「そろそろ、行かなきゃだ」

 桜木さんが小さな声で呟く。
 私は腕時計を見た。時刻は午後2時を指している。東京駅から新神戸駅までは新幹線で約3時間弱。夕方到着で引っ越し荷物を手配しているそうなので、さすがにそろそろここを出ないとまずいのだろう。

「……うん、わかった。行こっか」

 私は努めて明るく返事をした。心配掛けないように、笑顔を作って。私達はせっかくなので車窓から景色が見えるように地下鉄ではなく、いつか来た釣り堀の見える市ヶ谷駅のホームから中央線に乗り込む。

「釣り、リベンジ出来てないね」
「そうだね。そろそろ暖かくなってきたから行き時かもな」

 桜木さんが笑う。
 行き時なら、今から行こうよ。そう言いたいのに、咽で言葉が突っかかり、出て来ない。
 もうすぐ桜木さんが行っちゃうのに、こんな時なのに、何を話せばいいのかが分からずに言葉が出ない。話したいことが沢山あり過ぎて、何から言えばいいのか分からない。電車に揺られながら昔友達と行った大阪の有名な観光地の話をして、こんなこと話したいんじゃないのにって思うのに。

 新幹線のホームに着く頃には、私達は無言になっていた。ホームに白と青の車体が入ってきた時、桜木さんが沈黙を破る。

「美雪。俺も会いに来るから、美雪も来て。お互い月1回行き来すれば、2週間に1回会えるよ」
「うん」
「電話するから。ラインも」
「うん」
「とりあえず、今夜引っ越し作業が終わったら電話するよ」
「うん」

 思わず涙ぐみそうになり、私は自分を叱咤する。
 陰口を叩かれて飛び出したという古巣に戻る桜木さんは、きっと戦いに行くのだ。『今更どの面下げて戻ってきたんだ』とか、『これだからお坊ちゃんは』って言う人は少なからず居るだろう。その人達に、そんな口がきけないくらい成長したところを見せに行くんだ。心配させちゃ駄目だ。

 発車ベルが鳴り、桜木さんが新幹線に乗り込む。私に気遣ってくれてるのか、座席には行かずに入り口付近に立ったままだ。

「美雪。元気でな。またな」
「桜木さんもお元気で……。私、応援してるから、頑張ってね!」
 
 桜木さんが驚いたように目をみはる。ドアが閉まるガラス越しに口が『あ・り・が・と・う』の形に動いたのが見えた。私はとびっきりの笑顔で両手に握り拳を作って見せる。
 ホームから新幹線が出発して、カモノハシの顔ような後ろ姿が見えなくなるのまで見送りながら、不意に目から涙がこぼれ落ちた。


***


 4月になると、新人さんが2人、イマディール不動産に仲間入りした。1人は不動産関係の業務経験がある私より少しだけ年上の男の人、もう1人は派遣社員としてデパートで販売の営業経験があるという20代半ばの女の子だ。

 オフィスに届いた郵便物を整理していると、私宛の葉書があり、私は手を止めた。裏返すと差出人は久保田様だった。
 久保田様は結局、イマディール不動産が仲介した東急田園都市線沿いの駅に引っ越しされた。住所は神奈川県川崎市になるが、近年大規模に再開発された二子玉川駅も近く、閑静な住宅地でありながら利便性が高いと人気の場所だ。手紙には無事に引っ越しが完了したことの報告とお礼の言葉がかかれており、私は口の端を上げた。

 私は斜め前に視線を移動させた。桜木さんがいなくなったこの席は、今は新しく入った男の人が座っている。そして、ながらく空席だった私の隣には新しく入った女の子が座っている。

「藤堂さん。大丈夫? サクロスしてない?」

 隣の綾乃さんがコソッと私に話し掛けてきた。綾乃さんは私と桜木さんの関係を知る、数少ないひとりだ。ちなみに『サクロス』とは『桜木さんロス』の略らしい。

「大丈夫ですよ。今朝もライン来ましたし」

 私は笑って答える。
 パソコンを開くと内覧の申し込みや売却依頼が数件入っていた。今日も忙しそうだ。
 桜木さんはいないけれど、私の日常は何事もなかったように今日も回り出す。