「ごめん、きもかった? そこに名前が書いてあったから、つい」

男性の視線の先は、私が抱きしめるように両手で持っていたノートがあった。国語の宿題をするために持っていたもので、その表紙にはしっかりと大きな字で『2年B組 佐々木心春』と書いていた。

「すごい、よくこの漢字で『みはる』って読めましたね! みんな初見で必ず『こはる』って言うのに」

心に春と書いて『みはる』と読むこの名前のせいで、何度も先生や友達に訂正をしてきた。一発で『みはる』と言ったのは、この人が初めてかもしれない。

嬉しくてつい興奮気味に言うと、男性は顎に手を当てて得意げに微笑んだ。

「まあ、小説家だからね。その辺のことには詳しいんだよ」
「えっ、小説家なんですか!?」
「うん。田中瀧人って知ってる?」
「……たなかたきと、さん? ……えっと、えっと」
「知らないよね、わかってた」

 田中さんは「あははっ」と自嘲しつつも明るく笑った。

「ごめんなさい……。でも、必ず本買います。えっと、たなか……」

国語のノートに作者名をメモしようとしたら、田中さんがノートに手を被せて邪魔をしてきた。思わず顔をあげると、彼の大きな瞳がゆらゆらと揺れていた。

「いい、いい。買わないで。女子高生が引くようなグロくて悲惨な話しか書いてないから。読んでも毒にしかならないよ。それに恥ずかしいし! こんなおっさんがこんな話書いてるの~!? ってなるのが一番恥ずかしい! ほんと見ないで買わないで覚えないで」
「えー! 気になるのに!」
「僕のこと不審者を見るような目で見てたから、ちゃんと仕事してるってことアピールするために小説家とか言ってかっこつけたんだけどさ、言うんじゃなかった! 覚えないでね。僕の名前は田村たいき。中田あやと。多田ひろし」

本当に恥ずかしいのか男性の顔がみるみる赤くなり、いろいろな名前を適当に言う。それを聞いていると、本当に彼の名前がなんだったのかわからなくなってきた。

「……あれ、結局なんていう名前でしたっけ?」
「よし成功。僕の名前は秘密。お兄さんって呼んでくれたらいいよ」
「じゃあ、おじさんで」
「おーい」

おじさんはショックを受けたような悲しい顔をして、噴水の水面に落ちない程度に体を反らせて空を仰いだ。その様子が面白くてつい笑ってしまう。

はじめはあまりにも不審な容貌に失礼な態度をとってしまったけれど、話してみると愉快なおじさんだったので安心した。

「私は、ここでぼーっと日向ぼっこするのが好きなんだけど、おじさんはなにしてるんですか?」
「うーん。僕もね、似たような感じ。ただ、今日ここに来たのは、ネタ探しのためだよ」

おじさんは無精ひげの生えた顎をさすりながら、空をぼんやり見つめている。私も同じように目いっぱい体をしならせて、空を見る。日の暮れかけた、薔薇色の空だった。

「ネタ探しって、小説の?」
「ああ。そうだよ。さっきも言ったけど、おじさんはグロイのとか悲惨なのとか後味悪いのとか、人の気持ちが落ち込むような作風なんだけどね、年を取るとそれを維持するのがどうにも難しくなるんだよ」
「ネタが尽きたの?」
「とっくにね」

軽い口調から一転、まるで誰にも聞かれないような小さな声になったものだから、空から視線を外しておじさんを見た。彼は自分の足元にある小石をじっと見つめていた。

「年を取るとね、いろんな経験をするんだ。誰かとの出会いや別れの繰り返しだし、こんなに幸せなことはあるのかと疑ったり、こんなに不幸なことはこれ以上ないと嘆いたり」
「……へえ」
「年取ったら涙もろくなるとか言うのがそれなのかもね。いろんな経験してるから、創作物でも自分と似てるところを見つけて、共感して涙する。大人はその入り口が大きいんだろうね」
「なるほど」

母はドラマを見てよく泣いているし、子どもが死んだニュースにはまるで自分が被害者遺族だと言わんばかりに怒り、悲しむ。あれも自分と重なる部分に共感しているのかもしれない。

「小説を書くときは、なによりも共感の気持ちが大切だ。主人公になりきって、他の登場人物になりきって、物語を紡ぐ。僕の作風は、陰湿で、凄惨で、救いようがなくて、残酷だ。それがなければ、僕じゃない。だから僕は、もう何も書けない」

おじさんは足元の石を思い切り蹴飛ばす。かつて噴水の一部だったのかもしれないそれはよく飛び、ホテルの薄汚れた壁にあたって小さな音を立てた。

それからすぐに静寂が訪れて、なんて声をかけていいかわからないまま沈黙が続く。静かだからこの場所が好きだったのに、おじさんと話す居心地の良さを知ってしまったから、今の状況が不自然に感じて焦りが生まれる。

「……だからね、この場所に来たんだ。実は高校生の時にここで書いた小説が賞に選ばれて、デビューしたんだ。またここに来れば、スランプから抜け出せるんじゃないかって思ってね」

 おじさんはその辺に落ちていた木の枝をつまんで、水面で揺れている枯れ葉をつついた。

「……なんだか大変そう。私、邪魔じゃないですか?」
「邪魔なもんか。むしろ話相手になってくれてありがとう。自分の気持ちを整理するのって大切だから」

おじさんは枝をぽいっと投げて、立ち上がってお尻をはたいた。薄手のジャージの生地が、少し白っぽくなっている。

「もうすぐ7時だ。帰らなきゃ。心春ちゃんも、あんまりここに長居しないほうがいい」
「……え? どうして?」
「僕が学生のころからね、出るんだよ、ここ。夜になると」

おじさんが両手をだらんと下げて、おばけのポーズをする。無精ひげとボサボサ頭と生気のない目が本当にそれっぽくて、背筋が寒くなる。

「もー! 怖がらせないでくださいよ!」
「あははっ。じゃあまたね」

おじさんはいたずらっこみたいに笑って、ポケットに手を突っ込んだままホテルの奥の山へと消えていった。

あんな方向に家があるなんて、本当におばけみたいだ。でも、おじさんのおばけなら怖くないかも。