リョウの存在に私が気がついたのは、引っ越し初日の夜。
 家財は業者さんが運んでくれたので、実際に自分が運んだわけではないけれど、疲れていた。
「おつかれさま。肩、揉んであげる」
 という、やさしい声が天井のほうから聞こえた。
「うれしい。お願い」
 反射的に答えてから、なにかが違うと思った。この部屋には、私ひとりしかいないのに、声がするなんてありえない。テレビもつけていない。私は背後を見ようと決心し、勢いよくがばりと振り返った。
 そこには、私とそう変わらない年頃の男子がいた。
 やさしい笑顔で、私を見つめている。背が高くて、きれいな顔立ちをした、ふわふわの銀灰色の髪の美青年。
「だ、誰なの」
 そう言うのがやっとで。私の喉はからから。
「初めまして。一緒に暮らせるのを、ずっと待っていたよ」
 宙に浮いた美青年は、いたって普通に話しかけてくる。肩もみ、上手い。けれど、流されていい場面ではない。
「って、だからあなたは、どこの誰なの!」
「ここの住人」
 聞いていない。先住民がいたなんて。私は速攻で携帯電話を取り上げた。
「ここは私が借りた部屋。いくら美男子でも、勝手に室内へ上がることは許せない。不動産屋、いいえ警察、呼ぶから。もしもし、もしもーし」
「話の途中だよ。電話しないで」
 電話は通じない。圏外になっている、ありえない。私は携帯を床に落としてしまった。
「ほら、落ちたよ。長谷川桃花さんだったよね。『桃花ちゃん』って、呼んでいい?」
 ありえない。この部屋は、空いていなかったのだろうか。
「あなたは、住んでいた、の?」
「うん、三年ぐらい。正確に言うと、憑いていたっていうか。ぼく、霊体だから」
 手を引かれたけれど、その腕にぬくもりは感じられなかった。ぞくりとするほど、冷たい身体をしている。
「ぼく、この部屋で三年前に死んだんだ」
 私は面喰らった。それは、世間で俗に言う、『地縛霊』というやつではないだろうか。
「ここは私が借りたの。とっとと成仏……」
「よろしくね。ちなみに、ぼくは出て行けない。どうしても外には出られないんだ」
「ていうか、あなたはどうして死んだの」
「よく覚えていないんだけど、誰かが教えてくれた限りでは、ぼく自殺したみたいで」
 思わず、私は叫びそうになった。引っ越し初日に、新居の黒い噂を聞くなんて。もう一度、電話を取り上げて不動産屋へかけ直す。今度はつながったけれど時間も時間、誰もいないようだ。
「新しく来てくれたのがかわいい女の子で、うれしい。桃花ちゃんはぼくのこと、やっぱり怖い?」
 いじらしい視線でじっと見つめてくるから、突き放せない。地縛霊だかなんだか知らないけれど、無視したら私は一生、罪悪を感じるだろう。この世の、しかも自分の目の前に霊がいるなんて信じられない。信じたくない、のに。気味が悪いけれど、傷つけてしまいそうで言えない。
「怖いっていうか、驚いただけ。顔はいいし、やさしそうだし、害はなさそう……かな」
「うわあ、うれしいな。ぼく、家事得意なんだ。任せてね」
 家事全般が苦手な桃花でも、とにかく消えろ、消えて、いなくなれと思った。
「よかったー。桃花ちゃん、すごくいい人。前の人もその前の人も、ぼくを見るなり絶叫したり、怒鳴ったりされて。長くてもひと月。短い人は三日で引っ越して行った。ぼくは仲よくなりたかったのに、残念だった。桃花ちゃんとは、うまくやっていけそう」
 なけなしのお金をはたいたのに、引っ越し先には地縛霊が居座っていたなんて。笑い話にもできない。
「とりあえず、私は寝る」
「そうだね。桃花ちゃん、おつかれだもんね。おやすみなさい」
 夢かもしれない。布団をかぶって寝た。怖くて電気を消せなかったけれど、気をきかせてくれた地縛霊さんが、私が寝たあとにそっと消してくれたようだった。