかった。ただ、このまま黙って負けを認める胡桃ではない。自分からダンスを申し込むのは反則だが、自分から声をかけてはいけないというルールは設定されていない。ならば、

「こんばんは。ねえ、少しだけ話し相手になって下さらない?」

 胡桃は隅っこでグラスを片手にフロアを眺めていた、一人の男に声をかけた。そばかす顔が印象に残る、中肉中背の青年だった。

「あ、はい。僕で良ければ」

 初めは胡桃と目を合わせようとしなかった青年だったが、話しているうちに胡桃の顔を見て笑ってくれるようになった。彼は親の都合でフィリピンからやってきた青年で、名をノエルといった。内向的な性格を直すようにと、無理やりこのパーティーに参加させられたのだという。

 しばらく話した後、口には出さずに胡桃は「踊って下さらない?」と目で訴えて、ノエルに手を差し出した。緊張した様子で胡桃の手をとったノエルは、初めは緊張からかぎこちない動きでステップを踏んでいたものの、教養としてダンスを嗜んでいるのか、次第になかなかに上手いリードで胡桃をエスコートしながら踊っていた。二人で踊ることに慣れてくると、ノエルの顔に自信が溢れ出してくるのが伝わってきた。

 曲が変わっても二人は踊り続けた。ノエルはタフな青年で、決して息を切らすことはなくダンスには段々と切れすら出てきているようだった。一方、顔には出さないが胡桃はノエルの前に何人もの相手と踊ったこともあって、足が痛くなってきてしまった。

 曲が途切れたときに胡桃がアイザワの様子を窺うと、彼女と踊りたい男たちが順番待ちをしていた。このままでは確実に勝負に負けてしまう胡桃は、次の相手を探して人数を稼がなければならなかった。

「ありがとうノエル。とても楽しかったわ。それじゃあまたね」

 胡桃は社交的な笑みを浮かべてノエルの元を去ろうとしたが、彼が胡桃の手を掴んで離さなかったために出来なかった。捕まれた力はとても強く、痛い。人が変わったようなノエルに少しだけ怯えながら彼を見上げると、ノエルは胡桃を見据えて言った。

「君を誰にも触らせたくないんだ。このまま二人で踊っていよう。ダンスが終わったら、君をフィリピンに連れて帰るよ。ダディに素敵な女性を見つけたって報告するんだ」

 突拍子もないノエルの話に首を傾げた。胡桃がいるのは《プラマリア・センタ》内の、胡桃が作り出した世界だとアイザワは言っていた。つまり、言ってしまえば『設定』に過ぎないノエルが引き止める目的と理由は、彼の言葉の中にはないということだ。

 思い当たる節は一つしかない。振り向いてアイザワを見ると、彼女は楽しそうに胡桃に近づき、男をはべらせながら笑った。

「あれ~? 胡桃ちゃん、このままじゃ勝負にならないよ~? どうするの~?」

 女の敵は女、という諺を残した昔の人は真理を突いていたのだなと感心する。

「……まだパーティーが終わるまで時間はあるじゃない。余裕ぶっこいていると、痛い目みるんだから」

「胡桃ちゃんも黙って私に運命を委ねてくれればいいんだよ~! 私、楽しませてくれる人間って嫌いじゃないんだもん☆ 私が飽きるまで、永遠にここにいてよぉ~!」

「……ねえ、キャバ嬢にわかって、神様にはわからないことがあるみたいよ」
自分勝手な理屈を口にするアイザワに、胡桃は堂々と言い返した。

「同性の気持ちすら考えようとしない女が、男心を完璧に掴めるわけがないわ」

 胡桃はノエルの手を再び握って微笑みかけた。ダンス再開の合図だ。

 曲に合わせて、ノエルと恋をするように踊った。二人の息が合った瞬間、目と目が合うことはとても素敵なことだった。胡桃はたとえアイザワの操作だったとしても、一夜限りのパートナーだとしても、自分に好意を持ってくれた目の前の男を満足させたかったのだ。

 彼にとってわたしが、思い出したときに胸が温かくなるような思い出になったなら。そう願いながら、胡桃はノエルが満足するまで足を痛めながらも踊り続けた。

 結果、ダンスタイムが終わるまでノエルは胡桃を解放しなかった。アイザワがダンスフロアに現れてからノエル以外の誘いを受けていない胡桃にとって、この勝負は大差で負けたことは確定だった。顔を上げてノエルに別れの挨拶を告げようとすると、彼は切なそうな顔をしていた。

「楽しかったわ、ノエル。ありがとう」

「……僕の我侭に付き合ってくれてありがとう。本当は、君を連れ去りたい気持ちでいっぱいだ。でも、諦めるよ。君はやりたいことがある顔をしているし、僕は君が幸せになってくれることが何より嬉しいから」

 御伽噺の一員であるノエルはそれらしく、気障な台詞を吐いて握手を求めてきた。

 このやり方が正しかったのかどうか、胡桃は答えを知らない。失敗して人の心を傷つけることもたくさんあるのだということもわかっている。それでも、ノエルという青年が満足してくれたことを胡桃は嬉しく思った。

 握手をしてノエルと別れた後、アイザワは唇を尖らせながらやってきた。

「何あれ~! 心底惚れられちゃった感じ~? 誘われた人数は私の方が多かったけどぉ~、これじゃ勝ったって感じしなくて楽しくな~い! もう一回やる? 次は花束を貰った人数が多い方が勝ちってことで☆」

 胡桃は溜息を吐いた。まったく、玩具として随分とアイザワに気に入られたものだ。

「やるわけないでしょ。それにしても、神様ってみんなあんたみたいな勝負好きが多いの? シロヤマもあんたと勝負してたんでしょ?」

「だって~、何百も歳を重ねてきてるんだよ~? 何か面白いことをしてないと退屈なんだもーん! ……ああ、そっか☆ その考えでいけば、私に再戦を希望させる時点ですごいことじゃん! 胡桃ちゃん、自慢していいよ☆ ……でもね~、勝利の女神、クロちゃんは私たちとは比較にならないくらい勝ち負けにうるさいよ~! そういう神様だから当たり前なんだけどね~!」

 何が面白いのか、アイザワは声を出して笑っていた。胡桃には彼女の笑いのツボがさっぱりわからない。

「わたしは負けた。ここで幽閉される人生になるけれど、それでも早く高士を助けたい、みんなと合流したいって願い続けるわ。ここは楽しいけれど、それだけの世界だから」

 勝負には負けてしまったが、まだ諦めたくはない。ここで生きながら脱出の機会を窺おうと覚悟を決めつつあった胡桃だったが、

「やっぱさあ、面白そうだから、ここにいないでみんなと合流しようよ☆ えーっと、とりあえずシロちゃんの所に連れていけばいいのかなあ?」

「……え? 待って? ……わたし、ここから出られるってこと?」

「うん☆ その方がきっと、私にとって楽しくなる気がするの!」

 アイザワはあっさりとそう言った。希望すれば笑われ、諦めれば求められ、人間の心は彼女にとって愉悦の一つでしかないようで腹が立つ。それでも、彼女のそんな性格のおかげで胡桃の道が開けたことに変わりはない。

「……なんであんたがわたしの前に現れたのか……わかった気がする」

 現実的な思考で生きてきた胡桃は、アイザワのように愉悦のためにしか動かない予測も計算も出来ない女は、苦手としているタイプだった。振り回されて殻を破るという、試練みたいなエピソードを終えた胡桃に、達成感と疲労感が一気に襲ってきた。

 力が抜けて今にも座り込みそうになっていると、一度踊った男が胡桃の傍で膝をつき、一枚の便箋を手渡してきた。高級そうな厚紙が赤い薔薇のシールで封をされている。胡桃がアイザワに視線をやると、彼女は静かな笑みを浮かべて一歩引いた。

 差出人と向き合うと、彼はジェスチャーだけで「今、封を開けて欲しい」と胡桃に伝えてきた。マナーとしてどうなのだろうとも思ったが、差出人の希望なら叶えたい。ペーパーナイフを手渡してきた彼に礼を告げてから封を切った。

 中に入っていたのは一枚のカードだった。そこに書かれていたのは、

『屑の世界は何色に見える?』

 たった一言、この場の雰囲気にも似つかわしくない、日本語での問いかけだった。

「  」

 迷いなく胡桃が答えると、男は突然ペーパーナイフを胡桃の心臓目掛けて突き立てた。ペーパーナイフに殺傷能力があるなんて聞いたこともなかったが、ここはファンタジーの世界だ。何がどうなってもおかしくはない。

 これはアイザワの仕業? せっかくみんなと合流できると思ったのにな。

 現実的だと思っていた自分に意外と夢見がちな部分があったことに驚きつつ、胡桃は消えていく意識の中で目を瞑った。