そんな僕は椿原恭太と名付けられた。姓も名も由来は覚えていない。

椿原恭太から竹倉恭太になったのが、施設を離れることになった五歳のときだった。面識も関係もない二人の大人と、しばらくの時間を掛けて条件を満たし家族になった。その二人のことはそれぞれ、よしお、まさみと呼んだ。二人は呼びたいように呼べばいいと言ったが、それも難しく感じた僕は二人の互いの呼び方を真似た。

義雄達と家族になってから、両親と同時に祖父母ではなく曾祖父と曾祖母ができた。当時すでに八十歳近い二人だった。

竹倉家の人間として馴染んでから程なくして、大人のような男が現れた。非常に長身であるというのが彼の第一印象だったが、単に当時の僕が小さかったのだと思っている。

彼の名はまもるといった。漢字や名字は知らない。義雄も雅美も、呼び名さえ決まればよいといった様子で、特に知ろうという素振りも見せなかった。

彼は親がうざかったという理由で家出した不良のような少年だったが、僕は彼をまもにいと呼んで慕った。彼が出掛けるときには必ずついて行った。

まも兄の方も優しく接してくれた。親に対してうざいという思いが芽生えるくらいの人だ、血縁関係もない幼子に付きまとわれれば相当鬱陶しく感じられたはずだが、彼はそれを一切出さなかった。むしろ僕をかわいがってくれた。