「ちょっと、あんたたち! こんな時になに笑ってるのよ!」


程なくして、広瀬の声が響いた。
彼女は、振り向いた信二の笑顔を見て空気を読んだらしく、どことなく安堵の表情を浮かべた。


「美乃ちゃんは?」

「大丈夫だよ。思ったよりも早く落ち着いたみたいだ。とりあえず、俺たちも病室に戻るか」

「そうだな」


信二の言葉に頷いて、病院の中に入った。
病室では、まだ眠ったままの美乃を彼女の両親が傍で見ていた。


「由加ちゃんまで……わざわざありがとう」


美乃の母親が広瀬に微笑み、俺に頭を下げた。


「ああ、ブーケ飾らなきゃね。枯れちゃう……」


棚の上にあるブーケに気付いた広瀬は、花瓶に活けた。
綺麗に飾られて棚の上に置かれた花は、まるで美乃の命のように誇らしげに咲いていた。


しばらく話をしたあと、俺と広瀬は先に帰ることにした。
帰りたくなかったけれど、ずっと病室にいるわけにはいかない。


「明日もまた来ます」


美乃の両親に頭を下げ、広瀬と一緒に病室を出た。
外は薄暗くなっていて、俺は思わず肩を竦めて身震いしてしまう。


広瀬は遠慮したけれど、彼女を家まで送ることにした。


「引っ越しの準備は捗ってるのか?」

「まぁね。私はひとりっ子だから、片付いた部屋を見たお父さんが寂しがっちゃって……。でも、案外私の方が寂しいかも……」


信二と広瀬はもうすぐ新居に引っ越すことになっているけれど、彼女は予想以上の寂しさに包まれているらしく、どこか複雑そうな笑みを零した。


「そうか……。でも、新しい生活が始まるんだもんな。頑張れよ」

「うん。送ってくれてありがとう」

「ああ、じゃあな」


ひとりきりの車内に少しだけ寂しさを感じながら、あえて遠回りをして家に帰った――。

翌日、仕事場に着いてすぐに親方にお礼を言った。


「昨日は無理言ってすみませんでした! でも、おかげでいい式が見れました。本当にありがとうございます!」

「なーに、気にするな! その代わり、今日からはまた死ぬ気で働いてもらうからな!」


親方は豪快に笑い、俺の背中をバシッと叩いて意地悪そうな表情を見せた。


「はい……」


「なんだなんだ! 男のくせにはっきりしねぇ返事しやがって! 俺はそんな風に育てた覚えはねぇぞっ!」


相変わらず大声で話す親方は、豪快な雰囲気に反して心なしか心配そうにしている。


「いや、すみません。ちょっと疲れてたんで……」


俺は煮え切らない返事をして、これ以上詮索されないように性急に作業を始めた。
親方は、そんな俺のことを怪訝な顔で見ていた。


親方の視線が気になってしまって、一日中ずっと監視されている気分だった。
息が詰まりそうな雰囲気の中で、ようやく仕事を終えた。


親方の視線を一日中感じていたから、今は少しだけ開放感がある。
それでも、まだ安心はできない。


「おい、ちょっといいか?」


その予想通り、帰ろうとしたところで親方に呼び止められてしまった。
こういう時の親方は厄介で、絶対に逃げることはできないと知っているから、俺はできるだけ自然な笑顔で振り向いた。


「なんですか?」

「……ちょっと付き合え」

「あの……俺これからまた病院に行くんで、あんまり時間なくて……」

「ああ、わかってる。そんなに時間は取らせねぇよ」


親方は俺の返事を聞く前にどこかに向かって歩き出し、俺は仕方なくそのあとについて行くしかなかった。

職場の近くにある小さな公園に着くと、親方はベンチに座った。
遊んでいた子どもたちがちょうど帰る時間帯らしく、公園はわりと静かだった。


「まぁ座れや」


俺はベンチに座り、遠くの方で沈み掛けている夕陽を見つめていた。
程なくして、ゆっくりと息を吐いた親方が口を開いた。


「お前、なに考えてる?」


親方は、俺のことをよくわかってくれている。
だからこそ、ここ最近の俺の様子が変だと気付いていたんだろう。


実は、俺にはずっと考えていたことがある。
だけど、最近になってやっと気持ちが固まったばかりで、それをまだ誰にも言っていない。


決意はしていたものの、なかなか言い出せなかった。
沈黙が続く中、親方がまた口を開いた。


「彼女のことだろう?」


まるで、俺のすべてを見透かしているかのような親方の一言で、決心をした。
まだ言うつもりはなかったけれど、どうしても今言うべきだと思ったから、俺は深呼吸をして親方を真っ直ぐ見た。


「単刀直入に言います」

「……ああ」


俺は拳をグッと握り、ベンチから立ち上がって頭を下げた。


「仕事を辞めさせてください!」


静かな公園に、俺の声が響き渡った。
気付けば辺りは真っ暗で、強い風が吹いている。


なにも言わない親方が、俺を緊張させる。
恐る恐る頭を上げると、親方は小さなため息をついて睨むように俺の目を見た。


仕事以外でこんな顔をする親方を、今までに一度も見たことがない。
自然と顔が強張って緊張が増し、風のうねりまでもが俺を責めるかのように体を冷たく吹き付けた。

「お前、自分がなに言ってるのかわかってんのかっ⁉」


自分の子どもを叱るように怒鳴った親方が、俺を諭そうとしているのがわかった。
だけど、俺は引けない。
今俺がするべきことは、一分でも一秒でも長く美乃の傍にいることだと思うから。


きっと、彼女はもう長くない。
それは、周囲の誰もが心のどこかで感じているだろう。


考えたくないけれど、逃げ出すことはできない現実だ。
だからこそ、俺は昨夜、もう絶対に迷わないと改めて自分自身に誓った。


そのためにも、親方にはわかってもらわなければいけない。
俺を息子のように可愛がり、仕事を教えてくれ、悩みがあると夜遅くまで話を聞いてくれた。


時には厳しく、時には優しく……。
豪快だけれど思いやりがあって、俺はそんな親方を心底尊敬している。


たとえ誰に反対されたとしても、親方にだけはわかって欲しい。
それが、俺の自分勝手で傲慢な願いだった。


「俺は認めねぇぞ!」

「でもっ……!」

「いいか⁉ 今お前が仕事を辞めて、これから先はどうするんだ⁉ 今は大丈夫でも、いずれまた働かねぇといけねぇ時が来るんだ! 世の中、そんなに甘くねぇ! お前はそんな当たり前のことも忘れちまったのか‼」


地を這うような低い声は、親方が本気で怒ってる証拠だ。
それでも、俺はもう仕事を辞めることしか考えていなかった。


「親方がなんと言おうと、俺は絶対に仕事を辞めます! 今そうしないと、一生後悔するんです!」

「バカやろうっ‼ 誰がここまで仕事を教えてやったと思ってる⁉ お前はその恩を仇で返す気かっ⁉」

「わかってます‼ 親方には本当に感謝してます‼ だからこそ、ちゃんとわかってもらいたいんです!」

「ふざけるなっ‼ そんな都合のいい話があるかっ!」


端から見たら、唖然とするような光景だろう。
俺たちの言い合いは続いた。

絶対に折れない親方と、絶対に折れる気のない俺。
話は、平行線のままだった。


だけど……親方だけにはわかってほしい。
俺は唇を固く結び、跪いたあとで両手も地面に付け、勢いよく頭を下げた。


「お願いします! どうしても……どうしても今じゃなきゃダメなんです!」

「バカなことすんじゃねぇ! お前にはプライドがないのかっ‼」

「たった今捨てました! “大切なもの”を守るために、俺に今必要なのはそんなものじゃないんですっ!」


俺の言っていることは、きっと支離滅裂だった。
それでも、必死だったんだ。


美乃の傍にいてあげたいんじゃない。
俺が傍にいたいんだ。


「俺はやっと大切なものを見つけたんです! 今ここで引き下がったら、俺は一生後悔しますっ!」


俺はゆっくりと顔を上げ、親方の目を真っ直ぐ見つめた。
親方も俺の目を射抜くように視線を逸らさず、そのまま沈黙が続いた。


「バカやろうっ……! 俺はもう知らねぇぞ! 勝手にしろっ!」


ベンチから立ち上がった親方の目には、うっすらと涙が浮かんでいる。


「すみませんっ……!」


俺はまた地面に頭を付け、精一杯の挨拶をした。
きっと、情けない格好だろう。


「今までお世話になりました! 本当にっ……ありがとうございましたっ!」

「後悔すんじゃねぇぞ……」


その言葉だけを残して立ち去った親方が、あんなにも必死に反対したのは、俺のことを本気で考えてくれているからだ
そしてわかってくれたのも、俺のことを本気で考えてくれているから。


大切にしなければならない人。
今は無理だけれど、いつかちゃんと恩を返す。


そう強く決意して、立ち上がった。
痺れた足に冷え切った手は痛く、そんな自分の体に苦笑を零し、擦れた額に手を当てて公園を後にした。

面会終了時間が迫っていたこととあまり汚れていなかったことで、今日はその足で病院に向かった。
病室に行くと、いつものように信二と広瀬が来ていた。


「昨日はお疲れ。お前ら、いつ来たんだ?」

「私は今さっきよ」

「俺は夕方からここにいるけど、美乃はずっと寝たままなんだ。しばらくは起きないかもな……。起こすか?」


控えめに訊いた信二に、首を横に振った。
美乃と話したいけれど、今はできるだけゆっくり寝かせてあげたい。


「コーヒーでも買ってくるよ」

「ああ」


美乃を起こさないようにロビーに行った俺は、自動販売機でコーヒーを買って、あとから来た信二と広瀬と同じ椅子に座った。
ふたりにコーヒーを渡して一口飲むと、ホットコーヒーから伝わる熱が冷え切った体を温めてくれる。


「ねぇ、染井。それ、どうしたの?」


ホッと息をついた直後、広瀬が俺の額を見ながら訊いた。


「……ちょっとな」

「なによ、それ」


広瀬は怪訝な顔をしながら、俺のことを見ていた。
今はまだ言いたくなくて、苦笑で濁す。


「まぁいいだろ」

「喧嘩でもしたの?」

「してないって!」

「……そうよね」

「当たり前だろ! 染井が喧嘩なんてするわけないだろ!」


見兼ねた信二も、わざとらしいくらいに明るく口を挟んだ。


「目立つわよ、そのおでこ……」


広瀬は諦めたのか、それ以上はなにも訊かずにコーヒーを飲んでいた。
いずれは言うつもりだけれど、とりあえず詮索されなかったことに胸を撫で下ろす。


信二はともかく、広瀬は反対するに決まっている。
それから一時間ほどロビーで過ごし、面会時間が終わる頃にもう一度病室に行った。

そっと病室のドアを開けると、奥から美乃が顔を覗かせた。


「ああ、起きたのか」


俺はにっこりと笑って、彼女の頭をポンポンと撫でた。


「うん。さっき内田さんから、みんなが来てくれてるって聞いて……。私、ずっと寝てたから……。ごめんね……」

「そんなこと気にしなくていいのよ、美乃ちゃん。それより、昨日はありがとう」

「体調はどうだ? 朝は親父たちも来たらしいけど、その時も寝てたんだってな」

「うん……。今日は一日中寝ちゃってたかな……。でも、おかげで元気になったよ」


美乃は、広瀬と信二の言葉に苦笑しながら答え、それから俺の顔をじっと見た。


「どうした?」

「どうした、は私の台詞だよ。どうしたの? そのおでこの怪我……」

「えっ? ああ、別に……」


俺はまた曖昧に答え、とりあえず笑って見せた。


「怪しい……」

「でしょ⁉ 私もそう思うんだけど、なにも言わないのよね!」


美乃が疑いの眼差しで俺を見ながら言うと、広瀬も大きく頷いた。


「あ〜……本当に大したことじゃないからさ」

「やっぱりなにかあったんじゃない」


俺の言葉で、美乃はなにか勘付いたらしい。
完全に墓穴だった。


「普通、そんなとこ怪我しないよ? 顔面から突っ込んで転んだなら、別だけど……」

「そう、それ! 今日の現場で顔面から突っ込んで転ん――」

「それ、嘘でしょう?」


しばらくは言うつもりじゃなかったけれど、彼女の疑いの眼差しが痛くて仕方なく話すことにした。


「実はな……」

「うん?」


美乃を見ながら、ゆっくりと深呼吸をする。


「仕事、辞めたんだ」


『狐につままれる』とは、正にこういうことだろう。
三人はしばらくの間、ただ呆然としながら俺の方を見ているだけだった。

「今、なんて言ったの……?」


最初に口を開いたのは、美乃だった。


「だから、仕事辞めたって言ったんだよ」

「いつ⁉」

「今日……むしろ、今さっきのことだよ」


彼女はようやくその意味を理解したらしく、動揺を見せた。
俺は、三人の視線を浴びながら冷静に話を始めた。


仕事を辞めるのは、前から考えていたこと。
そして、昨夜にその決意が固まり、さっき親方に頭を下げたこと。


「私の、せい……?」


美乃は、最後まで話した俺に悲しそうな眼差しを向け、今にも泣き出してしまいそうな声で訊いた。
俺は首を横に振って、優しく微笑みながら自分の気持ちを言葉にした。


「俺がそうしたかったんだ。だから、自分の意思で決めた」

「でも……」


泣きそうな顔の彼女が、俺の服の裾をギュッと掴む。


「美乃、聞いてほしい。これは、俺が望んだことなんだ。だから、絶対に美乃のせいじゃない」


俺は美乃の瞳を見ながら話し、彼女をそっと抱き締めた。
だけど……。


「どうして……? 私がもうすぐ死ぬから……?」


美乃は、そんな悲しい言葉を口にして俯いた。
そんなつもりはないと否定したいのに、心臓が掴まれたようにヒヤリとしたのは事実で、俺が仕事を辞めることはそれを意味するのかと感じた。


泣き出してしまいそうな美乃よりも先に、俺が泣いてしまいそうになる。
彼女を傷つけたことが、とにかく苦しかった。


そんな意味で仕事を辞めたわけじゃないし、美乃のせいでもない。
いつの間にか、俺の方が彼女から離れられなくなっていたんだ。


顔を上げた美乃は、瞳いっぱいに涙を溜めていた。


「俺は、美乃のことが好きだからっていうだけで、傍にいることを選んだんじゃない。俺が傍にいさせてほしいんだ。だから泣くな」


俺はやっとの思いでそれだけを言って、彼女の涙を指先でそっと拭った。

「いっちゃん……ごめんなさい……。私のせいで……」

「違う、美乃。そうじゃない」


涙で瞳や頬を濡らす美乃を、微笑みながら見つめる。


「俺が一秒でもたくさん美乃の傍にいたんだ」


しばらく黙っていた彼女は、瞳に涙を溢れさせたまま小首を傾げた。


「じゃあ、ありがとう……?」

「その方が嬉しいよ」


俺はにっこりと笑って、美乃の頭を優しく撫でた。


「そろそろ面会時間が終わるから帰るよ。明日も朝から来るから、またゆっくり話そう」


彼女はゆっくりと頷くと、俺の目を見て笑った。
さっきよりも落ち着いたのか、その面持ちは穏やかで、少しだけホッとする。


「俺らも帰るよ」


信二が言うと、広瀬も美乃を見ながら頷いた。
なんとなく気まずい空気のまま美乃をベッドに寝かせ、俺たちは三人で病院を出た。


「寒いな」


なにも言わないふたりの代わりに、俺が沈黙を破った。
外は思っていた以上に寒く、まるで真冬みたいだ。


「とりあえず、どっかで飯でも食おうぜ」

「そうね」


俺の言葉を聞いていない振りをした広瀬が信二が、勝手に話を進めてしまう。
ふたりの目が、拒否権はないと言っているのが、冷たい空気と一緒に伝わってきた。


「そこの居酒屋でいいよな?」


覚悟を決めた俺は、行き先を決めて歩き出したけれど、後ろから黙って付いて来るふたりに不安を覚える。
間違いなく反対され、『仕事を辞めるな』と言われるんだろう。


だいたい、仕事を辞めてこれからどうするんだよ……。


俺はまだ、少しでも長く美乃の傍にいることしか考えていなかった。
一般的には、ありえないくらいに浅はかで愚かな考えだと思う。


ただ、それもわかった上で、行動しているつもりだ。
誰になにを言われても引かないというのが、俺の意志だった。