「いいの、いいの。こっちは社会人なんだから。ちょっとだけ待っていて」

 女の人はそう言うと、さっさとパン屋さんに入って行った。どうしたものかと待ちぼうけしていると、白い紙袋を持った女性がハイヒールをカツカツと鳴らしながらこちらに駆け寄ってくる。

「ごめん、待たせちゃって。これ、きっとご家族も好きだと思うから。お父さんとお母さんと三人で食べて」
「あ、ありがとうございます」

 私はそれを有難く受け取ると、ペコリと頭を下げる。

「頑張ってね、雫ちゃん」
「え? なんで名前……」
「そこに書いてあるよ」

 女性は通学鞄の横についた名札を指さす。黒いマジックで『1-B 原田雫』と書いてあった。

「あ、本当だ」

 私は気恥ずかしさを隠すように、へらりと笑う。

「ありがとうございます」
「うん、約束よ。頑張れ──…」

 最後の台詞は、よく聞き取れなかった。私は片手を挙げると、名前も知らないその女性に手を振る。
 女の人はこちらを見つめながら、両手を上げて頑張れ、と握りこぶしを作る。
最後に何かを言いかけたが、躊躇うように口を噤み、小さく首を振った。

 じっとこちらを見つめながら穏やかに微笑む女の人の表情が、妙に鮮やかに脳裏にこびりついた。

 その日の晩、家に帰るとお母さんは不思議そうな顔をした。

「駅前にパン屋? あったっけ?」
「あったよ」
「そお?」

 どうやらお母さんは、私と一緒で近いところの変化に気が付かない人なのかもしれない。
解せないとでも言いたげな母親は、紙袋の中を覗く。袋を開けた途端、食欲をそそる香りが部屋に広がった。

「あら、クロワッサンだわ。美味しそう。しずちゃんも大好きよね。六個入っているから、明日の朝、二つずつ食べましょ」
「うん、家族で食べてって──…」

 そこまで言いかけて、私はハッとした。あの人、なんでうちが三人家族だって知っていたんだろう。
 なぜか、もう一度話してみたい気がした。同じ駅なら、また会えることもあるかな。

けれど、そんな期待はものの見事に裏切られる。
翌朝、通学途中で私が目にしたのは、見慣れたドラックストアだった。

  ◇ ◇ ◇

 町中にクリスマスイルミネーションが溢れる十二月も半ばのこの日、一年B組は独特の緊張感に包まれていた。