シーンとしたあたりには誰もいない。目の前にあるのは小さな祠、後ろを振り向けば真っ赤な鳥居が見えた。

「さくらさま?」

風が木々を揺らす、さわさわとした音だけが響く。思い出したかのように、遠くでカラスが鳴く声が聞こえた。
私は周囲を見渡して、呆然と立ち尽くした。

さくら坂神社を後にして、茜色に染まるさくら坂を登る。
さくらってば、手伝いをしろとか言いながら、何をどうするとかは何も告げずに忽然と消えてしまった。呼びかけて暫く待ったけれど一向に現れないから、今日はもう会いに来てはくれないのだろう。

 いつものように電車に乗り、揺られること二〇分。電車を降りてさつき台駅の改札を抜けたとき、私はふと違和感を覚えた。

「あれ? こんなお店、あったっけ?」

 改札口正面にあったのは、見たことのないパン屋さんだった。一〇メートル位離れたここまで、焦がしバターのような香ばしい香りが漂ってくる。
 いつの間に開店したのだろう。今朝は気が付かなかったから、今日の昼かな。

 そんなことを思っていた私は、そのとき自分の横をすり抜けた女性の横顔を見てハッとした。

「あっ」

 ──お母さん!

 そう続けようとして、慌てて口を噤む。私の声に気付いてこちらを振り返った女性は、お母さんよりもずっと若かった。見た感じは……二〇代半ばだろうか。
 肩までのボブをくるんと内巻きにして綺麗にお化粧をしたその女の人が、なぜかお母さんに雰囲気が似ているような気がしてしまったのだ。
 振り向いた女の人は私と目が合うと、とても驚いたように目を見開いた。けれど、すぐにその表情は穏やかに変わり、ニコッと微笑んだ。

「あなた、さくら坂高校?」
「あ、はい……」
「制服、懐かしい。私もさくら坂高校だったの」
「あ、そうなんですか」

 さくら坂高校に通う学生でさつき台駅を使っている人は、そんなに多くない。今の学年では、同中だった五人だけだ。もしかして中学も同じかと思って聞いてみたら、案の定同じ中学だった。
たったそれだけのことで、急に親近感が湧く。

「あのパン屋さん、いつできたんでしょうね? 薬局でしたよね」
「パン屋?」

 女性は私の指さす先を眺め、「随分前からあるよ」と言った。

「え? 本当に?」
「本当よ。一年位前かな」