「ふーん。そうだったんだ」
聡の話を静かに聞いていた水樹がいつもの調子で言った。
「相変わらずクールだねえ」
聡は言った。
「だって、その話、聞くのに二回目だから」
「えっ!」聡はのけぞり、意味もなく立ち上がり、誰もいない後ろを振り返り、「二回目?」と訊いた。
「そうだよ。洋一君から、ある程度は聞いたから」と画材道具の金具をパチりと開け、いつぞやか見た雑誌を水樹は取出した。
洋一?なぜその名前が突如浮上したのかを思いあぐね、どこでこの雑誌を見たか聡は考えた。記憶の旅を巡る。過去へ。
そうだ、ジャズバーのマスターが食い入るように見ていたものだ。
「その記事、洋一が書いたものだから」
「えっ!」
聡はさらに驚く。喋りすぎ、驚き過ぎ、喉はカラカラだ。
「洋ちゃん、ライターになったんだ」
「ううん。違うよ。起業したんだよ」
「起業?」
聡の声が上擦った。もう驚くのに疲れた。
「だからその雑誌、当時はかなりマイナーだったと思う。今はそこそこ景気いいみたいだけど」
「じゃあ、姉貴のところに取材にきたんだ」
「うん。来たよ。その時に洋一君の方から色々喋ってくれて。手間が省けたよ」と一ヶ月に数回しか見せない笑みを水樹は見せた。
「俺のことなんか言ってた?」
「別れ方が後味悪くて、今更会うのが気まずい、って。だから私言ってあげたの」水樹は聡の方を見て、「たぶん。聡もそう思ってるよ。でもいずれ元に戻るよ。聡って意外に楽天家だから」と言った。
「でも、それ以来、洋ちゃんに会ってないよ」
聡は手をもじもじと動かした。なんだか気恥ずかしさと嬉しさとせつなさと、あらゆう感情が手のもじもじに乗り移った。
「そのうち引かれ合うよ。奇跡ってあるんじゃない」と水樹は画材道具の金具をもう一度閉じ、肩に掛け、立ち上がった。そして、何かを思い出しかのように、「ああ、明日の個展来てよ。盛大にやるらしいから」と無表情で彼女は言った。
ようするに聡が水樹に喋ったことは無意味かつ無駄だったことは明白であり、洋一は元気で起業し、事業の方は景気がいい。そして明日は水樹の個展があり聡は出向く。
彼はバラバラになった時計を見つめ、手に取り、一つひとつ丁寧に元通りにしていこうと作業に取りかかった。
雲ひとつない青空が広がっているが太陽活動は著しく低下し、気温はマイナス四度だった。夏と秋の狭間の気温にしては低く、聡はマフラーを首に巻いた。
水樹の個展は北千住駅西口から徒歩三十秒の場所にある商業ビル十三階にあった。エレベーターが開いた瞬間、聡は動けなかった。なぜなら、目の前には石を持ち上げた先に蟻の軍勢がいるように人がウヨウヨしていたからだ。テレビ局も何社か来ているらしい。肘の部分に腕章を着けている者が数名いた。有名人らしき人物も見かけ、高級そうな香水の匂いが空間に充満していた。
一通り歩いて絵を眺めた。ファンタジーな絵が多いと聡はひとつひとつ水樹の絵を鑑賞した。「少女と竜』なんかは少女と竜がブランコを漕ぎながら手を取り合っている。竜を漕いでいるというより浮いていた。少女と手を取り竜がしっかりと支える。そういう光景が見受けられた。それは世界の出来事に起因しているのかもしれない、ふと聡は思った。『氷河期到来』の通達以降、世界では食糧などの争奪が行われた。これ見よがしに、人種間の差別がさらに深刻した。彼女の絵はそれらを表現してるのかもしれない。異形の竜と愛くるしい少女を使って、認め合おう、とも言うかのように。
飲み物を買おうと思い、辺りを聡は見回した。
すると背後から肩を叩かれた。聡は振り向いた。そこには赤い淡い赤色のドレスを着た母がいた。厚めの化粧は毛布を思わせ、ドレスを着たことに太り肉な体型を露呈させた。
「母さん、それどうしたの?」
「水樹ちゃんがテレビ来るっていうから」
それにしても赤色のドレスはどうだろう、と聡は首を捻り、あからさまな嫌悪感を示した。それでも母はそんなことはおくびにも出さず、「似合ってるでしょ」と自意識過剰な対応を聡に誇示した。
なので、「若返ったね」と暗い声で聡は言った。
「お前、声暗いね。寝不足か」
と母と聡のコミュニケーションが今日という日は噛み合わないということを明白にした。
その時だった。場がざわつき始めた。カメラのフラッシュが無数に焚かれる。母は今がその時とばかりに水樹が来るであろう場所の最前列まで走った。その後姿を聡は眺めた。達磨だった。
司会者が一通り注意事項を述べた後、「それでは、田丸水樹さんに登場して頂きましょう。どうぞ」と言った。華々しく毅然とした態度で登場するのかと思いきや、聡の背後で、チン、と鳴り振り向いた。なんとそこには水樹が普通にエレベーターから下り、目の前の光景に動揺することもなく無表情で登場した。司会者も、予定と違ったのか意表をつかれ目を丸くしている。
さすが我が姉、水樹。なにもかもが規格外だと聡は思った。
アリの軍勢と成り果てた人々を掻き分け、水樹は普通にマイクを受取り一度お辞儀をし、喋り出した。
「今日は皆さんお忙しい中、私、田丸水樹の個展に足を運んでくださり誠にありがとうございます」
水樹は深々とお辞儀をした。盛大な拍手が沸き起こり、カメラのフラッシュが勢いよく焚かれれる。
「私の描いた絵を皆さんが観賞し、何を感じ、何を思うかは自由です。一人ひとりが大切な、もしくは忘れかけたものを心の中に持ち帰って頂ければ嬉しく思います」
水樹は淡々と喋った。聡の記憶の中では彼女がここまで流暢にかつしっかりとした口調で喋っている姿を知らない。なぜならいつも一言、二言で会話をフェイドアウトするからだ。
「実は皆さんにご報告があります。といってもたいしたことではありません。新作を披露したいと思います」
その水樹の一言に個展内に拍手がさらに湧き、歓声が上がる。口笛を吹くものまでいた。
スリピーススーツを着た二人の男が白い手袋を嵌め、布が掛けられた絵を大事そうに運んだ。それをあらかじめ設えられた赤いシルク素材の布が掛けられた台の上に丁寧に置いた。
「では、披露したいと思います」
先ほどの歓声、ざわつきが嘘のように、静寂が起こる。
そして、絵に掛けられた布を上に引っぱり取った。
聡は姿を表した絵を凝視した。それは何かのステージの絵だ。いや、ライブ?ボーカルらしき人物がマイクを握り、右側にギターがいる。そのギターが洋一に見えなくもない。なにより水樹の絵のタッチと少し違う。どことなく現実的である。彼女の絵はどちらかという幻想的な世界観を表現し、鑑賞するものに、複数の事柄を考えさせる作品になっている。この絵はどちらかという単一的であり、一方向の視点で描かれているように、聡は感じた。会場内もそれを察したのか、周囲の人と首を傾げ、奇妙なざわつきを辺りが席巻していた。
「驚きました?」あたかもこの状況を予期しているように水樹は言い、「実はこの絵は父が亡くなる前に描いたものなんです」
会場が一気に静まり返る。
聡は唾を呑み込んだ。父が絵を?そんな馬鹿な、という気分が抜けない。時計にしか興味がなく、それでいて無口。彼には到底信じられない現実が今ここにある。そして水樹が話を続けた。
「これはある一人の男性のために描かれました。その男性は、家業を継ぐのを断り、夢に向かい別の分野で挑戦することを選びました。父は心に傷を負いました。信じていたものに裏切られるというのは時に残酷な結果を及ぼすものです。が、父は違いました。応援することにしたのです。古いしがらみや慣習に縛られるのではなく、純粋に応援することにしたのです」
聡の話を静かに聞いていた水樹がいつもの調子で言った。
「相変わらずクールだねえ」
聡は言った。
「だって、その話、聞くのに二回目だから」
「えっ!」聡はのけぞり、意味もなく立ち上がり、誰もいない後ろを振り返り、「二回目?」と訊いた。
「そうだよ。洋一君から、ある程度は聞いたから」と画材道具の金具をパチりと開け、いつぞやか見た雑誌を水樹は取出した。
洋一?なぜその名前が突如浮上したのかを思いあぐね、どこでこの雑誌を見たか聡は考えた。記憶の旅を巡る。過去へ。
そうだ、ジャズバーのマスターが食い入るように見ていたものだ。
「その記事、洋一が書いたものだから」
「えっ!」
聡はさらに驚く。喋りすぎ、驚き過ぎ、喉はカラカラだ。
「洋ちゃん、ライターになったんだ」
「ううん。違うよ。起業したんだよ」
「起業?」
聡の声が上擦った。もう驚くのに疲れた。
「だからその雑誌、当時はかなりマイナーだったと思う。今はそこそこ景気いいみたいだけど」
「じゃあ、姉貴のところに取材にきたんだ」
「うん。来たよ。その時に洋一君の方から色々喋ってくれて。手間が省けたよ」と一ヶ月に数回しか見せない笑みを水樹は見せた。
「俺のことなんか言ってた?」
「別れ方が後味悪くて、今更会うのが気まずい、って。だから私言ってあげたの」水樹は聡の方を見て、「たぶん。聡もそう思ってるよ。でもいずれ元に戻るよ。聡って意外に楽天家だから」と言った。
「でも、それ以来、洋ちゃんに会ってないよ」
聡は手をもじもじと動かした。なんだか気恥ずかしさと嬉しさとせつなさと、あらゆう感情が手のもじもじに乗り移った。
「そのうち引かれ合うよ。奇跡ってあるんじゃない」と水樹は画材道具の金具をもう一度閉じ、肩に掛け、立ち上がった。そして、何かを思い出しかのように、「ああ、明日の個展来てよ。盛大にやるらしいから」と無表情で彼女は言った。
ようするに聡が水樹に喋ったことは無意味かつ無駄だったことは明白であり、洋一は元気で起業し、事業の方は景気がいい。そして明日は水樹の個展があり聡は出向く。
彼はバラバラになった時計を見つめ、手に取り、一つひとつ丁寧に元通りにしていこうと作業に取りかかった。
雲ひとつない青空が広がっているが太陽活動は著しく低下し、気温はマイナス四度だった。夏と秋の狭間の気温にしては低く、聡はマフラーを首に巻いた。
水樹の個展は北千住駅西口から徒歩三十秒の場所にある商業ビル十三階にあった。エレベーターが開いた瞬間、聡は動けなかった。なぜなら、目の前には石を持ち上げた先に蟻の軍勢がいるように人がウヨウヨしていたからだ。テレビ局も何社か来ているらしい。肘の部分に腕章を着けている者が数名いた。有名人らしき人物も見かけ、高級そうな香水の匂いが空間に充満していた。
一通り歩いて絵を眺めた。ファンタジーな絵が多いと聡はひとつひとつ水樹の絵を鑑賞した。「少女と竜』なんかは少女と竜がブランコを漕ぎながら手を取り合っている。竜を漕いでいるというより浮いていた。少女と手を取り竜がしっかりと支える。そういう光景が見受けられた。それは世界の出来事に起因しているのかもしれない、ふと聡は思った。『氷河期到来』の通達以降、世界では食糧などの争奪が行われた。これ見よがしに、人種間の差別がさらに深刻した。彼女の絵はそれらを表現してるのかもしれない。異形の竜と愛くるしい少女を使って、認め合おう、とも言うかのように。
飲み物を買おうと思い、辺りを聡は見回した。
すると背後から肩を叩かれた。聡は振り向いた。そこには赤い淡い赤色のドレスを着た母がいた。厚めの化粧は毛布を思わせ、ドレスを着たことに太り肉な体型を露呈させた。
「母さん、それどうしたの?」
「水樹ちゃんがテレビ来るっていうから」
それにしても赤色のドレスはどうだろう、と聡は首を捻り、あからさまな嫌悪感を示した。それでも母はそんなことはおくびにも出さず、「似合ってるでしょ」と自意識過剰な対応を聡に誇示した。
なので、「若返ったね」と暗い声で聡は言った。
「お前、声暗いね。寝不足か」
と母と聡のコミュニケーションが今日という日は噛み合わないということを明白にした。
その時だった。場がざわつき始めた。カメラのフラッシュが無数に焚かれる。母は今がその時とばかりに水樹が来るであろう場所の最前列まで走った。その後姿を聡は眺めた。達磨だった。
司会者が一通り注意事項を述べた後、「それでは、田丸水樹さんに登場して頂きましょう。どうぞ」と言った。華々しく毅然とした態度で登場するのかと思いきや、聡の背後で、チン、と鳴り振り向いた。なんとそこには水樹が普通にエレベーターから下り、目の前の光景に動揺することもなく無表情で登場した。司会者も、予定と違ったのか意表をつかれ目を丸くしている。
さすが我が姉、水樹。なにもかもが規格外だと聡は思った。
アリの軍勢と成り果てた人々を掻き分け、水樹は普通にマイクを受取り一度お辞儀をし、喋り出した。
「今日は皆さんお忙しい中、私、田丸水樹の個展に足を運んでくださり誠にありがとうございます」
水樹は深々とお辞儀をした。盛大な拍手が沸き起こり、カメラのフラッシュが勢いよく焚かれれる。
「私の描いた絵を皆さんが観賞し、何を感じ、何を思うかは自由です。一人ひとりが大切な、もしくは忘れかけたものを心の中に持ち帰って頂ければ嬉しく思います」
水樹は淡々と喋った。聡の記憶の中では彼女がここまで流暢にかつしっかりとした口調で喋っている姿を知らない。なぜならいつも一言、二言で会話をフェイドアウトするからだ。
「実は皆さんにご報告があります。といってもたいしたことではありません。新作を披露したいと思います」
その水樹の一言に個展内に拍手がさらに湧き、歓声が上がる。口笛を吹くものまでいた。
スリピーススーツを着た二人の男が白い手袋を嵌め、布が掛けられた絵を大事そうに運んだ。それをあらかじめ設えられた赤いシルク素材の布が掛けられた台の上に丁寧に置いた。
「では、披露したいと思います」
先ほどの歓声、ざわつきが嘘のように、静寂が起こる。
そして、絵に掛けられた布を上に引っぱり取った。
聡は姿を表した絵を凝視した。それは何かのステージの絵だ。いや、ライブ?ボーカルらしき人物がマイクを握り、右側にギターがいる。そのギターが洋一に見えなくもない。なにより水樹の絵のタッチと少し違う。どことなく現実的である。彼女の絵はどちらかという幻想的な世界観を表現し、鑑賞するものに、複数の事柄を考えさせる作品になっている。この絵はどちらかという単一的であり、一方向の視点で描かれているように、聡は感じた。会場内もそれを察したのか、周囲の人と首を傾げ、奇妙なざわつきを辺りが席巻していた。
「驚きました?」あたかもこの状況を予期しているように水樹は言い、「実はこの絵は父が亡くなる前に描いたものなんです」
会場が一気に静まり返る。
聡は唾を呑み込んだ。父が絵を?そんな馬鹿な、という気分が抜けない。時計にしか興味がなく、それでいて無口。彼には到底信じられない現実が今ここにある。そして水樹が話を続けた。
「これはある一人の男性のために描かれました。その男性は、家業を継ぐのを断り、夢に向かい別の分野で挑戦することを選びました。父は心に傷を負いました。信じていたものに裏切られるというのは時に残酷な結果を及ぼすものです。が、父は違いました。応援することにしたのです。古いしがらみや慣習に縛られるのではなく、純粋に応援することにしたのです」