宗教法人と認可された宗教団体『ロード』の本部は足立区保木間にあった。円形上の建物を美穂は最初みたとき、東京ドーム?かと思った。だが、違った。そこで野球をするわけでもなく、もちろん有名アーティストのコンサートが開かれるわけでもない。

 が、教団内の信者たちは楽器を弾くことを好み、一ヶ月に一回はバンドフェスティバルなるものが開催されるらしい。その変は他の宗教団体と一線を画している。

 建物内に入るには門をくぐらなけれならず警備兵が二名常時完備されている。彼らには表情がない。常に固定された収入で入念に訓練されていることは明白だった。マニュアルが徹底され、受け答えたもロボットのようだ。門の外から内部を垣間みることは不可能だ。白壁が美穂の二十倍以上の高さを誇り、外部からの接触をなるべく避けるかのようにも見えた。白壁は汚れたら常に白く塗り直しているのか、一切の汚れはなく、触ることを彼女は躊躇した。でも、触った。手触りよくツルツルだった。

〝規則正しく生きる〟黒岩はそう言った。たしかにその言葉は日々の日課に表れていた。朝六時三十分に起床。瞑想の時間を経て、建物内の掃除、選択、朝食作り。と時間を無駄にしない生活だった。食事に関して美穂は不満だった。肉類がある程度制限されているからだ。料理長に打診すれば、肉類は出してもらえるのだが、信者のみんなはとくに肉類を好まず、ベジタブルな食事だった。そのことを黒岩に一度訊いたことがある。

「ああ、お肉が食べたいのですね美穂さんは。それを早くいってくださいよ」と朗らかに言い、「たしかに今肉類は食べた方がいいかもしれませんね。ほら、『氷河期』がくるじゃないですか」と含みを持たせ、しばし長考に入った。
 美穂は黒岩の長考が終わるのを待ち、約三分後に彼の口が開かれた。

「まだ数十年先とはいえ、増え続ける人口、先進国と発展途上国ないしは新興国の差は徐々に縮まってると思うんです。これはメリットもあれば、デメリットもあるんですよ」と彼はいつものリズムの良い口調で喋り、「なぜ?」と美穂は訊いた。

「疑問に思うことはいいことです。なぜなら〝知りたい〟と思う事は好奇心があるからです。これから美穂さんがここから巣立ち社会で活躍する助けになるでしょう。ええ、好奇心は」と黒岩の饒舌さが炸裂する。
 美穂はため息をつき、「で、なぜ?」とまた訊いた。

「おっと失礼しました。すぐ話が脱線してしまうのは私の、いや僕の悪い癖なんです。資源ですよ。食糧は生産しなければいけません。それに一日で生産するわけでもない。長い期間忍耐強く、僕らの手元に届くのを待たなくてはならない。食糧を生産するために、または生きる上で最大の資源は、なんだかわかりますか?」
 美穂は首を横に振った。が、「人間?動植物?」と疑問系で答えた。

「おお、それもあながち間違っていないです。が、最大の資源は〝水〟です。ここからは汚い話になってしまうんですがいいですか?」と黒岩は訊き、美穂は頷いた。既に黒岩の話に興味を抱いていた。

「肉を食べるには動物を殺さなければならない。殺した動物をそのまま食べるか?というとそうではない。そこには多大な水が使われているのです。そう、多大です。これは誇張でもなく事実です。水にも限界があります。それにその現状を知っているのは実際はごくわずかです。国が栄えるのはいいことです。しかし全世界が栄えると、全部が水泡に帰すのです。ここが難しいところです。普段なにも考えず生活していると、それが当然のように思えてしまうのも事実です。少しでも自分に、〝何ができるか〟〝何をすべきか〟を頭の隅に置いてくと自ずと行動は決まってくると思います」
 これで私は、と言い黒岩は喋るだけ喋って立ち去った。

 美穂は黒岩の話を聞き想像した。人類九十億人時代が到来したとして、それらが一斉に水に群がる光景、を。答えは一瞬で導き出された。もちろん想像と黒岩の話を総合した仮説なら答えだ。実際にどうなるかはわからないし、本当に水が枯渇かもしれない。そう、答えは単純に、枯渇、だ。となると黒岩の話に信憑性というものが出てくる。水がなければ食糧が生産できない。となると人間というのは空腹、肥大した胃を満たさなければいけない。となると略奪、強奪、戦争?そこまで行くと半ば恐ろしい未来予想図だ。テレビニュースで紛争やテロが絶えないと報道されていた。今は宗教観や国家間というよりは、単純に未来への不安、食糧不足が、原因ではないかと、第三者であるコメンテーターが言っていた。そのコメンテーターはでっぷりと肥えていた。そんな人間に言われて、説得力があるのだろうか、さらには偉そうに喋ってるけど、この人誰?と彼女は思った。

 昼の一時間は自由行動が許されている。五階建てである円形上の建物はガラス張りで、開放感がある。いつどこでもみんなが何をやっているかがわかるようになっている。

 美穂は二階へ向かった。宗教というのはいかがわしいカルト的なものを想像していた彼女にとって『ロード』に入信して変わった。二階にある一室には書物がぎっしりと本棚に収められ、学者風の男や痩身な女性が何かを研究したり勉学に勤しんでいた。もちろん数多くの仏教書や仏典もある。
「なにしてるんですか?」
 美穂は学者風の男に訊いた。黒縁眼鏡を掛け、白衣を来ている。目には薄らと隈ができていた。

「新入り?」
 美穂は頷き、〝新入り〟という言い方に苦笑した。

「研究や翻訳だよ。〝学ぶ〟って面白いよ」
 と彼は下がった黒縁眼鏡を人さし指でずり上げた。

「英語とか苦手だし」

「まあ、無理しなくていいけどね。何か興味ある分野とかある?女性だとファンションとかデザインとか。ここでは一通り学ぼうと思えば学べる環境があるからさ。いいと思うよ。今は苦痛でもそれが未来に繋がるんだ」
 目を輝かせながら学者風の男は言った。

 美穂は興味ある分野について考えた。ファッションも興味あるが、なにより黒岩の言っていたビートルズがs自己紹介のときに言っていたビートルズに興味がった。ということは、「音楽に興味があります」と思わず美穂は口走っていた。
「音楽か」と彼は手元のペンをスチールの机に置き腕を組み、「三階に諸星さん、っていう女性がいるんだけど、その人が詳しいよ。バリバリのロックンローラーだけど」とペンをまた持ちクルクルと回した。
「ありがとうございます」
 教団に入信して三ヶ月ほど経っていた美穂は自然と明るい挨拶ができるようになっていた。

「音楽よりも君はファッション関係のが向いているような気がするけど。まあ、いずれそういう話が来るかもね。ここにはそれなりの有力者も入信しているから」
 美穂はなんのことだかわからなかったが、彼の話に対して適当に頷いた。

 美穂は螺旋階段を昇り、三階へ行ってみた。昇りきると十二の個室が左に六、右に六ある。正面の通路をゆっくりとした足取りで歩き、一番奥の左手の個室から微雨に音が漏れていた。
 美穂はノックをした。

 が、返事はない。さらにノックをする。個室が開いた。

「あれ、可愛いわね」
 と言った女性も可愛い、と美穂は思った。金髪のくるくるパーマ。くりっとした大きい目。丸顔だが愛嬌のある口元。胸はでかく、形のいいヒップラインは、欧米人のようだった。

「あの、いきなりすみません。諸星さんってどなたですか?」
 美穂は訊いた。

「それ、私だよ。何?音楽?ロックしたいの?」 
 とガムでも噛んでるかのような、くちゃくちゃした喋りを諸星さんはした。下の名前は「幸絵」というらしい。さらには、〝重低音よろしく〟と握手をさせられた。

 諸星さんは、いい人だった。何を持っていい人というのは千差万別だが、美穂にとっては居心地だ。ただ話を聴いてくれるだけでいい。黒岩の独特の語り口について、母のこと、今までのこと、それら言葉のシャワーを諸星さんは聴いてくれた。さらに嬉しいことは特にアドバイスめいたことをいわないことだ。それは、諸星さんなりのやさしさだと彼女は思った。

〝自分の人生は自分で決めろ〟諸星さんは言葉では言わないが、そういう雰囲気を醸し出していた。普段はバンドを組んで、ライブ活動を勢力的に行っているらしい。夜はバーでバイト。心のもやもやを、『ロード』で癒しているとも言っていた。美穂は癒している、というよりは爆発させているのでは?とも諸星さんを見て思った。

「ビートルズも好きだけど、私はレッチリのがいいな」
 諸星さんはベースを持ち、指で弾いていた。レッチリとは、〝レッド・ホット・チリペッパーズ〟の略称らしい。

「辛そうですね」
 美穂は言った。

「そのまんまじゃん」と諸星さんは噴き出し、「重低音がたまらないよ。胸にズンズン来る感じ、ねえわかる?心臓を鷲掴みされてる感じよ。セックスより気持ちいいんだから」

 諸星さんは飾らない性格を疲労し、ペキペキと親指を弦に叩きつけ、人さし指を引っ掛ける動作を交互に繰り返した。しかし美穂は見逃さなかった。〝セックス〟という単語を諸星さんが発した直後の悲しい顔、を。
「すごい」
 そんなことはおくびにも出さず美穂は声を出す。

「なにかに感動するのはいい事だよ。感動が薄れている。今のあんたの感動は心の底から出た感動だね」

 諸星さんは煙草を吸う真似をした。エアー煙草だよ、というのを付け加えて。
「私も弾いてみたい」
 美穂は言った。

「ああ、それなら教えてあげるよ。ほら」
 諸星さんは自分が持っているベースを美穂に手渡した。ずっしりと重かった。

「挫折するなよ。楽器は忍耐だからね」と諸星さんが言う。
 それから毎日、諸星さんが陣取っている個室に美穂は入り浸った。まずは弦をしっかりと抑えることから始まった。そこは『ロード』の教えと共通しているところがある。

〝規則正しい生活〟

 そう、まずはみっちり基礎を学ぶことから始まった。諸星さん曰く基礎ができない人間は応用もできない、ということだった。だが、美穂にはイマイチ理解できなかった。

 が、一ヶ月もするとその意味がわかった。人によれば一ヶ月で理解するのは遅いかもしれないし速いかもしれない。基礎を学ぶということは、その後の難解なものに挑戦できる権利が与えれれるということを学んだ。 

 事実、最初は簡単なフレーズを弾くこともできなかったが、徐々に難解なフレーズに対して挑戦できるようになっていた。
「美穂、要領いいよ。それに覚えが早い。グレイト!」
 諸星さんが声を張り上げる。

「諸星さんに褒められると嬉しい」
 美穂は素直に言った。

「私には人をやる気にさせる力があるからね」
 諸星さんはウィンクをした。そして冷蔵庫から、ビールとオレンジジュースの缶をを取出し、オレンジジュースの方を美穂に手渡した。
「乾杯!」
 と諸星さんと美穂の缶同士が合わさった。美穂にとって初めての乾杯だった。より距離が縮まった気がした。

「実は私もさ、美穂と一緒で母親嫌いだったんだ。いつまでも意地ばかりはってないで歩み寄ろうと思ってさ、ある日、家に帰ったんだ。でもね。私が戻る直前に母親が事故に遭ったんだ。その時思ったんだよ。人って事が起こってから大切さに気づくんだなって。美穂にはそうなって欲しくない。赦すことも才能の一つだよ」

 諸星さんのアドバイスはそれが最初であり、美穂が彼女を見た最後でもあった。