キセキの気持ちはわからない ―忘れられない想いと電脳つくも神の恋文―


 福井県立恐竜博物館は思っていたよりもだいぶ立派なミュージアムだった。

 そういうわけで、博物館をまわりきって、福井駅前に帰り着いた頃にはもうクタクタだった。

 さすが、世界三大。

 二十体以上の骨格標本が展示されている見どころ満載だった。

 あと、なんか白衣を着用した人型の恐竜もいた。本当である。

 ホテルの近くで夕食を済ませてしまおうと、ソースかつ丼が食べられる定食屋に行った。

 情報サイトの口コミがいいお店をヒメムラサキが見繕ってくれる。

 思えば、ヒメムラサキを連れて外出するなんて、ほとんど初めてに近い。

 いつも以上にはしゃいでいて楽しそうなヒメムラサキと話していると、なんだか、妹ができたような気がして嬉しくなってしまった。

 バーチャルアシスタントであるヒメムラサキは、食事をしない。

 ただ、私がソースかつ丼を食べているのを楽しげに眺めていた。

『あ、はるちゃん。ソースついてるよ!』

「え?」

『とってあげる』

 ぐい、テーブルの向こうから身を乗り出してひょい、と私の頬をふきんで拭ってくれる。

「……っ、」

 そんな何気ない動作に、どくんと心臓が跳ねる。

 恋人。

 昨日の夜、ヒメムラサキの口から出た言葉が思い出されてしまう。

 それで、余計に意識をしてしまって。

『ん? どうしたの、はるちゃん』

「なんでもない、ありがとう!」

 残りのソースかつ丼をぐわっとかっ込む。

 ――だって。

 こんなの変だ、おかしいよ。

 ヒメムラサキは、人じゃないし。
 ヒメムラサキは、少女の姿をしているし。
 なにより、ヒメムラサキは、姉の幼いころの姿に似ている。

 そんな存在に、恋というか、なんというか、そういうことを意識するというのは、すごく間違っている。

 それは私には恋人はいないし、大嫌いな姉への劣等感を拗らせていて、その姉を嫌うのと同じくらい凡庸な自分のことも大嫌いで。

 だから、そんな私のことをいつだって気にかけてくれるヒメムラサキに少し心を奪われてしまっているのかもしれない。


 でも、でも――そんなの所詮は、ニセモノだ。
 そんな私の様子に。

 ふふ、とヒメムラサキは笑う。

『はるちゃん、顔真っ赤』

「う、るさいなあ」

 つい、つっけんどんに突き放してしまう。

 お会計を、素早く済ませた。
 





5章 キセキの恋文と勿忘草






 遠くでアラームが鳴っている。

 久しぶりに聞く音だ。

 最近はアラームの時間になる前にヒメムラサキが強烈なボディープレスとともに起こしてくれるので、電子音で目覚めることはほとんどなかったのだ。

 私は、まだまどろんでいる。

 眠い。でも、起きなくちゃ。

 あれ。


 どうして、ヒメムラサキは起こしてくれないのだろう。




「……えっ?」




 目がさめる。そして、状況を理解する。

 そして、青ざめる。

『むにゃ、おっはよう。はるちゃん……えへへ、ごめんね。ヒメってば寝坊しちゃったみたい』

「あ、あわ」

 裸、である。

 一糸まとわぬ姿で、ベッドで寝ていたようだ。

 そして、隣からむくりと起き上がったヒメムラサキも――真っ裸だった。

「ひえぇっ」

『ふふ、照れちゃってるの?』

 しなやかな肢体。

 薄く色づいた乳首。

 桜色の、唇。

「うっそ……ぉおぉっ!」

 あまりの事態に頭を抱えて、布団の中に潜り込む。

 私、私、こんな旅先で……どうしてヒメムラサキと、ふたりとも裸で布団に入っているの。

 神崎奇跡の遺したT.S.U.K.U.M.O.の顕現体と、私、もしかして……。


 必死に、昨晩のことを思い出す。

 そうだ、あれは――まるでアラビアンナイトみたいな。
 まるで、アラビアンナイトみたいだと思った。



 一晩をともにした女性をみんな殺してしまうという王様。

 彼に殺されないように、続きが気になるお話を毎晩毎晩つむぎ続けたシェヘラザード。


 そんなふうに、夜が来れば私とヒメムラサキは語り合う。私が眠りに落ちるまで。

 コンビニで買った小さなボトルのシャンプーで洗った髪は、昨晩みたいに軋んではいない。

 さすがに旅先で新しくドライヤーを買うことはできないので、そよ風未満を吐き出すドライヤーが頑張ってくれることになった。

 こうぉこうぉ、と珍妙な音を立てるドライヤーを、ヒメムラサキは器用に操る。

 部屋にテレビがあることに気づいたので、だらだらと深夜のニュースを眺めた。

 そういえば、地上波の放送なんて見るのは久しぶりだった。

 自分の部屋にはテレビだってない。

 私の髪を丁寧に梳きながらヒメムラサキは言った。

『ねえ、はるちゃん。今夜はヒメの話、聞いてもらってもいい?』

「ん、お姉ちゃんの話?」

『そう。昨日ははるちゃんの話を聞かせてもらったでしょ。だから今日は、ヒメのターン』

 神崎奇跡が、家を出てからパートナーとしていたT.S.U.K.U.M.O.。

 私が知らない、神崎奇跡の話。

 新宿ゴールデン街のバーで水曜日のママをしていた奇跡の姿を、私は知らなくてヒメムラサキは知っている。

『ヒメが、奇跡に出会ってヒメになった日の話を聞いて欲しいんだ』

 髪が乾く。

 テレビから交通事故で名前も知らない誰かが亡くなったというニュースが流れる。

『ヒメは、売れ残りだったの』

 ひとつの布団に潜り込んで、まだひんやりとしているシーツのなかでヒメムラサキは言った。

「売れ残り」

『そう。会社の偉い人は個人用の携帯端末にT.S.U.K.U.M.O.を憑依させてブームを作るつもりだったみたいなんだけど、高すぎるし、お客さんは実際はそこまで高度なアシスタントを求めているわけじゃなかたし、しかも世界展開はできない日本の呪術がベースになってるシステムでしょう。発売したはいいものの、全然売れなかったんだって』

「へぇ……、こんなにすごい技術なのに」

『えっへん!』

「いや、ヒメムラサキ個人を褒めたわけじゃないんだけどっ」

『ま、ヒメはT.S.U.K.U.M.O.のなかでも特別だからね』

 むふむふ、とご満悦のヒメムラサキは『そういえば、』と言葉をつづけた。

『T.S.U.K.U.M.O.システムを作った人の話は知ってる?』

「開発秘話ってこと?」

『そんな大層なことじゃないんだけどさ。T.S.U.K.U.M.O.の原型を作ったのは、大正時代の十五歳の女の子なんだよ」

「十五歳? 子どもじゃん!」

『当時だと大人に片足突っ込んでたかもね。高名な陰陽道の家元に生まれたすごく優秀な女の子の日記に書かれてる術式が、呪術システムの根幹になってるんだ。よっぽど付喪神にしたい思い出の品があったみたいなんだよね』

 初めて知った。

 お店の受付なんかでT.S.U.K.U.M.O.の顕現体を目にすることはたびたびあるけれど、誰が作ったのかなんて気にしたこともなかった。

「十五歳の女の子が……」

 なんだか不思議だ。

 科学テクノロジーと呪術の融合……そんな、まだ世界が追いついてもいない奇跡。

 その結晶であるT.S.U.K.U.M.O.システム。

 そのルーツが、一人の女の子。

『だから、もしかしたらヒメみたいな見た目はT.S.U.K.U.M.O.っていう技術と相性がいいのかもね』

「ヒメムラサキは、どうしてそういう見た目なの?」

 神崎奇跡の少女時代にそっくりの、その見た目は。

『ああ、うん。それがね、今からヒメが話す、奇跡と出会った日の話だよ』

 そう言って、ヒメムラサキはゆっくりと語り始めた。

『ヒメが目覚めたのは、四年前のことなんだけどね。初めて起動したとき、ヒメには全部が流れ込んできたの。自分がT.S.U.K.U.M.O.という存在であること、T.S.U.K.U.M.O.とは何か、感情の起伏が意図的に抑制された初期設定であること、クラウドへの接続の仕方……全部が、一気に理解できた』

「へえ、想像できないな」

『初期設定、ってやつだね。とにかく、T.S.U.K.U.M.O.として必要な知識は最初からヒメのなかにあった。そうして目を開けたらね、そこにいたんだ。奇跡が』

 ヒメムラサキはシーツの皺を指先で弄っている。

 テクノロジーと呪術のはざまの存在である彼女の自我、というのは結構興味深いトークテーマだと思ったけれど、それはこの話の前奏に過ぎないようだ。

『ヒメはね、奇跡を見たとき思ったの。ものすごく、綺麗な人だなって。これって、すごいことなんだよ』

「ふうん? 奇跡を見て綺麗だって思うのは普通のことじゃない?」

『人間ならそうかもね。でも、T.S.U.K.U.M.O.はね、基本的には何かに感動することがないようにプログラムされているんだよ。だけど、私は奇跡のことを綺麗だって思ったの。それって感動ってことなんだよ』

「……さすが。お姉ちゃんは特別だもん」

 それで、私は平凡。

 全部、当たり前の話だ。
 私からしてみれば、奇跡だって普通の女の子だったのに。

 神様なんかじゃなかったのに。

『ヒメからしたら、はるちゃんだって特別だよ』

「うそ。こんなに凡庸な人間もいないよ」

『そんなことない。だって、はるちゃんは……奇跡を特別扱いしなかったんでしょう?』

「え?」

『……あのね。契約者は、T.S.U.K.U.M.O.が最初に起動したときだけね。大契約っていうのをすることができるんだ』

「大、契約」

『うん。色々な設定を超えて、絶対に破ってはならない禁忌であったりとか、そのT.S.U.K.U.M.O.の行動原則みたいなものだね。例えば、企業用のT.S.U.K.U.M.O.だったら就業規則とか、あとはお客様に絶対しちゃいけない対応とかを大契約にする』

「ふうん。あ、ロボット三原則みたいなもの?」

『ロボット三原則……検索しています……ふむ。人間への安全性、命令への服従、自己防衛かあ。うんまあ、そういうのも含まれるね。はるちゃん、よく知ってるね』

「好きなんだ、SF」

 アイザック・アシモフという小説家が考えた、ロボット三原則。

 人間を傷つけない。

 人間の命令には服従する。

 自分の身体を防衛する。

『SF好き? 初めて知ったよ』

「初めて言ったから」

 むふー、とヒメムラサキが口をとがらせる。

「今度、一緒に映画観ようよ。『オデッセイ』とか」

『それで、大契約の話に戻すけど、個体名もそのときに付けるんだよ。一番最初で、一番大事な契約』

「……お姉ちゃんは、どんな大契約をしたの?」

 これはたぶん、核心に迫る質問。

 ヒメムラサキは、ゆっくりと目を閉じる。

 長く、カールしたまつ毛が震える。

 この顕現体がニセモノだなんて思えない、精巧で温かい肉体だ。

『全部で四つの大契約をヒメは奇跡と交わしたの。ひとつ、神崎奇跡を特別視しないこと。ひとつ、神崎奇跡はヒメムラサキをニンゲンとして扱うこと。……ひとつ、三つ目の大契約は他言しないこと』

「他言しない」

『そう。三つ目の契約が、奇跡が一番成したいことだったんだけど。それを、ヒメは他言できないの。それがたとえ、奇跡の死後であっても、相手がはるちゃんだったとしても』

「ふうん」

『でもね、たぶん三つ目の大契約をヒメは絶対に遂行したいと思うの。その日が来ることを、ずっと待ってる。そのために、ヒメはこの見た目で顕現して、ヒメムラサキという名前をもらったんだから』

「見た目に、名前ね……全部、奇跡からもらったんだね」

 ――私は、中古品が嫌いだ。

 だって、どんなに近づいても情をかけても芯から自分のものにはなってくれないから。

「ヒメムラサキに、ひとつ教えてあげる」

『なあに?』

「秘密って言われると! 余計知りたくなるんだよっ」

『うわぁっ』

「くすぐってやる!」

『きゃぁあっ』

 胸の中に渦巻く、もやもや、ひらひらした気持ちの行き場がなくて、ヒメムラサキを思い切りくすぐるにした。

 自分より一回り小さい体が、くすぐったさに激しくくねっている様子は私をなんだか良くない気持ちにさせる。