◯
勉強を終えて、広瀬くんが伸びをする。
「やっぱすごいな、愛音は」
と広瀬くんがつぶやいた。
「へ?なんで?」
「いままでわからなかったとこが、どんどんわかるようになってく。学校の先生より全然わかりやすいよ」
「広瀬くんがやる気なかっただけだよ。やれば案外できるものなんだって」
「でも、やっぱりすごいと思う。相手がどうしたらわかるか考えながら教えるのって簡単じゃないと思うし。愛音、教師とか向いてそうだよな」
「……向いてないよ。それに、無理だし」
わたしは苦笑をこぼして言った。
「なんで?」
広瀬くんがキョトンとする。
「わたしの将来は、決まってるから。家の病院を継いで医者になるの」
家の後継の男の子がほしくて、でも生まれたのは娘がひとりだけ。わたしには、生まれたときから選択肢なんて親切なものは、用意されていなかったんだ。
「愛音は、それでいいの?」
「嫌では、ないと思う……けど、わからない」
前に、きみに言われた言葉。
『勉強って、そんなに大事?』
勉強しかすることがなかったわたしに、きみはそう言った。
あのとき、答えられなかった。
その答えは、いまもわからないままだ。
「そうかな」
と、でも広瀬くんは言う。
「無理とか、選択肢がないとこはさ。べつに、いま決めなくてもいいんじゃない?」
と広瀬くんが言った。
「高校1年で将来決めてる奴なんて、むしろほとんどいないと思う。たとえ決めてても、本当にそうなるかどうかなんてわからないんだし。勉強なんて、明日のテストのためとか、2年になるためとか、いい点とって自慢するためとか、そんなもんでいいんだよ。仕事なんて、5年も10年も先のこと考えてたら疲れてもたないって。もっと、自由でいんだ」
「そうかな」
「そうだよ」
広瀬くんが笑うから、わたしもつられて笑った。
広瀬くんと話すと、いつも心がふっと軽くなる。
単純で、余計なものがなくて、それでいいのかなと思うけれど、いいのかもしれないと思う。
わたしはつい後ろ向きに考えてしまうから。
無理矢理、ぐいっと体の方向を前に向けられて、全然違った景色を見せてくれるんだ。
屋根の外に出た途端、びゅうっと強い風が吹きつけた。
「さむっ!」
2人同時に言って、見上げれば、夕暮れの空から、はらはらと細かい雪が降ってきた。
「雪だ」
広瀬くんが手を空に向けて言った。
街灯に照らされた粉雪が、幻想的に宙を舞う。
こんなに寒い空気のなかで勉強していたのに、さっきまで寒さなんて少しも感じなかった。
いまが冬だってことを忘れるくらい。
慣れない勉強を一生懸命している広瀬くん。ニット帽をこっちに向けたその頭に、わたしはそっと目線を向ける。
だんだん、夕焼け空が陰りを帯びてくる。
もちろん気のせいだけれど、最近、急に日が暮れるのが早くなった気がする。