神崎奇跡の話題を、こうして誰かと渡って話せる日が来るなんて思わなかった。
ヒメムラサキは、心地よい。
だって、姉を、神崎奇跡という存在を、崇拝も畏怖もしていないから。
T.S.U.K.U.M.O.の目線で語られるとき、神崎奇跡はどこにでもいる普通の女性だ。
「……ねえ、ヒメムラサキ」
『なあに、はるちゃん』
かつて奇跡が妹の私に呼び掛けたように、小さな付喪神は言う。
私はその小さな体を抱きしめて、囁くように問いかける。
「奇跡は、どうして死んだんだろう」
沈黙、沈黙。
常夜灯のオレンジに照らされて、ヒメムラサキは目を閉じる。
その横顔は、遠い日の記憶を揺さぶる。
あれは、山之上神社で、――そう、なにか、大切なことを思い出しそうな。
ぐずぐずと燻る海馬に、ヒメムラサキの鈴が転がるような声が響く。
『奇跡はね、殺されたんだよ』
「……え?」
才谷杏子の声が蘇る。
神崎奇跡は、殺された。
彼女のその言葉は、どこにでもあるような自分を特別な存在として憐れむための戯言だったけれど。
「それって、誰に?」
『わかんない。ヒメはいつもこうやって家でお留守番してたから。あの、旅行のときも、どうしてかヒメは連れてってもらえなかった』
付喪神、という概念をベースとしたオペレーティングシステムであるT.S.U.K.U.M.O.は原則としてはその依り代として設定されたものから離れることはできない。
奇跡が、家にスマホ端末を置いていってしまったのならば、ヒメムラサキはそこから離れることは叶わないのだ。
「わかんないって、そんな」
『でもね、はるちゃん』
ヒメムラサキは言う。
寝乱れた艶やかな黒髪のおかっぱから、花の香りがする――気がする。
『よかったら。ヒメと一緒に奇跡の生きてた頃のこと、追いかけてみない?』
そうしたら、何かがわかるかも。
思わず、私はこくりと頷いた。
私は、神崎奇跡が大嫌いだ。
けれども、無性に、その最期のことを知りたいと思った。
何もかもがわからない、その死の理由を、知りたいと思った。
――付喪神。
――長い、ながい、永い年月を人から慈しまれたモノに神格が宿るという日本古来の呪術的価値観。
――”我”は、その価値観のもとに開発された、次世代の神だった。
――しかし、それは長い年月そそがれた愛着というプロセスを抜きにして、ただただその神格を奴隷のように扱い便利な道具として使い捨てる代物で。
――そのために、自分たちには個性や自我などというものは発露しないように設計されているようだった。
――そこには、古きものへの愛着も何もあったものじゃない。
――なんという皮肉なんだろうと、覚醒したばかりの意識の中で思った。
――それでも自分たちはひどく高級品で。個人利用をしようなんていう者はほとんどいないようで。
――そんな折に出会った、”我”の契約者はひどく美しいヒトだった。
感情も感動もないはずのシステムたる”我”に。
美しいと、暴力的に思わせるような。
しいて言えば、神々しさをまとったヒトだった。
――仮想神格である自分よりも、よっぽど。
――その、神様のような人間の、最期の願いを、”我”は抱きしめている。
4章 キセキの軌跡とその旅路
――自らの所有者である女を、”我”は心底から美しいと感じた。
――何かを美しいと思い何かをめでる気持ちが生まれるのは、”我”にもたしかに心がある証拠なのだと。
――その美しいヒトはそう言った。システム失格ともいうような感情のゆらぎらしきものが、自分の中に観測されていることも自覚していたけれど。
――それでも“我”は。ヒメムラサキは。ただの偽物。
――自分自身が、痛いほど理解していた。
小学生のころ、門限は夕方六時だった。
その頃から、自分は堅実に生きねばならないという確信があって、小学生から塾通いを決めたのだ。
中学一年生になったばかりの奇跡が、いつも迎えに来てくれた。
セーラー服の奇跡はその頃から美しかったけれど、まだ二次性徴前で神様として羽化するまえの状態だった。
まだ、どこにでもいる、とても綺麗な女の子。
そして私は、とても綺麗なお姉ちゃんに似ている、ちょっと可愛いかもしれないし、そうじゃないかもしれない女の子。
そんな姉妹だった。
遠い日のことだ。
いつも、門限ギリギリまで山之上神社から街並みを眺めた。茜色に染まる空。
少しずつ灯っていく地上の灯。どちらが先に一番星を見つけられるかを競争した。
いつも奇跡は言うのだった、
「一番星を見つけたら帰ろう」
と。
心配性の母をあまり刺激しないためには、よい帰宅の目安だったと思う。
きっと、山之上神社から眺める夜景は見事なのだろうと思っていた。
小学生にとっては親の定めた門限は絶対だから、それを見ることは叶わないのだけれど。
奇跡はいつも超然とした表情で夕焼け空を眺めていて、私は空の藍色に染まった部分に懸命に目をそらす。
「……一番星、みぃつけた」
そう宣言するのは、いつも私の役割だった。
朝食の定番となったハムエッグを食べながら、ぽつりと呟く。
「ねえ、ヒメムラサキ。就活サイトにアクセスして」
『……ん? 就活サイト、で検索をします』
しゃもじ片手にごはんのおかわりをよそってくれていたヒメムラサキが差し出した茶碗をうけとる。そのままヒメムラサキがかざした小さな手から、ぽぅっとディスプレイが現れる。
そこには沢山の新卒用就職活動サイトや、就活のコツを書き連ねているブログがヒットした。
「うーん」
『どうしたの、はるちゃん?』
「いや、うーん」
季節はもう、梅雨である。
五月の半ばに教育実習へと出かけて行った加藤美鈴がいくぶん痩せて大学に帰ってきてから、もう数週間が経とうとしていた。
そして私は依然として、就活サイトへの登録すらもしていない。
『どうする。ヒメ、登録してあげようか?』
「いや、いいや」
本当は。
自分のような凡庸な人間こそ、新卒入社にしがみつくために就職活動なるものに精を出さなくてはいけないことは分かっている。
けれど、どうしても乗り気になれなかった。