「そういえば今日、この前面接やってた子が初出勤らしいのよ」
 最近、夫が五万のサーフボードを勝手に買ったと愚痴を零していた四十歳パートの樋口さんが、少しばかりニヤニヤと笑みを浮かべていた。そういうことかと、私も唇の片端を上げた。
「イケメンですか?」
 樋口さんは口を閉ざしたままさらに口角を上げて、さすがだと私は苦笑いし、アイスカフェオレを一口飲んだ。
 私は大学の講義の合間を縫ってファミレスでバイトをしていて、現在は休憩中だった。周囲にはお知らせや注意事項の紙が貼られ、控室の端には着替えを入れるロッカーと更衣室があった。中央には机と椅子が並べられ、いま座っているのは私と樋口さんだけだった。
 樋口さんは、今働いているファミレスの非正規社員の中でもっとも古参で、店長の次に発言力がある。だからといって、樋口さんは横暴な態度を取ったりはしない。なんなら飲み物を取ってきてくれるくらい親切だし、ユーモアがあって面白いから、気さくに話しかけられる。だからバイトの人は樋口さんを慕っているし、私もその一人だった。
「面接の人って大学生ですか?」
「いいえ、高校生よ」
 樋口さんは首を横に振ってマネージャールームに行ったと思えば、その手には面接のときに使う履歴書があって、私は小さく笑ってしまった。
「怒られないんですか?」
「大丈夫よ、バレなきゃ」
 目じりに皺を作ってお茶目に言い、履歴書を机に置いた。証明写真を見ると、まず目に着いたのは真っ白な肌だった。写真越しでも分かるくらい肌がきれいで、そこには漆みたいに真っ黒な髪と二つの瞳が浮かび、あたかもモノクロ写真に見えた。顔立ちはきれいだけど、どこか違和感があって首を傾げてしまった。
「なーんか、惜しいわよね」
 腕を組んで眉間に皺を寄せていた。どうやらさっき樋口さんが口角を上げたのは肯定ではなく、イケメンではない高校生に対する配慮だったようだ。私は写真に目を凝らし、頭を絞らせる。韓国風な黒のマッシュヘアーに、それなりに大きな目、高くも低くもない鼻、控えめな唇、比較的に小さくて細い顔。言ってしまえば。
「地味?」
 口を開く前に樋口さんが答え、私は「あー」と声を唸らせた。でも地味というより、本当は無に近くて、モノクロだと感じていたけど、わざわざ『安藤岳』の印象をひどくする必要もないから口を噤んだ。
「それと安藤くんの出勤時間、凛ちゃんの休憩時間と被るらしいわよ」
 つまり控室で出くわすことを意味していた。「そうなんですか」と返すと、樋口さんは控室を出た。私はスマホを取り出し、ツイッターを開いた。といってもツイートすることはなく、基本は好きなアーティストのツイートを閲覧するだけ。私の最近のブームは、『アガ』の更新するイラストを見ること。完全に琴音に影響されていて、なんなら私のほうがハマってしまったほどだ。見てみると今日も更新されていた。今回は落書きを投稿していて、横になっているセーラー服の女子高校生だった。長い黒髪が横に流れて、さらりと顔を覆って、やはり顔は見えなくて。いっそう儚く感じ、どんな顔なのだろうと想像してしまう。やはり浮かぶのはいつも琴音だけど。
 時計を見遣ると、そろそろ安藤くんが来る時間だった。私は足を組み変え、大きく伸びをしてから頬杖をつく。ちらりと時計を見上げてから、けっきょく立ち上がって飲み物をおかわりしに行くことにした。緊張しているわけではないけど、なんとなくソワソワしていた。コップを持って控室を出ると、目の前に誰か来てぶつかりそうになった。私は「きゃ」と後ろによろけてしまうと、倒れる寸前で誰かに背中を支えられた。
 間近には青年の顔があった。シトラスのような爽やかに甘い柔軟剤の香り、二重の瞼から伸びる長いまつ毛、リップを塗ったみたいに潤った唇。なにより、シルクのように真っ白な肌。まるで人形みたいで、どうすればこんなにきめ細やかな肌になるのだろう。だからとはいわないけど、つい間が差してしまった。
 いつの間にか、手が安藤くんの頬へと延びていた。
 割れ物に触れるようにそっと親指の先を伝わすと、子どものようにサラサラで、私の思考を根こそぎ奪っていく。
「あの」
 すっと、澄み渡る声。
 今まで聞いてきたどの声よりも、透明。
 まるで、ビードロのよう。
 それが鼓膜を撫でるのと同時に、頬へ触れている手を握られ、私はとっさに手を背後に回し、顔を逸らした。彼が触れた手をぎゅっと握り、まだ残った熱に浸り、さっきの感触が蘇ってくる。意外と手はごつごつと角ばっていた。とたんに男なのだと認識させられ、顔が痒いくらいに熱くて、つい頬を掻いてしまう。お互いなにも言わなくて気まずく、私は咳払いをして口を切った。
「初めまして、飯島凛です。これからよろしくね」
「あ、初めまして、安藤岳です。よろしくお願いします」
 この子が安藤くんかと思うのと同時に、反射的に会釈をしていると、岳くんも同じように会釈すれば更衣室に入っていった。私はそのあとをぼんやりと見つめてしまった。
 安藤くんの声はアルトのようで、男子に鑑みると高音だった。だけど草食男子っぽい見た目にそぐわぬ芯のある声音は、布に水が沁み込むようにすんなりと耳に馴染んだ。私は深く息を吐き、ドリンクバーに行ってカフェオレを注ぐ。ぼうっと眺めていると、なんとなく安藤くんの声はカフェオレみたいだと感じた。そんなことを考えている自分が気色悪くて左右に首を振り、私はまたため息を吐いていた。どうしてあんなことを。思い出すだけで目を覆いたくなるし、どうやって控室に戻ろうかと頭を悩ませてしまう。さっきの謝罪をしながら、いや、その選択肢はありえない。できればすぐにでも忘れてほしいから、わざわざ掘り返したくない。あれこれ模索した結果、なにもなかったかのように無難に笑顔で接することにした。控室に戻ると、もう安藤くんはバイトの制服に着替え終えていて、椅子に座っていた。私は前の席に座り、微笑を浮かべて安藤くんを見遣った。
「安藤くんってバイトするの初めて?」
「はい、そうです」
「そんなんだー。まあ、最初は大変だと思うけど、すぐ慣れるから大丈夫だよ!」
「そうですか」
 安藤くんは無表情にそう言って本を手に取り、ずっと口を閉ざしたまま読んでいた。私もスマホを取り出していじり続けたが、無音の空気に耐え切れず一度咳払いをしてしまった。安藤くんの視線がこっちへ来るのを合図に、私は口を開いた。
「安藤くんって高校生だよね? なんていう高校なの?」
「東京芸術高校、です」
 はらりと本のページをめくり、ハイライトのない黒い瞳はこっちを見ずに言った。私は首を傾げてしまって腕を組んで記憶を辿ると、想起して「そうか」と無意識に声を漏らしていた。
「美術コース?」
「はい」
「じゃあ、美術部でしょ」
 まるで推理でもするようにふざけて言うと、安藤くんは怪訝な目つきになっていた。
「そうですけど、なんで知ってるんですか?」
「友達に、きみの先輩がいるんだよ」
 私は意味もなく鼻を高くして言った。じっさい、東大に進学した先輩だから誇らしいのだろうけど。東京芸術高校、略して東芸は、琴音の出身校だった。琴音いわく、美術コースは強制的に美術部に入るのが決まりらしい。
 安藤くんは本を置き、私と目を合わせてきた。
「それは、いつ卒業した先輩ですか?」
 さっきまでとは違う力のこもった瞳で、ついなんどか瞬きをして頬を掻いてしまった。
「どうしたの、急に」
「あ、いや、なんでもないです」
 すぐさま目を逸らし、安藤くんは再び本を手に取った。軽く鼻で息を吐き、私もスマホを操作しながらさっきの質問を考えた。
「いま大学二年生だから、たぶん卒業したのは一年前だよ」
「……そうですか」
 なんだか落胆した声音で、ちらりと見れば安藤くんは見上げていた。どこか遠くを眺めて、ゆらゆらと揺らぐ黒い瞳。肌も雪のようだから白黒だけど、その表情には数多の目を引く熱があって、青さの枯れた私にはひどく眩しかった。
 その瞳には、安藤くんの先輩が映っているのだろうか。
 それは、想い人なのだろうか。
 そんなどうでも良いこと、無意識に考えてしまった。
 安藤くんは軽く会釈をし、「もう時間なんで」と控室を後にした。私はカフェオレを一口含み、頬杖をついてインスタグラムを眺めた。けど頭に情報は入ってこなくて、スマホを机に放った。
 安藤くんは無愛想とかではなく、やっぱりモノクロだと思う。相手が笑みを浮かべれば、人見知りだろうが愛想が悪かろうが、普通なら笑みを返す。それはほぼ反射的で、考える暇もないはずだ。でも安藤くんはなんの躊躇もなく真顔でいた。本当に仲が良い友達にならまだしも、初対面の、しかも先輩に向かってなんてありえない。どんなに不器用でも愛想笑いくらいするもの。そうしなければ社会ではやっていけないし、絶対にいつか損するときが来る。どう考えても賢くない生き方だ。
 だからといって正そうとも思わない。そんなのただの傲慢で、年配だから全てが正しいとも思わない。パッと思いつくだけでも、年配者が間違えていることは数えきれないほどある。人生の先輩だからといって、更生しようなんておこがましことは考えない。なにより、安藤くんがどうなろうと私には関係ないこと。
 ただのバイトの先輩後輩。
 それ以上の仲になるなんて、想像すらできなかった。