「僕が自分の作風を維持できなくなったころね、僕の熱心なファンがたいそう心配してたんだ。病的なほどファンレターを送ってきたり、自宅を特定して差し入れを持ってきたり。ある日、僕と妻が一緒にいるところを見られてしまってね、『結婚したせいですか』と言って、しばらく音沙汰がなくなった」
「……」
「そこから地獄だよ。やっぱり、フィクションは現実には勝てない。ある日家に帰ると鍵が開いていて、そのファンの子が僕の妻を殺していた。『小説がつまらなくなったのはお前のせいだ』、『処刑してやる』。『よくも私の神さまを壊したな』。……僕が小説に書き殴っていた言葉より、酷いことを言っていたよ、ずっと。もう妻は息をしていないのに、ずっと……」
「……」
「僕のせいで妻が殺された。彼女と僕は、昼と夜のように性質が違っていたんだ。住む世界が違いすぎて、交わってはいけないものだったのかもしれない。後悔しかないよ……。どうして夢を見たりしたんだろう。どうしてあの子が欲しいと思ってしまったんだろう」
「……」
「僕はずっと、ひとりで仄暗い小説を書いているべきだったんだ……」

おじさんは、声にならない声を絞り出していた。話すのも辛いであろうことを、どうして私に聞かせてくれるのかわからなかった。

私はおじさんの奥さんのように、彼のこころに響く言葉をかけてやれないし、抱きしめてやることもできない。隣で話を聞くことしかできない。

もどかしくて、どうにかなりそうだった。

「……おじさんは、やさしいから」
「……?」

それでも、なにか言いたくて、でも飾ったことなんて言えなくて、自分の意思に任せて口を開く。

「もともと、やさしい話を書く人だったんだよ。だけど、家の環境とか、お母さんとか、いろんなことでそれができなくて、自分の中にある苦しみを小説に吐き出していただけなんだよ。毒を吐き出しきって、奥さんに愛をいっぱいもらったから、悲しい話が書けなくなったんだよ」
「……」
「そのファンの人がおかしいだけだよ。おじさんと自分を重ねていて、安心していただけ。おじさんが幸せになったのが、許せなかったんだよ。一緒に地獄に落ちてほしかっただけ。おじさんは悪くないよ」
「……あはは」
「なに? 変なこと言いました?」
「ううん。変なことなんて、言ってないよ。ありがとう」

涙と鼻水でぐしゃぐしゃの顔をしたおじさんが、ぐしゃぐしゃに笑った。その顔がおかしくて、不謹慎ながらわたしも自然と笑顔になる。

「……だからさ、おじさんはネタ切れって言ってたけど、もうふっきれて明るくて楽しくてハッピーな話を書けばいいと思うんですよ」
「すごいね」
「え?」

おじさんは、手に持っていたノートを開いた。

そこには、お手本のようにきれいな字で、大きく『こころのはる』と書かれていた。その下には、蟻のように小さな文字がびっしりと並んでいる。

「実はね、書き始めたんだ。心春ちゃんに出会って、君も読めるような楽しい話を書いてみたいって思ったんだ。ハッピーな話は書きなれていないから、短編だけど、いくつか。この他にも、『ぱおぱおくんの宝箱』とか、『夜の鷹に乗って』とか……」
「こころのはるって……」

照れくさそうに笑うおじさんを遮って、一番目についたタイトルを指さす。彼はうんとやさしい微笑みでうなずいた。

「もしも僕の本がでたら、読んでくれる?」
「……! うん! 楽しみにしてる! 絶対買います!」
「よかった。いつになるかわからないけれど、待っててね」

それから、おじさんはゆっくりと立ち上がった。もう辺りは薄暗くなっている。早く帰らないとおばけが出る時間になる。

「もう、行かなきゃ。早く小説の続きを書かないとね」

きっと、もうお別れなんだろう。なぜだか、そんな予感がした。

私がおじさんに告白したからかもしれないし、彼が自分らしい小説を書こうという気になったからかもしれない。

理由はわからないけれど、もう二度とおじさんに会えない気がした。

「心春ちゃんも、早く帰りなさいよ。そしてもうこんなとこに来たらだめだよ」
「……どうして?」

おじさんの横顔に、半分影がかかる。オレンジ色と黒色、縦にきれいに分かれている。

「ここだけ、時間が止まっているみたいだろう? 古くて、それでも植物は生きていて、建物は死んでいて、水は腐っていて、僕らは生きてる。……こんなところにずっといたら、せっかくの青春がもったいない」
「……」

青春、なんて、おじさんはおじさんらしいことを言う。私は青春ど真ん中にいるけれど、それは台風の目みたいなもので、実際に見えるわけじゃない。

だけどたしかに、ここにずっといると、みんなに置いてけぼりにされそうな気持ちにもなる。

授業も部活も進路も、私はまだまだ考えることがいっぱいある。おじさんが小説を書くと決めたように、私もこれから決断しなければいけないことがたくさん待っている。

きっと、ここにいると時が止まっているように感じていたから、居心地が良かったんだ。現実逃避ができたから、今のことから逃げることができたから。

――もう高2の秋だぜ、早いよなあ。

――時間をむだにしたくないし。

 朋君の声が、頭に響いた。

「うん。そうですね。もうここには来ません」
「……うん。それがいい。……じゃあ、幸せになってね。……またね」
「……またね」

大人はずるいなあ。どうしてこういうとき、笑ってまたねって言うんだろう。

おじさんの野暮ったいうしろ姿を目に焼き尽きておきたいのに、涙のせいでぐにゃぐにゃに歪んでしまう。

むしろいい気味なのかもしれない。おじさんの体が短足のおでぶちゃんみたいになってる。やーいやーい。