「星が見たい、ピクニックがしたい、釣りがしたい、祭りに行きたい……かあ」
冷蔵庫に貼ってあるリストとカレンダーを見比べて、星奈はそっと溜息をついた。憂鬱の溜息ではなく、感慨の溜息だ。
十項目あったリストは今や半分以上を達成し、残りはあと四つだ。今は五月で、期間も残すところ三ヶ月。
数日前、星奈はもう三ヶ月モニターをすると真野と長谷川に申し出た。というより、許可を取りつけた。
真野は、日々歩いたりバイトをしたりという人間と同じような活動をすることでどのくらい身体(ボディ)に負荷がかかり、どのあたりが痛み、摩耗するのかというデータが取れるから継続は歓迎すると言ってくれた。
でも長谷川は難しい顔をして、なかなか首を縦に振らなかった。
その日はメンテナンス自体も長く、星奈は一時キッチンに閉め出されていた。見せられない作業が行われているということに星奈は不安になったけれど、モニター継続が不可能なほどの不具合があったというわけではないらしかった。
ただ、長谷川はかなり迷っていて、最終的に継続を了解したときも、「少しでもエイジの挙動がおかしかったら知らせて欲しい。場合によっては即時回収もありえる」と言い添えた。
継続が研究所の本意ではないというのは、少なからず星奈に衝撃を与えた。でも、まだもう三ヶ月エイジと一緒にいられるということが嬉しかった。
とりあえずは、それが何よりだ。
「セナ、何見てるの?」
「近くで釣りができるところとか、ピクニックによさそうな場所とか探さうと思って」
星奈がノートパソコンを開くと、テレビを見ていたエイジが近くに来た。握り拳(こぶし)ふたつほど空けた距離に座って、パソコンを覗き込んでくる。
この三ヶ月で、エイジはよくやく星奈との適切な距離を覚えた。初めのうちは部屋の隅だったり、キッチンと部屋の境だったり、何とも言えない場所に座って星奈と距離を取ろうとしていた。それを毎度星奈が指摘して、近くに座るようになったのだ。
拳ふたつぶんは、エイジにとっての最適な距離なのだろうと星奈は思っている。
「梅雨に入る前に釣りに行っといたほうがいいかなって思うんだよね。梅雨が明けると一気に暑くなって、じっと魚を待つのも、釣った魚を持って帰るのも大変だろうから。それで、いい釣りスポットとか道具とか調べてるの」
星奈は言いながら、大手ネット通販サイトで釣り竿を検索していた。高いものを想像していたから、手が出せる価格帯が多くそろっていることに驚く。
「うんと安いものからうんと高いものまでそろってると、どれを買ったらいいかわかんないね」
「買うの?」
「うん。釣り竿をレンタルしてくれるところもあるんだけど、釣り堀とかが多くて。できたら、ちゃんと海で釣ってみたいんだよね。瑛一は小さい頃から釣りとか潮干狩りとか当たり前にしてたって言ってて、ちょっと羨ましかったんだよね」
星奈にそういった外遊びの経験はあまりない。そこまで都会出身ではないものの、海も川も近くにない住宅街で生まれ育ったため、釣りや潮干狩りは家族の特別な遠出というイメージだ。だから、それが日常の中にあった瑛一が羨ましかった。
「田舎の子供にとっては、わりと当たり前の遊びなんだよ」
熱心に釣り竿を吟味する星奈に、エイジはそんな冷めたコメントをする。その何かを知ったような口ぶりに、思わず星奈は笑った。
「何それ。誰かからの受け売り? そういう話をするってことは、金子くんあたりか」
「まあね」
最近、こういう受け答えもどんどん人間っぽくなってきている。それがしみじみとおかしくて、星奈はついにんまりしてしまう。
「そういえば、釣りスポットも道具のことも、金子くんに聞けばいいんじゃないの?」
「そっか! 釣りもカバー範囲だといいけどなあ」
エイジの思いつきを聞いて、星奈はすぐにスマホを手にした。金子の連絡先は知らないけれど、夏目にメッセージを送ればいい。
「夏目ちゃんはずっと片思いしてたつもりで、金子くんは何となく付き合ってたつもりだったって話、すごいよね」
夏目へのメッセージを打ちながら、星奈は合コンのあとの二人の顛末について思い出していた。
あの日、篤志に誘われた金子は会場である店に着いて驚いたらしい。というのも、彼は合コンではなくバイトのメンバーで飲むと思っていたのだ。篤志が「俺とエイジと、あと女の子が何人か来るよ」などと言うから参加したのに、店には知らない男子大学生が二人もいて、合コンの極意なんかを語り始めたから相当頭にきたと言っていた。
その上、合コンの相手の女性たちが現れたらその中に自分の彼女である夏目が平然といたから、わけがわからなくなったそうだ。
同席していた星奈にはわからなかったけれど、合コンの間ずっと金子はこれまでの夏目との付き合いを振り返り、自分と夏目の言動を精査し、省み、パニックになっていたそうだ。淡々としたしゃべりとぬぼーっとした表情の下でそんな大混乱に陥っていたなんて、微塵も感じさせなかったのはすごいと思う。
「金子くんとしては中一の、秘密基地を作ってた頃から付き合ってたと思ってたらしいから、これはこれで結構な勘違いだよね。それに気づかない夏目ちゃんの勘違いも相当だし。でも、手をつないだり以上の仲にはなってなかったからなんだろうね、きっと。今どきそんなピュアな恋愛あるんだって思うけど、可愛くていいよねー」
身近なところに実在していたピュアで甘酸っぱい恋模様に、星奈は悶絶した。
そして、少し俯瞰したところからそんな何気ないことで胸があたたかくなれるほど自分の心が復活したのだと感じていた。
「好きだから触れるのに時間がかかることもあるし、触れられないって思うこともある。触れることが、愛のすべてじゃない」
夏目と金子のピュアな関係に悶絶する星奈に、エイジが冷静に言った。それは何の意味がないようにも、哲学的な意味深なことばにも聞こえる。
「スマホ、メッセージ来てる」
「え、あ、うん……」
どういう意味なのか問いかけようとしたところで、スマホの着信を指摘された。夏目からの返信だとわかって、星奈の意識はそちらに向かってしまう。
「金子くんは詳しくないけど金子くんのお父さんが詳しいって。それで、今度一緒に行きませんか?だって」
夏目からのメッセージは可愛らしい絵文字がピコピコと動くにぎやかしいものだった。たかだか二歳下なだけなのに、何だか若いなと思ってしまう。
「『合コンのことでは星奈さんに迷惑をかけて嫌な思いをさせてしまったので、お詫びをしたいです』って言ってるけど、夏目ちゃんや金子くんが気にすることじゃないのにね」
合コンでの松田の星奈に対する発言を、夏目と金子はすごく気にしている。特に金子は怒っていて、星奈を合コンに引っ張り出す原因が自分と夏目にあったのを申し訳なく思っているらしい。
気にしなくていいのになと、ペコペコ頭を下げるウサギのスタンプを見て星奈は苦笑する。
「でも、せっかくだからそのお誘いは受けたら? セナも釣りしたいんだろ?」
迷っている星奈の背中を押すようにエイジは尋ねる。その目には期待が浮かんでいて、そういえば元々釣りはエイジのやりたいことだったと思い出す。それなら、断る理由などない。
「じゃあ、お言葉に甘えさせてもらおう」
うきうきしながら、星奈は夏目へ返信を送った。
冷蔵庫に貼ってあるリストとカレンダーを見比べて、星奈はそっと溜息をついた。憂鬱の溜息ではなく、感慨の溜息だ。
十項目あったリストは今や半分以上を達成し、残りはあと四つだ。今は五月で、期間も残すところ三ヶ月。
数日前、星奈はもう三ヶ月モニターをすると真野と長谷川に申し出た。というより、許可を取りつけた。
真野は、日々歩いたりバイトをしたりという人間と同じような活動をすることでどのくらい身体(ボディ)に負荷がかかり、どのあたりが痛み、摩耗するのかというデータが取れるから継続は歓迎すると言ってくれた。
でも長谷川は難しい顔をして、なかなか首を縦に振らなかった。
その日はメンテナンス自体も長く、星奈は一時キッチンに閉め出されていた。見せられない作業が行われているということに星奈は不安になったけれど、モニター継続が不可能なほどの不具合があったというわけではないらしかった。
ただ、長谷川はかなり迷っていて、最終的に継続を了解したときも、「少しでもエイジの挙動がおかしかったら知らせて欲しい。場合によっては即時回収もありえる」と言い添えた。
継続が研究所の本意ではないというのは、少なからず星奈に衝撃を与えた。でも、まだもう三ヶ月エイジと一緒にいられるということが嬉しかった。
とりあえずは、それが何よりだ。
「セナ、何見てるの?」
「近くで釣りができるところとか、ピクニックによさそうな場所とか探さうと思って」
星奈がノートパソコンを開くと、テレビを見ていたエイジが近くに来た。握り拳(こぶし)ふたつほど空けた距離に座って、パソコンを覗き込んでくる。
この三ヶ月で、エイジはよくやく星奈との適切な距離を覚えた。初めのうちは部屋の隅だったり、キッチンと部屋の境だったり、何とも言えない場所に座って星奈と距離を取ろうとしていた。それを毎度星奈が指摘して、近くに座るようになったのだ。
拳ふたつぶんは、エイジにとっての最適な距離なのだろうと星奈は思っている。
「梅雨に入る前に釣りに行っといたほうがいいかなって思うんだよね。梅雨が明けると一気に暑くなって、じっと魚を待つのも、釣った魚を持って帰るのも大変だろうから。それで、いい釣りスポットとか道具とか調べてるの」
星奈は言いながら、大手ネット通販サイトで釣り竿を検索していた。高いものを想像していたから、手が出せる価格帯が多くそろっていることに驚く。
「うんと安いものからうんと高いものまでそろってると、どれを買ったらいいかわかんないね」
「買うの?」
「うん。釣り竿をレンタルしてくれるところもあるんだけど、釣り堀とかが多くて。できたら、ちゃんと海で釣ってみたいんだよね。瑛一は小さい頃から釣りとか潮干狩りとか当たり前にしてたって言ってて、ちょっと羨ましかったんだよね」
星奈にそういった外遊びの経験はあまりない。そこまで都会出身ではないものの、海も川も近くにない住宅街で生まれ育ったため、釣りや潮干狩りは家族の特別な遠出というイメージだ。だから、それが日常の中にあった瑛一が羨ましかった。
「田舎の子供にとっては、わりと当たり前の遊びなんだよ」
熱心に釣り竿を吟味する星奈に、エイジはそんな冷めたコメントをする。その何かを知ったような口ぶりに、思わず星奈は笑った。
「何それ。誰かからの受け売り? そういう話をするってことは、金子くんあたりか」
「まあね」
最近、こういう受け答えもどんどん人間っぽくなってきている。それがしみじみとおかしくて、星奈はついにんまりしてしまう。
「そういえば、釣りスポットも道具のことも、金子くんに聞けばいいんじゃないの?」
「そっか! 釣りもカバー範囲だといいけどなあ」
エイジの思いつきを聞いて、星奈はすぐにスマホを手にした。金子の連絡先は知らないけれど、夏目にメッセージを送ればいい。
「夏目ちゃんはずっと片思いしてたつもりで、金子くんは何となく付き合ってたつもりだったって話、すごいよね」
夏目へのメッセージを打ちながら、星奈は合コンのあとの二人の顛末について思い出していた。
あの日、篤志に誘われた金子は会場である店に着いて驚いたらしい。というのも、彼は合コンではなくバイトのメンバーで飲むと思っていたのだ。篤志が「俺とエイジと、あと女の子が何人か来るよ」などと言うから参加したのに、店には知らない男子大学生が二人もいて、合コンの極意なんかを語り始めたから相当頭にきたと言っていた。
その上、合コンの相手の女性たちが現れたらその中に自分の彼女である夏目が平然といたから、わけがわからなくなったそうだ。
同席していた星奈にはわからなかったけれど、合コンの間ずっと金子はこれまでの夏目との付き合いを振り返り、自分と夏目の言動を精査し、省み、パニックになっていたそうだ。淡々としたしゃべりとぬぼーっとした表情の下でそんな大混乱に陥っていたなんて、微塵も感じさせなかったのはすごいと思う。
「金子くんとしては中一の、秘密基地を作ってた頃から付き合ってたと思ってたらしいから、これはこれで結構な勘違いだよね。それに気づかない夏目ちゃんの勘違いも相当だし。でも、手をつないだり以上の仲にはなってなかったからなんだろうね、きっと。今どきそんなピュアな恋愛あるんだって思うけど、可愛くていいよねー」
身近なところに実在していたピュアで甘酸っぱい恋模様に、星奈は悶絶した。
そして、少し俯瞰したところからそんな何気ないことで胸があたたかくなれるほど自分の心が復活したのだと感じていた。
「好きだから触れるのに時間がかかることもあるし、触れられないって思うこともある。触れることが、愛のすべてじゃない」
夏目と金子のピュアな関係に悶絶する星奈に、エイジが冷静に言った。それは何の意味がないようにも、哲学的な意味深なことばにも聞こえる。
「スマホ、メッセージ来てる」
「え、あ、うん……」
どういう意味なのか問いかけようとしたところで、スマホの着信を指摘された。夏目からの返信だとわかって、星奈の意識はそちらに向かってしまう。
「金子くんは詳しくないけど金子くんのお父さんが詳しいって。それで、今度一緒に行きませんか?だって」
夏目からのメッセージは可愛らしい絵文字がピコピコと動くにぎやかしいものだった。たかだか二歳下なだけなのに、何だか若いなと思ってしまう。
「『合コンのことでは星奈さんに迷惑をかけて嫌な思いをさせてしまったので、お詫びをしたいです』って言ってるけど、夏目ちゃんや金子くんが気にすることじゃないのにね」
合コンでの松田の星奈に対する発言を、夏目と金子はすごく気にしている。特に金子は怒っていて、星奈を合コンに引っ張り出す原因が自分と夏目にあったのを申し訳なく思っているらしい。
気にしなくていいのになと、ペコペコ頭を下げるウサギのスタンプを見て星奈は苦笑する。
「でも、せっかくだからそのお誘いは受けたら? セナも釣りしたいんだろ?」
迷っている星奈の背中を押すようにエイジは尋ねる。その目には期待が浮かんでいて、そういえば元々釣りはエイジのやりたいことだったと思い出す。それなら、断る理由などない。
「じゃあ、お言葉に甘えさせてもらおう」
うきうきしながら、星奈は夏目へ返信を送った。