何もできない上に、山根さんの声が大きくて、不安になる。
こんな大声、敵がいたら聞こえちゃう…!
「はあ…はあ……み、ず…」
「あっ、は、はいお水!」
のたうち回っていた山根さんが、ようやく静まってお水が欲しいと言った。
口からなにか摂るっていうのをしなくなっていたから、よかった。
ホッと胸を撫でおろす。
どうかこのまま、回復に向かって…!
「なあ…弥生ちゃん…」
「はい」
「俺…ここで死ぬんだな…」
「え?何言ってるの?死なないよ!」
「いやいや…。わかるさ、不思議だけど…わかるんだぜ」
「……」
水分の飛んだ…淀んだ目。
まるで生気がない。
諦めてしまっているのかな…
「あーあ。ついてねぇや。せめてサルミに着いて、敵と一戦交えたかったぜ…」
「戦いたいの?」
「ああ、そうさ。男に生まれたからにゃぁ、この命の火が消える前に…鬼畜米英を1人でも多く葬る!それが帝国陸軍の男の死に様よぉ」
「死に、様…」
阿久津さんは悩んでたけど、山根さんは芯から軍人なんだなって、思った。
死に様、死に様かぁ…
「昇さんや向井さんとは、一緒の部隊じゃなかったの?」
「師団は同じだ。第41師団、河兵団っていうんだぜ。河兵団が溺れちゃ世話ねえな、はは」
「……」
「けど俺と阿久津は歩兵で、兵長と向井は輜重兵だ」
「んっと…?どっちがどんな?しちょうへい?」
「歩兵は戦闘員だ。輜重兵は、まあ、輸送隊だな」
「じゃあ阿久津さんと山根さんは敵と戦う人ってこと?」
「そういうこと」
みんな同じ仕事をしてると思ってた。
「だけどこっちに来てからはずっとお散歩の毎日だったからなぁ」
「お散歩って…」
「寒いとっから来たからよ、あったけぇし、海は見たこともねえってほど青いし、初めは極楽かと思ったんだぜ…」
「あ…あたしも、最初来た時にキレイだなって思ったよ。いきなりだったからびっくりしたし、すぐに戦闘機に狙われてそれどころじゃなかったけど」
「そうだろう?でもなぁ、やれあっち、今度はそっちって、転進転進と歩き続けて、地獄を見たよ…弥生ちゃんも分かってるだろ?ここまで生きていられたのが信じられねえくらいだ」
いつもよりは小さい、だけど割としっかりした調子で喋る山根さん。
一安心だな、と思った。
でも…
「ふう…。疲れちまった」
「そうだよ、少し休んだ方が。あたし、カエル獲ってくる!火、熾せるかわかんないけど、えへへ」
「いや、行かないでくれ」
「え?」
「本当に、疲れちまったんだよ…弥生ちゃんがこんなとこにいるのは気の毒だが…俺らにとっちゃぁ、観音様か天女様が迎えに来てくれたんだと思ってんだ」
観音様…天女様…
「だからもう少しだけ…」
「山根さん…」
「おかしなもんだよな。敵と戦って死にたいなんて言っといてよぉ、妹みたいな歳の女の子に縋ってるなんてな」
「おかしくなんかないよ」
「そうか?そうだよな…俺もガキんちょの頃はすっ転んでは痛てえ痛てえってピーピー泣いてたんだ。母ちゃんに縋ってよ。男ってのは…いつから強くなったんだ?」
「あはは。今だって弱いんじゃないの?」
「ったく、レイワの女は男に敬意ってもんがねえよな。だけどそういうとこが他と違うから、死ぬ間際にこんな話ができるのかもなぁ」
「山根さんは死なないでよ」
「…俺も死にたくはねえよ?でもよ、もう腹ん中が腐ってるような、とにかくもうあちこち使いもんになんねえ感じしかしねえのよ」
そういえば、この辺り、甘い臭いがする。
花の香りじゃない。
知ってる、この臭い。
最初に嗅いだのは、裏山で死んだヘビを見つけたとき。
まだ小学生くらいで、干物のにおいに少し似てるなって思った。
でもそのあと、中耳炎になって。
自分の耳からその臭いがして、自分もあのヘビみたいに死んじゃうんだって、怖くて仕方なかった。
おばあちゃんの家に行くと、いつもこの臭いがして、怖かった。
こっちでも、途中に倒れていた人たちからこの臭いがすることがあった。
そうか……
今、この臭い…山根さんからしてるんだ…
「ああ、また寒くなってきた。弥生ちゃん、俺も向井んときみたくしてくんねえか」
「膝枕?わかった」
「へへ、腹上死じゃねえが、御の字だ」
「ふくじょうしって?」
「知らんのか?なら知らんでいいさ」
言葉の意味はわからなかったけど、山根さんが膝の上で安心したように笑った。
向井さんと、同じだ…
「レイワって、いい時代なのか?」
急に、山根さんがそんなことを訊いてきた。
「うん。嫌なこととか面倒くさいこといっぱいあったけど、戦争ないからね」
「そうか。戦争ないのか。いいなぁ…けど、それじゃ尚更、生きて帰れねえや」
「どうして?平和だよ、バカみたいに平和」
「だからだよ。俺は…人殺しだからな」
「……」
山根さんは……蓋を、していない?
この時代に生きていて、戦争を人殺しと呼ぶ人が本当にいるなんて…
そうか。
山根さんがブレないのは、芯から軍人だからじゃなくって、自分を人殺しだと言い切ってしまうようなところからきてたんだ。
またあたしの知らない軍人さんだ、なんて思って、ハッとした。
あたしはこの期に及んで軍人さんはどう考えてたとか、映画はこうだけど本当はとか、『本当の軍人像』みたいなものを一生懸命になって固めようとしてる。
違うよ。
軍人さんだけど、そうじゃない。
目の前にいるのは、山根さんだ。
数日前に死にたくないって言って逝ったのは向井さん。
こないだ戦争に悩んでたのは阿久津さん。
みんな、別の人間だ。
軍人さんだからみんな同じ考えだったなんて、ないんだ。
それぞれがそれぞれの思いを抱えて、だけど選択肢がなくてただひとつの同じ道を選んだ、それだけのことなんだ。
「俺はよ、明治維新でちょんまげ切られたお侍さんの気持ちがわかるような気がするぜ」
「……」
「それか戦国時代の武士だな。平和になったらよ、それまでの正義が悪になるんだ。生きて、帰って、子供がでっかくなって、孫が出来ても、俺はこの人殺しの腕では抱いてやれねえよ」
「そんな……時代だもん、仕方ないよ」
「自分が、我慢できねえんだ。戦場じゃ殺るか殺られるかだから、んなこと考えちゃいねえよ。でもよ、夢に見るんだよ、毎晩。嫁さんと子供たちがアメリカ人になって、なんだこれは、と思ってると自分もアメ公になってんだ。そんで普段通りに暮らすんだよ」
山根さんには、元から鬼なんかじゃなく、ちゃんと人間に見えてるんだ。
人間だって、分かってて殺してしまったことを、悔いてる…
「俺は、俺は…っ、この手で…っ、俺が守りたい幸せと同じ幸せを、いくつも!いくつも奪ってきたんだ……っ!」
泣いてた。
涙も流さないで、泣いてた。
「……ああ、寒いなぁ、だけど、あったけえ」
寒いと言い出した山根さんを、あたしはまた熱が出る予兆かと思ってたのに、あれから山根さんはどんどん冷えていった。
まるで向井さんの最期みたい。
氷みたいだ。
色んな後悔が、山根さんの中で溢れてもう抑えられなくなってるのがわかる。
それでも生きて、歳をとって、おじいちゃんになって孫を抱っこしてほしいと思うのは、あたし側のワガママなのかもしれないと思った。
この地で、命を終えれば誰にも彼が人殺しをしたかなんてわからない。
それが山根さんの幸せなのかもしれない。
どのみち、選択肢なんかない。
山根さんがそう言って閉じた瞼から、一筋だけ、涙がこぼれた。
今度こそ、本当の極楽に行くんだね……
こんな大声、敵がいたら聞こえちゃう…!
「はあ…はあ……み、ず…」
「あっ、は、はいお水!」
のたうち回っていた山根さんが、ようやく静まってお水が欲しいと言った。
口からなにか摂るっていうのをしなくなっていたから、よかった。
ホッと胸を撫でおろす。
どうかこのまま、回復に向かって…!
「なあ…弥生ちゃん…」
「はい」
「俺…ここで死ぬんだな…」
「え?何言ってるの?死なないよ!」
「いやいや…。わかるさ、不思議だけど…わかるんだぜ」
「……」
水分の飛んだ…淀んだ目。
まるで生気がない。
諦めてしまっているのかな…
「あーあ。ついてねぇや。せめてサルミに着いて、敵と一戦交えたかったぜ…」
「戦いたいの?」
「ああ、そうさ。男に生まれたからにゃぁ、この命の火が消える前に…鬼畜米英を1人でも多く葬る!それが帝国陸軍の男の死に様よぉ」
「死に、様…」
阿久津さんは悩んでたけど、山根さんは芯から軍人なんだなって、思った。
死に様、死に様かぁ…
「昇さんや向井さんとは、一緒の部隊じゃなかったの?」
「師団は同じだ。第41師団、河兵団っていうんだぜ。河兵団が溺れちゃ世話ねえな、はは」
「……」
「けど俺と阿久津は歩兵で、兵長と向井は輜重兵だ」
「んっと…?どっちがどんな?しちょうへい?」
「歩兵は戦闘員だ。輜重兵は、まあ、輸送隊だな」
「じゃあ阿久津さんと山根さんは敵と戦う人ってこと?」
「そういうこと」
みんな同じ仕事をしてると思ってた。
「だけどこっちに来てからはずっとお散歩の毎日だったからなぁ」
「お散歩って…」
「寒いとっから来たからよ、あったけぇし、海は見たこともねえってほど青いし、初めは極楽かと思ったんだぜ…」
「あ…あたしも、最初来た時にキレイだなって思ったよ。いきなりだったからびっくりしたし、すぐに戦闘機に狙われてそれどころじゃなかったけど」
「そうだろう?でもなぁ、やれあっち、今度はそっちって、転進転進と歩き続けて、地獄を見たよ…弥生ちゃんも分かってるだろ?ここまで生きていられたのが信じられねえくらいだ」
いつもよりは小さい、だけど割としっかりした調子で喋る山根さん。
一安心だな、と思った。
でも…
「ふう…。疲れちまった」
「そうだよ、少し休んだ方が。あたし、カエル獲ってくる!火、熾せるかわかんないけど、えへへ」
「いや、行かないでくれ」
「え?」
「本当に、疲れちまったんだよ…弥生ちゃんがこんなとこにいるのは気の毒だが…俺らにとっちゃぁ、観音様か天女様が迎えに来てくれたんだと思ってんだ」
観音様…天女様…
「だからもう少しだけ…」
「山根さん…」
「おかしなもんだよな。敵と戦って死にたいなんて言っといてよぉ、妹みたいな歳の女の子に縋ってるなんてな」
「おかしくなんかないよ」
「そうか?そうだよな…俺もガキんちょの頃はすっ転んでは痛てえ痛てえってピーピー泣いてたんだ。母ちゃんに縋ってよ。男ってのは…いつから強くなったんだ?」
「あはは。今だって弱いんじゃないの?」
「ったく、レイワの女は男に敬意ってもんがねえよな。だけどそういうとこが他と違うから、死ぬ間際にこんな話ができるのかもなぁ」
「山根さんは死なないでよ」
「…俺も死にたくはねえよ?でもよ、もう腹ん中が腐ってるような、とにかくもうあちこち使いもんになんねえ感じしかしねえのよ」
そういえば、この辺り、甘い臭いがする。
花の香りじゃない。
知ってる、この臭い。
最初に嗅いだのは、裏山で死んだヘビを見つけたとき。
まだ小学生くらいで、干物のにおいに少し似てるなって思った。
でもそのあと、中耳炎になって。
自分の耳からその臭いがして、自分もあのヘビみたいに死んじゃうんだって、怖くて仕方なかった。
おばあちゃんの家に行くと、いつもこの臭いがして、怖かった。
こっちでも、途中に倒れていた人たちからこの臭いがすることがあった。
そうか……
今、この臭い…山根さんからしてるんだ…
「ああ、また寒くなってきた。弥生ちゃん、俺も向井んときみたくしてくんねえか」
「膝枕?わかった」
「へへ、腹上死じゃねえが、御の字だ」
「ふくじょうしって?」
「知らんのか?なら知らんでいいさ」
言葉の意味はわからなかったけど、山根さんが膝の上で安心したように笑った。
向井さんと、同じだ…
「レイワって、いい時代なのか?」
急に、山根さんがそんなことを訊いてきた。
「うん。嫌なこととか面倒くさいこといっぱいあったけど、戦争ないからね」
「そうか。戦争ないのか。いいなぁ…けど、それじゃ尚更、生きて帰れねえや」
「どうして?平和だよ、バカみたいに平和」
「だからだよ。俺は…人殺しだからな」
「……」
山根さんは……蓋を、していない?
この時代に生きていて、戦争を人殺しと呼ぶ人が本当にいるなんて…
そうか。
山根さんがブレないのは、芯から軍人だからじゃなくって、自分を人殺しだと言い切ってしまうようなところからきてたんだ。
またあたしの知らない軍人さんだ、なんて思って、ハッとした。
あたしはこの期に及んで軍人さんはどう考えてたとか、映画はこうだけど本当はとか、『本当の軍人像』みたいなものを一生懸命になって固めようとしてる。
違うよ。
軍人さんだけど、そうじゃない。
目の前にいるのは、山根さんだ。
数日前に死にたくないって言って逝ったのは向井さん。
こないだ戦争に悩んでたのは阿久津さん。
みんな、別の人間だ。
軍人さんだからみんな同じ考えだったなんて、ないんだ。
それぞれがそれぞれの思いを抱えて、だけど選択肢がなくてただひとつの同じ道を選んだ、それだけのことなんだ。
「俺はよ、明治維新でちょんまげ切られたお侍さんの気持ちがわかるような気がするぜ」
「……」
「それか戦国時代の武士だな。平和になったらよ、それまでの正義が悪になるんだ。生きて、帰って、子供がでっかくなって、孫が出来ても、俺はこの人殺しの腕では抱いてやれねえよ」
「そんな……時代だもん、仕方ないよ」
「自分が、我慢できねえんだ。戦場じゃ殺るか殺られるかだから、んなこと考えちゃいねえよ。でもよ、夢に見るんだよ、毎晩。嫁さんと子供たちがアメリカ人になって、なんだこれは、と思ってると自分もアメ公になってんだ。そんで普段通りに暮らすんだよ」
山根さんには、元から鬼なんかじゃなく、ちゃんと人間に見えてるんだ。
人間だって、分かってて殺してしまったことを、悔いてる…
「俺は、俺は…っ、この手で…っ、俺が守りたい幸せと同じ幸せを、いくつも!いくつも奪ってきたんだ……っ!」
泣いてた。
涙も流さないで、泣いてた。
「……ああ、寒いなぁ、だけど、あったけえ」
寒いと言い出した山根さんを、あたしはまた熱が出る予兆かと思ってたのに、あれから山根さんはどんどん冷えていった。
まるで向井さんの最期みたい。
氷みたいだ。
色んな後悔が、山根さんの中で溢れてもう抑えられなくなってるのがわかる。
それでも生きて、歳をとって、おじいちゃんになって孫を抱っこしてほしいと思うのは、あたし側のワガママなのかもしれないと思った。
この地で、命を終えれば誰にも彼が人殺しをしたかなんてわからない。
それが山根さんの幸せなのかもしれない。
どのみち、選択肢なんかない。
山根さんがそう言って閉じた瞼から、一筋だけ、涙がこぼれた。
今度こそ、本当の極楽に行くんだね……