「今日はどうしたい?」

「う〜ん……」

「ずっと家にいてもいいけど、せっかくだからどっか行くか? 誰か誘ってもいいぞ。信二たちは仕事だけど、友達とか」

「ううん、今日は伊織とふたりがいい」

「わかった。じゃあ、なにがしたい?」

「別になにもしなくてもいいよ? 私は伊織といたいだけだもん」


無理に出掛けることはないけれど、いつもファッション誌やカフェを特集した雑誌を眺めている美乃は、きっと行きたいところがたくさんあるだろう。
外出の時には難しい場所も、今日はきっと連れて行ってあげられる。


「体調が悪いなら別だけど、遠慮しなくていいぞ? 買い物は? 今日は平日だから、たぶん空いてるだろうし」

「そうだな……。じゃあ、少しドライブしてカフェでお茶したい! それでもいい?」

「当たり前だろ。じゃあ、準備するか」

「うん!」


先に支度を済ませた俺は、美乃を部屋で待たせたまま車をアパートの前に移動させ、エアコンを入れた。
車内が温まるのを確かめてから部屋に戻り、彼女を呼びに行く。


「準備できたか?」

「うん!」


俺たちは車に乗り込み、適当に車を走らせた。


「どんな店がいい?」

「お店は決めないで、可愛いカフェがあったらそこに入る、っていうのはどう?」

「じゃあ、良さそうな店を見つけたらすぐ言えよ」

「うん!」


それから三十分くらいした頃、美乃が声を弾ませた。


「いっちゃん、あそこがいい!」

「どこ?」

「ほら、信号の傍にある青い看板のところ!」


指差された道路沿いのカフェの駐車場に車を停め、彼女と中に入った。

「わぁ〜、可愛い!」


店内は可愛らしく飾られていて、美乃が好きそうな店だった。
俺には少しばかり居心地が悪いけれど、彼女が喜んでくれたことが嬉しい。


「好きな物頼んでいいぞ」


笑顔でメニューを差し出すと、美乃が悔しげに笑った。


「朝ご飯食べ過ぎちゃった……。せっかくだけど、ケーキは無理かな……」


そんな風に言っていたはずの彼女は、散々迷った末にケーキと紅茶を注文していた。


「伊織はやっぱりコーヒーだけなんだね」

「ケーキはもういいよ。昨日食ったあと、気持ち悪くなったし」

「それは食べ過ぎだよ! ふたりで全部食べちゃったんだもん!」


心底げんなりして眉を寄せた俺に、美乃が楽しげに笑った。
彼女は運ばれて来たケーキを嬉しそうに眺めながら写真を撮り、満足そうにスマホを見た。


「由加さんにあとでメールしちゃおっと! あ、ついでにお兄ちゃんにもメールしておこうかな」


その様子を見ながら、つい腕時計に視線を落としてしまう。
夕食までに病院に戻ることが、菊川先生との約束だ。


まだ時間はあるけれど、あまり長時間の外出をすると美乃の負担が大きくなってしまう。
そのため、1時間くらいでカフェを後にして、そのまま俺の家に帰ることにした。


「疲れてないか?」

「平気だよ!」


彼女は薬を飲んで笑みを見せると、体温を測り始めた。
昼過ぎの今、病院でも検温する時間だ。


「うん、平熱。ね、大丈夫でしょ?」


得意げに笑った美乃が、俺にギュッとしがみついた。


「ああ、よかったな」

「うん!」

「なにかしてほしいことがあったら言えよ?」

「もうなにもないよ」


彼女は首を横に振ったあと、ふわりと破顔した。

幸せな時間は本当に過ぎるのが早くて、タイムリミットは刻一刻と近付いていた。
時間が経つに連れて、美乃の表情が少しずつ悲しみを帯びていく中、俺はせめて自分だけでもと思い、ずっと必死に笑っていた。


「そういえばさ、昨日どんな夢見たんだ?」

「夢……?」

「ああ。寝言で俺のこと呼んでたから、どんな夢だったのかと思ってさ」

「え〜っ、全然覚えてないよ」

「そうか。残念だな」

「でも、私は幸せだったってことだね!」

「どうして?」

「夢の中でも伊織と一緒にいられたから!」


彼女はついさっきまでの暗い表情とは違って、幸せそうに笑っていた。


「だったら、絶対に幸せな夢だったに決まってるじゃない」


その表情に少しだけ安堵し、美乃の頭をポンポンと撫でる。
程なくして、彼女を見つめながらおもむろに重い口を開いた。


「そろそろ病院に戻るか……」


それは、戻りたくない現実だった。
きっと、美乃は笑って頷くつもりだったんだろうけれど、一度首を縦に振り掛けた彼女が笑顔を作るのを失敗したような表情になった。


「もうちょっとだけ……ダメ?」


美乃は、縋るような目で悲しそうに訊いた。
俺だって、できることならずっと一緒にいたい。


だけど……どんなに足掻いたって、もうすぐ現実に戻されてしまう。
少しだけ考えたあと、彼女の髪に触れた。


「じゃあ、あと十分だけ」


美乃は小さく頷くと、なにも言わずに俺の腕にしがみついていた。
俺も黙ったまま、彼女の頭を撫でていた。

部屋の中には、静かな時間が流れている。
十分という時間が、今は無性に短く感じた。


「もう、時間だから……」


小さな声で告げると、美乃は瞳に涙を浮かべていた。


「もう、ここには来れないね……」


また来れるよ……。


その一言が、どうしても言えなかった。
彼女の表情を見ていると、気休めにもならない言葉なんて口にできるはずがなかった。


俺は胸の奥が軋むのを感じながら、無言で立ち上がって車の鍵を手にした。
玄関に向かおうすると、廊下で袖口を引っ張られた。


「どうした?」


美乃の顔を覗き込み、できるだけ優しく微笑みながら首を傾げる。
俯いたままの彼女が、いつもよりも小さく見えた。


「美乃はまだここで待ってろ。車、持って来るから」


美乃は首を横に振って、本当に微かな声で言葉を紡いだ。


「キス……して……」


今にも消えてしまいそうなくらいの小さな声と、悲しみを帯びた瞳。
眉を寄せて微笑みながら頷いた俺は、そんな彼女の瞳を真っ直ぐ見つめて、額と頬に優しいキスをした。


続けて、唇にもくちづける。
廊下のひんやりとした空気が頬に触れる中で、ただ夢中で何度もキスをした。


もういっそのこと、このまま美乃をさらってどこかに逃げてしまいたい……。
行き着く先はどこでも構わないから、ずっとずっとふたりでいたい……。


自分でもバカげた考えだと思う。
それでも俺は、何度もキスを交わしながら、現実から逃げることだけをひたすら考えていた。

「私も……一緒に行くね」

「ああ……。じゃあ、行くか」


玄関のドアを開けた瞬間、外の冷たい空気が心の中まで吹きつけた。
病院に着くまでの間、俺たちは一言も話さなかった。


なにを言っても嘘っぽくなりそうで気の利いた言葉も言えず、口を開けば言葉よりも先に涙が溢れてしまいそうだった。
病院に着いても、美乃は車から降りようとしなかった。


「美乃……? ほら、病室に行こう。みんなが待ってるから……」


仕方なく先に車から降り、助手席のドアを開けて優しく諭す。


「戻りたくない……。このまま……伊織とどこかに行きたい……」


彼女は首を横に振って、涙混じりの微かな声で呟いた。


同じことを考えているのに、その悲しい願いを叶えてあげることはできなくて。口を開けば、やっぱり涙が零れてしまいそうで。
俺はなにも言えず、その場で立ち尽くしてしまった。


「ごめんね、伊織……。こんなの冗談だよ? ほら、早く行こう」


程なくして涙を拭った美乃は、悲しげな笑みで車から降りた。


「そんな顔しないで? 困らせちゃって、ごめんね……」

「バカ、そんなこと気にするな。早く病室に行こう。きっと、シスコンの信二が待ちくたびれてるからな」


彼女が泣きそうな顔で必死に笑みを浮かべているから、俺も涙を堪えてなんとか笑って見せた。
俺たちは手を繋いで、病室に向かってゆっくりと歩いた。


病室に入ると、先に来ていた信二と広瀬が明るい笑顔で迎えてくれたけれど、美乃はふたりを見ても悲しそうに微笑んだだけで、ほとんど言葉を交わさなかった。
そのあとすぐに、彼女の両親も病院に来た。


だけど、みんながどんなに話し掛けても、美乃は力なく微笑むだけだった。
そして、精神的に参ったのか、その夜からまた彼女の容態が悪化してしまった――。

クリスマスから数週間が経ち、街は年末年始の慌ただしさが嘘のようにまたいつも通りの景色を見せていた。


美乃の体調は年が明けても回復せず、どんどん悪化していった。
何日も高熱が続いて食事も喉を通らないし、点滴や薬の効果もまったくと言ってもいいほどない。


きっと、いつ死んでもおかしくないのかもしれない……。
でも、もしかしたら病気が治るかもしれない……。


俺は、微かな希望やありえないようなことばかりを、毎日毎日繰り返し考えていた。
だけど……一月の下旬になると、そんなことも考えられなくなるほど、彼女はひどく衰弱してしまっていた。


会話もほとんどできなくなり、生死の境を彷徨う日々。
多数の機械を着けた姿は、“生きている”のではなく、ただ“生かされている”だけのように見えた。


そんな状態でも、俺はできるだけ美乃の傍にいて、彼女と同じ空気を感じていたかった。
常に傍にいれば、体調が比較的マシな時は多少の会話もできた。


美乃は話ができない時でも時々微笑んでくれて、それが無性に嬉しかった。
俺にとって、彼女の笑顔は精神安定剤みたいなものになっていた。


美乃がほんの少しでも笑い掛けてくれたら、本当に安心できた。
それはたぶん、彼女が生きていることを実感できるからだと思う。


だから、信二や美乃の両親よりも、俺の方が美乃と過ごす時間が長かった。
俺たちはいつも指を絡め合い、手を繋いで過ごしていた。


他にはなにもすることがないけれど、俺たちにとって一緒にいることに意味があった。
正直なところ、『美乃にとってもそうだ』と断言することはできないけれど、少なくとも俺はそう感じていた。


二月に入ると、何度か美乃の熱が下がることもあった。
ただ、どんなに低くても微熱は出ていたけれど……。

ある日、美乃の体調がいい時があった。
俺たちは、久しぶりに色々なことを話した。


「ねぇ……」

「ん?」

「今日は体調がいいから、外に出れないかな……?」

「どうだろうな…」

「外に出たい……」


曖昧な返事と笑顔で誤魔化すと、珍しく彼女が食い下がった。


「伊織と散歩がしたいの……」


弱々しく、だけどはっきりと自分の気持ちを訴え掛けてくる美乃に、つい頷いてしまう。


「わかった。内田さんに言って、先生に訊いてくるよ」


小さく笑った俺は、ナースステーションにいる内田さんに事情を説明し、菊川先生を呼んでもらった。
病室に来た先生は、難しい顔をしながら俺と美乃の話を聞いていた。


「僕としては賛成できないね……」

「先生……。ちょっとだけでいいから、お願い……。どうしても行きたい……」


申し訳なさそうな菊川先生に、美乃は少しだけつらそうにしながらも必死に頼み込んだ。


「俺からもお願いします。ほんの少しの時間でいいんです」

「先生、許可を出していただけませんか? 私も付き添いますから」


簡単に許可を出せないことは重々わかっていても、頭を下げずにはいられなかった。
内田さんも頭を下げてくれ、先生はしばらく考え込んだあとでため息を落とした。


「わかった……。十五分だけ車椅子での外出を許可するよ。外は寒いから、暖かい格好をして行くように。内田さんも付き添ってあげて」


「ありがとうございます」


俺と美乃は、笑顔で声を揃え、すぐに支度をした。
そして内田さんに付き添ってもらい、俺たちは病院の外に出た。

たったの一五分。
その時間を、病院に隣接している公園で過ごすことにした。


「私はここにいるから、ふたりで散歩してきたら?」

「いいんですか?」

「せっかくだし、ふたりで過ごしたいでしょう? でも、なにかあったらすぐに駆け付けられるように、私の目が届くところにいてね」

「はい。ありがとうございます」


公園の中に入ってすぐに、内田さんはそう言ってベンチに腰を下ろした。
俺は小さく頷き、周囲を見渡した。


美乃の車椅子を少し先で止め、その隣にあるベンチに腰掛けた。
公園はそんなに広くないから、俺たちがいるところから内田さんの姿がよく見える。


「寒くないか?」

「うん、大丈夫」

「気分が悪くなったら、すぐに言えよ?」

「うん」


彼女は微笑んだあと、公園内をクルリと見回した。


「ここに来るの、久しぶりだね」

「ああ、そうだな」


ここには、外出許可がもらえた時に何度かふたりで来ていた。
暖かい時期にはベンチに座って缶ジュースを飲んだけれど、もう随分と前のことのように思える。


「ねぇ……」

「ん?」

「この間気づいたんだけど、このマリッジリングって対になってたんだね」

「ああ、重ねるとハートになるんだ」


自分のリングを外して美乃の左手の薬指に着けると、ふたつのマリッジリングが重なって真ん中にハートができた。


「病室で手を繋いでる時に気づいて嬉しくなったんだけど、ずっと体調が悪くてまともに話せなかったでしょ……。だから、言えてよかった……」


彼女は幸せそうに微笑みながら、ずっと薬指を眺めていた。

「私……全部持って行くからね……」

「なにを?」

「伊織にもらったもの……。ハートのネックレスでしょ。それと、エンゲージリングとマリッジリング」

「え……?」

「あと、ふたりで撮った写真も……。私が全部、天国に持って行くからね……」

「美乃……」

「伊織も知ってるでしょ? 私は寂しがり屋なの。ひとりで死んじゃうのは寂しいから……私がふたり分の思い出を持って行く。伊織にはなにも残してあげない……」


美乃は瞳に溢れる涙を誤魔化すように、必死に笑っていた。
言葉に詰まった俺は、目の前にいる彼女を抱き締め、その存在を確かめるようにそっとキスをした。


残りの時間、ずっと美乃を抱き締めて過ごしていた。
しばらくすると、内田さんが俺に目配せをしていることに気付き、彼女の車椅子を押して内田さんのところに戻った。


「ごめんね……」


悲しそうに謝る内田さんに、俺たちは笑って首を横に振った。


「そういえば、あそこにいる人って知り合いだったりする?」


不意に、内田さんが遠くに視線を遣り、俺はそれを目で追った直後にハッとした。
視線の先にいたのは、親方だったから。


親方は俺を真っ直ぐ見つめ、穏やかに笑っている。
目を見開いて言葉を失っていると、内田さんが口を開いた。


「私たちがここに来た時から、ずっとあなたたちのことを見てたのよ。知り合い?」

「はい……」


親方はきっと、ずっと俺のことを心配してくれていたに違いない。
だから、今日ここで俺たちのことを見掛けて、様子を見ていたんだろう。


親方の優しさに、胸の奥が熱くなった。
俺は親方の目を真っ直ぐ見て、頭を深く下げた。


「すみません、戻りましょう」


内田さんは特に詮索をすることもなく笑い、俺たちは病院に戻った。