「上坂君、お母様は特に文句も言わなかった、って言ってました」

「夫が見たらきっと怒ったでしょうけど、あの日は、たまたま留守だったの。あのおにぎりね、私にも、一つくれたのよ」

「そうなんですか?」

「ええ。失敗したから、なんて言いながら、私に一つ、花村さん……うちのお手伝いさんに一つ。とても、おいしかったわ」

「はい」

 ぎゅうぎゅうに握られたおにぎりを思い出す。私と同じように、お母様も、一言いいながら食べたのかな。それとも、何も言わずに、今みたいに穏やかに微笑んで食べたのかな。


「梶原さん」

 松井さんが、相変わらず淡々とした声で言った。

「これから蓮様のところへお連れ致します」

「えっ?!」

「どうか、蓮様の話を聞いてさしあげてください」

「でも……」

 連絡もなにもない。私はすでに上坂にとって必要のない人間なんじゃないだろうか。そんな不安を抱えた私がのこのこと上坂の前に出て行っても、上坂が喜んでくれるとは思えない。

「連絡がないことは、ご心配なさらず」

 私の顔色を読んだのか、松井さんは内ポケットからスマホを取り出した。


「これを、蓮様に渡してください」

「これは?」

「蓮様の携帯です」

 確かに上坂のものと同じだけど、新品らしくとてもきれいなものだった。

「先週、先生と喧嘩した折、蓮様の携帯は先生に壊されてしまいました。これは新しいものですが、変更手続きは済んでおります。あなたから蓮様にお渡しください」

「私が渡していいんですか?」

 私が顔を上げると、少しだけ松井さんは笑みを浮かべた。

「蓮様を、よろしくお願いいたします」

 私は、そのスマホを、じ、と眺める。

 連絡をくれなかったんじゃない。連絡することができなかったんだ。

 なら……少しだけ、期待してもいいかな。

 渡すことを口実に、会いに行ってもいいかな。

「お預かりします」

 私が言うと、お母様も、ゆっくりと頷いた。


  ☆


 上坂のところへは、松井さんが車で送ってくれることになった。制服のままだった私は、一度家に寄って私服に着替えることにする。


「却下です」

「はい?」

 家からでてきた私を見て、松井さんは腕組みをしたまま渋面で言った。

「なんですか、その服装は」

「え……おかしいですか?」

 ジーパンに薄手のパーカーは、この時期の私の普段着だ。


「これから男をたぶらかしに行こうという服装ではありません。最低でも、スカートははいていらっしゃい」

「た、たぶらかしに行くわけじゃ……」

「何でもいいから、着替えてきてください」

 おいやられて、私は自分の部屋へともう一度戻る。



「スカートなんていっても、私の持っているのなんて……」

 ぶつぶつ言いながら開けた私のクローゼットの一番端に。

 カーキ色のワンピース。

 結局、上坂に買ってもらっちゃったやつだ。

 私は、じーーーっとそれを睨む。

「わざわざ、あいつに会うためにおしゃれとか、そんなんじゃないからねっ! スカートなんて他にないし、ちゃんとした服装してかないと、松井さんが怖いからっ」

 誰に言うともなく言い訳をしながら、私は勢いよくパーカーを脱いだ。