「前から思ってたけど」

「なに」

 上坂は、私から視線を逸らして言った。その顔が、微かに赤らんでいる。

「美希って、なにげに甘え上手だよね」

「へ? まさか」

「ホント。……そういう顔されるとさあ、も、何でも言うこと聞いてやろうって思っちゃうし……可愛すぎて思いきり抱きつぶしたくなる」

 か、可愛いとか……! 

 頬が熱くなったまま私が黙っていると、上坂は私の手を握って低い声で言った。


「……よかったら、うち、来る?」

「上坂んち?」

「俺、今家を出て一人で暮らしてるんだ」

「ああ……どこに住んでいるの?」

 そういえば、卒業の時、家を離れるようなこと言っていたっけ。

「見に来る?」

「行ってもいいの?」

「もちろん」

「うん。行く」

 よかった。会えなかった3年分、話したいことがいっぱいあるし……このまま帰っちゃったら、上坂に会えたこと自体を夢だったって勘違いしそう。

 夢じゃないって実感が欲しいから、もう少し一緒にいたい。


 頬が緩んだ私をちらりと見て、上坂は小さく言った。

「先に言っとくけど……うち来たら、朝まで帰さないよ?」

「あ、時間なら大丈夫。私も今、一人暮らしだから」


 大学に入って2年は、実家から通ってた。けれど、実習や実験が増えるにしたがって帰宅時間が遅くなるのを家のみんなが心配して、ついに3年になる時に追い出されるように一人暮らしを始めた。2時間以上の通学時間がなくなったのは、想像以上に体が楽になった。電車で寝ちゃうこともしょっちゅうだったから、やっぱりしんどかったんだろうなあ、私。


 笑んで答えたら、上坂が真面目な顔で私を見返した。

「そうじゃなくて……男の部屋で朝まで過ごす意味、分かってる?」

「意味、って……なにが…………」

 一瞬、まぬけな顔をしてしまった後、ふいに気づいた。

 ……あ、ああああああ! そういうこと! 

 さっきの比ではないほどに頬が熱くなる。


 そっか。こんな時間に部屋に行くってことは……ただ、おしゃべりする、とか、お茶するとかだけじゃないよね。

 今、上坂の部屋に行ったら。今日の私のまま、明日帰ることはできない……ってこと、だよね。


 動揺する私を、上坂は、じ、と見下ろしている。

「どうする? 帰るなら、このまま送る」

 落ち着いた低い声。穏やかに見守るような瞳は、いつか見た、ホテルに簡単に誘うような軽い視線じゃなかった。

 上坂は、私に選ばせてくれている。

 私は……


「……上坂と、一緒にいる」

 私は、そ、とその胸に顔をくっつけた。

 あ。上坂の鼓動が、早い。

 私と、同じだ。


「無理してない?」

「してない」

「帰っても、俺、気にしないよ? 美希が」

「上坂」

「ん?」

「会えなかった3年間……ずっと……さみしかった」

「……うん。俺も」

「あやふやな言葉しか信じるものがなくて、もう上坂は私のことなんか忘れてるんじゃないかって不安になって、そんな夢を何度も見てうなされて……でも、上坂しか好きになれなくて」

 黙ったまま、上坂はぎゅ、と私を抱きしめる。その胸に額をつけたまま、私は続けた。

「上坂は社会人だから、会えるようになっても、高校の時みたいには頻繁に会うことができないよね。思うように会えない日があれば、きっとまた私は不安になる。だから……だから、もう、離れてても不安にならないくらい……私の深くまで、上坂を、刻み付けて」

「……本当に、いいの?」

「いいよ。これが夢じゃないって、ちゃんと、私にわからせて」


 高校の頃、私に触れなくなった上坂。いつの間にか、私の方がそれをさみしいと思うようになっていた。

 この人に、触れたい、と思うようになってしまった。

「わかった」

 もう一度私を抱きしめた後、上坂は私と手を繋いで歩き始めた。と、ふいに上坂が声をあげた。


「あ」

「ん?」

「あれ」

 上坂が指さした方向を見上げる。暗い中空に浮かんでいたのは、大きな丸い月。

「満月だな」

「そうだね」

「あの月が細くなってまた丸くなるまで。俺の彼女でいて」

 いたずらっぽく笑いながら、上坂が昔のセリフをなぞる。

 あのセリフから、私たちの関係は始まった。今日までにあの月は、何度丸くなって細くなって、そしてまた丸くなったんだろう。

 私は、すまして答える。

「無理」

「えー?」

「だって」

 私は、つないだ上坂の腕に寄り添って続けた。

「あの月は、もう欠けないもの」

 そう言った私は上坂に、今まで生きてきた中で一番の、いい笑顔を見せることができた。





          fin