夜になると、信二が両親と一緒に病院に来た。
美乃の両親が、俺のことをいつ切り出そうかと考えているのがわかったから、言い難そうなふたりに代わるように自分から話を切り出した。
「聞いたんですよね、俺の仕事のこと。ご心配をお掛けしてすみません」
「いや、私たちはそんなつもりで話をしにきたわけじゃ……。ただ、君はそれで大丈夫なのかい?」
美乃の父親の言葉に、思わず表情が引き締まる。
「何の保障もなく大丈夫だとは言えませんが、しばらくの生活には困らないと思います。それに、自分の意思で決めたことなので、後悔もしてません」
「……額の傷がその証なのかな?」
「えっと、まぁ…」
苦笑いした俺に、すべてを悟ったような微笑みが向けられる。
「そうか……。大変だっただろうね……。ありがとう」
美乃の両親は、それ以上なにも言わなかった。
そのあと、美乃に目配せをしてから、改めて本題を切り出した。
「ご相談があるんですけど……」
「なんだい?」
「どうしたの、そんなに改まって……」
「実は、美乃にウェディングドレスを着させてあげたいんです。とは言っても、写真だけですけど……。許していただけませんか?」
「あのね、私が着たいって言ったら、いっちゃんが着せてくれるって言ってくれたの! いいよね? ねっ?」
懇願する、と言うよりも子どもがおねだりをする時のように両親を見つめる彼女の傍で、俺は緊張していた。
程なくして、美乃の両親が顔を見合わせて微笑んだ。
「もちろんよ、私たちも嬉しいわ。いつにしましょうか?」
「せっかくだから私も立ち合いたいんだが、構わないかな?」
「俺も見たいっ‼」
美乃の両親と信二は喜んで賛成してくれ、俺と美乃は顔を見合わせて笑った。
その日の病室には、ずっと笑顔が溢れていた――。
*****
翌日、朝一番にあの店に連絡をし、撮影の予約を入れた。
みんなからは『できるだけ早くしてほしい』と、昨日の帰りに言われていた。
言うまでもなく、美乃の体調が悪化しているからだろう。
俺は一番早く空いていた明後日に予約を入れ、信二にも電話で伝えた。
「悪いな……。急だけど、大丈夫か?」
『俺は仕事抜けて行くし、親父も半休取るみたいだから大丈夫だ! こっちこそ悪いな』
「おじさんたちにはお前から伝えてくれるか?」
『ああ』
俺は電話を切ったあと、マリッジリングを買うためにジュエリーショップに行った。
あまりにも突然だったからいい物は買えないけれど、それでもちゃんと用意したかった。
エンゲージリングを買った時にアドバイスをくれた店員と相談しながらリングを選び、あの淡いピンクのリボンでラッピングして貰った。
そして、そのまま病院に向かった。
「ウェディングドレスの撮影の予約が取れたぞ! 明後日だ」
「本当……? ありがとう、いっちゃん……」
病室に入ると同時に弾んだ声で告げたが、ベッドに横になる美乃を見て一瞬だけ体が強張った。
嬉しそうにしながらも声にはまったく力がなく、そんな彼女の頬に触れるとかなりの熱が伝わってきた。
「熱、いつからあるんだ?」
「昨日の夜からなの……。ウェディングドレス、着れるかな……」
「大丈夫に決まってるだろ。さっきそこで先生に会ったから、外出許可もらっといたからな。ちゃんと元気になれよ?」
不安そうにする美乃を少しでも元気付けたくて、場違いなくらいの明るい笑顔を見せる。
それから、氷枕を交換するためにナースステーションに行き、内田さんに彼女の様子を伝えた。
「頭、上げられるか?」
「うん……。ありがとう……」
美乃は小さな笑みを見せ、頭を少しだけ上げた。
氷枕を置くと、「気持ちいい……」と漏らして微笑んだ。
「寝ていいからな」
「うん……」
「なにかしてほしいことはあるか?」
微笑んだ俺に、彼女がそっと右手を差し出してくる。
「はいはい。美乃は本当に甘えん坊だな」
右手で美乃の手を握って、左手で彼女の髪を撫でる。
すると、穏やかな笑みを見せてくれた。
「いっちゃんがそうしてくれると、すごく落ち着くんだ……」
美乃はゆっくりと目を閉じながら、ホッとしたように呟いた。
握った手から伝わる体温は高く、呼吸も少し苦しそうだ。
そのせいか、なかなか寝付けないようだった。
時々、他愛のない話を振ってくる彼女に、相槌を打ったり言葉を返したりする。
三十分ほどして、美乃はようやく寝息を立て始めた。
彼女の寝顔を見つめながら、ずっと髪を撫でていた。
「大丈夫……。熱なんかすぐに下がる……。ウェディングドレスも、明後日になれば着られるんだもんな……」
その間、自分自身に言い聞かせるように何度もそう呟いた。
そうでもしなければ、不安に負けてしまいそうだったから……。
美乃が毎日のように熱を出すようになってから、確実に弱っていくのがわかる。
そして、最近は体調が安定することも気分がよさそうな日も、ほとんどない。
美乃を失う覚悟なんて、絶対にするつもりはないけれど……。目の前の彼女を見ていると、これが現実なんだと思い知らされてしまうようで、唇をギュッと噛み締めた――。
*****
撮影当日、俺の心配を余所に美乃の体調は回復し、熱もすっかり下がっていた。
体調が悪くならないとは限らないけれど、ここ最近で一番顔色がよく、そんな彼女の姿に胸を撫で下ろした。
予約の時間に合わせ、美乃と彼女の両親と一緒に車で店に向かった。
美乃はずっと嬉しそうで、昨日から落ち着きがない。
店に着くと、予約していたプランを確認し、ドレスを選ぶことになった。
ドレスが決まる頃には信二もなんとか仕事を抜けて駆け付け、俺も奥でタキシードに着替えて軽くヘアメイクをしてもらい、彼女の支度が終わるのを待っていた。
「なんか、俺よりお前の方がかっこいいじゃん……」
俺を見た信二は、なぜか悔しそうにしていた。
「そうか?」
慣れない格好に照れ臭さを抱いている俺は、褒められてもくすぐったくて素直に喜べない。
しばらくすると、奥の部屋から純白のドレスに身を包んだ美乃が恥ずかしそうに出てきた。
「どう、かな……?」
きちんとヘアメイクをしてウェディングドレスを着たその姿は、“理想の花嫁”そのもので。
俺は彼女に見入ってしまって、なにも言えなかった。
「綺麗だ! めちゃくちゃ可愛いっ‼ もう、世界一可愛いよ! あー、兄ちゃんは幸せだー!」
美乃の両親は、目頭を押さえていた。
信二は、とにかく感激して、賛辞を並べている。
「いっちゃん、どうかな?」
美乃は、なにも言わない俺にゆっくりと近付いてくると、不安げに首を傾げた。
「……綺麗です。俺なんかには勿体ないくらい……」
「ありがとう。いっちゃんもすっごくかっこいいよ」
俺を見つめたままの美乃が、嬉しそうに笑う。
そんな彼女の前で、咳払いをひとつした。
「美乃、これ……」
「え?」
俺はポケットからリングを取り出し、美乃の左手の薬指に着けた。
エンゲージリングとマリッジリングが、彼女の指で光っている。
「給料三ヶ月分には程遠いけど……。一応、結婚指輪な」
そう言って、美乃の頬にそっと触れた。
「……っ、ありがとうっ……!」
彼女は瞳を潤ませ、満面に笑みを浮かべた。
「バカ、泣くなよ。せっかくのメイクが崩れるぞ」
泣くほど喜んでくれたことに胸の奥が熱くなって、それを誤魔化すようにわざと悪戯な笑みを浮かべる。
油断すれば、涙が零れてしまいそうだった。
「お前は毎回、やることがキザなんだよっ!!」
信二は涙を堪えるような顔で笑いながら、俺の背中を叩いた。
「痛いって!」
俺たちは、子どもみたいにじゃれあいながら笑った。
今だけは、ただ幸せな空気が流れているような気がしていた。
写真は美乃とふたりで撮ったあと、全員で撮ることにした。
それこれ指示をされてポーズを決めるのは照れ臭かったけれど、嬉しそうにする美乃のためならためらいはなかった。
写真の出来上がりは後日で、今日は見ることができない。
俺と美乃が着替えを済ませると、信二と彼女の父親は時間を気にしながら会社に向かった。
「美乃、そろそろ病院に戻る時間だから」
それから程なくして、ずっとドレスを見ている美乃に控えめに声を掛けた。
「今日は本当にありがとう! すごく嬉しかったよ!」
俺は、なぜか込み上げてきた切なさを隠し、微笑みながら彼女の頭を撫でた。
二週間後、ウェディングドレスの写真が出来上がった。
アルバム形式にしてもらったものが三冊分と、データを付けてもらった。
アルバムのうちの一冊は俺の分で、残りはそれぞれ美乃と彼女の両親の分だ。
撮影をした日から、美乃はとにかく写真のことばかり口にしていて、『写真ができたら絶対すぐに見せてよ!』と毎日のように言っていたから、彼女の喜ぶ姿が目に浮かぶ。
「美乃!」
「いっちゃん……」
「写真ができたぞ! ほら!」
病室に入ってすぐに、美乃に写真を渡した。
だけど、彼女はなにも言わない。
大喜びすると思っていたから、反応がないことに戸惑った。
不安になった俺は、美乃の顔を覗き込む。
「どうした?」
「あっ、ごめんねっ……! なんだか感動しちゃって、言葉にならなくて……」
彼女は、本当に嬉しそうに微笑んだ。
「びっくりした……。なにか不満なのかと思ったよ」
「そんなわけないよっ‼ いっちゃんのお嫁さんだもん! 私、すっごく幸せだよっ‼」
「わかってるよ」
俺は得意げに笑って、美乃の頭を優しく撫でる。
「もう……。またからかったの?」
いつものように膨れっ面をした彼女が、少しだけ呆れたように微笑んだ。
「ごめん、ごめん! みんなが来たら見せような?」
「うん! 見せびらかしちゃうよ! なんなら、病院中の人に見せびらかしたいくらいだもん!」
美乃は興奮したらしく、勢いよく体を起こした。
「バカ、寝てろ! 熱が上がったらどうするんだ!」
「だって、ずっと寝てばっかりなんだもん。逆にだるくなるばっかりだよ……。薬もあんまり効いてないみたいだし……」
ついつい叱るような口調になった俺に、彼女が眉を下げてため息をついた。
体調がよさそうだったあの撮影の日も、美乃は夕方から発熱してしまった。
それからもずっと、彼女の熱が下がらなかった。
「もう一ヶ月近く熱があるんだよ? 発熱の連続記録、更新しちゃった……」
「そんなの数えてるのか?」
「日記に書いてる……」
「へぇ、日記なんか書いてたのか。ちょっと見せて」
「ぜぇーったいにダメッ‼ いっちゃんだけには、なにがあっても絶対に見せてあげないっ‼」
「そんなに拒絶するなよ……。傷付くだろ」
「女の子の日記は、秘密がいっぱいなんだよ!」
美乃はそう言って、悪戯っぽく笑った。
俺は、「はいはい」と苦笑して見せ、彼女の頭を優しく撫でる。
美乃の笑顔の裏では、体が確実に弱っていっている。
その証拠に、今は三十八度を越える日も決して少なくはなく、今日もかなり高いようだった。
「もうすぐ、クリスマスだね」
不意に、彼女が話題を変えた。
「いっちゃんは、去年のクリスマスイヴのこと、ちゃんと覚えてる?」
「忘れるわけないだろ? 病院の前でお前とぶつかって、クリスマスイヴに恨みを買ったんだからな」
わざと不満げに言うと、美乃はバツが悪そうな顔をして慌て始めた。
「あ、あの時は、ちょっとイライラしてたんだよ! 二十歳のクリスマスイヴを病院で過ごすなんて、絶対に嫌じゃない? だから、八つ当たりしちゃったの……。……でも、あの時は本当にごめんね?」
しゅんとして謝る彼女を見て、思わず吹き出してしまった。
「冗談だよ! 俺の心はそんなに狭くないからな」
「もう! またからかって……」
拗ねた美乃が、そっぽを向いてしまった。
「悪かったよ」
俺が謝っても、彼女はなにも言わない。
「どうした……?」
ただ拗ねているわけじゃなさそうで、思わず眉間にシワを寄せてしまった。
「今年のクリスマスも病院かな……。それとも……」
美乃は小さく呟いて、しばらく黙り込んでいた。
彼女の髪を撫でながら、できるだけ暗い雰囲気にならないように「それとも?」と優しく促してみた。
「クリスマスには、もう死んじゃってたりして!」
振り向いた美乃は、明るい声で言った。
その瞳には、たくさんの涙が溢れている。
「死なないよ。クリスマスは俺と一緒に過ごすんだろ? それにイヴは出会って一年だから、そのお祝いもする約束だろ?」
「無理だよぉっ……! 熱だって、全然……下がらないし……っ!」
「そんなこと言うな。信二にも怒られるぞ?」
「だっ、て……恐いんだもっ……!」
美乃は、とうとうしゃくり上げて泣き出した。
俺はどうすることもできず、彼女が泣き止むまでただ抱き締めて待っているだけだった。
「いっちゃん、あたしね……本当にもう長く生きられないと思う……」
「そんなこと言うなよ……」
「ごめんね……。でも、聞いてほしいの……」
ゆっくりと体を離した美乃は、涙で濡れた顔で悲しげに微笑んだ。
彼女の表情に目頭が熱くなって、今度は俺が泣き出してしまいそうになる。
「私ね……前にも言ったけど、なにもやり残さずに死にたいの……。だから、これからいっぱいわがまま言ってもいいかな……?」
「わがまま……?」
「うん。私のお願いはね、いっちゃんだけにしか叶えられないの……」
「……俺だけ?」
「うん! だから……私のわがまま、聞いてくれる?」
美乃が悲しそうに微笑み、だけど曇りのない瞳で俺を真っ直ぐ見つめた。
きっと、彼女は自分の死を受け入れて、残りの人生を精一杯生きようとしている。
それを理解できても、美乃の願いはあまりにも悲しいものだった。
「わかった……。俺にできることならなんでもしてやるよ」
俺は優しく微笑み、美乃の言葉を受け入れた。
彼女の望みならなんでも叶えてあげたくて、ダメだなんて言えるはずがなかった。
「ありがとう……」
「なにをしてほしい?」
「あのね……無理かもしれないんだけど……」
「うん? 言ってみろよ」
美乃は息を小さく吐いたあとで、俺の目を真っ直ぐ見つめた。
「いっちゃんと一緒に暮らしたい……」
「えっ?」
「ダメ、かな……?」
不安そうな彼女に、すかさず首を横に振る。
「俺はダメじゃない! でも、許可が出ないだろ?」
一緒に暮らすなら、外出ではなく外泊許可がいる。
だけど、どう考えても、菊川先生が許すはずがない。
「お願い! 一回だけでもいいから! いっちゃんと一緒に暮らしたい……。普通の恋人みたいに過ごしたいの!」
必死に懇願する美乃を見つめながら、黙って考え込んでいた。
叶えてあげたいけれど、水族館や結婚式ですら許可をもらうのは難しかった。
それは、美乃の病状を考えれば当然のことだとわかっているからこそ、どうするべきか迷った。
程なくして、俺は息を吐いてから口を開いた。
「無理だよ、美乃……。外出と外泊じゃ意味が違う。俺にはそんな許可がもらえるとは思えない……」
「じゃあ、許可が貰えたらいいのね?」
美乃が俺を真っ直ぐ見つめ、はっきりとした口調で訊いた。
「……もらえないよ」
俺の意見は、たぶん正論だろう。
それでも、彼女は諦めなかった。
「そんなの……やってみなきゃわからないじゃない! 最初からそんなに簡単に諦めないでよ! 私、このまま死んだら絶対に後悔するもん……」
「……わかった」
根負けした俺は、ついに頷いてしまった――。