「そっか」
 私は笑みを繕って、机のほうに向かって椅子に座った。事前にフォトショップは起動してあって、カメラからSDカードを抜き、パソコンに差し込む。デスクトップに表示されたデータから、一番好評だった鉄棒を撮った写真をフォトショップにドラッグする。写真がフォトショップで表示され、とりあえず透明度を下げて描きやすいように設定。それから下書きを進めていくと、岳くんはとなりに座った。この机にはデスクトップパソコンとノートパソコンが置かれていて、私はデスクトップパソコンのほうを使わせてもらっている。私がノートパソコンで良いよ、と断ったのだけど、岳くんが頑なに使わせようとしてくるものだから、こっちが折れるしかなかった。互いに口を噤んだまま下書きを進めていくと、岳くんはアイスカフェオレを持ってきてくれて、お礼を言ってから集中したせいで乾いた喉を潤す。岳くんはペンですらすらと描いていたが、ピタリと手を止めてこっちを向いた。
「すみませんでした」
 とうとつには言われ、私はつい首を横に倒してしまう。
「なにが?」
 意味が分からなくて無意識に口調が強くなっていた。でもそれくらい、理由もなく謝られるのは不快なことだと、私は思った。岳くんは困ったように首を掻くんだろうな、そう予想していたのだけど、全くもって外れた。岳くんはことんっと音を立ててペンを置き、私の目をじいっと見つめてきた。光の少ない瞳だけど、なんだか今は力が籠っているように見えて、完全に反射的に笑みを作ってしまう。岳くんは眉を下げ、ひどく悲しそうに言った。
「時々、そんな表情しますよね、凛さんって」
 純水のように澄んだ声で言い、岳くんはそっと私の手に触れた。私より暖かい熱が、私の体をじんじんと侵していく。夏の暑さとか、冷房の利いたこの部屋ではそんな言い訳ができるはずもなく、心臓の鼓動はどんどん速まっていく。意識すればするほどに、奥にひっそりとある感情がじんわりと滲み出るような、そんな感覚。この先、知ることなんてないと思っていた、必要のない感覚。この感情がなんなのか、私は分かりたくなくて、必死に押さえつけているんだと、今になって気づいた。それは、ずるがしこく、とても正しい判断だった。
 ぼうぜんと岳くんの顔を見ていると、岳くんは苦く笑った。
「そんな凛さん、ボクはあまり見たくないです」
 岳くんは再びペンを握り、イラストを描いていく。私はコップに口をつけ、ほろ苦いカフェオレを飲んで思考を落ち着かせる。岳くんは気づいていたんだ、私が作り笑いしていたことに。今まで、バレたことなんてなかったのに。いや、違う。もしかしたら他にも勘づいている人もいたのかもしれない。だけどそれを一々言う必要がないから、だれも見なかったふりをするのだ。岳くんも絶対に今まで、作り笑いをしている人間を見てきたはず。バイト先でも、そういうふうに岳くんに接している人はいた。でも、なにも言わなかった。
 ならなおさら、どうしてあんなことを言ってきたんだろう。そんなこと、いくら考えても分かるはずがないのに。岳くんの言うこと全て、いちいち、私の中に響いてきて、どうしようもなく頭を悩ませてくる。どんどん、私をダメにしてくる。だから私は、もう忘れることにして、パソコンに目を遣った。それでもずっと、岳くんの言葉はちらつくのだけど。
 鈍筆ながらも地道に描いていけば、ようやく描きを終えることができた。岳くんに終わったことを伝え、ちらりとノートパソコンを覗く。当たり前だけど速く、もうとっくに完成していたようで、早々に他の絵を描いていた。岳くんはキャスターを転がしてこっちに少し寄って、顎に手を添えてじっくり見た。なんだかテスト結果を見るときみたいに小刻みに心臓が揺れていて、速くしてほしいという焦りのせいか、強く手を握ってしまう。岳くんは首を傾げたり、顔を近づけて凝視したり、指で机をとんとんっと突いたり、何度か繰り返すと、やぶからぼうに口を切った。
「うん、着実にうまくなってると思います。けど」
 それから岳くんは人物の絵を指摘してくれた。だからといって厳しくではなく、ここに影をつけたほうが良いとか、体のバランスが少しずれているとか、それぐらいのこと。基本的にデッサンが狂っているらしいけど、初めはこんなものだし、趣味で描くならそこまで気にしなくても良いらしい。描いていけば、なんとなく感覚を掴めるらしい。私はとりあえず人物の箇所を描き直すことにした。何回かやってはみたけれど、いっこうにうまくいかなくて、私はペンを止めて頭を悩ませていた。
「どうしたんですか?」
 岳くんはなにも言わなくても気づいてくれて、私は少し驚きながらも平静を装い、はははと笑みを零した。
「ちょっとうまくいかなくて、ね」
 とは言いつつ、どうにかしようと試行錯誤してみて、当たり前だけどうまくいかなくて、手を止めてため息を零してしまう。すると岳くんはペンを握っている手へ被さるように握ってきた。
「ここはぼかしとグラデーションを使ったほう良いですよ」
 そう言って岳くんは絵をコピーして、あとで私が描き直せるようにしてから、手際よく描いていく。それも一つ一つ丁寧に解説していきながら。描き終えると、幼かった過去に感傷的になっているような、美しい女性がそこにはいた。ペンのタッチと同じで、一人の物語を紡ぐように絵も繊細だった。私はおもわず「すごい」と感嘆の声を上げてしまうと、岳くんは私の手から手を離した。あまりに洗練された動きのせいで手を握られていたことを普通に忘れていたけど、意識していたら確実に手汗がやばいことになっていたから、かえって良かった。そして今は体が熱くて、手汗がすごいことになっていた。
「じゃあ、まず真似からで良いんで、頑張ってください」
 岳くんは小さく笑ってから、またすぐに自分のイラストへと目を向けた。でも私は岳くんにみたいにすぐ取りかかることはできなくて、彼を、彼の絵を横目で見てしまう。
 筆の種類や色を、体の一部であるかのように、滑らかに切り替えていく。岳くんは下書きもなしに、スラスラと迷いなく描き進めていた。彼いわく、頭の中で順序は決まっているから、そもそも下書きは必要なく、むしろ無駄らしい。だから彼の描き方はとてもおかしくて、左上からパズルをはめていくように出来上がっていく。だから、彼はレイヤーを二つしか使わない。最初に描き上げる風景と、最後に彩っていく人物のみ。もちろん背景の描写も美しいのだけど、岳くんはなによりも、人物に力を入れているらしい。それは聞くまでもなく、岳くんのイラストの魅力は少女、女性だからだ。
 気づけば、もう岳くんは人物へとペンを進めていた。シルクのように白くきめ細やかな指で、一人の少女を鮮やかに描いていく。片方の膝に重心をかけ、木に寄りかかる白いシャツワンピースの少女。白とグレーのグラデーションがかかった薄く伸びる雲を仰ぎ、降り注ぐ白い光を手で遮っていた。風が強いのか、ワンピースが華奢な曲線をくっきりと描かれていて、女の子らしさを演出している。ほんのり小麦色な肌は白いシャツワンピのおかげで際立ち、健康的で活発な印象を与えてきて、きっと笑顔の映える女の子なんだろう。
 だけどやはり、少女の顔は描かれていなかった。
 そこで私はふと想起して、指先で岳くんの肩を叩いた。
「そういえば、なんで顔描かないの?」
 私は首を傾げていると、岳くんは電柱のように表情を固めてしまった。どうしたんだろうともう一度声をかけようとしたけど、その前に岳くんはそっぽを向き、イラストを描き進めながら口を切った。
「彼女が、それを望んでいないと、思ったからです」
 岳くんはそれ以上なにも言わず、一心不乱に手を動かした。おそらくもうこの話はするなという意思表示で、私とて関係をぶち壊してまで聞きたいとも思わないから、とりあえず今は口を噤むことにした。
 私は岳くんに教えてもらったところを描きながら、私はさっきの言葉に頭を絞らせていた。彼女、つまり岳くんが告白した先輩が顔を描かれることを望んでいないとは、いったいどういうことだろう。顔がコンプレックスなのは間違いなくて、絵にされるのも嫌なのだから、よほど自分の顔に自信がないのだろう。ということは、先輩とやらの顔は不細工に違いない。容姿が整っている女が顔を褒められ、そんなことないと謙虚な態度を取るとする。そういう女は決まって、インスタグラムとかにはドアップで顔面を自慢げにアップしているもの。そんな芝居じみた女に、するどい岳くんが勘づかないはずがない。
 ということは岳くんは面食いではないだろうから、琴音はまた一歩不利になったかもしれない。けど、琴音もなんだかんだ純粋な子だから、まだまだ望みはある。
 それでも、未だに決定的な攻めどころが見つからない。どうすればさりげなく聞けるんだろうかと頭を悩ませるけど、全くもって思いつかない。この夏休み、ここまで考えても妙案が出ないのだから、たぶんこれ以上試行錯誤しても無駄なのではないか。それならいっそのこと、直接聞いてしまったほうが良いのではないか。そう思って、私はイラストを描く手は止めず、それとなく岳くんに声をかけた。
「岳くんって、彼女いないの?」
 かたっと、となりから音がした。一瞥すると岳くんはペンを床に落っことしていて、私は拾ってあげる。岳くんは会釈をしてから、質問にはなにも答えず絵を描いていくと、ある程度進んでから口を開いた。
「どうしたんですか、急に」
「べつに、なんとなく」
 訝しい視線がきたから笑みで返すと、岳くんは隠そうともせずため息を吐いた。
「いないですけど」
「じゃあ、好きな人は?」
「さあ、どうでしょう」
「ていうことはいるんだね。だれだれ?」
 そう、否定しなくて曖昧な言い回しのときは、たまに例外はあれど、おおかた肯定と取って良い。だから質問を畳みかけると、岳くんは困ったように後頭部を掻いた。私はにやにやと笑みを浮かべてしまいつつ、岳くんに近づこうとした。けど、私は椅子のキャスターに躓いてしまい、転びそうになるけど、そうはならなかった。
「凛さんって、意外とおっちょこちょい、ですよね」
 後頭部から、空気がろ過されていくように澄明な声と、仄かに暖かい吐息がかかる。肩には私より熱い体温が伝い、それ以上に私の顔近辺の熱は上昇していく。私は「ごめんごめん」となんとか笑顔を作って離れようとしたけど、なぜか岳くんはいっそうに握力を込めてきた。女子のように細い指からは想像できない力で、高校生である前に、男であること教えられた。さっきまでは全くもってなかった女性としての危機感に襲われて、岳くんであろうと気安く二人きりになってはいけないことに、今になってようやく気づいたけど、もう遅かったようだ。
 肩だけではなく、体ごと覆いかぶさるように抱きしめられる。そこからは私より高い熱を感じるけど、さっきよりずっと熱くて、伝導するみたいに私の体温も上がっていった。ほんの数秒の出来事のはずなんだけど、私の中では何時間も続いているような錯覚に襲われていた。いつまで続くんだろうとは思うけど、どうしてか嫌ではない気がして、むしろ。
「そんな凛さんも、ボクは好きです」
 私は岳くんの腕を握ろうとしていた手をピタリと止めてしまった。
「え」
 おもわず声が漏れてしまった。も、とはなんだろう。けど考える間もなく、岳くんは私を抱く手を解き、そっと椅子に座らせてくれた。
 そして、私よりも白く、それでいて触れるとごつごつとした手が、私の手へと添えられた。赤ちゃんに触れるかのように、とても柔らかかった。
「好きなんです。凛さんのことが」
 岳くんはきゅっと手に力を入れてきて、私は目が覚めたようにハッとその手を避けていた。しまったと私は岳くんの顔を覗き見る。ははっと、感情をかみ殺したような乾いた笑みを浮かべていた。なにか言わなきゃいけいない。頭では分かっているけど、それでもなにも言えなくて、私はおもわず目を背けてしまった。
「あの、返事はすぐじゃなくて大丈夫です。その、ずっと待ってますから」
 そう言って岳くんは二つのイラストのデータを上書き保存してから、パソコンの電源を両方とも落とし、「もう終わりにしましょう」と言った。今日はということか、もう一生ということか、どっちか分からなかったけど、もう早く帰りたかった。
 玄関を出ると、セミの声が弱く耳に押し入ってきて、涼やかで強い風が肌に染みる。あっという間に夜になっていたようで、住宅地だからか空気を割く風の音とセミの囁きだけが鳴っていた。とりあえず、静かな夜じゃなくて良かった。きっと、余計に長く頭の中で残ってしまうだろうから。
 この暑さなら走れそうだな、とかそんなことを無理やり考えながら帰路を歩いていく。他にも色々考えてしまおうと思ったけど、そういうときに限ってなにもなくて。こんなどうしようもない状況をどうにかしたいけど、ショートしかけている私の頭はより熱くなって、ますます頭が回らなくなっていく。そんな風にだんだん壊れていく私は、そうだ走ろうと、頭のおかしいことを思いつき、アスファルトの地面を強く蹴った。本当にどうかしていると、まだ生き残っている脳の正常な部分は呆れたけど、結果的にはこれが正解だったのかもしれない。
 走っていると向かい風はさらに強く冷たく吹き、冷房に直接当たっているみたいだった。それと同時に肺のほうは痛くなってきて、私はひとまず立ち止まって乱れた呼吸を整えた。気づけば大通りに出ていたようで、歩いているとタイヤの音とエンジン音が忙しく耳に届くけど。
 ビードロのように透き通った声は、私の中でずっと木霊(こだま)していた。だから、それ以外ほとんど聞こえないも同然で、『好きなんです、凛さんのことが』という言葉が壊れたラジカセみたいにいつまでも再生されていく。その度に、きゅっと胸の辺りが苦しくなるのはなぜだろう。たぶんなにかの感情ではあるんだろうけど、それがなんなのかはあと一歩のところで検討がつかなくて、完成まじかにパズルのピースを失くしてしまったみたいな気分だった。答えは分かっているんだけど、とりあえず考えないようにして、無理やりにでも導き出さないようにしていた。これ以上、思考を巡らせてはいけないような、私の積み重ねてきた全てが壊れてしまいそうな、そんな気がした。
 家に着けば、すでにご飯が用意されていたけど、これっぽっちも食欲なんてないから、そのまま私は自分の部屋に入った。このままベッドに飛び込みたいくらいだったけど、さすがに化粧くらい落とさなきゃ、明日の顔面が悲惨なことになる。ひとまず部屋着に着替えてから、机から化粧落としシートと鏡を取り出し、ゆっくり擦り落としていく。けど途中でだるくなってきて、ごしごしと荒技で落とし、確認するのも面倒だからそのままベッドに倒れ込んだ。掛布団は抱き枕のようにして、ぐいっと丸まった。
 ベッドに入っても、私は岳くんの声に、熱に、全てに、いつまでもうなされていた。
 この気持ちがなんなのか、決して考えないようにしていたけど、それでも岳くんのことで頭がいっぱいになっていく。
 岳くんが『そんな凛さん、ボクはあまり見たくないです』と言ったのは、私のことが好きだったからなんだ。好きな人の繕った顔なんて、見たくなかったんだ。でもどうして、好きだから作り笑いを見たくないんだろう。作り笑いをするのも、その場の空気を悪くしないためにと、相手のことを思ってのこと。だから、むしろ好意的な行動だ。ためしに、岳くんの作り笑いを想像して見たけど、すぐにやめてしまった。
 せっかく丁寧に描いた絵に、適当な色を塗りたくられるような、すごく言い難い気持ちになっていた。
 いつもしてきて、ほぼ癖になっていた作り笑いが、ときには人を嫌な気持ちにさせるなんて、私は初めて知ったけど。
 私にはもう、関係のないことだった。