薫子が休憩から上がった頃、藤原君は来店した。端のカウンター席に着くと、「いいことに気づいたよ」と彼は笑った。

「これくらいの時間なら客の勢いも落ち着いてくるし、家にいなければ母さんに襲われることもない」

「あれからなにかあった?」僕はグラスを置いて言った。

「いや、大したことは」

「小さなことはあったの?」

「まあなんか……今度は母さんが……まあ」

「まあ?」

「その……死にたい、みたいな? 言い出したっていうか……いや言い出した」

「そうか……」

「どうしよう、おれ今日はくるべきじゃなかったかな。また襲われるのも怖くて……。だけど今は、帰ったら――ていうのも怖い」

そうだね、と返した声は微かなものだった。

母さんが死んだらどうしよう、と藤原君は呟いた。「父さんの愛する人を犯罪者にはしなかったけど、父さんの愛する人を殺したことになる」

「でもそれは……」藤原君のせいじゃないと思うけどと言いかけて飲み込んだ。彼から返ってくる言葉は大方想像がついた。

「母さんより、死ぬべきなのはおれなのに。おれがいなければ、あの人はこれほどおかしくはならなかった」

「そうじゃないよ。藤原君は悪くない」そもそもある程度の場所からならば上がってこられるという考えを浮気の正当化に活かしたお母さんがおかしいのだとは、思うまでに留めた。