すらすらと答える女性が嘘を言っているようにも見えない。一年前? つまり、私がさくら坂高校に通い始めた後だ。毎日この改札口を通って通学しているのに、そんな馬鹿な!

「全然気が付かなかった……」
「近くにあるとさ、近すぎて見えないことってあるよね」

 呆然とする私に、女の人はくすくすと笑いながらそう言った。

「近くにあると?」
「うん。当たり前すぎて、それがどんなに有難いことかが見えなくなるの」

 女の人は、どこか遠くでも眺めるように目を細める。
その言い方に違和感を覚えた私は、話の先を促すように小首を傾げて見せた。

「もし、何か欲しい物とか、なりたいものがあるなら勇気を出して手を伸ばした方がいいよ。高校生って、本当に若い」
「お姉さんも若いじゃないですか」

 そう言うと、女の人は驚いたように目を見開いた。

「まさか、この歳にして高校生に若いと言われる日が来るなんて、思ってもみなかった!」

 苦笑するような表情を見せ、照れ笑い。

「あのね、私、あなた位の頃、やりたい仕事があったんだ」
「やりたい仕事?」
「うん。けど、自分には無理って思って、別の道に逃げようとしちゃった」

 女の人はほぅっと息をつくと、また何かを懐かしむような目をする。その様子を見て、私はおずおずと尋ねた。

「もしかして、それでパン屋さんになりたかったとか?」と聞いてみた。
「パン屋?」

 女の人は驚いたように目を見開き、手で口許を隠すとくすくすと笑う。

「パン屋かぁ。それもいいかもしれない。大手チェーンのパン屋さんとか」

 私はちょっと肩を竦める。目の前の女性が何かになりたくて、でもその道を自分から放棄しようとしたことは理解した。何になりたかったのかはわからないけど。

「それを今も後悔している?」
「きっと、あのときにあの選択をしていたら後悔していたと思う。けど、そのとき『一緒に頑張ろう』って言ってくれる人がすぐ近くにいたの。だから頑張れたんだ」
「……とっても有難い存在ですね」
「そ。でも、そのときはそれがあまりよくわかんなかったんだよね」
「わからない?」
「うん。だから、近すぎると逆に、見えなくなるってこと」

 女の人は、私と目が合うとまたにこっと笑う。

「ねえ、これも一つの御縁だから、パンを奢るよ」
「え? 悪いからいいです」