「そっちも、おめでとう。答辞、めちゃめちゃ緊張してただろ」

「……わかった?」

「わかるよ。階段踏み外さないかと、見ててひやひやした」

「まだ本命の受験が残っているのに、そんな縁起の悪いことできないわよ」

「階段落ちなかったから、きっと受験も大丈夫だよ」

 私は、ゆっくりと上坂に近づいた。


「何、見てたの?」

 上坂の立っていたのは、屋上のフェンスのそば。隣に立って、私も同じように下をながめる。眼下には、昇降口から溢れる卒業生と在校生、それに保護者が、校門に向かってうねる波のように流れていた。

「俺、この高校に来て、本当によかったなあって」

「そ?」

「うん。美希に、会えた」

 私は、隣の上坂を仰ぎ見る。上坂も、穏やかな表情で私を見下ろしていた。


「もとといえば、ここらじゃ名門だからって親に決められた学校だった。入学した時はなんの感慨もなくて、ただ大学に行くための通り道、くらいにしか思ってなかったんだ。けど、ここでお前に会えた」 

 細められた目を、じ、と見返す。


 以前は、こんな大人びた顔つきで笑うことなんてなかった。未来を自分で決めた上坂は、時々こんな顔をするようになった。

「美希に会えたから、俺は自分の本当にやりたいことをあきらめなくて済んだんだ。感謝してもしきれない。ありがとう」

「私と会えなくても、いつかは自分で選んだ道かもしれないわよ?」

「かもしれない。でも、今ここに立っている俺は、美希という存在がなかったらいなかった。……美希」

 上坂が、真っ直ぐに私を向いて、真面目な顔になった。


「次にお前に会う時には、俺は一人前のメイクアップアーティストだ」

「……うん」

「親父は、まだ俺がメイクアップアーティストになることを許してはくれていない。だから俺、卒業したら家からも……美希からも離れて、本気でやってみる」

 私は、ただ黙ってその言葉を聞いていた。おそらく最後になるだろうその言葉を、一言も聞き漏らさないように。


 学業もヘアメイクの勉強も、上坂は立派に両立させてきた。けれど、実績を持たない今の状態では、お父様は上坂のことを決して認めてくれない。

 もうすぐ、私は夢に向かって一歩を踏み出す。だから上坂にも、どうしても彼の夢をその手に入れて欲しい。


「誰にも文句のつけられないようなメイクアップアーティストになってみせるから……美希。それまで、待ってて。誰のものにもならないで」

 予想外の言葉に、私は目を見開いた。てっきり待っているのは、さよならだけだと思ってたから。

「……どうせ……」

「ん?」

「きれいな女の人に囲まれてちやほやされたら、きっと私のことなんか忘れちゃうわよ」

 違う。そんなことが言いたいんじゃないのに。うまい言葉が出てこない。相変わらず私の恋愛偏差値は低いままらしい。

 上坂は、困ったように笑った。


「絶対に忘れない。信じて……と俺が言っても、今さらだよな。けど俺はずっと、美希のこと、想っているよ」

 じ、と見上げていると、上坂はためらいながらその体をかがめて顔を近づけてきた。目を閉じないままの私の額に、上坂は誓うようにそっと口づける。

「約束。美希だけが好きだよ。いつか迎えに行く日まで、それだけ、憶えていて」


 この一年近く、上坂はずっと、野暮ったい私の傍にいてくれた。私に嫌な思いをさせるからって、他の女子と遊びに行くことをやめてくれた。そんな上坂の気持ちが、信じられないわけないじゃない。

 大事にしてくれているのはわかっている。

 でもさ、上坂。


 目の前にあった少し切なげに笑うその唇に、私は背伸びして、自分の唇を押し付けた。

「!!」

「約束ってのは、こういう風にするのよ」

 真ん丸な目をした上坂を、下からにらみつける。

「私がいつまでも待っているなんて思ったら、大間違いだからね。さっさと夢を叶えて会いにきなさいよ。でないと、先に私が自分の夢を叶えて、百年後にはあんたのことなんかきれいさっぱり忘れちゃうんだから」

「……美希」

「なによ」

「顔、真っ赤」

 満面の笑みで言った上坂にさらに文句を言おうとしたら、ぐい、と体ごと持っていかれた。抗議の声は、そのまま上坂の唇に飲み込まれる。


 遠くで最後のチャイムがなっていた。

 そうして私たちは、高校生活を卒業して、それぞれの道を歩き始めた。