「美乃……?」


力が抜け切って重いのかすらもわからない足を、一歩ずつ前に踏み出した。


「美乃……。……こんなとこで、なにしてるんだよ……?」


美乃の前で立ち止まって、ゆっくりと手を伸ばした。
滑らかな彼女の頬に触れた刹那、指先から伝わってきたのはあまりにも冷たい感触だった。


ああ、そうか……。


美乃は死んだんだ……と、ようやく頭が理解した。


目に映る光景はぼんやりとしたままなのに、頭の中は妙に鮮明だった。
それでも、まだ俺の目から涙は出ない。


悲しみの限界を超えたのか……。それとも、別に悲しくないのか……。
自分でも、理由はわからない。


美乃が生きている時には、何度も何度も泣いたのに……。一番つらいはずの今、俺の涙は零れなかった。
彼女の冷たい頬に触れながら、震えそうになる唇を動かす。


「お前さ……今年の誕生日には一緒に桜見に行く、って言ったよな……。なぁ、約束しただろ……?」


こんなにも愛おしくて堪らないのに、今はなにも言わない美乃が憎く思えてしまう。


「俺を置いて、っ……逝くなっ……! 俺を……ひとりにしないでくれっ……!」


それ以上、言葉は出てこなかった。
俺が声を発するほどに、彼女のことを傷付けてしまいそうだったから。


まるで眠っているかのような表情の美乃の髪をひと撫でし、そっと顔を近付けて塞いだ唇は冷たいだけでなにも感じない。
俺たちの最後のキスは、悲しくて冷たいキスだった。


ゆっくりと彼女から離れて、立ち尽くしたままの信二を見た。
静かに「さっきは、ごめん……」とだけ言い残し、霊安室を後にした。


病院の入口で美乃の両親に会ったけれど、言葉は交わさなかった。
とにかく病院から離れたくて、行く宛もないのに彷徨うようにフラフラと歩いていた――。