遠い日の記憶。かつての虻川は夢を追いかけていた。理想を持ち、夢という大きい白紙の地図にひとつ、またひとつと理想の地図を描いていた。

 都内の有名私立大学に現役で合格した虻川はサークルに明け暮れ、勉学に没頭した。サークルは軽音同好会。彼はドラムとしてバンドに加入した。父親が政治家として活動し、お金には困らなかった。部屋にはドラムセットがあり、独学で練習した。父親は厳しく、なにかと〝俺の期待に応えろ〟〝俺に恥をかかせるな〟という言動が口癖だった。

 虻川はそれが嫌だった。なにがなんでも父親の期待には沿わない。親子二代で政治家にしようとする父親に彼は反発した。

 それでも父親は、「光国。音楽なんていいから。勉強しろ」、部屋にいてもプライバシーがあったものでない。勝手にッ部屋のドアを開け、自分勝手な言い分を父親は虻川に放って来た。

 だから大学と同時に家を出た。一人暮らしをし、アルバイトをし、学費の半分は自分で出すようにした。

 大学では経営学を選考した。将来は起業したい。雇われる生き方もあるが、雇う側に回り、従業員が生き生きと働ける会社を目指した。どの分野で起業するかは既に決めていた。IT分野だ。計算もデータ管理もコミュニケーションも全てコンピューターがやってくれる。そういう時代が必ず来る。彼はそう思った。日本では徐々にパソコンが普及されていたが、その用途は主にラベル作りや年賀状など。重要性をあまり占めないものだった。

 その為には大学で日々勉強した。勉強に疲れ、ストレスを発散したいときはサークルに顔を出し、ドラムを名一杯叩いた。

 そのサークルに同年代でギターボーカルの海原透が在籍していた。痩せ形で、なで肩。猫背がトレードマークの飄々とした風情を醸し出すが、ギター弾きながらの歌声は甘くもとろけさせ、女性を虜にする。淡い茶髪で、サイドが癖っ毛になり少しカールしている。そこに女性の母性本能が刺激されるらしい。が、その歌声の反動か、はたまた性格的欠陥からか、海原の喋り方は独特だ。〝ねえ。これはどう思うかい〟と〝ねえ〟を多用する。

「ねえ、虻ちゃん。ビートルズの曲で何が好き?」

 抑揚のない口調で海原が言った。背後には大学の名物である噴水がジャージャーと激しく水しぶきをあげている。今年は冷夏だった。二人とも長袖のチェックシャツを着ていた。

「逆に海原は何が好きなの?」

「『サムシング』だね」
 海原が簡潔に言った。

「アビー・ロードの?」
 虻川は訊いた。噴水の音が止んだ。定期的に起こる調整の時間帯に入ったようだ。

「そう。アビーロードの。あのアルバムの流れはいいね。トラックが後半に進むにつれて哀しくなってくる」

 海原は俯きながらサイドの癖っ毛を指に巻いた。彼の癖だ。

「哀しくなるのがいいの?」

 虻川には理解できなかったので訊いた。

「ねえ。虻ちゃん。人生と一緒だよ。今は若いからいい。でもいずれ僕らも歳をとる。徐々に孤独になっていくんだ。アビー・ロードからはそれが伝わる。虻ちゃんも聴いたからわかるだろ?」と虻川に視線を移し、「前半部分は明るく、楽しい、何も考えずにいられた幼少期や青年期を思い出させる。でも、後半は孤独への階段を昇っているのか哀しみの感情に支配される。その頃にはビートルズの仲が悪くなっていた、というのにも原因があるかもしれないけど」と言った。

 実を言うと虻川の好きな曲も、『サムシング』なのだ。しかし、海原のように『アビー・ロード』全体を聴いたことがない。ただ純正に虻川は音楽を聴いていた。その海原の感性が羨ましかった。
「で、虻ちゃんは、何の曲が好きなの?」
「『ゲッド・バッグ』かな」
 なぜか虻川は嘘をついていた。

 不思議そうに虻川を見つめる海原の視線と共に噴水がジャージャーと音を上げた。調整が終わったのだ。