嗚咽が収まってから、琴音は丁寧に言葉を紡いでいった。
 琴音は幼いころから『笑顔がかわいらしい女の子』と地域で評判の女の子だったという。琴音の笑顔は大人を癒し、男の子からは心をも奪った。だけど、どうも同世代の女子からは嫌煙されやすく、まともな友達は誰一人いなかった。モテて勉強も運動もできる、素直で顔もかわいい女の子。こんなの嫉妬されないほうがおかしくて、どうせなら琴音は腹黒いくらいのほうが、少なくとも女友達はできただろう。それでも琴音が『笑顔がかわいらしい女の子』をやめなかったのは、それが人気者になる唯一の方法だったからだ。
 琴音は『笑顔がかわいらしい女の子』であると同時に、ひどく人見知りな女の子だった。話しかけられてもなんて答えて良いか戸惑い、けっきょくは黙り込んでしまって、無愛想だとか、つまんないだとか、馬鹿にされていたという。
 それを改善しようと頭を悩ませた結果が、『とりあえず微笑む』だったようだ。そうすると瞬く間に愛想の悪い女の子から『笑顔のかわいらしい女の子』へと変わり、色んな人からちやほやされるようになって、また多くの女子から嫌われるようになった。けれど琴音いわく、無関心でいられるくらいなら嫌われたほうがマシらしい。私もそう思う。だれにも見向きもされないこと以上に、辛いことはない。
 そんななか琴音はイラストと出会い、あっという間に虜になってしまった。いつもとりあえず微笑んで自分を隠しているけど、絵を描いているときだけは、自分の胸の内をむき出しにできるから、今までの鬱憤をぶちまけるように絵を描き続けたという。琴音はイラストを描く職に就きたいと思い、東京芸術高校に進学した。そこで切磋琢磨し、相変わらず女友達が一人もできないまま三年生になり、東芸美術部の体験入部の手伝いをしていた。その際に、岳くんと出会い、完全に一目惚れだったという。
 琴音がそこまで話し、一息つくためコーラフロートのコーラだけを飲んだところで、私はふと思って首を傾げてしまった。
「だったらなんで私と岳くんをくっつけたいと思ったの? 岳くんのこと、好きなんでしょ?」
「諦めたかったの、岳のこと」
「どうして?」
 少し間を置いて、琴音の潤んだ栗色の瞳を覗いた。視線がぶつかると、ドアを閉めて部屋へ引きこもるように琴音は目を背けていき、唇を固めた。これは完全に黙り込むやつだと思った。けど、琴音は涙をのみ込むように鼻をすすり、そっと唇を緩めていった。
「もう、無理だからだよ。いつまでも、この気持ちを持ってちゃ、いけないん、だよ」
 小学生が泣くみたいに声を震わせていたけど、言い切ったあと、なぜか、琴音はふっと軽く笑みを漏らした。しかし笑っていたのは口元だけで、目はずっと虚ろだった。
 諦めるというのは簡単に決めた答えではないというのは、なんとなく伝わってきて、きっと私が口出ししてはいけないものなんだと思った。だからなおさらというべきか、どう声を掛ければ良いのかいつまでも考えあぐねていると、琴音は前触れなく頭を下げた。
「彼女ができれば諦められると思ったから、凛ちゃんを利用してたの。ほんとにごめんなさい」
 琴音は目を斜め下に逸らし、消え入るような声で言った。私は呆れてため息を吐いてしまうけど、あることに気づいて反対方向にまた首を倒した。
「なら、どうして私にあんなこと言ったの? 今まで通り微笑んでおけばよかったんじゃない?」
 言い終えたとき、無意識に口調が強くなっていたことに気づき、とっさに訂正しようとしたけど口を開いたまま止めてしまった。琴音はいっそう私の指を強く握り、そこに目を落として鼻をすすった。
「騙して偽り続けるのが、なんだか辛くなったの。性格のことも、岳のことも。……凛ちゃんは、わたしの、初めての友達で、親友、だから」
 琴音は言葉を絞り出しながら、ぽつりぽつりと透明な雫を落としていく。それを目の当たりにすると、なんだかこっちの目頭も熱くなっているのを感じって、喉元に力を入れて溢れ出すのを堪え、琴音の手を握りしめた。
「琴音と親友になれて、私も良かったよ」
 そう優しく囁くと、琴音はボロボロとメイクを崩していき、私もとうとう我慢できず泣いてしまった。こんなの、耐えきれるはずがなかった。
 琴音を見ていると、どうしようもなく勝手につられてしまう。周りを引き付けて、いとも簡単に感情を揺さぶるのは琴音の最大の魅力であり、それを嫌う人もいるわけだから、最大の短所でもある。女性が琴音を毛嫌いするのも、それはそれで分かる。ただ笑って愛想を振りまいているだけのやつが、なんであんなにちやほやされるんだよと。かわいいだけでモテるなんて、理不尽にもほどがあると。
 だとしても、私はそんな琴音が好きなんだ。たとえ作られた笑みだとしても、それも琴音で、私に好かれたいという意思の下、彼女は私に笑いかけてくれていたんだ。私と友達でいたいと、思ってくれたんだ。私にとって、琴音の笑顔はなによりも美しくて、そして憧れだった。それだけじゃない。琴音は優しくて、いつも支えになってくれた。サークルに入れなくて落ち込んでいたとき、イラストを描くという新たな楽しみを教えてくれたのは琴音だった。琴音と出会えたことが、東大に入学して一番の得したことだった。
 だから私は、そんな親友の恋を応援したいと、本気で思っていた。
 すると、私はあることを思い出してスマホを取り出す。ツイッターを開き、テンパって押し間違えながらも『アガ』のアカウントを見つけ、一番最近に投稿されたイラストに目を曝す。この前までなんとなくシルエットだけが見えていたけど、ぼんやり顔まで映ってきて、以前より確信に近づいたような気がした。やはり『アガ』が描いていたのは琴音なのかもしれないと、私はにやけてしまいそうになるのを少し食いしばって押さえて、私は琴音を見遣った。
 これは言わないほうが良いと思った。琴音はなんだかんだいって素直だから、おそらくこのことを話したならば、もれなく動揺してしまうだろう。ということは、私一人だけでおぜん立てしてあげればならない。とはいえ、これからどうしたら良いのか分からないし、私にできることなんてあるだろうか。
 でもひとまず、私と岳くんの関係をあと一か月で終わらしていけないのは確かだ。そこがなくなってしまえば、完全におしまいだ。
 それに考えなおしてみれば、こんなところで終わらせてしまうなんて、そんなの、なにもずるがしこくなかった。優位な立ち位置でいるために、友達が多いことに越したことはない。なにより、才能のあるプロのイラストレーターの友達がいるというのは、なんだか聞こえが良い気がした。よくよく考えてみれば岳くんと友達でいるのは良いこと尽くしで、関係を切ってしまうのは、全くもってずるがしこくない人間のすること。
 私はスマホでLINEを起動し、岳くんのトーク画面を開き、あることを送信した。すると数分で返信は着て、いつも通り丁寧な文体で了承してくれた。私はおもわずガッツポーズしてしまうと、琴音は「どうしたの?」と言った。琴音は両手で顔を覆っていて、おそらく涙のせいでなってしまったスッピンを見られたくないのだろう。女子同士でもそういう人もいるから、べつに珍しいことでもない。まあ、琴音だからスッピンも可愛いのだけど。私は気を使って顔を逸らし、「なんでもないよ」と返した。
 琴音は顔を隠しながら化粧ポーチを持ってトイレに行き、化粧を終えたところで私たちはお開きになった。
 これで、どうにか時間は稼げそうだ。それでも危機的状況に変わりなくて、一日中どうしようかと頭を絞らせるけど、次の日になってもなにも思い浮かばなくて、東大で策を練ろうにも講義についていくので精一杯で考える暇もなくて、けっきょくはぶっつけ本番でいくことになってしまった。
 家に戻って軽くメイクと髪型を直し、少し腕元が寂しいなと白い腕時計を身に着ける。仕上げにせっけん系の香水をうなじと胸につけて、さりげなく良い匂いになって家を出た。住宅街を抜け、環八通りを真っ直ぐに進んで、コンビニのとなりにある『二千円だけ握りしめてこい』と看板に書かれた焼き肉屋に辿り着く。岳くんは先に到着していたようで、こっちに気づくとイヤフォンを外して近づいてきた。
 真夏なのに汗一つ見えない真っ白な肌には夕焼け色が乗っかり、沁み込むことなくきれいに反射していて、すごく眩しかった。岳くんは黒スラックスパンツにグレーのグレンチェックシャツを着ていた。グレーのグレンチェックはレディースではよく見かけるデザインで、でも控えめできれいな彼の顔にはかわいらしいグレンチェックはよく似合っていた。でもそんなことより、私はつい服を隠すように腕を組んでしまった。
「今日は誘ってくれてありがとうございます」
「良いの、私がしたかっただけだから」
 岳くんはいつも通りペコリと会釈をして、私は笑みを返して中に入ろうよと、急かすように手招きした。店員に二人だと告げれば四人席に誘導され、私たちは機械的に斜め前の席に着いた。店員に食べ放題の強人コースを頼み、私はアイスティーを、岳くんはオレンジジュースをとりあえず伝えた。
 とうぜん私は二十歳を超えているわけだからお酒を飲んでも良いのだけれど、なんとなくまだ飲めない岳くんに悪いと思ったのと、万が一、お酒で私がつぶれてしまっては元も子もないからだ。目的を達成するためには我慢するしかない。といっても、慣れているから大したことではなかった。なぜなら私は合コンや打ち上げのときは、絶対に酔わないよう注意しているからだ。みんな飲もうぜと酒を進めてくるけど、私はたいがい飲んでいるふりをしてやり過ごしている。酔ってしまえば余計なことを口走ってしまうかもしれないし、なによりお持ち帰りなんてされたらたまったもんじゃない。そんな安くて、簡単にヤれる女になるのは、なにもずるがしこいことではない。だから私が酒に飲まれるなんて決してありえない。それでも、念には念を、と言うやつだ。
 私はすぐさまメニュー表を立ててなにを注文しようか悩んでいると、岳くんはすっとメニュー表を引っこ抜いてきた。その先には岳くんがいて、じっと私のほうを見つめてきて、私は表情を強張らせてしまった。岳くんはすっと自分の体に視線を下げ、またこっちを向けば、柔らかく目を細めた。
「服、なんか似てますね」
 やはり気づいてしまったかと、私は目を逸らして苦く笑った。私は自分の服装に目を落とす。七分丈で岳くんと同じ柄のワンピースに、黒いブーツを履いていた。よく見れば岳くんもドクターマーチンの黒ブーツを履いていて、まるでシミラールックみたいで顔が微かに熱くなっていくのを感じた。でも岳くんはいっさいそんな素振りを見せず、メニューを選んで店員に注文し、届いたオレンジジュースを飲んでから話しかけてきた。
「そういえば、どうして急に焼肉に行こうなんて言ったんですか?」
「岳くんのお祝いだよ。プロのイラストレーターになるんだから、やっとかないとね。私しか知らないわけだし」
 私は咳払いをしてから説明するけれど、また鼓動が速まってしまった。『私しか知らない』という言葉に反応してしまったわけだけど、そこに特別な感情はこれっぽっちもない。女の子はだれしも『秘密』という言葉に弱い、ただそれだけのことだ。岳くんはなんどか瞼を瞬かせ、唇と頬の間に穴をあけた。
「そうだったんですか。ありがとうございます」
 岳くんはまた会釈して笑みを浮かべた。すると店員がカルビやタンなどさまざまな肉を持ってきて、岳くんは普段通り質素な顔で肉を焼き始めた。もくもくと煙が立ち上り、視界を少しだけ遮られて、岳くんの白い肌と同化して姿が見えにくくなる。だからよけいに注視していると、岳くんはこっちの視線に気づいたのか首を傾げて、私は知らんぷりして焼けた肉を七輪から取り、甘辛いタレにつけて頬張った。なんの変哲もなく普通にうまい肉だけど、岳くんを見遣れば若干頬を緩ませながら食べていた。
 なんとなくで、本当は勘違いかもしれないけど、会うたびに表情が柔らかくなっていく気がする。意外と子どもっぽく、炭酸は飲めなくて辛い物は食べられないし、感情は表情にはあまり出ないけど、よく仕草に現れていて分かりやすく、たとえば困ったときはよく首を掻く。そんな意外な一面を見つけるたびに、いちいち嬉しくなってしまう。そんな宝探しのようなことにハマっている私は、今日も変わらず観察しようとするけど、岳くんはすでにこっちを見ていて、つい目を強張らせてしまった。じいっとこっちに目を据えているけど、いっこうに口を閉ざしたままで、私はこの居た堪れない空気に痺れを切らして話しかけた。
「やっぱりすごいよね、小説の表紙を描けるなんて」
「そんなこと、ないですよ」
「岳くんって、そうやってすぐ謙遜するよね」
 首を掻きながら言っていて、困っている岳くんを見ていると私はつい少し笑ってしまった。だけど、私はすぐに笑うのをやめた。岳くんは目を微かに落とし、一口オレンジジュースを飲んでから、口元を手の甲で拭ってため息を吐いた。
「本当にそんなんじゃないんです。ボクよりもっとすごい人を知っているから、ボクは先輩に追いつくために今よりずっと頑張らなきゃいけないんです」
 岳くんは話声に起伏をつけず淡々と言って、たぶん聞き流してくれという意味なんだろうけど、一つだけ引っかかる部分があって、私はなんとなく重要なことのような気がして質問してしまった。
「先輩って?」
 その言葉を発した途端、岳くんは数秒だけ固まってからハッと目を剥いて口を開けた。これは感が命中したようで、私は笑みを含んでじいっと睨めていると、岳くんは後頭部をポリポリと掻いて、観念したようにすっとこっちを見て口を切った。
「ボクが東芸に入学する前、公園でよく絵を教えてくれた先輩がいたんです」
 頭に姿を思い浮かべているのか、山なりに目を細めていた。見ていればなにも言わずとも、その先輩を尊敬しているんだと分かることができた。
「それって、この前聞いてきた先輩のこと?」
「はい。そのとき先輩は高三で、すれ違いだったんですけど」
 目を落とし、手の届かない存在を想うような静かな声で言って、どうしようもなく弱わり切った笑みを浮かべた。それがなにを意味するのか、私はなんとなく垣間見えていた。岳くんが中学三年生のとき、琴音は高校二年生のはずだから、その先輩が琴音ではないのを知ることができたけど、同時に琴音が不利な状況にあることも分かってしまって、表情に出さないよう無理やり口角を上げた。
「そっかー。その人とはもう会ってないの?」
「はい」
「どうして?」
 ほぼ反射的に首を傾げてしまうと、岳くんは頭を掻いてしばらく口を噤んで、いま七輪に乗っている肉を淡々と処理していく。私にも分けながら全て皿に移し終え、箸をオレンジジュースの入ったジョッキの持ち手のすき間を箸置きのようにして置いて、画期的だと感心して私も真似した。すると岳くんは自嘲的に苦虫を噛み潰したような笑みを浮かべた。
「振られたんです。絵を描くのに、集中したいって。だから、もう会うことはないです」
 目を決して合わせることなく、ゆっくりな口調だけどどこか投げやりに言った。私は「へえ」と何気ないように声を漏らしたけど、内心では「マジか」と声を上げたくてたまらなかった。好きな人がいるっていうだけでも意外だったのに、ましてや大人しそうに見える岳くんが告白までしているとは。案外、行動派なんだろうか。どうやって告白したとか、いろいろと聞き出したいところではあるけど、とりあえず意外な一面のことは忘れて、現状を考える。今は先輩のことを諦めたようにも見えるけど、あのことを聞くまでは確証を持つことは到底できない。だから私はツイッターを開き、『アガ』のイラストを岳くんに見せ、こう質問した。
「『アガ』のイラストって、だれかモデルいるよね?」
 肉を焼いていないからすっきりとした視界で、岳くんの深い黒の瞳を覗く。岳くんは顔を強張らせて、それでも依然として目を凝らしていると、岳くんはため息を吐いてお手上げといったように椅子の背にもたれかかり、そっと天井を見上げた。
「モデルになっているのは、その先輩です」
 やはりそっちだったかと、私は心の内で嘆息を漏らさずにはいられなかった。ということは、琴音のことはもう忘れている可能性は十分にある。問い質したいところだけど、それをそのまま確かめるわけにはいかない。それでは琴音が岳くんを今でも好きだということがバレてしまうかもしれないわけで。だから、私はひとまずこの件は置いといて、先輩とやらの素性を明かすことにした。
「その先輩の名前って、なんていうの?」
 岳くんは困ったように首を掻きながら傾げてから、ため息を吐いてかぶりを振った。
「その、知らないんです」
「え、なんで? 仲良かったんでしょ?」
 つい前のめりになって言及してしまうと、岳くんは苦笑いを浮かべた。
「いや、そういうわけでは」
「どういうこと?」
「なぜか、教えてくれなかったんです。『名前を知らないほうが、素敵だと思わない?』って言われて。だからそのかわり、ボクは『キミ』と呼ばれてたんです」
「そうなんだ」
 どうやら先輩とやらはひょうきんな人らしい。それでいて、さぞかし容姿に自信があるらしい。そうでなければ、あんなくさい言葉を言えるはずがない。どこか魔性の女よりの気配がして、なおさら探りを入れたいところだけど。私はいったん岳くんから視線を逸らし、肉といっしょにご飯を食べて会話に区切りをつけた。こういうのは少しずつ聞き出したほうが良い。あまりしつこく聞くと怪しまれる可能性があるし、もっと仲良くなってからのほうがより深く話を聞けるからだ。それなりに量を食べて、口の中に溜まった油をアイスティーで流し、そろそろ良いかと口を切ろうとした。けど、できなかった。それは岳くんが先に声を発したからだ。
「凛さんって、東大なんですよね?」
「え、あ、うん、そうだけど」
 やぶからぼうにそんなこと聞くもんで、つかえてしまいながらも頷いた。どうしてそんなことを確認してきたのだろうと考えていると、岳くんは後頭部に触れて、私の目を見つめてきた。
「ボクに、勉強を教えてくれませんか?」
 私は突然のことに口を半開きにしていた。なんどか瞬きをしてしまいながらも、ようやく言っていることを理解したのだけど、どうしてだろうと首を横に曲げてしまう。岳くんは素早くスマホを取り出し、操作して私に見せてくると、そこには『三十二点』と書かれた国語のテストの写真があった。
「じつは全然できないんです、勉強。高校入学も単願推薦だったんで」
 引きつった笑みを浮かべてすぐにスマホをしまい、私はつい噴き出してしまった。岳くんはバカにされていると思ったのか、目じりを下げて素直に落ち込んでいて、私は左右に首を振った。
「べつにバカにしたわけじゃないよ。なんか、意外だったから。予習復習しっかりしてそうだし」
「そんなことないですよ。テスト前とか、気づけば絵を描いちゃってますし」
 未だに笑っていると、岳くんは間髪入れずに否定して、たった一つ顔の中で鮮やかな赤い唇を尖らせた。岳くんはからかわれたのかと感じているのかもしれないけど、私は本当に真面目という印象があって、弱点だらけでイラスト馬鹿の岳くんはなんだか、とてもかわいく見えてきた。
「あ、でも、タダで家庭教師みたいなこと、嫌ですよね」
 岳くんは首を掻きながら声のトーンと落として言って、私は「そんなことないよ」と咄嗟に口にしそうになったけど、一度口を閉ざし、こう提案してみた。
「じゃあさ、その代わりに教えてよ」
「なにをですか?」
「イラスト、教えてほしいな」
 言い損ねていたことを笑顔で口にすると、岳くんは少し間を置いてから笑みを零して頷いた。
「分かりました。そんなことで良いなら、いくらでも」
「うん、決まりね」
 さっきとは違って自然と笑顔に向けることができたけど、岳くんは後頭部を擦りながらそっぽを向いてしまった。どうしたんだろうと首を傾げていたら、店員が来てラストオーダーを尋ねてきた。まだ肉は残っていたからなにも注文せず、ぜんぶ食べ終えれば私たちは店を出た。
 車のヘッドライトに照らされ、とっさに目を細めていた。ワンピースがひらりと揺れるくらいの風が、七輪の熱とエアコンの冷房にやられた肌を優しく包んだ。夏特有の温泉のような良い匂いがして、夏の昼は嫌いだけど、夏の夜はそれなりに好きだった。乱れそうになる前髪を押さえながら振り向くと、岳くんは腕をめいっぱい広げ、瞼を落として斜め上を向いていた。どうやら深呼吸していたようで、どうして急にと思いじっと見てしまうと、岳くんは夜だといっそう目立つ白い頬を上げた。
「気持ち良くないですか、夏の夜って」
「まあね」
 だからといって絶対やらないけど。私はそのまま帰って良いとも思ったけど、なんだか無性に甘いものが飲みたくなって、岳くんを見遣った
「ねえ、ちょっとカフェ寄ってかない? 奢るからさ」
 すぐそこにあるドトールを指させば岳くんはこくりと頷いて、私たちは店内に足を運んだ。私はアイス沖縄黒糖抹茶ラテを、岳くんはアイスココアを頼んだ。二人席に前後で座り、ほんのり苦い甘さで胃に感じる脂っこさが浄化される。前に目線を持っていくと、岳くんはココアを飲みながらレジにあるメニューの看板を見ていた。
「どうしたの?」
「キャラメルタルト、おいしそうだと思って」
「ね。でも、あれ丸まる一個はさすがにきついかな」
「デザートは別腹なんじゃなんですか、女子って」
 岳くんは珍しくおどけるように笑みを浮かべていて、私は頬杖をついてため息を吐いていた。
「年を取るとね、そういうわけにもいかないのよ、これがね」
「まだ若いじゃないですか」
「いやいや、二十歳すぎると一気に胃もたれするようになるから」
 ち、ち、ち、とメトロノームのように指を振り、高校生のころは良かったなと岳くんを軽く睨む。岳くんは苦笑を浮かべてアイスココアを一口飲むと、とうとつに立ち上がった。
「半分個、しませんか?」
 そう聴いてきたものの、答える前に岳くんはレジへ向かってしまった。おいしそうだし半分くらいならと思って止めず、スマホをいじって待つことにした。インスタグラムを開けば高校の友達が楽しそうに海ではしゃいでいて、しかも男女一緒のグループだった。密かに羨ましいと思いつつ、こっちは現役男子高校生と遊んでいるから、と自分を慰め、でもデートではないんだよなと、勝手に落ち込んでいた。
 そんな中、岳くんはモノクロの表情で「お待たせしました」と律義に言って戻ってきた。テーブルにはキャラメルタルトがあって、私は少し眉を顰めてしまう。思ったよりも小さくて、これなら一人でも食べられそうだ。でもせっかく岳くんが気を使ってくれたのだから、口を噤んで「おいしそうだね」とあからさまに微笑んで喜んでみた。
「何円だった? 半分払うよ」
「いや、良いです。さっき奢ってもらっったんで」
 岳くんは食べやすいよう四等分に分けながらそう言って、私のほうに皿を寄せてきた。なんだろう、いつもより気が利くような。まあたぶん、それだけ親しくなったんだろうと、私は前向きに考え、口角を上げた。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
 きれいに四つに分けてくれた一切れを見て、きっと岳くんはA型だろうなと、どうでも良いことを考えながら口に含む。ほろ苦いカラメルソースと甘いカスタードとが調和し、クッキーはサクサクとしていて、ついつい食べ過ぎてしまうやつだと確信した。そうならないよう、すぐに二個目も食べて岳くんに押し付ける。クッキーに吸われた水分をこれまた甘い黒糖抹茶ラテで潤し、今日はいったい何キロカロリー摂取してしまったんだろうと、今更ながら恐ろしくて震えてしまった。
 コップを置いて一息つくと、岳くんがなぜかフォークを手に固まっているのが視野に入って、つい失笑してしまった。岳くんはきっと間接キスであることを今になって知り、どうしようかと食べあぐねているのだろう。私が笑っていることに気づくと、岳くんはもの言いたげな目で見てきて、すぐさまキャラメルタルトを二個一気に頬張った。それを見て一層笑ってしまう。
 普段は女性に興味があまりなさそうで、そういうことにも動じないんだろうと勝手に感じていた。だけど違って、普通に男の子だった。女性の前でかっこつけようとする、普通の男の子なんだ。不覚にもかわいくて、目が離せなかった。いつまでも笑っていると、岳くんはわざとらしく咳払いして、口を切った。
「そういえば、いつ会います? ボクはもう夏休みですけど」
「私も明日から夏休みだよ。明日から暇」
「じゃあ明日にしましょう。といっても、どこで会います?」
「カフェとかは?」
「うーん、あまり長時間いると迷惑じゃないですか?」
「そうかあ」
 私は腕を組み、天井を仰いでしまった。カラオケっていう選択肢もあるけど、あそこはうるさいし地味に値が張るからあまり歌う目的以外で行きたくない。そろそろ秋冬物の服を買わなきゃいけないし、無駄な散財はしたくないから、だとしたら、もうあれしかないなと、私は岳くんを見やった。
「じゃあ、家に来る?」
 ぽつりと言って前に目を遣ると、岳くんは口を半開きにして三回瞬きした。
「え、良いんですか?」
「うん。私、一人暮らしだし」
 なにげなく言うと、岳くんは眉を顰めて目を落とした。おそらく代替案を考えているんだろう。私とて、だれもかれも家に招くわけではなく、男子ならなおさらに。ほいほい男を入れるなんて、なにもずるがしこくないし。けどここまで頭を悩ませている岳くんなら、まあ襲われる心配はないだろうと、高をくくっていた。
「……まあ、分かりました。他に思い浮かぶ場所もないですし」
 岳くんはなにも思いつかなかったようで、渋々といったように頷いた。なんだかそれはそれで癪ではあったけど、表情には出さず笑みを浮かべた。
「じゃあ、決定。一時くらいに来てね」
「分かりました」
 それから私たちはそれぞれの家路に分かれた。岳くんといるときはあまり感じなかったけど、車のタイヤを擦る音や、すれ違う人との会話、ブーツから鳴る足音がしっかりと鼓膜を叩いていた。空を仰ぐと想像以上に星が見えて、ぼんやり眺めながら歩いた。間接視野で信号が赤だと気づいて立ち止まる。なんだかさっきまでとは違って、時間がゆっくり進んでいるみたいだったけど、おそらく単に退屈なだけだろう。
 手に持っていたスマホが震え、見ると岳くんからLINEが着ていた。開いてみると『そういえば家知らないので、どこかで待ち合わせしませんか?』と書いてあった。私が駅に集合しようという内容を絵文字やらスタンプを使って送れば、『分かりました』と結局モノクロであっさりとした文字だけが返ってくる。休日に会うのだからもう少し楽しげでも良いのだけれど、それも岳くんらしいかと軽く口角が上がっていた。
 本当は今日、私から今後のことを誘うつもりだった。そうしなければ、今日をもって関係が終わって、連絡先だけが残る関係になってしまうと思ったからだ。
 だからこそ、意外だった。まさか、岳くんのほうから誘われるなんて、とてもとても。
 岳くんは自ら行動を起こすタイプではないと思っていたけど、案外、彼は行動派なんだろうか。それとも、なにか秘めた理由があるんだろうか。そこらへんが気になるところではあるけれど、どちらにしろ得したことに変わりはない。お願いした側とされた側では立場の違いが生まれるのは必然で、言うまでもなく後者のほうの立場が強くなる。関係を気づくためには弱い立場に甘んじるつもりではあったけど、岳くんの予想外の言動は結果的に好都合となった。
 ふわりと、前髪がめくれるほどの風が吹いた。普段なら舌打ちでもしたくなるところだけど、今はもう帰るだけだからと、なお吹き続ける風にされるがままでいた。ふとなんとなしに、両手を広げて鼻から空気を吸い、口から吐き出してみた。昼は激しい猛暑のせいで感じる間もないけど、余裕のできた夜だと湿気のせいか、森林にでもいるように涼やかで、たしかに気持ちいい。信号が青になって歩き出せば、不思議と足取りは軽くなっているような。けどたぶん、気のせいだ。
 明日、岳くんが家に来る。
 そして、琴音の恋を実らせる布石になるためにも、より岳くんと仲良くならなければならない。
 でもそんなこと、ずるがしこくなれば容易いことで、なにも問題はない。
 私が今までやってきたことを、岳くんにもすれば良いだけのこと。
 知らぬ間に、胸に手を添えていた。
 だけど、なんでだろう。
 胸焼けがするように、もやっとするのは。