事実、引っ越し後の私はついていた。
アルバイトの時給がぐんと上がるし、難しいと言われていた授業の評価も今年は甘いし、懸賞には当たる、なくしたと思っていたアクセサリーが偶然出てきたり、いいことづくめ。今まではそれを自分ひとりで喜んでいたわけだが、今は一緒に喜んでくれる人がそばにいる。
「すごいね桃花ちゃん。おめでとう」
「さすが桃花ちゃん。運がいい」
「ほんとうによかったね、桃花ちゃん」
リョウのことばは善に包まれていて、心地よい。私は他人に褒められたことがほとんどないので、舞い上がってしまった。
「リョウくん、私の彼氏になって」
私はリョウに抱きついた。媚びているつもりはないけれど、自然と甘えた声になってしまう。
「別に構わないけど、ぼく死んでいるんだよ。桃花ちゃんを満足させられないよ?」
「うん。いいの。リョウくん、好き」
「ありがとう。ぼく、桃花ちゃんのこと、大切にする」
こんなにいい子なのに、どうしてリョウは地縛霊なのだろうか。生きていれば、女の子が放っておかないだろう。モテモテで選び放題、毎日が輝きにあふれたきらきらの充実生活間違いないのに、自殺だなんて。理由が分からない。
だから、私はリョウを外に誘った。
もっと楽しませたい。奉仕されてばかりでは気の毒だ。外の空気に触れれば、思い出すこともあるかもしれない。
それに、こんなにステキな彼氏を連れて、一度ぐらい街を歩いてみたいと言う下心もあった。超絶美形男子が私に夢中。他人の羨望を浴びたい。自慢したい。
「ねえ、今日は散歩してみよう」
私のお願いに、リョウは表情を曇らせた。
「ぼく、外に出られないんだ」
「そんなこと、前にも言っていたね。でも、今日は天気もいいし、意外と行けるかもよ。試してみようよ、ね」
「いやだよ。ぼく、部屋がいい。外、嫌い」
「だいじょうぶ。私がいる。ね、近くの公園まで行って、コーヒーでも飲もうよ。遠くには行かない、練習だよ」
「ぼくは、桃花ちゃんと一緒にいられればいい」
うれしいことを真顔で言ってくれるものだ。
「私も、リョウくんといたい。だから誘っているの」
私は強引にリョウの身体を引っ張って玄関まで連れて行った。
「靴がない」
「でしょ。諦めて」
歩きたい。リョウと明るい道をふたりで。
「私がリョウくんを守る。靴、何センチかな。簡単なサンダルでよかったら買ってくる」
そう言って、私は強引にリョウを外出させようとした。
「気持ちはうれしいよ。でもごめん、できない」
いかにもつらそうに、私から視線を逸らしたリョウは、跡形なく消えてしまった。
「やだ、リョウくん。冗談だよね。もう言わないよ、外へ行こうだなんて。ごめん、謝る。強引だったよね。いやがるリョウくんに無理を押しつけるなんて、私がバカだった。出てきて。隠れないで」
天井に向かって訴えたけれど、リョウはあらわれなかった。
リョウが消えてから、十日ほど。
私は絶望に包まれていた。なにをしても楽しくない。なにを食べても味気ない。あの、笑顔がほしい。声が聞きたい。私はすっかりリョウに魅了されていた。
どうしたら、また出てきてくれるだろう。リョウのことが知りたい、調べたい。私は立ち上がった。
まずはインターネットでこのマンションの名前や住所を入力してみる。自殺というキーワードもつけ加えて見た。
「あった。出てきた」
事件は三年前。当時、この部屋に住んでいた男子学生(十八)が自殺。名前や詳しいことは、書かれていない。未成年だったので、特に隠されている。警察や不動産屋に普通に訊いても、個人情報は教えてくれないだろう。
このマンションが建って間もなく、リョウは入居したようだ。駅近の分譲マンションなので、強気価格でも人気の物件だったらしい。となると、隣り向かいに住んでいる人たちは事件を知っているはず。失礼を承知で、聞き込みに行こうと決めた。
リョウの名前、出身地、通っていた大学名、アルバイト先、交遊関係。
「そんなに一生懸命にならないでいいよ。ぼくは別に、今の状況でも困っていないよ」
「リョウ、くん」
久々にリョウの声が聞こえた。私のを背後から、やさしく包んでくれた。
「どこへ行っていたの?」
「ぼくはきみのそばにいた。桃花ちゃんが気がつかなかっただけ」
「見えなかったよ。何度も呼んだのに」
「もっと求めて。強く」
思わず、私はどきりとして息を飲んだ。リョウの色気に圧倒されていた。い、いや、地縛霊に色気もなにもあるはすないのに。
「桃花ちゃん、ぼくが欲しいんでしょ。もっと言って」
ずるずると後退し、私は壁際まで追い込まれていた。もう逃げられない。
「そばに、いて。ずっと」
かすれる声でそう言うのがやっとだった。
「うん。素直で好き」
リョウは私の頭を撫で、頬にキスをした。全身がこわばってしまっていて、動かない。抵抗できなかった。それを許可と受け取ったのか、リョウは私の顔を覗き込むと、今度はしっかりと唇を重ねてきた。リョウの唇が首筋をなぞり、吸った。その冷たさに、私の全身に悪寒が走る。
手馴れていた。
これだけの美形。経験も、さぞかし豊富……と考えると、怖くなった。
「そこまで、ストーップ!」
意外、だと言わんばかりに、リョウはあっけにとられている。
「同居しているけど、こういうのは早い。お互いのことをよく知ってからね」
「喜んでくれると思ったのに。ぼくのキス以上を辞退した女の子、桃花ちゃんが初めてだな」
リョウは首を傾げた。ノリのいい女子なら、さっさと仲よくなってしまうのだろうが、痛い目を見たばかりの私には進めない。ましてや、相手は地縛霊。
「うれしいよ。でも、今日はちょっと」
言い訳をすると、リョウは違った解釈をしたようで、なるほどねと頷いた。
「じゃ、また今度」
リョウは浮き浮きと台所へ消えた。
なんだか、ぐぐっと疲れを感じた。
「これが、桃花の新しい彼氏!」
「信じられない」
「しかも、テーブルに並んでいるお料理、全部お手製?」
大学の友人三人が引っ越し祝いをしたいと言い出したので、リョウに相談してみると、笑顔で来客を承諾してくれた。てっきり、その時間はクロゼットにでも隠れているのかと思いきや、堂々と和洋中各種取り混ぜた手料理で、もてなしてくれた。
リョウはにこにこと座っている。友人三人にもリョウの姿が見えるようで、どこから眺めても感じのよい好青年。実は死んでいるとは微塵も感じさせない。
「どこで知り合ったの、桃花」
「え、えーと。リョウくんは、このマンションに前から住んでいて」
先住人だったことは、嘘ではない。
「こんなかっこいい彼氏だったら、一緒に歩いて自慢しまくりだよね。料理も上手とか。いいなー。一日、私に貸してよ」
「わたしだって貸してほしい!」
三人が口論をはじめたので、私は間に入った。
「あのね、リョウくんは素敵男子なんだけど、マンションから出られなくて……引きこもりなんだよ!」
地縛霊なので外出は不可能です、なんて説明できないので必死にごまかした。
「うそー。こんな超ハイスペック男子が、なにゆえ引きこもり?」
「ほかの女に取られたくないからって」
「見苦しい」
非難の嵐だが、頼れるのもリョウだった。
「お友だちのみなさん、桃花ちゃんが話していることはほんとうです。ぼく、外に出られないんです。桃花ちゃんにしか心を開けなくて」
リョウは私の肩を抱き、身体を引き寄せた。恥ずかしくて顔から火が吹き出そうだったけれど、懸命に我慢した。
「みんな、ごめんね。私、リョウくんの心のケアをしているんだ」
「あきれた」
「まじ信じられない」
「勝手にやって」
私とリョウがらぶらぶなのを目の当たりにした三人は、お祝いもそこそこに帰って行った。
「ごめんね、リョウくん。引きこもり青年に仕立てちゃって」
「いいんだよ。実際、そのようなものだし」
いや、あなたは生きていないから、引きこもりとは比較になりません……そう答えかけたけれど、リョウはごちそうを作って友人をもてなしてくれた。感謝しなけれなばらない。
「あの三人、私に新しい彼氏ができたって聞いて、焦っていたんだよ。ほんとうなのかどうか確かめたいって、しつこくて。引っ越し祝いは建前。無理なお願いをして、ごめん。今日はありがとう」
私の仲にも、下心があった。外出は無理でも、やっぱりリョウのことを自慢したい。優越感にひたりたい。私は浅ましい気持ちをおさえ切れなくて、友人を招いたのだ。
「気にしてないよ。ぼく、桃花ちゃんのこと大好きだから」
「一緒にいて。消えないで」
どこまでもやさしいリョウに、私は抱きついていた。リョウも私に応えてくれた。
リョウと私は、日を追うごとに仲よくなった。一緒にいたい。外出する時間が惜しい。なぜ、リョウは人間ではなく、地縛霊なのか。生きて出逢えれば、最高だったのに。
「ぼくは、この姿になったから、桃花ちゃんと出逢えたと思っている」
胸を震わせるようなことばも、さらりと告白してしまう。
充実した時間が増えたけれど、私は体調の変化に気がついた。だるい。重い。疲れる。正直、起き上がるのもやっと。病院へ行ったけれど、異常なし。引っ越しによる環境の変化でしょう、と言われておしまい。
「無理しなくていいよ、桃花ちゃん。ゆっくりしていて」
やさしいのはリョウだけ。頭を撫でてくれる手にぬくもりはないけれど、落ち着ける。
「ありがとう。熱はないし、かぜでもないみたい」
「うん。いいよ。分かる」
当然、と言わんばかりなリョウの態度に、私は違和感を覚えた。
「分かる?」
「ぼくと一緒にいると、桃花ちゃんの身体がしんどいんだよね。この部屋を前に出て行った人も、そんなことを言っていた。ぼくは顕現し続けるために、身近にいる人、つまり桃花ちゃんの生気を吸い取るみたい、あはは。ごめんね」
あははって、明るく笑われたらさらに力が逃げていきそう。
「元気を奪うんだね、私から」
「奪うっていう言い方はよくないな。分けてもらう、ぐらいだよ。ぼく、桃花ちゃんが好き。桃花ちゃんだって、ぼくのことが好きでしょ。だったら、少しぐらいいいじゃん。なにしろ、ぼくは死んでいる。桃花ちゃんは生きている。ぼくがこの形を保つために、協力して」
「要するに、私が部屋を離れるか、あなたにいなくなってもらわないと、不調は治らない?」
「そうみたい。でも、安心して。ぼく、桃花ちゃんがこっちの世界に来てくれたら、大歓迎。ふたりで中有をさまようなんて、すてきだよ」
相変わらずの笑顔で、リョウは私を抱き締めてくれた。胸が震え、ぞわりと鳥肌が立った。少し前までは、これを恋のときめきを勘違いしていた自分が悲しい。リョウに抱きつかれるたびに、体温がじわじわと下がってゆく。
私はリョウの両頬を手のひらでしっかりととらえた。
「私、不調の治しかた、もうひとつ知っている。それは、あなたを消すこと」
「消す?」
かわいく首を傾げるリョウのしぐさに心を動かしそうになりながらも、私は続ける。
「しばらくあなたが消えていたとき、地縛霊のことを調べたの。この場所に強い未練を残しているから、動けない。だから、いつまでも成仏できない。この部屋に執着している理由が分かれば、きっと天に還れる。成仏できるはず」
「いやだ。ぼく、離れたくない。生まれ変わりたくない」
「あなたは死んでいる。私の次に、この部屋を借りる人にも迷惑だもの。私がリョウくんを成仏してあげる」
「ぼくは桃花ちゃんと一緒にいられればいいんだ。『次の人』なんて、さみしいことを言わないで」
「大学を卒業したら、私は実家に戻る。この部屋に住めるのも二年少し。できれば私もリョウくんとずっといたい。でも、これ以上は無理」
「どうしたの、桃花ちゃん。急に怖いよ」
「なるべく、リョウくんが傷つかないようにがんばる。あなたは学生だった。十八歳。なにかが起きて、この部屋で自殺した」
「やめて、苦しい。思い出したくない」
「そのあとは、これから調べる。堂々と、立派に死んでほしい」
お芝居ではなく、リョウはほんとうに苦しそうだった。
「ぼくがいなくなっちゃってもいいの? 桃花ちゃんの薄情者。ぼくが大切って何度も言ってくれたのに。全部、嘘?」
「嘘じゃない。でも、このままじゃいけない」
「残された時間、ごはん、作るよ。掃除、するよ。おふろにも入るし、一緒に寝てあげる。気持ちいいこともしてあげるのに、それでもいや?」
「好きだけど、私……まだ死にたくない!」
リョウは冷めた顔つきになった。
「じゃあ、時間を区切ろう。だらだら調べているような時間はない。ぼくの見立てでは、桃花ちゃんの命はあとひと月ってところ。自由に動けるのは十日、いや一週間ぐらいかな。一週間以内に全部が解明できなければ、ぼくのものになるんだよ」
「ひと月後に、死ぬの? 私」
「うん。ぼくに憑かれてね。でも、痛くも苦しくもないから、心配しなくていいよ。ただ、すうっと魂が抜けるだけ。ああ、ひとつ言っておくけど、ぼくから逃げることはできないよ。ぼくは、桃花ちゃんにしるしをつけた」
「しるし?」
「うん。首筋の、キスの痕」
私は首筋につけられたリョウの痕をさすった。日に日に赤黒く、色が濃くなるのでどうしたものかと思い、外出するときはマフラー巻いたりして隠していたが、リョウの仕業だったとは。
「しるしがある限り、ぼくの桃花ちゃんへの思いは消えない。ひと月後、このしるしから化け物が生まれて桃花ちゃんを喰らいつくすよ。どこにいても、ね」
きれいな顔で、平気で怖ろしいことを口にするリョウ。今さら、私は引っ越したことを激しく後悔した。逃げるようなことはしないで、ストーカー本人と話し合ったり、周囲にもっと相談したほうがよかったのではないだろうか。
「ばけもの……」
でも、過去は変えられない。
私はチャンスだと思うことにした。リョウを成仏させるよいチャンス。ここで、リョウに癒された自分は確かにいる。否定したくない。リョウがいたということを、忘れたくない。憑かれても、好き。
「分かった。一週間以内に、やってみる。リョウくんのこと、好きだからこそ成仏してほしいの。すてきな人なのに、これからもずっといやがられたり、恐れられたりするなんて、かわいそうだもん。できたら、新しいいのちに生まれ変わって、また生きてほしい。そして、生きている者どうしとして出逢えたら、もっとうれしいよ」
ほんとうは自分だって、リョウを恐れはじめている。けれど、視線を逸らしたくない。私は震える身体を己の腕でつかみながら、語った。
「そこまで……ぼくのこと。桃花ちゃんみたいな子は、初めてだ。絶対に、ほしいな」
ほしい。リョウのことばが、私の胸をえぐる。死ぬのもいやだし、成仏できない世界に連れて行かれてしまうなんて、怖い。
「期限までにできなかったら、観念する。正直、話しているのもつらい。だからリョウくん、これから一週間は見ているだけにして。動くたびに、私の元気を奪っていくんでしょ」
「うん。ぼくは食べたり飲んだりしないぶん、生きている人の生気を分けてもらうんだ。でも、見ているだけでいいの? 桃花ちゃんに、いろいろできなくなるよ」
リョウは私に顔を近づけてきた。
「い、いい。しなくて、結構です。リョウくんはこのソファから離れたら、だめ。私、さっそく動く」
携帯を取り出し、不動産屋へ電話した。強気な態度で、このマンションの担当者を呼び出す。
「今すぐ、私の部屋へ来なさい! でないと、この部屋に鮮明な地縛霊がいるって、テレビ局にネタを売っちゃうからね。三十分以内に来ないと、情報提供するから」
遅い時間だったけれど、担当者は十分で飛んで来た。
「はあ。これが地縛霊、ですか」
ソファに座ってにこにことしているリョウを眺め、興味がなさそうにつぶやいた。地縛霊とはいえ、見た目は人と変わらない。
「リョウくん、この人から生気をがんがん吸い取っていいよ」
「ぼく、若い女の子が好みなんだけど。中年男性はちょっとね。しかも小太り」
「選んでいる場合じゃないよ。ひとりぐらしの私の部屋に来る人なんて、少ないんだから」
「はいはい。お久しぶりです、ぼくのことを覚えていますか」
リョウはいっそう華やかに笑いかけ、握手を求めて右手を差し出した。
「お久しぶり? 初めまして、ではありませんか」
担当者は自分の名刺を差し出しかけた手を止めた。
「いいえ。ぼくもあなたを介してこの部屋を借りたんですよ。あのときはそう、新築でしたね。そこまで言えば思い出しましたよね。当マンション507の最初の借り手。ぼくです」
「え、最初、の」
リョウの笑顔に、担当者は次第に顔を曇らせる。
「はい。ぼくがいなくなったあとも、あなたはここへ何人も見学に連れて来ました。ぼくの気配を悟って早々に逃げ出した人もいれば、すんなり話が進んで実際に住みはじめた人もいました。でも、誰も長続きしなかった」
「は、話が見えません」
「あなたは霊感が弱いんですね。これだけ親切に説明してあげても、さっぱり気がつかないなんて。三年でずいぶん太ってしまって。それに髪も。ああ、これ以上は失礼ですね」
そう言いながら、リョウは担当者と強引に握手した。
「つ、冷たい。というか、感触がない? 土を握らされているような」
ようやく、担当者は事態を察知したようだった。
「やっと理解しはじめたようですね。ぼくはこの部屋の地縛霊。死んでいます。顔、覚えていませんか」
「……あっ、朝香響(あさかきょう)!」
朝香響。それが、リョウの本名だった。
「お、名前が出た。名前。そうか、朝香響。桃花ちゃんに『リョウ』って呼ばれて違和感なかったのは、語感が似ていたせいなんだ。『響』と『リョウ』。なるほどね。そうか、ぼく朝香響っていう名前だった」
満足したように、リョウは頷いている。
「これから、キョウくんって呼んだほうがいいかな」
念のため、私はリョウに尋ねた。
「リョウでいいよ。慣れたし。せっかく、桃花ちゃんからもらった名前だもん」
「しゃべった。死人が、しゃべった……よりによって、あの朝香響の亡霊が」
担当者は顔面を蒼白にして、ぶるぶると怯えている。しかし、許すわけにはいかない。
「そのほかにも、とっとと教えなさい。彼のプロフィール。彼を成仏させたいの。管理している情報を教えて。これは、あなたにもいい話だと思う。さもないと、マスコミにネタを提供する。これだけはっきりと視える霊なんだから、さぞかし話題になるでしょうね。リョウくん、顔がいいから地縛霊初のアイドルになったりして」
「ぼく、部屋を出られないんだよ。桃花ちゃんってばもう」
「そうだった、いやだな私ってば。『アイドルの彼女』なんて、私の個人的願望だったね」
談笑するふたりを傍目に、担当者は冷や汗を流しながら仕事用のパソコンを開き、リョウのデータを私に極秘で教えてくれた。情報を漏らしたことが会社に知られたら、解雇ものだろう。私も、朝香響のデータを内密にすると固く約束した。
斯波リョウこと、朝香響。十八歳。千葉県出身。大学進学を機に、ひとり暮らしをはじめた。住みはじめて半年後、この部屋で何種類もの薬を大量に飲み、昏睡した状態で冷え込む十一月の夜にベランダにて凍死。自殺と鑑定された。なぜ死に至ったかまでは、不動産屋の所有するデータには記録されていなかった。
「今日は協力してくれてありがとう」
相変わらずソファに陣取っているリョウに、私はお礼を述べた。言いつけを守るリョウは真面目だ。この生真面目さが、死を招いたのだろうか。
「成仏したいわけじゃないけど、自分のこと思い出したい気持ちはある。桃花ちゃん、ぼくのことなのに、とても一生懸命で、感動したからさ。できることはする。でも、ぼくは外に出られない。明日は、どうするの?」
「勇気を出して、お隣さんにインタビューする。それと、当時の新聞を調べてみようかな。なにか、載っているかも。その次は、リョウくんの実家や大学を訪ねてみる」
「体調、だいじょうぶ?」
「今日はそんなに悪くない。たまに眩暈がしたぐらい」
「不動産屋の小太り営業からだいぶ頂いたからね、生気を」
胸が痛む。やさしく笑いかけられると、自分が今していることが正しいのかどうか迷ってしまいそうになる。理屈をこねながら、私はリョウを消そうとしている。自分を守るために。一緒にいられたら、どんなにいいか。すてきなリョウを成仏させるなんて、もったいない。けれど、私は生きている。リョウは死んでいる。これまで、自分は逃げてばかりだった。もう、逃げたくない。
「でも、ちゃんと食べなきゃだめだよ。ぼくが食事を作らなくなった途端に、コンビニ通いなんて」
「今日は時間がなかっただけ」
「無理しないで、最後のひと月をぼくと楽しんで過ごしてもいいんだよ、ねえ桃花ちゃん」
「だめ。だめだよ、リョウくんはソファから下りたら、だめ!」
「そ。じゃあ、桃花ちゃんがソファに上がって来て、いちゃいちゃしたくなるように、ぼく仕向けるね」
「ね、寝る。おやすみなさい」
「うん。また明日ね」
私はベッドにもぐった。もっと深く考えようと思っていたのに、心をリョウにかき乱されてしまい、考えがまとまらなかった。
「弱いなあ、私」
翌日。私は508のドアの前で固まっていた。お隣さんのインターフォンを押す勇気が出ない。
「押す、押さない。押す、押さない。押すしかない、押せ自分」
いつしか、ひとりごとになっていた。聞きたいことは、リョウのこと。緊張でうまく質問できないかもしれないので、メモにまとめてある。
「一、リョウくんを覚えていますか。二、どんな男の子でしたか。三、あの日のことを詳しく聞かせてください……はー、だめだ」
なにしろ、住宅とは一生でいちばん高い買い物のはず。それが、いわくつきの事故物件マンションになってしまったのだ。怒りや落胆も大きかったことだろう。その傷をほじくり返そうとしている。
戸惑っていると、ドアが開いた。
「どなた?」
怪訝そうに私を見たのは、三十なかばぐらいの女性。これから出かけるらしい。やや派手目な服装に、しっかり化粧をして顔を作ってある。
「あの、初めまして。私、隣の部屋に引っ越してきた……」
手みやげぐらい持ってくるべきだった?
「転居の挨拶? 要らないわ。エレベーターで会ったときとか、適当に『こんにちは』って、会釈しておけば問題ない。あなた、女の子のひとり暮らしでしょう、いくらオートロックの分譲マンションでも、個人情報を開示しないほうが身の安全のためよ」
女性は部屋のドアに鍵をかけ、エレベーターへ向かって歩きはじめた。
「いきなりでぶしつけですが、私の部屋のことなんです! なにか、ご存知ですか」
「あなたの部屋? 507の?」
「はい。少しで構いません」
「あなたの部屋は、呪われている。新築当時、五階に入居した人は、半分以上出て行ったと思う。人が死んだ。しかも、自殺。あなたは、知らないで入居したクチ? 駅前の不動産屋、相変わらず汚い。気味が悪いの?」
「いいえ。彼のこと、知りませんか。自殺した朝香響くんのこと」
エレベーターの下ボタンを押そうとした赤い爪の動きが止まった。
「若いけど、いい男だったわ。でも、彼を巡ってか、女どもがマンションの周りでよく口論していた。『響くんは私のもの』みたいな。まさか、彼が化けて出た?」
「ええっ! 死んでいますよ、彼は」
「冗談よ冗談。でも、そんな噂もある。それで借り手がつかないとか云々。でも、あなたみたいな奇特な子もいるわけだし、短いスパンで店子が入れば敷金礼金仲介手数料で、かえってボロ儲けじゃない。幽霊騒ぎには、不動産屋も一枚かんでいると見たわ。ま、実際このマンションを購入した人間にとっては価値大暴落で、迷惑のなにものでもないけど。住人に、彼のことを聞き出そうなんて、やめなさい。どうしてもって言うなら、管理室へ行くこと。じゃあね」
隣に住む女性はエレベーターに乗った。
かなり、話してくれたと思う。感謝しなければならない。
気を取り直して五階全戸を回ったけれど、半分が留守。在宅の人も、三年前は住んでいないという人が多かった。そのうちの一軒には、ものすごい剣幕で怒られた。『忘れかけていたのに、思い出させるんじゃない』と。
おそるおそる管理人にも尋ねたが、管理会社の都合で毎年入れ替わっているらしく、実際に現場で見た人の話は聞けなかった。それでも、困り顔の私を憐れに思ったのか、管理記録を見せてくれた。
「あった。ここですね」
三年前の十一月十七日。507に住む友人が倒れていると訪ねてきた女性から報告を受け、通報。507の住人はすでに息絶えていた。睡眠薬などの大量の服薬、ベランダでの凍死だと判明。終日、事件の対応。その後も一週間ほどは507の事件でかかりきりだったようだが、十二月に入ると通常業務に戻っていた。
「彼の遺体は、誰が引き取ったんでしょうか」
「507は賃貸物件ですからね。実家の方が来られたのではないでしょうか」
あの事件のことはマンション内で禁句になっているので、聞き込み調査はやめてほしいと釘を差されてしまった。
引っかかるのは、発見者が女性だという点。508の方も、リョウのことで言い争っていたのを目撃している。あの容姿なら、超モテでも不思議ではない。
それに睡眠薬。リョウは、不眠で通院でもしていたのだろうか。
部屋には、愛らしいリョウの笑顔がある。
「おかえり、桃花ちゃん。なにか分かった?」
リョウはソファの上に置かれたぬいぐるみのようになって、私の言いつけ通りおとなしく座っている。地縛霊と知っていても、いやされてしまう。
「あんまり進展はなかった。それどころか、ほじくり返すなって、注意されちゃった。明日は、リョウくんの実家へ行ってみるね」
「懐かしいなあ。千葉でしょ、忘れていた」
「てゆうか、千葉ぐらいなら、リョウくんの大学には通学できたよね。どうしても、ひとり暮らしがしたかったの?」
リョウは首を横に振った。
「誘導されても答えません。なにしろ、覚えていません」
「いつもおとなしいのに、こんなときだけかわいくない」
リョウは笑った。私もつられて笑っていた。なくしたくない、ふたりだけの時間なのに。
リョウの実家、朝香家は郊外の一軒家だった。最寄の駅から徒歩十五分。額が汗ばんだ。
周囲はとても静か。宅地に並んで畑も残っている。ネギ、ほうれん草、小松菜。さつまいもは収穫した蔓が隅っこに寄せられて山になっている。私の実家も農家なので、なんだか懐かしい。実家住まいのころは田舎過ぎてうんざりした光景に、落ち着いてしまう自分がいた。
はじめは億劫だったインターフォン攻撃にも慣れた。自分の命がかかっているのだ、恥ずかしいとか言っていられない。
「こんにちは。私、朝香くんの同級生で、長谷川桃花と申します」
という無難な設定にしておいた。対応に出てきてくれたのは、リョウの母だった。
「ありがとう。あの子の命日が近いものね。うれしいわ。最近は、お線香をあげにきてくれる子もすっかりいなくなって。どうぞ、狭い家ですが」
横顔が、リョウによく似ている。ああ、母親なんだなと感じた一瞬。私は目を細めた。
「これ、おみやげです」
リョウの母に、和菓子の紙袋を差し出した。
「お気遣い、ありがとう。あの子の仏前にあげてくれるかしら。二階なの。さあどうぞ、ごゆっくり」
仏壇は、生前のリョウの部屋にあった。大学進学後はあまり使われていなかっただろうが、リョウの母はこまめに掃除をしていたようで、よく整っている。正直、私の部屋よりもきれい。
「わ、遺影」
笑顔のリョウ。高校生のときの写真らしく、制服を着ている。後ろに校舎や桜が写り込んでいるから、卒業式だろうか。
今と、なにも変わらない。強いて言えば、部屋にいるリョウはもっと顔立ちが細いだろうか。
なにはともあれ、お線香を供えよう。
これを見たら、本人はなにを思うだろう。地縛霊になったあとも、同じように時間は流れている。リョウの分まで、私は必死に祈った。どんな些細なヒントでもいいから、くださいと。
お参りを終えた後、私はそっと階段を下りた。リョウの母に話を聞くつもりだった。母も、そのつもりだったようで、お茶を用意してくれていた。
「お時間があるようなら、座ってちょうだい」
「はい」
「遠いところを、わざわざありがとう」
私は緊張しながら腰を下ろした。大学時代の同級生と説明してしまったが、実は三つ年下である。リョウが大学でなにを勉強していたかなんて、知らない。確か、法学部だった。自分は文学部、法律の知識なんて常識程度にしか持ち合わせていない。
不審がられないように、慎重にならなければ。素直に『あなたの息子さんが地縛霊で、困っています』なんて言ったら、外に投げ出されかねない。リョウに会わせてあげたい気持ちもあるが、いっそう現世に執着されても困る。
どう切り出そうかと私が考えていると、リョウの母から話しかけてくれた。
「うれしくて。ごめんなさいね。おばさんの話し相手なんて、苦痛でしょうに」
「いいえ。朝香くんのお母さん、すごくおきれいです。朝香くん、お母さん似なんですね」
「若いのにお上手。おばさんよ、おばさん」
しまった。私は失敗してしまった。大学の友人を騙ったということは、知り合い前提で話をしなければならない。リョウの大学時代のエピソードなど、ひとつも知らない。訪問する順序を間違えてしまった。適当に話を合わせるどころではない、今さら『どんなお子さんでしたか』なんて聞けやしないのだ。私は拳を握り締めた。せめて、かわいい嘘を、つこう。
「私、実は朝香くんのこと、あまり知らないんです。すてきだなって、遠くから見ていたぐらいで。ここの住所も、友人の友人に聞いたんです。勝手なことをして、ごめんなさい。でも、朝香くんがどんなところで育ったのか、知りたかったんです。お気を悪くしてしまったなら、帰ります」
そう言って、立ち上がろうとした。これで突き放されたらおしまいだ。私の一世一代の演技。
「そんな気がしていたの。あなた、あの子のお葬式のときも、来なかったわよね」
「……は、はい」
来られるわけがない。リョウが死んだときの私はまだ、なにも知らない田舎の高校生。
「こうしてあの子をとむらってくださるだけで、うれしいわ。ありがとう」
リョウの母は、私の手を握った。なんだか、ひどい罪悪感。
「リョウく……じゃない、事件前の朝香くんはなにかに悩んでいた様子でしたが、ご存知ですか」
図々しく、私は重ねて尋ねた。
「それが、ちっとも。こういうことは、幼なじみの優子(ゆうこ)ちゃんのほうが詳しいはずだけど、もう」
「ゆ、優子ちゃん? どなたですか、その方は」
「あの子の幼なじみで、うちの隣に住んでいた女の子よ。でも、引っ越してしまって」
新しい手がかりを知り、私の心臓はどきどきと跳ねている。優子ちゃんという人物に、ぜひ会いたい。
「どちらへ? 連絡、できますか」
「転居先が東北だったの。最初は、そのあとも引っ越しを繰り返したみたいで、今は居場所が分からないの。優子ちゃんは生まれつき身体が弱くて、療養のための転地だったのね。家族ぐるみのお付き合いで、優子ちゃんはとてもいい子だったのに、残念。でも、あの子のことは悲しい知らせになるから、知らせないでいたほうがいいのかも」
「朝香くん本人が、優子ちゃんと連絡を取り合っていたという可能性はありませんか」
それでも食い下がる。この重要参考人は逃せない。
「大学へ入学してからは、ちょっと。家にいたときは、なんでもよく話していたから、もしかしたらってことはあるけど、あの子の身の回りの品は片づけてしまって」
事件解決の糸口が見つかったと思ったのに、音信不通とは。会いたかった、優子さんに。
「今日はお墓参りもしたいと思っているのですが、この近くですか」
リョウの母は驚いた顔になった。
「あの子の骨は、朝香家先祖のお墓の中なのよ。近くにあるとつらいって、主人が遠くへ納骨してしまって。北海道の函館」