二十年前、二十〇歳の秋津は殺し屋だった。もちろん快楽殺人、無差別殺人、というむやみやたらに人を殺すわけではない。衝動的殺人、感情にトリガーを引いた殺人を彼は美しくない、と思っている。高校まではきちんと学校まで行き、一般的な高校生活を満喫した。父親が足立区梅島にライブハウスを経営していた為か、音楽には小さい頃から親しんでいた。主に、ローリング・ストーンズ、ビートルズ、オアシス、ボブディラン、古い音楽が好きだった。その中でも、ビートルズ、ボブディランは別格だった。活躍していて華々しいのだが、どこか心にぽっかりと穴が空いたようものを埋めるかのようなメッセージ性のある曲、シンプルなメロディラインは秋津の心を掴んだ。その背景があったからかエレキギターを昼夜問わずかき鳴らした。バンドは組まなかった。なぜならギターを弾いている、ということを誰にも言わなかったからだ。ロックミュージックは一人で孤独にやるものだ。それが彼の持論でもある。
柚葉と出会ったのは高校時代。女性には興味がないと思っていた秋津の一目惚れだった。秋津とは好対照な明るい性格。そこには光が射し込んでいた。ただ遠くから見つめることしかできなかった。彼女の視線の先にはサッカー部のエースである栗原がいた。秋津が体育の時間、ゴールを決めようが、彼女の視線の先には栗原がいた。
秋津は柚葉を振り向かせたい、と思った。恋は人を盲目にさせ、行動を起こさせるというがそんな気持ちだった。だが、学校という檻のような空間ではなかなかその方法が思いつかず、柚葉の周囲には常に女友達や低レベルな男が集まっていた。
進路相談で教師と話をし放課後まで遅くまで残っていた秋津は、教室に戻った。そこには誰のかわからないがアコースティックギターが一本隅に置いてあった。辺りに誰もいないことを確認し、ギターを手にとりつま弾いた。
曲はビートルズの『ブラックバード』別名『失意の黒鳥』
俺にぴったりだ、彼は苦笑した。大空に舞うことはなく、ただその日を惰性で生きている。恋は実らず。ただの孤独。
歌詞の内容とは対照的で、イントロが流麗でありやさしい。草原の中で聴きたい曲であり、水辺で水鳥を眺めながら聴きたい。
その時だった。
「秋津君?」
声がした。秋津はギターを弾く手を止める。廊下側を振り向けば柚葉だった。
彼の心臓は早鐘を打った。
「すごい上手だね。驚いたよ。今のは何っていう曲なの?」
好奇心旺盛な眼差しを柚葉は秋津に向けた。秋津は動揺した。いざ、本人を目の前にすると言葉がでなかった。
それでも一言だけ、「ビートルズの『ブラックバード』と放った。
「古い音楽が好きなんだね。今度、CD貸してよ。私も聴いてみる」
柚葉は自然な笑みを秋津に向けた。それは夜の闇に月が照らすものだった。それに彼女と接点を持てるのが嬉しかった。
「いいよ。明日にでも持ってくるよ」
「本当!嬉しい。秋津君、ってどんな人か気になってたんだよね。その」と言いずらそうにし、「あまり喋ったことないしさ。秋津君の才能を知っているのは私だけだね」
〝私だけだね〟この言葉に秋津の胸は高鳴った。
「才能はないよ。ただ音楽が好きなんだ」
秋津はそう言い笑みをこぼした。
「あ、笑った。秋津君、笑った方がいいよ」と柚葉も笑顔を撒き散らし、「それに、今って氷河期、氷河期、まだ先のことなのに街は混沌としてるじゃない。笑顔は人を明るくさせると思うの」と言った。
その笑顔に救われるものは確実にいると、秋津は思った。彼もその一人なのだから。事実、柚葉の言う通り街は混沌としていた。突如、氷河期の予兆ともいうべき異常気象が世界で多発し、太陽が遮られ、食糧生産が行き届かない国が続出した。日本も例外ではない。食糧を輸入に頼りきり、食糧自給率が著しく低い日本は、世界各国からの輸入が滞り始めていた。そのことをメディアが煽り、人々の間で不安が広がり、買い占めなどが多発、人までが死んでいた。
「そうだね。清野さんの言う通りだね」
秋津は言った。
「柚葉でいいよ」
さっぱりとした口調の中に甘味が感じられるものだった。名前の通りだな、と彼は思った。
「あ、じゃあ。柚葉の言う通りだね」
慣れない呼称に秋津は戸惑った。
「ふふっ!これから仲を深めていこうね」
柚葉は手を差し出した。秋津は彼女の顔を見て、差し出された手を握った。温かかった。
「あっ!」と柚葉は秋津の手を見て首を横に傾け、「爪はちゃんと切った方がいいよ。衛生的によくないみたい。それい左手で弦を抑えているから爪が邪魔をしそう」と秋津に注意を促した。
秋津は柚葉の手を離し、両手を見た。たしかに爪が伸びていた。
「ああ、そうだね。爪が指板にあたって邪魔だとは思ってた」
「指板?」
「弦が張られている下にある板だよ」と秋津は言い、これ、とその部分を指差した。
「へえ、そういう呼び名なんだ。知らないことが多いな」
柚葉はギターを色々な形から眺めていた。
「これから知っていけばいいんだ」と秋津は言い、「えっ」なぜか柚葉は顔を赤らめ、「ギターのことをね」と彼は付け加えた。
「そ、そうだね」と柚葉は慌てて言った。
柚葉はこれからバイトだということで鞄を持って教室から立ち去った。立ち去り際にひらりと短いスカートが揺れ、秋津の視線を釘付けにした。
いけない、何を考えているんだ、彼は自分を戒めた。
翌日、秋津は柚葉にCDを貸そうと厳選したものを徹夜して選び抜いた。その際に爪も切った。ゆっくりと着実に。爪を切る、という行為に面白みを覚えたのもこの時だった。パチン、パチン、と歯切れのよい音が鼓膜を潤し、ときに震わせる。それは始めてビートルズを聴いたときに似ているかもしれない。
〝変えの効かない音〟
爪切りの音とビートルズサウンドを比べては申し訳ない。爪切りは日常の些細な一コマだが、ビートルズは世界で聴かれる偉大な音なのだから。
でも、爪切り後の爽快感は、何事にも変え難い。もっと注視して爪切りに耳を傾け、五感を駆使すれば早くに気づいた事柄だった、と秋津は思った。
柚葉に貸すために選んだCDはビートルズの「ラバー・ソウル」「アビー・ロード」、だ。女性がどういう音楽を好み、どういう音楽に心を惹かれるのか、イマイチわからない。それでもこの二作を選んだのには訳がある。「ラバー・ソウル」は恋愛の風刺が効いていて、この頃からビートルズの芸術性が認知され認められてきた素敵なアルバム。「アビー・ロード」は解散説が囁かれていたビートルズメンバーを、ポールがメンバーのバラバラな心を一つにまとめあげるために最後に団結したアルバム。
ようするに秋津の柚葉に対する思いでもある。恋、そしてバラバラな心と心が少しだけ交錯。そう、まだ少しだけ。
秋津はCDを放課後に渡すことにした。わずか昨日のことであるが、柚葉と接点をもてたのが放課後であり、なにか放課後には見えざる、いや、人を魅惑的に惹き付ける何かがあるのかもしれない。これでオレンジ色に染まる夕陽が窓から射し込めば最高なんだが、外は季節外れの雪だった。
やれやれ、天候はきまぐれだ。
適当に時間を潰し、意味もなく雪が降る中校庭を二周し放課後を待った。柚葉は今日も進路面談で、教室に舞い戻ってくることは知っている。秋津の教室は三階にある。そこへ向かう為に軽やかな足取り、浮ついた気持ちというのが彼には認識できた。
が、二階から三階へ昇る間にある、平たいスペースで秋津は見てしまった。
柚葉と栗原がキスをしている場面を。栗原が秋津を背にし、柚葉の唇に触れていた。その時、柚葉の目が大きく開かれ、秋津と目が合い、手元にあるCDに目を落とした。
気づけば秋津は逃げるように階段を降りていた。いや、降りるしかなかった。最後に柚はが、「ちょっ」という声が聞こえたが、最後までは聞き取れなかった。期待したのが間違いだった。期待という以前に、そこまで仲良くはない。遠目で眺めているだけにしとけばよかったのだ。秋津が手に持っていたCDは、ゴミ箱の中に叩き付けた。
ああ、そういえば。と彼は思う。「アビーロード」というアルバムもポールがメンバーを団結させようとしたけど、結局は解散したんだっけ、と。
その日の雪は降り止むことなく記録的な豪雪を記録した。帰り道の秋津に涙とも雪ともとれるものが頬を伝った。
柚葉と出会ったのは高校時代。女性には興味がないと思っていた秋津の一目惚れだった。秋津とは好対照な明るい性格。そこには光が射し込んでいた。ただ遠くから見つめることしかできなかった。彼女の視線の先にはサッカー部のエースである栗原がいた。秋津が体育の時間、ゴールを決めようが、彼女の視線の先には栗原がいた。
秋津は柚葉を振り向かせたい、と思った。恋は人を盲目にさせ、行動を起こさせるというがそんな気持ちだった。だが、学校という檻のような空間ではなかなかその方法が思いつかず、柚葉の周囲には常に女友達や低レベルな男が集まっていた。
進路相談で教師と話をし放課後まで遅くまで残っていた秋津は、教室に戻った。そこには誰のかわからないがアコースティックギターが一本隅に置いてあった。辺りに誰もいないことを確認し、ギターを手にとりつま弾いた。
曲はビートルズの『ブラックバード』別名『失意の黒鳥』
俺にぴったりだ、彼は苦笑した。大空に舞うことはなく、ただその日を惰性で生きている。恋は実らず。ただの孤独。
歌詞の内容とは対照的で、イントロが流麗でありやさしい。草原の中で聴きたい曲であり、水辺で水鳥を眺めながら聴きたい。
その時だった。
「秋津君?」
声がした。秋津はギターを弾く手を止める。廊下側を振り向けば柚葉だった。
彼の心臓は早鐘を打った。
「すごい上手だね。驚いたよ。今のは何っていう曲なの?」
好奇心旺盛な眼差しを柚葉は秋津に向けた。秋津は動揺した。いざ、本人を目の前にすると言葉がでなかった。
それでも一言だけ、「ビートルズの『ブラックバード』と放った。
「古い音楽が好きなんだね。今度、CD貸してよ。私も聴いてみる」
柚葉は自然な笑みを秋津に向けた。それは夜の闇に月が照らすものだった。それに彼女と接点を持てるのが嬉しかった。
「いいよ。明日にでも持ってくるよ」
「本当!嬉しい。秋津君、ってどんな人か気になってたんだよね。その」と言いずらそうにし、「あまり喋ったことないしさ。秋津君の才能を知っているのは私だけだね」
〝私だけだね〟この言葉に秋津の胸は高鳴った。
「才能はないよ。ただ音楽が好きなんだ」
秋津はそう言い笑みをこぼした。
「あ、笑った。秋津君、笑った方がいいよ」と柚葉も笑顔を撒き散らし、「それに、今って氷河期、氷河期、まだ先のことなのに街は混沌としてるじゃない。笑顔は人を明るくさせると思うの」と言った。
その笑顔に救われるものは確実にいると、秋津は思った。彼もその一人なのだから。事実、柚葉の言う通り街は混沌としていた。突如、氷河期の予兆ともいうべき異常気象が世界で多発し、太陽が遮られ、食糧生産が行き届かない国が続出した。日本も例外ではない。食糧を輸入に頼りきり、食糧自給率が著しく低い日本は、世界各国からの輸入が滞り始めていた。そのことをメディアが煽り、人々の間で不安が広がり、買い占めなどが多発、人までが死んでいた。
「そうだね。清野さんの言う通りだね」
秋津は言った。
「柚葉でいいよ」
さっぱりとした口調の中に甘味が感じられるものだった。名前の通りだな、と彼は思った。
「あ、じゃあ。柚葉の言う通りだね」
慣れない呼称に秋津は戸惑った。
「ふふっ!これから仲を深めていこうね」
柚葉は手を差し出した。秋津は彼女の顔を見て、差し出された手を握った。温かかった。
「あっ!」と柚葉は秋津の手を見て首を横に傾け、「爪はちゃんと切った方がいいよ。衛生的によくないみたい。それい左手で弦を抑えているから爪が邪魔をしそう」と秋津に注意を促した。
秋津は柚葉の手を離し、両手を見た。たしかに爪が伸びていた。
「ああ、そうだね。爪が指板にあたって邪魔だとは思ってた」
「指板?」
「弦が張られている下にある板だよ」と秋津は言い、これ、とその部分を指差した。
「へえ、そういう呼び名なんだ。知らないことが多いな」
柚葉はギターを色々な形から眺めていた。
「これから知っていけばいいんだ」と秋津は言い、「えっ」なぜか柚葉は顔を赤らめ、「ギターのことをね」と彼は付け加えた。
「そ、そうだね」と柚葉は慌てて言った。
柚葉はこれからバイトだということで鞄を持って教室から立ち去った。立ち去り際にひらりと短いスカートが揺れ、秋津の視線を釘付けにした。
いけない、何を考えているんだ、彼は自分を戒めた。
翌日、秋津は柚葉にCDを貸そうと厳選したものを徹夜して選び抜いた。その際に爪も切った。ゆっくりと着実に。爪を切る、という行為に面白みを覚えたのもこの時だった。パチン、パチン、と歯切れのよい音が鼓膜を潤し、ときに震わせる。それは始めてビートルズを聴いたときに似ているかもしれない。
〝変えの効かない音〟
爪切りの音とビートルズサウンドを比べては申し訳ない。爪切りは日常の些細な一コマだが、ビートルズは世界で聴かれる偉大な音なのだから。
でも、爪切り後の爽快感は、何事にも変え難い。もっと注視して爪切りに耳を傾け、五感を駆使すれば早くに気づいた事柄だった、と秋津は思った。
柚葉に貸すために選んだCDはビートルズの「ラバー・ソウル」「アビー・ロード」、だ。女性がどういう音楽を好み、どういう音楽に心を惹かれるのか、イマイチわからない。それでもこの二作を選んだのには訳がある。「ラバー・ソウル」は恋愛の風刺が効いていて、この頃からビートルズの芸術性が認知され認められてきた素敵なアルバム。「アビー・ロード」は解散説が囁かれていたビートルズメンバーを、ポールがメンバーのバラバラな心を一つにまとめあげるために最後に団結したアルバム。
ようするに秋津の柚葉に対する思いでもある。恋、そしてバラバラな心と心が少しだけ交錯。そう、まだ少しだけ。
秋津はCDを放課後に渡すことにした。わずか昨日のことであるが、柚葉と接点をもてたのが放課後であり、なにか放課後には見えざる、いや、人を魅惑的に惹き付ける何かがあるのかもしれない。これでオレンジ色に染まる夕陽が窓から射し込めば最高なんだが、外は季節外れの雪だった。
やれやれ、天候はきまぐれだ。
適当に時間を潰し、意味もなく雪が降る中校庭を二周し放課後を待った。柚葉は今日も進路面談で、教室に舞い戻ってくることは知っている。秋津の教室は三階にある。そこへ向かう為に軽やかな足取り、浮ついた気持ちというのが彼には認識できた。
が、二階から三階へ昇る間にある、平たいスペースで秋津は見てしまった。
柚葉と栗原がキスをしている場面を。栗原が秋津を背にし、柚葉の唇に触れていた。その時、柚葉の目が大きく開かれ、秋津と目が合い、手元にあるCDに目を落とした。
気づけば秋津は逃げるように階段を降りていた。いや、降りるしかなかった。最後に柚はが、「ちょっ」という声が聞こえたが、最後までは聞き取れなかった。期待したのが間違いだった。期待という以前に、そこまで仲良くはない。遠目で眺めているだけにしとけばよかったのだ。秋津が手に持っていたCDは、ゴミ箱の中に叩き付けた。
ああ、そういえば。と彼は思う。「アビーロード」というアルバムもポールがメンバーを団結させようとしたけど、結局は解散したんだっけ、と。
その日の雪は降り止むことなく記録的な豪雪を記録した。帰り道の秋津に涙とも雪ともとれるものが頬を伝った。