「……明日必ず、朋君の話を聞きます。でも今日は、せっかくここに来たから、おじさんと話してもいいですか?」
「ええ? どうして……」
「私はやっぱり、おじさんと会えなくなるのもさみしいから。もしもおじさんに会えなくなったら、きっと今日のこと後悔しそうだから」
「……あはは、ありがとう。僕はしばらくここに通うつもりだよ。小説のネタはまだまだ見つかりそうにないしね」

それを聞いて安心する。

また明日なんて保証はどこにもないけれど、不意にいなくなることはないと宣言されたみたいでうれしい。

「ネタと言えば、おじさんはどんな小説を書いてるの? グロいとか言ってたけど、どういう話?」
「えー? 恥ずかしいなあ」
「もしも私がいなくなったら、言わなかったこと後悔するかもしれませんよ?」
「うわー! そうくるかー!? うーん、簡単に言うと、暴力! 不条理! 死! 因縁! っていうのが、1冊の中でずーーーーーーっと続いていく感じかなあ。小さな救いはあっても、それを叩き切るようなね」
「えー、やっぱり意外だ」
「え? そお?」

ぼさぼさ頭と無精ひげのせいか、おじさんからは陰気な雰囲気が漂っているけれど、話し方や表情はぱっと花が咲いたみたいに明るい。

「おじさんが前に、小説を書くときは共感が大切だって言ってたけど、おじさんは悲惨な話を書くときはどっちのほうが共感しやすかったんですか? 加害者? 被害者?」
「……えぇ? それはまた、すごい質問だね」
「だっておじさん、そんな話書けそうにないから。優しいし、穏やかだし、犯罪者の心理とかわからなさそう。どっちかというと運命に翻弄されるような被害者っぽい」

からかい半分でそう言ったのに、おじさんはなぜだかうれしそうににこにこ笑った。

「えー、それはうれしいなあ! お世辞とかじゃなくて?」
「え? そんなにうれしいんですか?」
「うん。僕は君くらいの頃、犯罪者みたいって言われてたから」
「……え?」

おじさんにとって嫌な記憶なのか、珍しく眉間にしわが寄っていた。

「僕の家は……あまり居心地のいいものじゃなくてね。運動も勉強もなんでも1番じゃなきゃ認められないし、会話は僕の意思よりも母の思う通りの返事をしなければいけない。少しでも駄目だと母がヒステリーを起こして、手がつけられなくなる。そのせいで女の子が苦手だった。甲高い大声を聞くと、今でも心臓がばくばくする」

いつもへらへらしているおじさんが、遠い目をしてつぶやくように話す。記憶にずっと蓋をしてきたものなのだろうか、振って栓をとった炭酸水が溢れていくように、とまらない。

「僕はプレッシャーに弱いみたいで、母の期待に全く答えられなかった。代わりに、僕のひとつ上の兄は完璧だった。母親の望むことをすべて叶えて、おまけに顔も性格もよくて。そのおかげか、母は僕に無関心になり、兄に全力の期待を寄せていた」

相槌をすることもできず、どう答えていいかわからないまま彼の話を聞く。気楽に『おじさんの話も聞きたい』と言った過去の自分を恥じた。

「ある日近所で、動物が無残に殺されるっていう事件があった。死骸が、明らかに人間の手を加えられたものだったって。それから近所で似たようなことが相次いで、真っ先に僕が疑われた」
「おじさんが? 誰に疑われたの?」
「クラスメイトとか、近所の人とか、たくさんの人から。僕はね、ちょっとおかしかったから。完璧な兄と無関心な母と暮らしてたせいかもしれないけれど、とにかく自分に自信がなくて。根暗で無愛想で、友達なんかいなくて、思い出したくもないくらい悲惨な高校生活を送っていた。多分、僕が外野でも僕みたいな人を疑うと思う。弱いものいじめして鬱憤を晴らしてるのかって思われても仕方ないくらいの人間だったから」

そんなことない、と言おうとして口をつぐむ。まさに私は、時田君のことをおばけだなんだと言って騒いでいたじゃないか。そんな私には、おじさんを庇う資格なんてないのかもしれない。

「でもね、僕は犯人を知ってたんだ」
「え?」
「僕の兄だよ」
「……」

息をするのも忘れるほどの緊張感があった。

「兄の部屋に、殺された動物の写真がたくさんあったんだ。まだ見つかっていないようなものもね。だけど僕は、兄だってわかってても言えなかった。兄のことが好きだったし、自分の姿と重ねてしまった」
「自分の姿……?」
「僕は高校生のとき、小説を書いていた。10冊分くらい、無我夢中で書いていた。今まで刊行しているのは、その当時書いていたものなんだ」
「え、じゃあ」
「うん。鬱屈した感情を登場人物にぶつけて、痛めつけて、自分より悲惨なストーリーを作って。それでストレスを解消していた。母親の教育の賜物だよ、どんな言葉を使えば人が傷つくのかわかっていたし、どうやれば洗脳できるのかもわかっていた。それを受けた人間の苦しみは、僕の中にあったから。言葉にするのは簡単だった」

今のおじさんと、高校生のときのおじさん。どうやっても結びつかなかった。

「僕は兄を告発するつもりはなかったし、僕が疑われるのも仕方がないと思っていた。兄は僕の分も母の期待に答えようと必死で、そんな兄に僕は助けられてたから。動物は本当にかわいそうだと思う。でも、そのときの僕は麻痺してたんだ。フィクションと現実の区別もついてなかったのかもしれない。兄を黙認して、自分の世界に閉じこもってた」
「……じゃあ、ネタ切れっていうのは」
「そう。高校生のころ書いた僕の悲惨な小説は、もう全て刊行してしまった。ストックゼロ。だから焦ったよ、ファンのみんなは目も背けたくなるほど陰湿でむごい僕の小説を求めていたから、プレッシャーに押しつぶされそうだった。でも毒が抜けた僕はだめだね、新たに書いた小説はどれもヒットせず、ネットでの評判は酷いものだったよ。ゴーストライター説まで出てた」
「……じゃあ今は、小説に鬱憤を発散しなくても大丈夫になったってことですか?」

作家としてはだめなのかもしれないけれど、それは健康的なことにも思えた。

おじさんはさっきまでの暗い顔をやめて、いつもみたいにふんわり笑った。

「そういうこと! 自分でお金が稼げるようになって、母親から逃れられたというのもあるけど」

彼は左手の甲を頬に寄せて、芸能人の婚約会見のようなポーズをした。薬指には、銀色のシンプルな指輪がはまっている。

どうして気が付かなかったんだろう。

ーーおじさんは、既婚者だった。

「結婚、してたんですね」
「そうだよ。恋をして、大切にして大切にされて、初めて感じるような幸せな気持ちを知ったら、僕の受けた傷なんて自然と癒えてしまった。本当に、愛しているんだ」

胸の奥がひやりと冷たくなる。

おじさんは、10歳年上だ。私なんかと比べられないほどたくさんの経験を積んで、この場にいる。

そんなのわかりきっていたはずなのに、秘密の場所にいる間は、対等な関係になっているのだと勘違いしていた。馬鹿だった。

おじさんは、私が背伸びしても届かない年の差を、膝を曲げて同じ目線に立つことで埋めてくれていただけなのに。

「……ごめんね、おじさん。私もう帰らないと」
「あ、ああ。そうか、もうこんな時間だ。おじさんの長話を聞いてくれてありがとう。明日は朋君の話を聞いてあげなさいよ!」
「……はい。さようなら」
「またね」

おじさんの顔を見ることなく背を向ける。

すごく泣きたい気分になって、それでもなぜ泣きたいのかわからなくて、とにかく歯を食いしばって帰り道を走る。

「わ!」
「きゃ!」

突然目の前が真っ暗になったかと思うと、衝撃が肩を叩いて、バランスを崩して転んでしまった。足元ばかり見て走っていたせいで、誰かとぶつかってしまったのだろう。