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 雪がちらつく中、太陽が顔を出した。ガラスの向こうでは色とりどりのウェアが白に輝く斜面で踊るように滑る。久しぶりのゲレンデ、私はレストハウスのカウンター席でコーヒーブレイク中だ。ひと滑りしたあとの疲労感がなんとも心地いい。手のひらを窓にかざす。今日はネイルにも雪の模様をいれた。3年ぶりのスキー旅行……思い切って来てよかった。
 かたん。物音がしてテーブルに視線を落とした。手元にあったグラスが倒れて水がこぼれている。知らずのうちに肘が当たっていたのだろう、私は慌てて紙おしぼりでそれを拭こうとした。ところが。
「やっ……」
 おしぼりが水を吸い取らず、押しやった形になった。その先には隣の男性のものであろう白いスマホ。慌てて手を伸ばしたけど、つい、力を入れすぎて、そのスマホをカウンターから押し出してしまった。がたん。床に落ちたスマホが鈍い音を立てた。その音に嫌な予感がする。
「おいっ」
「すみません!」
 赤いスキーウェアがのっそりと動く。20代後半だろうか、男性は手を伸ばして落ちたスマホを取り上げた。スマホの画面にはひびが入り、画面がついたり消えたりしてる。ぽす……そしてそんな音を鳴らすかのように画面は真っ黒になった。
「壊れたな」
「すみません。弁償します」
 ウェアの胸に“SKI-SCHOOL”の文字が白で刺繍されていた。ということはおそらく彼はインストラクター。顔はきれいに逆パンダ焼けをしていた。二重瞼の大きな瞳がぎろりとこちらを睨んだ。
「弁償?」
「それ、無いとお困りですよね。すぐに……」
「麓のショップまで1時間以上掛かるし、俺これから仕事だし」
 私が買いに行くにも携帯やスマホの類は本人確認か委任状が必要だ。修理にしろ買い替えにしろ子どものお遣いというわけにはいかない。隣から小さく舌打ちが聞こえてきた。 
「弁償っていっても領収書のやり取りとか面倒だし」
 追い打ちをかけるように今度は盛大なため息が聞こえてきた。
 私は年末年始の休暇を利用して4泊5日のひとり旅に来ていた。別に失恋してひとり旅してる訳じゃない。楽しみにしていた旅行……なのに初日につまずいてしまった。
 思いあぐねていると彼は私の顔をのぞき込んできた。そして口角を上げてにやりと笑う。
「あのさ、スキースクールのレッスン受けてよ」
「スクール?」
「個人レッスンで俺を指名して。レッスン中は別行動。そうすれば俺はただで給料もらえるってコトになるから」
 個人レッスンっていい金額なはず。カウンターに置いてあるパンフを手に取る。一日1万5千円……。高いけどスマホ買い替えよりは断絶安いし、それで許してもらえるならてっとりばやい。
「……はい」
「よし。示談成立」
 その人の顔がちょっと緩んだ。強面の顔がじゃれる子犬のように見えた。
「あ、俺、八木田橋。午後の申し込みは12時まで。カウンターはあそこ。じゃ」
 そう言ってその男性は席を立った。何気なく見送る。人ごみの中で目立っていた。ウェアが赤い上に、背は高く、がたいがいい。まるで赤い熊のようだったから。
 受付を済ませたあとは、私はスキーを履いてリフトに向かった。リフトのスタッフは八木田橋と名乗る男性のウェアと色違いのダークオリーブ。背中には同じくスキー場の白抜きのロゴ。ホテルのスタッフは深いグレー。スキー場独特の派手さはなく落ち着いた雰囲気だ。ホテルもスキー場も経営者が同じだから、統一感があって心地いい。この南東北へは私の住む浦和からは東北道と磐越道を経由して3時間。ひとりで運転してくるにはちょうどよかったし。
 リフトに乗って自分の板を眺める。KOGASAKA100周年記念をして作成された限定版の貴重なモデルだ。シリアルナンバーも刻まれている。春、やっと正社員になった。満額支給になったボーナスでこの板を予約し、冬を心待ちにしていた。
 まずは初心者コースを軽く滑り降りる。小さな子を抱えた親子連れがたくさんいた。私も子どもの頃はこんな風に父と滑っていた。人混みをすり抜け、開けた斜面に出る。前方を見やると冬木立の向こうに大きな湖が広がっていた。猪苗代湖だ。
 集合場所に来ると、レストハウス向かいの平屋から続々と赤いウェアのスタッフが出てくるところだった。そしてその八木田橋というインストラクターも板を履くと私のところへ一目散にやって来た。
 彼は顎でリフトをさすと何も言わずに緩い坂を滑り上がる。慌てて後を追う。順番を待ちながら彼を見やる。ゴーグルを掛けていて表情は分からないが、頬や口元から笑ってる形跡はない。不愛想だ。
順番が来てふたり並んで腰掛ける。出始めのシートは揺れる。その揺れが治まったところで話し掛けた。
「スマホ、すみませんでした」
「いや」
「使えなくて不便でしょう? いつ買いに行かれるんですか」
「明後日」
「データは保存してありますか? SDカードかクラウドとか」
「いや」
「すみません」
 私の質問に八木田橋さんは片言で答える。会話は続かなくて、リフトの無機質な轟音とスピーカーからの音楽だけを聞いていた。リフトを降りると、あっち、と言わんばかりに向かいのリフトに顎をしゃくる。そして2本目のロマンスリフトに乗ると、八木田橋さんはボソッと言った。
「ちょうど良かった」
「何が、ですか?」
「スマホ。元カノの写真入ってたし」
「なら、尚のこと」
 そのあとも八木田橋さんは無言だった。2本目のリフトを降りるとコースは二股に別れていた。
「右は林間迂回コース。左はコブ斜面」
 正面にある看板を見やる。迂回コースは緩斜面、初心者用。コブは30度近い急斜面、当然上級者。
「下のゲレンデだと他のインストラクターがウジャウジャいる。サボってるのバレると面倒だから、スクール終了時間まではこのロマンスリフトで滑ってて」
 これでスマホを壊した代償というならお安いものだ。かえって感謝するのは私のほうかもしれない。八木田橋さんはゴーグル越しに私の足元から頭のてっぺんをゆっくりと舐めるように見た。そして突然、ふっと鼻で笑った。
「まさかその格好で緩斜面はないよな? それ、ニューモデルだろ、全部。その板で初心者コースをボーゲンで滑ったら板が可愛そうだぜ?」
 さっきまで無表情だった八木田橋さんはクスクスと肩を震わせている。あまりの豹変ぶりに驚いた。なんか感じの悪い……。
「形から入るタイプ?」
 そういわれてムッと来た。スマホを壊して申し訳ないと思い、下手に出てたのに、元カノの画像を消しちゃって悪いと思ったのに。それよりも5年勤めた自分へのご褒美の板をウェアを笑われて腹が立った。
「じ、時間までここで滑ってればいいんですよね?」
 私は左のコースに板先を向けた。ポールを雪面にグサッと刺し、勢いをつけて前に進み、その急斜面に飛び込んだ。コブは滑れない訳じゃない。ただ、筋力を使うから何本か滑ると集中力が切れてスキーを楽しめなくなるからあまり選ばないだけ。ここに来たのだって、湖面がきれいだと口コミを見て選んだのに。
「ふんっ」
 コブの腹で板先を変える。速度を抑える。ほらね、コブに集中して景色が楽しめない。申し訳ないことして悪いって思って下手に出てたのに、急に馬鹿にしたように笑って。性格悪い、悪すぎる。
 急斜面のコブを終えてコースの脇に止まる。どれだけの斜面を下りたのか確認しようと見上げると、真っ赤なウェアの彼が飄々と滑っていた。八木田橋さんだ。コブって力強く足をバネにして下りて来る人が多いのに、それを見せないというか。力を抜いてなめらかに動く。
「……」
 私は息を止めた。無意識に止めていた。雪原の中に小さな赤い点がゆっくりと柔らかに下りて来る。目が離せない……。悔しいけれど見とれてしまう自分がいた。
 その赤い点が段々と大きくなり、私の前でエッジを立てて止まった。
「……古い」
「え?」
 八木田橋さんは顎をしゃくって、私のことを差してるようだった。
「だから。滑りが古い。板は新品なのに勿体ない……ダサい滑り方」
 八木田橋さんはまた肩を震わせて笑う。私は再び頭に血が上った。彼に背を向けてリフトに向かう。滑りと性格は比例しない。一瞬でも見惚れた私が馬鹿だった。再びロマンスリフトに乗る。コブを下りる。八木田橋さんも同じく私のあとを滑る。そんなことを3本繰り返したときだった。
 リフトを降りて左手に向かう。すると突然、右腕をつかまれた。振り向くと八木田橋さんが私の板に横付けして私の腕を掴んでいた。
「な、何するんですか!」
 八木田橋さんは向こうの初心者コースを顎で指す。
「もう、危ない。膝が笑ってるだろ?」
 確かに足ががくがくしていた。早朝から車の運転、午前中だって緩いコースとは言え、嬉しくて滑りまくってたし。コブ斜面も久しぶりだったし。
 でも彼の言うことを素直に聞くのも癪だった。私はブンブンと腕を振って彼の手を解いた。そしてコブのコースを目掛けてポールを押す。
 午後の雪は重かった。天気は晴れたり曇ったりだったけど、斜面の雪は溶けて水を含んでいた。足も取られる。でも大丈夫。私にはこの板がある。そんなことを考えてるうちに私はあと少しのところで足を取られて、思い切り転んでしまった。急斜面にすぐに止まれる訳もなく、横向きに尻餅をついたままズルズルと滑り、コブ3つ目でようやく止まった。板の向きを谷側に直し、立ち上がろうとしたとき、エッジを立てて止まる音がした。と同時に急に雪が舞い上がる。そしてその雪が落ち着くと顔面にはポールが差し出されていた。つかまれよ、と顎でしゃくる八木田橋さん。私はそれにつかまって立ち上がった。
 その後は林間迂回コースをゆっくりと滑った。林の間から景色が見え隠れする。眼下の湖面は晴れると光を鏡のように反射させ輝き、曇ると深いブルーになる。時折、赤いウェアが私の横をすり抜け、追い越していく。そして背中を向けたままポールを上げて私に挨拶し、遠ざかる。
 スクール終了時間になり、麓のレストハウス前まで一緒に下りた。
「お疲れさまでした。これで本日のレッスンは終了になります。じゃ、明日もここで」
「へ?」
 明日。明日も?
「おい。スマホって今いくらすると思ってるんだよ」
 確かに1万5千円じゃ無理。スマホ自体は値段が上がってる上に、私が支払った金額がそのまま八木田橋さんに流れる訳じゃない。
「あ、日帰りだった?」
「……いえ、連泊です」
「じゃあいいよね、青山ユキさん」
 どうして私の名前を……。
「えっと、住所はさいたま市浦和区……」
 そう言いながらポケットから紙切れを出した。スクール申込書の写しだ。
「電話番号は……あ、アドレスもご丁寧に。年齢は27歳」
「ちょ、ちょっとやめて!」
 ゴーグルの中ではきっと馬鹿にしたように笑ってる。
「今日のうちに申し込みしといて」
 八木田橋さんはそう言うと、平屋の建物の方へ滑って行った。