伊織と会えなくなって体調はどんどん悪くなっていったけど、私は心のどこかでホッとしてた。
この時は、毎日死と隣り合わせで生きることに本気で疲れてたから……。
正直に言うと、『早く死にたい』とまで思ってた。
だけど……そんな私の気持ちを、伊織は掻き消してくれた。
伊織が、私のことを好きって言ってくれたから。
あの時は本当に嬉しくて、伊織に抱き着きたかった。
でも、私は『もうすぐ死ぬのに恋なんてしない』って、頑なに首を横に振ってたよね。
弱くてごめんね。
きっと、伊織のことをいっぱい傷付けちゃったね……。
だけど、それでもめげずに私に会いに来てくれる伊織への気持ちを、少しずつ誤魔化せなくなっていった。
何日も悩んだけど、どうすればいいのかわからなくて、結局私は意思を曲げなかった。
身勝手な私は、伊織の優しさに甘えて、できるだけラクな道を選ぼうとしてたの。
それなのに、伊織があの桜の木の下で私の誕生日を祝ってくれた時、もうこの気持ちは隠せないと思った。
伊織になら、弱い私も見てほしいと思えたの。
伊織と付き合ってから、私の人生は変わっていった。
『生きたい』と強く思うようになって、伊織のことをどんどん好きになっていった。
自分でも加速していく想いを止められなくて、時々すごく恐くなったりもしたけど、それ以上に幸せだったよ。
伊織と一緒にいられるのなら、どこに行ってもなにをしても楽しかった。
それがたとえ病室でも、私は嬉しかったの。
伊織の家に泊まった時、ずっと落ち着かなくて緊張でいっぱいだった。
それでも、伊織のことが愛おしくて堪らなくて、伊織に抱かれたあの夜、私は『このまま死んでもいい』と本気で思ったの。
『伊織に抱かれながら死ねたら恐くない』って思えたから……。
私は、あの時が一番幸せだったのかもしれない。
でもね……伊織は優しいから、私を忘れられないことでたくさん苦しむかもしれないよね。
もしかしたら、毎日泣いてるかもしれない……。
伊織はいつも、私のお願いを叶えてくれたよね。
だから、『私にできることはなにかな』って考えてみたけど、死んでいく私にできることなんてやっぱりなにもないのかな……。
だからね……もし伊織が、『苦しくて苦しくてもうどうしようもない』って思ってるのなら、私のことは忘れていいからね。
本当はちょっとだけつらいけど、伊織にはたくさんの愛情をもらったからもう充分です。
悲しんで前に進めないのなら、私のことは忘れてください。
“美乃は存在しなかった”
そう思ってくれていいから……。
だけど、これだけは知ってて。
私は、幸せだったよ。
もしいつか生まれ変わって長生きできたとしても、そこに伊織がいなければ私はきっと幸せにはなれない。
私が私じゃなければ伊織と出会えないのなら、私は生まれ変わってもまた久保美乃になりたい。
たとえ今よりも重い病気になったとしても、ね。
だから、もし……伊織が私のことを忘れないでいてくれたら、私はちょっとだけ期待してもいいかな?
伊織も、『私と出会えて幸せだったって思ってくれてる』って、思ってもいいよね?
そして、その時はあの約束も果たしてくれるかな?
あの桜の木の下ではもう無理だけど、きっと天国にもソメイヨシノはあると思うから……。
今度会えたら、そこでまた私の誕生日を祝ってくれる?
そう信じて、待ってみてもいいですか?
こんなの、やっぱり自分勝手かな……。
最後になったけど……。
私は伊織に愛されて本当に幸せだったから、伊織にはいっぱい感謝してるんだよ。
だから、私は最期までちゃんと笑顔でいるからね。
伊織もちゃんと前を向いて、笑って生きてください。
本当にありがとう。
精一杯の愛をこめて――。
From 美乃
*****
「……っ!」
目の前がぼやけて、視界いっぱいに広がる便箋の文字が滲んでいく。
堪える余地もなく瞬く間に溢れ出した熱のせいで、もうなにも見えない。
ああ……俺はなんて身勝手で、美乃はどこまで優しいんだ……。
「くっ…………っ、ふっ……っ!」
堰を切ったように溢れ出した涙は留まることを知らないのか、あとからあとから零れ落ちていく。
俺は信二がいることも忘れて、声も殺さずに泣いていた。
美乃が亡くなってから、一ヶ月半。
俺が初めて見せた涙だった。
失ったはずの感情は、まだちゃんと俺の中にあった。
俺の壊れた心は、彼女がそっと癒してくれた。
泣かないことで必死に現実から逃げていたのかもしれないけれど、美乃の死をやっと認められた気がした。
拭うことすらできない涙が涸れるまで、ただただ夢中で泣き続けた。
「あいつ……バカだよな……」
しばらくして掠れた声で呟くと、無言で窓の外を眺めていた信二がゆっくりと俺を見た。
「自分の方がつらいのに……俺のことなんか心配して……」
「そういう奴なんだ……。俺の自慢の妹だからな!」
信二は一度目を伏せ、明るくニカッと笑った。
「ああ……。いい女だよ……」
俺は、あの写真に写る純白のドレスを着た美乃に微笑み掛け、噛み締めるように続けた。
泣いたことですっきりしたのか、不思議と心が穏やかだった。
「俺の最高の女だ……」
「そうか……」
封筒を見つめていると、信二が「なぁ」と言って笑った。
「もうひとつ、お前の最高の女からの伝言だ」
「え……? 今度はなんだよ?」
「『テレビの後ろを見ろ!』ってさ」
泣き過ぎた顔で笑うと、信二は満面に笑みを浮かべた。
テレビの後ろ……? どうしてそんなとこ……。
よくわからなかったけれど、美乃からの伝言ならばと、言われた通りにテレビの後ろを見た。
そこはしばらく掃除をしていないから、埃っぽい。
ふと視線を落とすと、小さな紙袋があった。
目を見開き、見覚えのないそれに手を伸ばす。
埃を被った紙袋には見覚えのあるロゴが入っていて、間違いなくあのジュエリーショップの物だった。
そこには、封筒と小さな箱が入っていた。
とりあえずリボンを外して、そっと箱を開けた。
中に入っていたのは、シルバーリングのネックレス。
リングの裏になにか彫ってあることに気付き、箱から出してリングの裏側を見た。
刻まれていたのは、あのノートの表紙と同じ言葉。
【One's darling】
意味は……【最愛の人】、か……。
今度は封筒を開け、小さなカードを取り出した。
桜の花びらのような淡いピンク色のそれには、美乃らしい綺麗な字が並んでいる。
―――――――――――――――
Merry X'mas!
ねぇ、いっちゃん。
私、あなたと出逢えて、
本当によかった。
とても幸せでした。
あなたは、
ちゃんと幸せだった――?
―――――――――――――――
カードを読んだあと、ネックレスを着けた。
鎖骨の辺りで揺れたシルバーリングの感触はひんやりとしているけど、なんだか心地好い温もりを感じた。
ありがとう……。
リングをギュッと握り、心の中で美乃にお礼を言った。
「そんなもんいつ買いに行ったんだろうな。由加もなにも言ってなかったし」
不意に、信二が首を傾げた。
同じ疑問を感じて記憶を手繰り寄せた俺は、程なくしてふっと笑みを零した。
「きっと、外泊の日だよ。『映画が観たい』って言われて映画館の近くまで行ったんだけど、渋滞してて……。美乃が『ひとりで様子を見に行く』って言って車から降りたんだけど、なかなか戻って来なかったんだ」
「へぇ」
「俺が電話で『映画館まで迎えに行く』って言ったら、美乃は強引に電話を切ったんだけど……きっと、このためだったんだろうな」
「あいつもお前になにかしたかったんだよ」
「でも、俺がもっと早くに見つけてたら、どうするつもりだったんだ?」
その状況を想像して苦笑すると、信二が得意げに笑った。
「俺も同じ心配したんだけど、あいつ『それは絶対に大丈夫』って言ってたぞ! 『伊織はあんまり掃除しないみたいだったから、テレビの後ろなら見つからないよ! メッセージもそのつもりで書いてきたもん。だから、お兄ちゃんが教えてあげてね』って」
確かに、クリスマスプレゼントなのに、メッセージは過去形だった。
クリスマスはここで俺と過ごしたのに、これは美乃が亡くなるまで見つからない予定だったんだろう。
実際、俺は今まで知らなかった。
なんだか急におかしくなって、口元が緩んだ。
「ははっ……! やっぱり、美乃には一生敵わないな」
そう言った俺の心には、穏やかで優しい光が射し込んでいた――。
翌日はいつもよりも早く起きて、ランニングを熟した。
美乃がいなくなってからずっと、まるでモノクロのような色のない世界で生きてきた。
だけど、今日からは違う。
俺は、もう大丈夫だ。
俺の好きな朝の景色が、綺麗に色付いて見える。
今日はきっと、今までで一番気持ちのいい朝だ。
ランニングのあとはいつも以上に朝食を食べ、急いで職場に向かった。
現場にはまだ親方の姿しかなく、深呼吸をしてから力いっぱいの声で言葉を紡ぐ。
「おはようございますっ‼」
勢いよく顔を上げた親方の目は見開いていたけれど、親方はすぐにニカッと笑った。
「おうっ! やけにいい顔してんじゃねぇか!」
「はいっ!」
「その分だと、もう大丈夫みたいだな!」
ずっと心配してくれていた、親方。
胸いっぱいの感謝の気持ちを込めて、頭を深々と下げた。
「心配掛けて、すみませんでしたっ‼ 今日からまたお願いしますっ‼」
「当たり前だっ‼ 今まで、誰がお前の分まで動いてたと思ってんだ⁉ 今日からしっかり埋め合わせしてもらうからな! 覚悟しとけっ‼」
「はいっ‼」
笑顔で返事をし、親方に背を向けて作業の準備を始めた。
「やっと、泣けたみてぇだな……」
「へっ? なにか言いました?」
「お前だけ今日から毎日残業だ、って言ったんだよっ‼」
聞き取れなくて首を傾げると、親方は意地悪そうに笑ってから俺に背を向けた。
仕事を辞めた時も、また仕事に復帰した時も、親方はずっと俺のことを見ていてくれた。
俺のことを心から心配して本気で叱ってくれた親方の背中に、俺はもう一度頭を深く下げた――。
数日後ーー。
美乃の誕生日を祝ったあの公園に行き、ソメイヨシノの木の下で足を止めた。
ここに来るのは、あの日以来。
あの時のことは、まだ鮮明に記憶に残っている。
ふと見上げると、桜の蕾が少しだけ膨らんでいることに気付いた。
きっともうすぐ咲くんだろうと思うと、なんだか懐かしい気もした。
まだ寂しさは埋まらないし、悲しみも癒え切っていない。
それでも、心に刻まれた傷は優しい思い出と彼女からのラブレターに少しずつ塞がれていくようで、もう大丈夫だと思える。
ソメイヨシノにそっと触れ、瞼を閉じて耳を澄ませた。
まだ少しだけ冷たさを孕んだ風が、頬を撫でていく。
太陽の光が、木々の隙間から射し込んでいる。
そんなことを肌で感じながら、最愛の人の名前を囁いた。
「美乃……」
刹那、柔らかな風が吹いた。
聞こえるはずのない返事が聞こえて来る気がしたのは、気のせいなんだろうか。
ガラにもなことを思いながら目を開けて、ソメイヨシノから手を離した。
「まだ少し早かったな……。お前の誕生日に、また来るよ」
俺は微笑みながら告げて、ソメイヨシノに背を向けた。
そして、美乃との思い出の道をゆっくりと歩き出した――。
なぁ、美乃……。
美乃はちゃんと幸せだったと、俺は信じることにするよ。
だけど、きっと本当に幸せだったのは、俺の方だと思う。
俺は美乃と出会って、本気の恋愛をしたんだ。
美乃を失うと思った瞬間、俺は自分の気持ちに気付いた。
美乃を手に入れた時、本当に嬉しくて堪らなかった。
美乃を抱いた夜、このまま一緒に消えてしまいたいと思った。
美乃を失った時、俺はあまりにも苦しくて、悪くもないお前を憎んだ。
どうして俺を置いて逝くんだ、って思ったんだ……。
だけど、美乃はちゃんとわかってたんだよな。
俺の壊れた心を癒してくれたのは、もうこの世にいないはずの美乃だった。
美乃……。
ソメイヨシノの木は、もう見つけたか?
あともう少しだけ、そこで待っててくれないか。
寂しいかもしれないけど、俺との思い出があるだろ。
そういえば、『思い出は全部持っていく』って言ってたのに、結局残してくれたな。
お前からの“最後のメッセージ”、ちゃんと受け取ったよ。
ありがとう――。
ねぇ、いっちゃん。
私、あなたと出逢えて、
本当によかった。
とても幸せでした。
あなたは、
ちゃんと幸せだった――?