「美容師と、違うのかしら」

「まあ、似たようなものです。細かいことを言えば、いろいろとありますが」

「そうなの。私、あまりそういうことには、詳しくないから」

 恥じ入るように、お母様は頬を染めた。それから、もう一度、私に向かう。


「先週のことです。突然蓮が美容師……いえ、メイクアップアーティスト? ……になりたいと言い出しましたの。最初は夫も相手にしなかったんですけれど、今までになく蓮が食い下がったものですから夫はそれはもう怒って、蓮と大喧嘩になってしまって……次の日に家を出たまま、あの子、この家には戻ってはおりません」

「家出、してたんですか」

「連絡もないし、一体あの子、どこにいるのか……」

「蓮様は、懇意になさっている美容師さんのもとにいらっしゃいます」

 私とお母様は、二人で同時に松井さんを見た。


「蓮がどこにいるのか、あなた知っていたの?」

「居場所だけは掴んでおりませんと、何かあった時に困りますので」

「でしたら、教えて下さったらよかったのに」

 お母様は、少しだけ頬を膨らませるような顔になった。なんだか……かわいらしい方なんだな。政治家の奥さんて、もっときりっとしたイメージがあったんだけど。


「先生に知られると、連れ戻せとただやみくもにおっしゃるでしょう。ですがそれでは、また同じことの繰り返しです。今は、少し時間を置いた方が良いと判断しました。奥様に黙っておくのは心苦しかったのですが、もし知ってしまった場合、奥様に知らないふりができるとは思えません」

 しれっと言った松井さんに、お母様は素直に頷く。

「だから、蓮のことは大丈夫と言っていたのね。そうね、松井さんの言うとおりだわ。二人とも、頭を冷やす時間が必要なのよね」

 いえあの、お母様。この秘書さん、今さりげなく失礼なことを言っておりましたよ? 

 いつものことなのか、それとも本当に気づいていないのか。秘書ってこういうものなのかなあ。

 それはともかく、とりあえず、上坂が本当に無事らしいことは分かったので、ほ、とする。けれど、それと同時に疑問もわいてきた。


「でも、なぜ私にそんな話を?」

 今の話って、上坂家としては、かなり踏み込んだ話なんじゃないだろうか。そんな話を、部外者の私が聞いてもいいものなの?

 私が見上げると、松井さんは涼しい顔をして続けた。

「先日、蓮様とお二人でいらっしゃるところでお会いしましたね」

「はい」

「私の見た様子とあのレストランの支配人の話から、いつものご友人方とは毛色の違う方だと、記憶に残しておりました。高校に入ってから反抗的になっていた蓮様ですが、最近、少し様子が落ち着かれてきたようでしたので、何があったのかと疑問を抱いていたのです。おそらく、あなたが原因だったのですね」

「原因て……」

「ああ。そうだったのね」

 ふいに、お母様が得心したようにうなずいた。


「ねえ、梶原さん」

「はい」

「蓮がおにぎりを持っていった人って、あなたなのかしら?」

 息をのんだ私の顔を見て、お母様は、ふふ、と笑った。

「やっぱり、そうなのね」

「すみません……私が余計なことを言ったばかりに……」

「あら、責めているわけではないのよ」

 その時を思い出したのか、お母様はまた、ふふ、と楽しそうに笑った。


「朝早くから、キッチンで何やっているのかと思ったら、あの子、一生懸命おにぎり作っていて……今どきは、それほど珍しいことではないのよね。でも」

 そう言うと、お母様の表情が少しだけ陰った。

「この家で、男の方がキッチンに立つということは、それだけで衝撃的なことだったわ。自分でも、あんなに衝撃を受けるとは思っていなかった。この家の常識が一般的ではないことは分かっていたつもりだったのに……いつの間にか私も、この家に染まっていたのね」