「藤堂さん、お疲れさまー。あのおじさん、大変だったでしょ?」
席に戻ると、マグカップを持ち上げてふーふーと息を吹きかけていた綾乃さんが、ひょこっと顔を上げた。少し甘い香りはホットココアだろうか。
「大丈夫ですよ。厳しいこと言われることも多かったですけど、最後は笑顔でした。ご心配をおかけしました」
私は少しだけ小首を傾げてみせた。佐伯様の相手は確かに胃に棘が刺さるかのようなストレスが多かったけれど、終わってみれば、咽に刺さった棘が抜けたかの如く、すっきりとした気分だ。
「藤堂さん、もうすっかり独り立ちだねえ」
「え? そうですか?」
「そうだよ。私が見る限り、藤堂さんはどんなお客様でもなんとかして上手くやっていけると思うよ。だってあのオッサン、相当癖ありだったもん」
綾乃さんが『オッサン』の部分だけ声を潜めて内緒話をするみたいに口に手を当てた。私はその様子をみて、思わずクスッと笑ってしまった。
「ありがとうございます」
「それはこっちのセリフ。主戦力が一人増えると、それだけ私の仕事も軽くなるんだから」
おどけた調子の綾乃さんはテーブルに肘をついたままこちらを見て、ボールペンをクルリと器用に回した。
綾乃さんはこういう、相手に気を遣わせないようにさり気なく褒めることに関して天才的だと思う。褒められて嬉しくない人なんていないと思うから、私もこのテクニックを是非とも盗みたいものだ。
そんな話をしていると、リーンとドアが開く電子音がして尾根川さんが外出先から戻ってきた。「寒ぃ」とぼやきながら、両手を擦り合わせている。今日は気温が低いのか、鼻の頭もトナカイさんのように赤くなっていた。
「お疲れさまです」
「お疲れー。外、無茶苦茶寒いよ」
「今日、曇ってますもんね」
私は軽く頷いて相槌を打った。外はどんよりと曇っていて、いかにも寒そうだ。
「そう言えば、藤堂さん宅建どうだった? 僕受かったよ」
尾根川さんは満面に笑みを浮かべて、右手の親指を立てて見せた。私はそう言われて、驚きで目を見開いた。隣では綾乃さんが「わぁ、やったねー」と、早速祝勝会の計画を立て始めようとしている。
「え? もう合格通知来ました? 私、来てないから駄目だったのかな……」
私は呆然と尾根川さんを見返した。
昨晩帰宅したときにポストを確認したが、合格通知は来ていなかった。私は駄目だったのかと思い、がっかりした。頑張ったつもりだったけど、力及ばすだったようだ。シュンとする私を見て尾根川さんが慌てたように補足した。
「合格通知はまだ僕にも来てないよ。だけど今日、ネットで合格者の番号発表してたよ。藤堂さん、受験番号覚えてないの?」
「ネット? 受験番号……」
尾根川さんにそう言われて、私は眉を寄せた。そう言えば、ネットでも合格発表をすると書いてあった気がする。受験番号は受験票に書いてあるけれど、当然ながらその受験票は自宅のローテーブルの上だ。
「受験票、家なので分からないです」
「え? そっかぁ。じゃあ、家に帰って確認だね」
尾根川さんは残念そうに両肩を上げ、手のひらを天に向けた。
その日の帰りは20分弱の徒歩の道のりがとても長く感じた。いつもと同じ道なのに、とても遠く感じる。
やっとのことで自宅に戻った私はコートも脱がずにパソコンを起動させるとその前に正座して座った。起動してからインターネットに繋がる時間すら、もどかしい。早く見たいのに。早く、早く。
「えっと、番号が……」
合格者の番号を目で追って、自分の受験票に書かれた受験番号を探す。心臓がどきどきして、手が震える。数字が自分の受験番号に近づく。あるか、あるか、あってくれ!
人差し指でモニターを指差して追った。
「あった……」
パソコンのモニター上に自分の番号を見つけた時、私はもう1度受験票に視線を落として間違いが無いか確認した。間違いない。同じ番号だ。
「やった…、やった。やったーぁ!」
わずか7畳の小さな城に、私の歓声が響いた。