「おかえり。遅かったね。夜ごはんを作って待っていたんだけど」
今夜はカレーだった。いい香りがする。異様にだるいと思ったら、今夜はリョウが食事を用意してくれていた。リョウが行動すると、私の命が縮んでしまうのに。
飛行機のフライトが遅れ、植えつけられた黒い痕は膝先にまで達してしまっている。優子に支えられても、立っているのがやっと。部屋までよく戻って来られたと思う。
「食べる! 食べるよ、ねえ優子さん。お客さんだよ、リョウくん」
「……ゆう、こ」
リョウは、優子の姿を見て固まった。けれど、優子に変化はない。
「もしかして……見えないとか」
リョウは見えやすい存在だと思う。私にも見える。友人たちもしっかり確認して羨望していたし、不動産屋の使えない営業マンも確認した。にもかかわらず、優子はきょとんとしている。
「いるの? そこに、響が」
玄関先まで出迎えにきていたのに、リョウはソファに舞い戻って引きこもりをはじめた。霊体のくせに、身体が震えている。人間味あふれる地縛霊だ。
「優子なんて呼んでいない。桃花ちゃん、こんなの連れて来るなんてひどいよ」
「でも、優子さんはリョウくんの死を、いちばんよく知っている人だよ。こんなのなんて、言い方がひどい」
「帰ってもらって。すぐに」
「昔話でもしなよ。幼なじみなんでしょ」
私は怒りを込めて主張した。
「桃花さん、響との間に入って話をしてくれる? 響と話をしたい」
「ちょっと待ってください。ねえ、リョウくんってば」
「無理。優子みたいな強い女は勘弁して。ぼくに、変だとか気持ち悪いとか、ぼくに言い続けてきた優子になんて、会いたくない」
感動の再会と和解、それに成仏もあったら最高なのに、簡単にはいかないらしい。片方は相手の存在を確認できず、もう片方は怯えまくっている。
「響! 聞こえる? 優子だけど!」
呼びかけられたリョウの顔は真っ青。
「桃花さんの身体に、いたずらしている場合じゃないよ。女の子の身体、なんで黒く塗ってんの。傷つけてんじゃないよ。あんた、自分よりか弱い存在には高圧的だよね。犬とか猫とかには虐待していたこと、忘れていない。化けて出るんじゃないよ。恨みつらみは、私が地獄に言ったら聞いてやる」
リョウは優子を怖れている。暴露されたくない過去があるようだ。
「お願い、桃花ちゃん。優子に謝って」
「う、うん。でもリョウくんは悪いことをしていないから、謝る必要はないと思う。むしろ、おつかれさま」
「ちょっと桃花さん、響の味方をするつもり?」
「味方ではありませんってば。むしろ、乙女の肌に黒い痕で、ちょっと憎しみが生まれています」
「だったら、私の言うことを聞いて」
「早く帰れって言って、早く」
やさしいリョウが、とうとう優子に反発した。優子は私の視線の先にいる見えないリョウの姿を必死に目で追おうとしている。
「優子の言うことは、今までなんでも聞いてきた。最後には死んであげた。もう、自由にして」
リョウは優子に縛られていた。もちろん、優子はリョウが好き好きで、純粋に心配なだけだったと思う。しかし、過剰な干渉になっていた。
「大学へ行って、ようやく優子の干渉を断ち切れたのに。また追いかけてくるなんて」
「私が呼んだんだよ。リョウくんに会ってって」
「桃花ちゃんも、優子までたどりつくなんて。乗っ取りやすそうな女の子だなって思ったのに」
物騒なことを言いはじめたリョウに、私は戸惑った。
「乗っ取る?」
「ぼくは悩んでいたけれど、ほんとうはまだ死にたくなかった。そんな勇気なかったし、三年前に死んだことがまだ信じられない。優子と再会しなかったら、今でもぼくは女の子たちにちやほやされて、自堕落な生活をしていたと思う。女の子たちを惑わせてしまうこの容姿には、ぼくなりに悩んではいたよ。なのに、優子がぼくに薬を勧めてきて、ひと晩で壊してくれた。優子が来て、考えるのもいやになった。すべてが面倒だった」
私は、口を固く結んだまま、リョウの話を聞く。
「だから死んだあともこの部屋に憑いて、入り込めそうなやつがあらわれるのを待っていたんだ。桃花ちゃん、きみ合格だよ。かわいそうだけど、桃花ちゃんこそ成仏してもらう。ぼく、やさしい性格をしているから、女の子になりたいかも」
リョウとずっと一緒にいたい、そう思ったときも確かにあったのに、リョウは私の身体を利用するつもりでいただけだった。リョウの本性を知った私の身体は、震えていた。奪われてしまう。背中を冷や汗がひと筋、つつっと流れた。
「なに。なんて言っているの、響は。桃花ちゃん?」
優子は桃花の顔色の悪さを見るなり、両腕をつかんだ。すでに手の指先まで真っ黒、しるしは首にも広がっている。確認したくないけれど、下半身……脚のつま先までもしっかりと黒く染まっているはずだ。
「わ、私の身体を、乗っ取って、私になると」
「悪い冗談? 死んだ響があなたに憑くってこと?」
「そうみたいです。私の魂を追い出して」
「許さない。響、そんなこと許さない。桃花ちゃんはいい子。乗っ取るなら、私にして」
「優子は、絶対にいや」
リョウと優子の間を通訳するのもつらくなってきた。目の前がかすむ。身体が重い。意識もどんより鈍くなっている。私の異変に気がついた優子は、助けようと必死になった。
「響、ごめん。あなたのこと、考えたつもりで死のうって言った。でもあれは、ただの嫉妬だった。モテる響は許せなかった。変だとか言っていたのも、あなたが女の私よりもきれい過ぎるから。いつまでも、私だけの響でいてほしかった。ごめん、響。好きだった。私だけ、助かってごめん。目を覚まして。この子は助けて。解放してあげて」
切々と、優子はリョウを諭した。涼しい顔をしていたリョウの表情が、初めてゆがんだ。
「黙って、優子。きみのことばを聞くと、ぼくはいらいらする。正論を振りかざしているように見せかけながら、実は傲慢そのもの。死にたくなかった、ほんとうは死にたくなかったんだ!」
リョウの訴えは、優子の耳には届かない。目に見えないリョウを説得する優子も大変だろうが、リョウはもっとつらそうだ。目を血走らせ、歯を食いしばり、銀の髪を逆立てている。死霊というよりも、地獄の鬼のような風貌に変わった。
「何度でも謝る。だから、桃花さんを傷つけないで!」
「やめて、やめてくれ! 優子、帰って。ぼくの自由を奪わないで。今さら謝るぐらいなら、どうして生きているときに、優子のほんとうの気持ちを告白してくれなかったのさ、今ごろになって、なんなの。薬を勧められたあの日も、ぼくは優子が怖かった。嫌われていると思った。ぼくをけなしつつも守ってくれた優子までもが敵なんだって分かったら、全部どうでもよくなった」
苦しみはじめたリョウとは対照的に、私の身体は次第に軽くなってきた。
「優子さん、もっとリョウ……じゃない、朝香くんに話しかけてください! 朝香くんは、優子さんの話を聞いています。優子さんのことばで、朝香くんに変化が起きています」
そのとき、頭上からやわらかな光が差し込んできた。光は、きらきらとなないろに輝き、リョウをそっと包みはじめる。
「ひかり……見えた。響が見えた」
優子は私の横をすり抜け、胸をおさえてうずくまるリョウに近づいて抱き締めた。
「ごめんなさい。今度こそ、安らかに眠って。響、大好きだよ」
「いや、成仏したくない。ぼくはまだこの世にいたい。残って、誰かに憑いてやるんだ」
「そんなことをしたら、ほかの誰かが不幸になる。響、いったんさようなら。必ずまた会おう」
「いやだよ、消えたくない」
「ごめんね、リョウ。大好きだった」
「……告白して謝るなんて、ずるいよ」
それでも否定を続けたリョウの身体は光の渦にとけてゆき、やがてきらきらと光って消えた。私が最後に見たリョウは、満足そうな笑顔だった。
今夜はカレーだった。いい香りがする。異様にだるいと思ったら、今夜はリョウが食事を用意してくれていた。リョウが行動すると、私の命が縮んでしまうのに。
飛行機のフライトが遅れ、植えつけられた黒い痕は膝先にまで達してしまっている。優子に支えられても、立っているのがやっと。部屋までよく戻って来られたと思う。
「食べる! 食べるよ、ねえ優子さん。お客さんだよ、リョウくん」
「……ゆう、こ」
リョウは、優子の姿を見て固まった。けれど、優子に変化はない。
「もしかして……見えないとか」
リョウは見えやすい存在だと思う。私にも見える。友人たちもしっかり確認して羨望していたし、不動産屋の使えない営業マンも確認した。にもかかわらず、優子はきょとんとしている。
「いるの? そこに、響が」
玄関先まで出迎えにきていたのに、リョウはソファに舞い戻って引きこもりをはじめた。霊体のくせに、身体が震えている。人間味あふれる地縛霊だ。
「優子なんて呼んでいない。桃花ちゃん、こんなの連れて来るなんてひどいよ」
「でも、優子さんはリョウくんの死を、いちばんよく知っている人だよ。こんなのなんて、言い方がひどい」
「帰ってもらって。すぐに」
「昔話でもしなよ。幼なじみなんでしょ」
私は怒りを込めて主張した。
「桃花さん、響との間に入って話をしてくれる? 響と話をしたい」
「ちょっと待ってください。ねえ、リョウくんってば」
「無理。優子みたいな強い女は勘弁して。ぼくに、変だとか気持ち悪いとか、ぼくに言い続けてきた優子になんて、会いたくない」
感動の再会と和解、それに成仏もあったら最高なのに、簡単にはいかないらしい。片方は相手の存在を確認できず、もう片方は怯えまくっている。
「響! 聞こえる? 優子だけど!」
呼びかけられたリョウの顔は真っ青。
「桃花さんの身体に、いたずらしている場合じゃないよ。女の子の身体、なんで黒く塗ってんの。傷つけてんじゃないよ。あんた、自分よりか弱い存在には高圧的だよね。犬とか猫とかには虐待していたこと、忘れていない。化けて出るんじゃないよ。恨みつらみは、私が地獄に言ったら聞いてやる」
リョウは優子を怖れている。暴露されたくない過去があるようだ。
「お願い、桃花ちゃん。優子に謝って」
「う、うん。でもリョウくんは悪いことをしていないから、謝る必要はないと思う。むしろ、おつかれさま」
「ちょっと桃花さん、響の味方をするつもり?」
「味方ではありませんってば。むしろ、乙女の肌に黒い痕で、ちょっと憎しみが生まれています」
「だったら、私の言うことを聞いて」
「早く帰れって言って、早く」
やさしいリョウが、とうとう優子に反発した。優子は私の視線の先にいる見えないリョウの姿を必死に目で追おうとしている。
「優子の言うことは、今までなんでも聞いてきた。最後には死んであげた。もう、自由にして」
リョウは優子に縛られていた。もちろん、優子はリョウが好き好きで、純粋に心配なだけだったと思う。しかし、過剰な干渉になっていた。
「大学へ行って、ようやく優子の干渉を断ち切れたのに。また追いかけてくるなんて」
「私が呼んだんだよ。リョウくんに会ってって」
「桃花ちゃんも、優子までたどりつくなんて。乗っ取りやすそうな女の子だなって思ったのに」
物騒なことを言いはじめたリョウに、私は戸惑った。
「乗っ取る?」
「ぼくは悩んでいたけれど、ほんとうはまだ死にたくなかった。そんな勇気なかったし、三年前に死んだことがまだ信じられない。優子と再会しなかったら、今でもぼくは女の子たちにちやほやされて、自堕落な生活をしていたと思う。女の子たちを惑わせてしまうこの容姿には、ぼくなりに悩んではいたよ。なのに、優子がぼくに薬を勧めてきて、ひと晩で壊してくれた。優子が来て、考えるのもいやになった。すべてが面倒だった」
私は、口を固く結んだまま、リョウの話を聞く。
「だから死んだあともこの部屋に憑いて、入り込めそうなやつがあらわれるのを待っていたんだ。桃花ちゃん、きみ合格だよ。かわいそうだけど、桃花ちゃんこそ成仏してもらう。ぼく、やさしい性格をしているから、女の子になりたいかも」
リョウとずっと一緒にいたい、そう思ったときも確かにあったのに、リョウは私の身体を利用するつもりでいただけだった。リョウの本性を知った私の身体は、震えていた。奪われてしまう。背中を冷や汗がひと筋、つつっと流れた。
「なに。なんて言っているの、響は。桃花ちゃん?」
優子は桃花の顔色の悪さを見るなり、両腕をつかんだ。すでに手の指先まで真っ黒、しるしは首にも広がっている。確認したくないけれど、下半身……脚のつま先までもしっかりと黒く染まっているはずだ。
「わ、私の身体を、乗っ取って、私になると」
「悪い冗談? 死んだ響があなたに憑くってこと?」
「そうみたいです。私の魂を追い出して」
「許さない。響、そんなこと許さない。桃花ちゃんはいい子。乗っ取るなら、私にして」
「優子は、絶対にいや」
リョウと優子の間を通訳するのもつらくなってきた。目の前がかすむ。身体が重い。意識もどんより鈍くなっている。私の異変に気がついた優子は、助けようと必死になった。
「響、ごめん。あなたのこと、考えたつもりで死のうって言った。でもあれは、ただの嫉妬だった。モテる響は許せなかった。変だとか言っていたのも、あなたが女の私よりもきれい過ぎるから。いつまでも、私だけの響でいてほしかった。ごめん、響。好きだった。私だけ、助かってごめん。目を覚まして。この子は助けて。解放してあげて」
切々と、優子はリョウを諭した。涼しい顔をしていたリョウの表情が、初めてゆがんだ。
「黙って、優子。きみのことばを聞くと、ぼくはいらいらする。正論を振りかざしているように見せかけながら、実は傲慢そのもの。死にたくなかった、ほんとうは死にたくなかったんだ!」
リョウの訴えは、優子の耳には届かない。目に見えないリョウを説得する優子も大変だろうが、リョウはもっとつらそうだ。目を血走らせ、歯を食いしばり、銀の髪を逆立てている。死霊というよりも、地獄の鬼のような風貌に変わった。
「何度でも謝る。だから、桃花さんを傷つけないで!」
「やめて、やめてくれ! 優子、帰って。ぼくの自由を奪わないで。今さら謝るぐらいなら、どうして生きているときに、優子のほんとうの気持ちを告白してくれなかったのさ、今ごろになって、なんなの。薬を勧められたあの日も、ぼくは優子が怖かった。嫌われていると思った。ぼくをけなしつつも守ってくれた優子までもが敵なんだって分かったら、全部どうでもよくなった」
苦しみはじめたリョウとは対照的に、私の身体は次第に軽くなってきた。
「優子さん、もっとリョウ……じゃない、朝香くんに話しかけてください! 朝香くんは、優子さんの話を聞いています。優子さんのことばで、朝香くんに変化が起きています」
そのとき、頭上からやわらかな光が差し込んできた。光は、きらきらとなないろに輝き、リョウをそっと包みはじめる。
「ひかり……見えた。響が見えた」
優子は私の横をすり抜け、胸をおさえてうずくまるリョウに近づいて抱き締めた。
「ごめんなさい。今度こそ、安らかに眠って。響、大好きだよ」
「いや、成仏したくない。ぼくはまだこの世にいたい。残って、誰かに憑いてやるんだ」
「そんなことをしたら、ほかの誰かが不幸になる。響、いったんさようなら。必ずまた会おう」
「いやだよ、消えたくない」
「ごめんね、リョウ。大好きだった」
「……告白して謝るなんて、ずるいよ」
それでも否定を続けたリョウの身体は光の渦にとけてゆき、やがてきらきらと光って消えた。私が最後に見たリョウは、満足そうな笑顔だった。