「つ、着いたんだべか……」

 どうせ死ぬなら田舎者でも知っている有名な路線で、という理由で山手線に飛び込んだ美保は、真っ白な雪景色の中にいた。

 そこは神の国というより、地元の風景にあまりにもよく似ていた。高層ビルもスクランブル交差点もない真っ白い光景に呆然としつつも、黙って立っていたままでは凍てつく風に体を冷やすだけだ。美保は降り積もった雪の中を歩いてみることにした。

 風景は勝手知ったる田舎だというのにもかかわらず、知っている人間に会うことはなかった。駄菓子屋のタミおばちゃんも、いつも雪かきしている権ジイも、煙草臭い安井さんも誰も存在しなかった。

 白い町を一人歩く美保の耳には、自分が雪を踏む音だけが聞こえていた。段々と寂しくなってきた美保は、誰にも気づかれることのない涙を浮かべ始めていた。孤独に慣れていないことを今更ながらに知ったのだ。

 神の国《プラマリア・センタ》に来たはずなのに、なぜこんな状況下にいるのか美保にはわからなかった。しかしとにかく高士を見つけないことには目的を果たせない。胡桃も文健もきっとここに来ているはずだと信じ、寂しい気持ちを堪えながら歩き続けた。

 そうして歩きながら、無意識のうちに美保が向かっていたのは我が家だった。家が見えると、灯りがついていることが嬉しくなって足早になった。田舎特有の鍵のかかっていない玄関から堂々と入り、父と母の姿を確認した美保は安堵の息を漏らした。

「父ちゃん、母ちゃん、ただいま」

 だが、話しかけてみたものの二人が返事をすることはなかった。美保の存在なんて認識していないかのように、父は炬燵でTVを見続け、母は台所で料理をしていた。何度も話しかけてみたが反応は変わらなかった。

 ひどく落胆した美保は、自分の部屋に行ってみることにした。そこには一人、パソコンの前で笑っている自分がいた。

 ああ、そうだ。あたしは田舎っぽい古臭い説教ばかりしてくる両親を鬱陶しいと思い、干渉を避け一人で部屋に篭ることを好んでいた。そんなあたしが今更寂しさを紛らわすために自宅に寄って、両親に甘えようなんて虫の良すぎる話だったのだ。

 失望のうちに外へ出て空を見上げると、まだ雪は降り続けていて、止む気配もなかった。美保が歩いてきた軌跡、足跡がすっかりわからなくなっているのを見たとき、精神的に限界がきた。

 頬を伝う涙が雪の上に落ちると、蒸発音と共にシロヤマが現れた。

「無事に着けたようだな」

「……シ、シロヤマさん、ですか……? あれ、どうして……?」

「他に誰に見えるというのだ。お前の目は腐っているのか?」

「す、すいません。……あの、胡桃さんと文健さんは……」

「さあな。ここに来る前に言ったように、個人で行動もできないようなら高士に会えるはずもないと思え」

「大勢の中にいるときは強気な癖に、一人になった途端に何もできなくなる人間の性質を嫌悪している」とシロヤマは言っていた。それは大衆に流されやすく、気の小さい美保にとってまさに当てはまる性質で、一人で行動することは想像以上に勇気がいることを、今現在身をもって実感していた。

 一人にされた途端にこうして涙しているようでは、シロヤマはもちろん、胡桃や文健にも顔向けできないと思った。だから強くならなければいけないのに、美保が寂しくて仕方のない今、シロヤマが現れたのは意外だった。シロヤマのおかげで美保の心は少しだけ救われたのだから。

「……シロヤマさん、えっと、あの……いろいろとありがとうございました」

「何に対して礼を言われているのか、私にはわからないのだが?」

「いえ、なんでもありません。では、あたしは引き続き高士さんを探したいと思います」

 美保がシロヤマに一礼し、再び雪道を歩き出そうとしたときだった。

「え~! 本当に来ちゃったのお? 私の支配が及びにくいところに行ったからって、いくらなんでもやりすぎなんじゃな~い?」

 間延びしていて高く、鼻にかかった甘ったるい声が耳朶に響いた。美保が振り向くと、金髪で緩いウェーブのかかった長い髪を指先でくるくるといじる女が立っていた。

 美保を見ている瞳は、コバルトブルーの宝石そのもの。真っ白な肌は白磁のような、言葉では形容しがたい美しい女性だった。到底人間のものとは思えないその美貌に、美保の直感が働いた。

「う、運命の女神さまですか……?」

 美保の問いかけに反応した女は、柔らかで上品な笑みで答えた。

(うわあー! ぱ、パーフェクトスマイルだべ!)

 あまりの美しさに興奮していると、シロヤマが溜息を吐いた。

「おい、なんでお前がここにいる。呼んだ覚えはない。面倒事を増やすな」

「だってえ~! 死神チャンが面白そうなことしてるんだもーん! 仲間に入れてよ~」

 運命の女神の上品な雰囲気は口を閉じていれば、という条件下でしか成り立たないことが判明した。彼女の喋り方は無理にギャル語を使おうとしている女子高生より酷いかもしれない。

「それにぃ、私と死神チャンがこうしてイチャイチャしていればさ~、あのヒトが怒って面白いことになるんじゃないかなあって思ってぇ~」

 運命の女神ーー胡桃がつけたあだ名で言えばアイザワは、どうやら愉快犯のようだった。シロヤマの腰に手を伸ばして必要以上に接近している彼女のことを、シロヤマは面倒なのか慣れっこなのか、無表情のまま黙って振りほどこうとしていた。

「運命の女神さあ、私の許可なく何してるわけ?」

 ほんの一瞬、美保が瞬きをした瞬間の出来事だった。シロヤマとアイザワの間を切り裂くように、またしても一人の女が現れた。

 長身に細身な肢体、それでいてグラマラスなその人は、目鼻立ちがくっきりしている正統派の美人で、自分に自信がある雰囲気を全身から纏わせていた。彼女は痛みとは無縁の艶やかな黒髪を腰まで靡かせ、強引にシロヤマを引き寄せた。

「死神は私の女だって言ったわよね? あんた、勝手なことばっかしていると、負け犬として生きていくことになるけどいいのね?」

「え~。なんで勝利の女神チャンにそんなこと言われなきゃいけないのぉ? 私にだってぇ、死神チャンに触る権利はあると思うんだけど~?」

「私は誰のモノでもない。二人とも離れろ、鬱陶しい」

 この勝気な美人が勝利の女神・クロカワであると認識するより先に、すごいものを見てしまったという興奮で美保の瞳孔はすっかり開いてしまった。青森じゃ……いや、東京でも見られないようなタイプの違う美女たちを間近で見られただけでなく、三角関係の修羅場を目の当たりにしたのだ。

(……あ、でもシロヤマさんから矢印は出ていないようだから、三角関係とは言えないんだべか?)

 なんて考えていると、クロカワが美保を見て鼻で笑った。

「あんたは椎名美保ね……ふうん。近いうちに大勢との学力勝負に身を投げる相が見えるということは、受験生ね。でも残念、あんたは負けるわよ。だって、今私がそう決めたもの」

「ええ!? そんな……ま、まだ一年あります! 一生懸命勉強するので、あたしの未来をまだ決定しないでください!」

「そうだよかわいそうだよ~! あんまり意地悪すると、ネットに勝利の女神チャンの悪口書いちゃうからね~☆」

「やめておけ。お前みたいなタイプは間違いなく炎上させる人間だ。……いや、神か」

 恐ろしい未来予言を撤回してもらおうと必死な美保を面白がるアイザワと、冷静に突っ込むシロヤマに「他人事だと思って!」という怒りが湧いたが胸の中に留めた。

 自分でも驚いているのだが、三人の神々の中でも特に高圧的なオーラを放つクロカワに恐怖しているのにもかかわらず、美保は意見しようとしていた。

 涙は引っ込めた。まだまだ自分は成長過程で未熟だと言っても、ここだけは揺らいではいけない。そう、このために。高士のしたことは間違っていないと証明するために、高士を助けるために、美保はここまで来たのだから。

「あ、あの! クロカワさん! シロヤマさんの気を引きたいのはわかります! でも、だからと言ってルーシーさんに手を出したのは、間違いだと思うんです!」

「……はあ? 誰に向かって口利いてんの? っていうか、クロカワって何?」

「お前の言葉は田舎のヤンキー女にしか聞こえなくて下品だ。神の品格を疑われるから少しは気をつけろ。クロカワというのは、私が人間界で名乗るシロヤマという名前に沿って、こいつらがお前に付けたあだ名だ。ちなみに運命の女神はアイザワだ」

「え~? なにそれダッサ~! でも、あだ名なんて滅多につけられないから新鮮~! 私はアイザワね、了解! アイちゃんって呼んで☆ 私もシロちゃんとクロちゃんって呼ぶ!」

「お前もだアイザワ。喋り方を何とかしろ」

 楽しんでいるアイザワに対して、シロヤマに注意されたことが癪に障ったのか単純にあだ名が気に入らなかったのか、クロカワは露骨に不快そうな顔つきになった。

「まあいいわ。あんたみたいな世間知らずの小娘って、大体口だけなのよね。井の中の蛙ってやつ? 金も権威も実力もなくてなんにもできないくせに、私に意見なんて百億年早いのよ。あと、田舎くさい訛りを気にしているみたいだけど、無駄ね。笑えるくらい訛ってるし。都会に憧れているみたいだけど、あんたからは芋臭さが抜けそうにないんだから、黙って田んぼに囲まれながらひっそりと生きていればいいのよ」

 クロカワの言葉は誰が聞いても美保を馬鹿にしているものだった。シロヤマとアイザワは一方的に暴言を吐かれた美保の様子を黙って見ていた。自分に注がれる侮蔑、興味。それらの不躾な視線を体にねっとりと浴びながら、美保は腹の底から湧き上がってくる感情に適する単語を脳裏に思い浮かべていた。

 ――瞬間、美保の中で何かが爆発した。

 クロカワの発言はどうしても許容できない、逆鱗に触れる言葉であったことを認識してしまったのだ。

「……おめに、何がわがる」

「は?」

「雪国の女子校生、ナメるでねえぞ! こちとら氷点下の中ストッキング穿いて、膝下五センチ規則の制服のスカートをベルトで上げて、少しでも可愛くみせようと必死に努力してんだ! 化粧品だって、近所のドラッグストアのレジのおばちゃんたちにまだ早えだのわちゃわちゃ言われながら、少ねえ小遣いで毎月少しずつ買ってらのよ! 雑誌とかネットと睨めっこして努力してんだ! 服だってさ! みんな地元のイオンで買うから被りまくるんだっづの! それでも友達と差を付けたぐて、コーディネートに必死に頭使ってんだ! そういう田舎者の涙ぐましい努力を身内で言い合うのは笑えっけど、おめみでえな綺麗な神様に芋臭えなんて言われて、馬鹿にされるのはどうしても我慢できねえ!」

 急に人が変わったように捲し立てる美保を神たちは驚いたように見ていたが、今の美保に溢れてくる感情を止めることは困難だった。

「別にいいでねえか! 現実を知らないガキでもカッペでも! そんなもん、これから生きていけば嫌でも知っていくことだべや! 偉そうなこと言うでねえ! 何もない? そらそうだべ! おらはまだ十七だもの! でも、何もないわけでねえ。未来がある! だったら今この歳で青森で、好き勝手妄想を膨らませてる痛いガキでいいべや! あんたらみたいな神様にはわからねえロマンが、田舎の女子高生の脳味噌には溢れてんだ!」

 柄にもなく大声を出した後、酸欠になりかけた頭を助けるために大きく息を吸った。冷たくて澄んだ空気が体中に行き渡った頃、美保はようやく事の重大さに気がついた。

(あれ……? お、おら、神様にとんでもない暴言を吐いたんでねえか……?)

 しかし、本来の臆病な性格から胸中を不安が埋め尽くしたのも一瞬だった。驚く程に清清しい気持ちが、美保の不安をあっという間に一蹴していった。美保は堂々と胸を張って、神様と対峙することができたのだ。

「私を侮辱するか。無礼ね。泣いて謝っても許さないから」

 だがクロカワはそれを許さなかった。一歩も引かずに謝罪もしなかった美保の頭を片手で掴み、人間に侮辱されたことへの怒りと屈辱で、その美しい顔を歪めていた。

「やだあ~美保チャンっておっかしい~! 熱い青春って感じだね☆ そういうの、私は嫌いじゃないけど~?」

 クロカワとは対照的に、アイザワは事の成り行きを楽しんでいるようだ。神様によってこれ程までに性格が違うのかと、初めて体験する痛みに美保が堪えながら考えていると、

「私は、美保の発言を支持する。美保を手にかけるようなことをすれば、クロカワ。お前とは今後一切、目も合わさないことを宣言しよう」

 シロヤマから全く予想していなかった助け舟が飛んできた。これにはクロカワも面食らったようで、頭を掴まれている美保は彼女に指の力が緩むのを感じた。

「何を馬鹿なことを言っているの? 死神、あんたも自分の立場をわかっていないの? 神が人間に肩入れすることは、人間界のバランスを崩すことに繋がる。崩れたバランスを元通りにするのがどれだけリスクが高いことか、わからない能無しじゃないわよね?」

「この国に人間を四人も連れてきた時点で、バランスも何もないだろう。然るべき処置は後で行うつもりだし、受けるべき処罰も当然受けよう。……それで、お前はその手を離すのか? 離さないのか?」

 シロヤマの無表情をしばらく見つめていたクロカワは、舌打ちをした後美保から手を離した。

「そいつらと関わっているからかしら。馬鹿になったわね、死神。私が調教しなくちゃいけないようね」

「馬鹿はともかく、調教は同僚に使う言葉ではないな。それに、こいつら人間の前では私はシロヤマだ、クロカワ」

 クロカワはシロヤマを睨みつけ、姿を消した。

「……東京でのやりとりを見ているときから思ってたけどぉ、シロちゃんって、この田舎娘をかなり贔屓してなーい? ねえねえ、どうしてかな~? シロちゃんの生前と関係あったりするのかな~?」

「そんなわけあるか。私は人間に対して、誰にでも平等で不公平だ」

 シロヤマは不愛想にそう答えると、美保の手を取ってアイザワの前から離脱した。

          ☆

 シロヤマに連れて来られたのは、轍一つない真っ白な広い道が続く平原だった。明るい場所なのに影の落ちない不思議な空間の中、二人は横並びに立っていた。

「……シロヤマさん。どうしてクロカワさんに殺されそうになったあたしを、助けてくれたんですか? あたし、なんてお礼を言ったらいいのか……」

「必要性を感じないから言うつもりはない。……だがまあ、強いて言うなら……お前が二回も口にした言葉は、私の過去を救ったのさ」

 シロヤマが口にした言葉の意味がまるでわからず首を傾げたとき、初めて彼女の微笑みを見た。

「……とにかく先へ行け。この先も続く真っ白い道を歩き続けていれば、看板よりもわかりやすい目印がお前を導くだろう」

「はい! ありがとうございました!」

 シロヤマに丁寧に頭を下げ、美保は言われた通りひたすらに真っ直ぐ歩いた。寂しい気持ちはなくならなかったし、怖いと思う気持ちも当然あった。それでもひたすら前へ、前へと歩いていった。

 どれくらい歩いたのだろうか。いつの間にか夜になっていた。それでも二本の足を休めることなく歩いていると、夜空から一枚の黒い羽が落ちてくるのが見えた。雪が作り上げる真っ白い景色の中で落ちてくる黒い羽はとりわけ目を引いて、美保は思わず手を伸ばして掴んでいた。

『屑の世界は何色に見える?』

 周りには誰もいないはずなのに、確かに誰かの声が聞こえた。しかし美保が驚いたのも一瞬のことだった。美保の心は不思議なくらい穏やかで、どんなことが起こっても対応できる自信があった。

 美保はゆっくりと瞬きをしてから、黒い羽に向かって答えた。

「  」

 根拠のない自信を持って答えた美保の体は、解答を待つより早く消え始めていた。しかし徐々に消えていく自分の体を視認しながらも、美保は狼狽しなかった。彼らならどうするのかが自然にわかったからだ。

(シロヤマさんが、おらを馬鹿呼ばわりする理由がわがった)

 真っ白い雪の中に体が溶け込んでいくのを見たとき、美保は田舎の美しさと近くにいる家族や友達の大切さに、やっと気づいたのだった。