「だけどね……さっき、信二に怒られちゃったのよ」
広瀬のその言葉で、ゆっくりと速度を落としていった。
きっと、信二もショックを受けたに違いない。
広瀬と美乃が仲がいいことをいつも自慢していたのに、広瀬がずっとそんな風に思っていたなんて知って、信二はつらかったに決まっている。
美乃と信二のことを考えると、胸の奥がズキズキと痛んだ。
「言い訳になるかもしれないけどね……。私は今でも『美乃ちゃんの病気は治る』って、心のどこかで信じてるのよ」
広瀬は、ミラー越しに俺の瞳を真っ直ぐ見つめた。
今まで黙っていた俺は、彼女と目を合わせながらゆっくりと口を開いた。
「……どうして、そんなこと思えるんだよ?」
鼻の奥にツンとした痛みが走って、慌ててミラーから視線を外す。
夕陽が眩しいけれど、今は必要以上にミラーを見たくなかった。
俺は無言のまま、広瀬の答えを待っていた。
彼女は今にも泣き出してしまいそうな声で、ゆっくりと言葉を紡いでいく。
「美乃ちゃんは、『二十歳まで生きられない』って言われてたけど、今は二一歳よ。でも、ちゃんと生きてるじゃない……。だから……私は先生の診断なんかじゃなくて、美乃ちゃんの生きる力を信じたかった。……ううん、今でも信じてる」
震える声で落とされた本心に、喉の奥が熱くなった。
「だから、願掛けをしたのよ。私は信二と一緒にいられるのなら、結婚なんてただのオプションでしかないの。それより美乃ちゃんが生きていてくれる方が、ずっとずっと大事だったのよっ……!」
広瀬の気持ちは、俺にだってわからなくはない。
実は、俺も美乃のことを好きだと気付いてから、こっそり願掛けをしていた。
一日に一箱吸っていたタバコを、ぴたりとやめた。
『それが美乃への愛情だ』とか言うつもりはないけれど、願掛けに本数を減らそうとしたら吸う気にならなくなったんだ。
もともと、美乃の前で吸うことは一度もなかったし、禁煙くらいで彼女の病気が治るなんて本気で思っているわけじゃない。
だけど、なにかに縋り付きたくて、タバコをやめた。
無意味だとわかっていても、とにかくなんでもよかった。
理由を付けて、美乃が少しでも長く生きていてくれるようにと、そう願っていた。
「確かに、私のやり方は間違ってたのかもしれない。だけど、願掛けしたことは後悔してない。だって、この子は……この子は私の大切な妹なんだからっ……!」
広瀬は再びミラー越しに俺の瞳を見つめ、しっかりとした口調で言い切った。
唇を噛み締める彼女が、涙を流しながら俺を見ている。
さっきまでは広瀬を憎みたい気持ちでいっぱいだったのに、今はもうなにも言えなくなってしまった。
「いつか……いつか美乃ちゃんと一緒に、結婚式を挙げたかったのよ……」
最後にそう言った彼女の言葉が、嘘じゃないとわかっていたから。
「もういいよ、由加……」
俺がなにも言えずにいると、ずっと黙っていた信二が切なげに微笑んだ。
「悪いな、染井……。わかってやってくれとは言わないけど、こいつを責めないでくれ……。俺にとって美乃は大切な妹だけど、それと同じくらい由加も大切な恋人なんだよ。こいつがいなかったら、俺はここまで頑張ってこれなかった……」
信二の言葉で、このふたりがずっと一緒にいる意味がわかった気がした。
美乃の病気が治らないと知り、絶望を見た信二。
そんな信二を支えていたのは、きっと他の誰でもなく広瀬だ。
広瀬は信二を支え、そしてきっと美乃のことも支えてきた。
三人の間には俺の知らない時間があって、きっといくつもの試練を乗り越えてきたはずだ。
信二に言われなくても、俺には広瀬を責めることなんてできなかった。
俺が彼女に言うべきことは、たったひとつだけしかない。
「ありがとう……」
小さく、だけどはっきりとその言葉を声に出すと、広瀬は俯いてますます泣いた。
信二は彼女の肩を抱きながら、ずっと窓の外を見ていた。
それから病院に着くまでの間、俺たちが言葉を交わすことはなかった。
夕陽に照らされながら助手席で眠る美乃が悲しげに見えて、俺はそんな彼女から目を背けるように、運転に集中していた。
さっきまでの幸せな時間と、これから待ち受けている現実。
頭の中を過ぎる不安が俺を崩れさせてしまいそうで、美乃をこのままどこかに連れ去ってしまいたいと思った。
そんなことは絶対に無理だと、ちゃんとわかっている。
今までこんなことはなかったのに、俺は彼女と付き合い始めてからやけに脆くなったみたいだ。
だけど、こんな気持ちを美乃には絶対に知られたくない。
俺が彼女を支えていたいんだ。
病院に着くと、駐車場に車を停めて美乃を起こした。
夕陽で眩しいのか、それともまだ眠いのか、彼女は少しだけつらそうに目を開けた。
病室に戻ると、菊川先生と内田さんがすぐにやってきた。
「楽しかったかい? 体調は大丈夫だった?」
「うんっ! すごく綺麗で、自分が病気だってこと忘れちゃいそうだったよ!」
「そっか。僕も一緒に行きたかったよ」
先生は体温や血圧を測り、美乃を診察している。
「血圧も脈も問題ないけど、微熱気味だね……。どこかだるいかい?」
「ううん、平気。きっとさっきまで眠ってたから、ちょっと熱が高くなっただけだよ」
「じゃあ、夕食のあとに点滴をしようね。今日はゆっくり休んで」
「またあとで様子を来るわね」
菊川先生と内田さんはそう言い残し、病室から出ていった。
「大丈夫か?」
「うん!」
俺の心配を余所に、美乃は笑顔で頷いた。
「着替えるね」
美乃はパジャマを出し、ベッドに乗ってカーテンを閉めた。
「手伝ってやろうか?」
「いやいや、兄ちゃんが……」
「バカッ‼ ふたりとも変態っ‼」
からかう俺と信二に、彼女がカーテン越しに怒った。
「美乃ちゃん、私が手伝うよ!」
広瀬は、そっとカーテンを開けた。
美乃はパジャマに着替えてメイクを落としたあと、広瀬に髪を洗ってもらっていた。
「髪、乾かしてやるよ」
「自分でできるよ?」
「いいから貸してみろ」
ドライヤーを受け取って、彼女の髪に触れる。
温風に靡く髪から漂うシャンプーの香りが鼻をくすぐるようで、髪に触れるのが心地好かった。
「やだ、なにこれ⁉ ボサボサじゃない!」
「そんなことないだろ? いつもと一緒だって!」
「全然違うよっ!」
美乃が頬を膨らませながら拗ね、恨めしげにしていた。
それでも、俺に髪を乾かしてもらったことが嬉しかったのか、彼女は不満を口にしながらもそのまま過ごしていた。
そんな姿を見て、無性に嬉しくなった。
夕食が運ばれてくる前に信二と広瀬と病室を出て、そのまま三人で夕食を食べに行くことにした。
場所は、高校生の時によく行ったファーストフード店だったけれど。
ハンバーガーを食べながら、俺たちは昔話に花を咲かせた。
高校時代の先生のこと、バカな思い出や修学旅行の話といった、他愛もない話で盛り上がっていた。
こうして過ごしていると学生時代に戻ったようで、なんだか懐かしさが込み上げてくる。
だけど、美乃はごく普通の学生生活を送ってこられなかったんだと思うと、ほんの少しだけ切なさを抱いてしまった。
しばらく話したあと、俺は思い切ってさっきからずっと考えていたことに触れた。
「お前ら、結婚してもいいんじゃないか?」
ふたりが目を見開いて顔を見合わせたあとで、困惑気味な表情で口を閉ざした。
「美乃にとって……たぶん、ふたりは憧れなんだよ。だからあいつ、あんなこと言ったんだろ」
「……さっきも言ったでしょ? 私はまだ自信がないの」
広瀬は、さっきと同じ言葉できっぱりと否定した。
「まぁ、お前らの問題だし、俺が口出しすることじゃないけど……。ただ……俺は、お前らの結婚式を早く見たいって思ったんだ。美乃もたぶん……」
そこまで話して、小さな笑みを浮かべた。
信二と広瀬ならこれ以上は言わなくても伝わるってことを、わかっていたから。
「俺は明日早いし、そろそろ帰るよ! 送ろうか?」
車の鍵を見せると、ふたりとも首を横に振った。
「悪かったな……。じゃあな」
信二と広瀬を残して店を出て、車に乗った。
静かな車内をやけに広く感じながら車を走らせ、コンビニに寄ってから帰宅した。
その夜、俺は湯舟に浸かりながらある決意をし、すぐにそれを実行した。
脱衣所で髪を拭きながら、洗面台の鏡に映る自分を見る。
また、あいつらにバカにされるな……。
そこに映る自分は久しぶりに見る姿で、懐かしいような照れ臭いような気分になった。
心の中で零した独り言とは裏腹に、満足していた。
上半身は裸のまま冷蔵庫から水を取り出し、それを一気に飲み干した。
渇き切った体が、ゆっくりと潤っていく。
そのままベッドに潜り込み、すぐに眠りに就いた。
この日は、美乃と過ごす未来の夢を見た。
十年後も変わらず、俺の隣で優しく笑う彼女。
美乃の病気は完治し、俺たちは結婚して子どももいた。
男の子か女の子かはわからなかったけれど、彼女に似て本当に可愛いかった。
夢の中の美乃は、まるで今日の写真のように、俺にずっと微笑みかけていた――。
翌日は早朝から仕事に行き、重い体で一日を乗り切った。
作業でドロドロになった体で病院に行くわけにはいかないため、ひとまず帰宅する。
シャワーを浴びて服を着替え、身だしなみを整えてから家を出た。
火照った体に冷たい風が触れるのを感じながら、夕陽に染まる道をゆっくりと歩いた。
家から病院までは十分も掛からないけれど、病院に着く頃にはすっかり夕陽が沈んでいた。
この時間なら、美乃は夕食を終えてテレビを観ているはずなのに、ノックをしても返事がなかった。
「美乃? 入るぞ?」
一応声を掛けてからドアを開けて奥に入ると、彼女はベッドで眠っていた。
きっと、昨日の疲れが残っているんだろう。
ベッド脇にある椅子に腰を下ろし、美乃の寝顔を見ていた。
透き通るような白い肌は今にも消えてしまいそうで、恐いくらい綺麗だった。
このままずっと、美乃の寝顔を見ていたい。
だけど……もしかしたら美乃はもう目が覚めないんじゃないかと、急に不安になってしまった。
ゆっくり寝かせてあげたいと思う反面、不安のせいで早く目を覚ましてほしいと考ええしまう。
自分の中の矛盾した思いを押し込め、眠っている美乃の髪に触れながら、早く起きてくれとずっと願っていた。
「ん……」
「ああ、ごめん……。起こしちゃったな」
申し訳なさを抱くよりも、美乃が瞼を開けたことに安堵する。
「……いっちゃん、来てたの。起こしてくれたらよかったのに……」
「いびきかいてる美乃が珍しかったから、起こすタイミングがなくてさ」
「えっ⁉ 嘘っ⁉」
「ははっ! 嘘だよ」
「もうっ‼」
俺は、さっきの不安を彼女に悟られないように、明るく振る舞って誤魔化した。
「あれっ⁉ その髪、どうしたの⁉」
改めて俺を見た美乃は、目を大きく見開いてポカンとした。
さっきの不安ですっかり忘れていたけれど、彼女の言葉で昨夜実行したことを思い出す。
「急にどうしたの? あっ……! もしかして……」
美乃は昨日のことを思い出したらしく、次の瞬間から肩を震わせて笑い出した。
「おい……」
「ごめん、ごめん! ぷっ……!」
恥ずかしがっている俺を見て、ますます笑いが止まらなくなったらしい。
彼女は肩を震わせながらもなんとか堪えようとしているみたいだけれど、お腹を抱えて笑い続けていた。
「はぁ〜、本当におかしい……。それで、その髪どうしたの?」
「わかってるくせに、いちいち訊くなよ……」
しばらくして、吉野がようやく落ち着きを取り戻した。
瞳に涙を浮かべたままの彼女に、大きなため息を返す。
昨夜、俺は風呂で髪を黒く染めた。
理由はもちろん、昨日の車内での出来事しかない。
美乃の父親が『茶髪=ヤンキー』だと認識しているんだと知って、ずっと気になっていた。
俺の髪は、昨日まで金髪に近い茶髪だったけれど、自分をヤンキーだと思ったことは今まで一度もない。
正直に言うと、茶髪だけでヤンキーなんていう考え方自体が、信じられない。
それでも、他人からの第一印象があまりよくないことは、ちゃんとわかっている。
人目を気にしたことはあまりないとは言え、相手が恋人の父親となると、いくら俺でも話は別だった。
だから、俺は高校に入学して以来ずっと染めていた髪を、思い切って黒に戻したんだ。
今日は、職場でも散々からかわれて来た。
自分でも変な感じだし、鏡に映る姿を見るとまるで自分じゃないみたいだ。
だけど、後悔はまったくしていない。
「職場でも散々からかわれたよ……」
「みんな、びっくりしてたでしょう?」
「ああ。もう十年くらい茶髪だったし、最近はどんどん明るくなってたからな……。俺だって、自分の行動にびっくりしてるよ」
「私だって、びっくりしたんだよ? まだ夢の中かと思っちゃった!」
「まだ夢かもよ?」
「そうかもね」
「確かめてみる?」
「え?」
俺は右手を伸ばし、楽しそうに笑っていた美乃の左頬にそっと触れた。
一瞬ピクッと反応した彼女が、少しだけ顔を赤らめた。
指先から、美乃の熱が伝わってくる。
左手で柔らかい髪に触れながら顔を近付け、彼女の唇をそっと塞いだ。
軽く唇を食んだ、甘いキス。
おもむろに唇を離して微笑み合ってから、もう一度キスをした。
今度は舌を絡めた、深いくちづけ。
甘くて、ほんの少しだけ切ない時間が流れた。
「夢じゃなかった?」
何度もキスを交わしたあと、顔を離して悪戯な笑みを浮かべた俺に、美乃がはにかんだように小さく頷く。
「なんなら、もう一回試してみるか?」
冗談半分でからかうと、彼女が恥ずかしそうに俯いた。
そんな可愛らしい姿に、思わず笑ってしまう。
その直後、俺の唇が甘い香りで塞がれた。
ほんの一瞬の出来事に呆然としていると、さっきまで照れていたはずなのにクスッと笑われてしまった。
やっぱり、美乃には敵わない。
嬉しさと照れ臭さを隠すために、また彼女にキスをした。
加速していく、止まらない想い。
俺の心は、美乃に支配されていく。
苦しいような悲しいような、甘くて切ない恋。
まるで吸い込まれるように、どんどん落ちていく。
だけど……美乃は、あとどれくらい生きられるんだ……?
甘い時間を過ごしていても、ふと脳裏に不安が過ると、一瞬で心が恐怖に襲われてしまう。
その夜は、なかなか寝付けなかった――。
*****
本格的に秋が深まり始めた頃、久しぶりに信二と広瀬に会った。
ふたりと会うのは、水族館に行った日以来だ。
あの時の事を思い出すと気まずさもあったけれど、俺たちはお互いに普通に接した。
信二と広瀬は、早々に俺の髪の色をからかってきた上、ふたりは理由を知ってるから大爆笑した。
「美乃から聞いてたけど、本当に真っ黒だな〜! 高校から茶髪だったから、黒髪なんて染井じゃないなー! ぶっ……ありえねぇっ!」
「ほーんと! 美乃ちゃんのおかげで、珍しい染井がいっぱい見れちゃう! この間の車の中の事といい……。ぷっ……!」
信二と広瀬があまりにも騒ぎ立てたせいで、内田さんに怒られてしまった。
なぜか頭を下げる羽目になった俺は、疲れ切って深いため息を漏らす。
程なくして、ようやくふたりが落ち着き、病室には静けさが戻った。
「そういえば、パパもびっくりしてた! この間、会ったんだよね? 『髪の色が違ったから誰かわからなかった』って、目を丸くしてたよ」
「ああ。俺もあんな時間に会うと思ってなかったから、びっくりしたんだ。挨拶しかできなかったけど……」
仕事の昼休みを利用して病院に来た時、たまたま美乃の父親に会った。
一瞬だけ不思議そうな顔をしていたからそうだとは思っていたけれど、髪を黒く染め直したくらいでそんなにわからないものなんだろうか、と首を傾げたくなる。
「パパは、今の方がいいって言ってたよ!」
とりあえず、印象は悪くなかったみたいだ。
美乃の父親が言う『ヤンキー』の枠から外れたことに、ひとりで安堵した。
「あのさ、ちょっと話があるんだけど……」
「なんだよ、急に……」
その直後、唐突に改まった信二からただならぬ雰囲気が伝わってきた。