それは自宅で1人鍋の準備をしているときのこと。

 野菜を切っていると、チリンとラインの受信の音がした。鍋は独り暮らしの強い味方だ。ちゃんこ鍋、キムチ鍋、トマト鍋、チゲ鍋……味を変えれば何日だっていけちゃうんだから。長ネギを斜め切りしていた私は、この長ネギだけは切りきってからにしようと包丁を握る。作業を終えてスマホの画面をタップしてその画面を確認し、私は表情を強ばらせた。

 表示名は『英二♡』となっていた。

 ♡マークを消し忘れるとは、なんたる不覚。英二からラインなんて来なかったから、すっかりと忘れていた。当時の自分の頭の沸き具合に半ば呆れかえる。

 内容を確認して、私は何とも言えない気分になった。こんなこと今さら言ってくるなんて。別れてからもう半年以上経ってるんだよ?

──俺、やっぱり美雪じゃ無いと無理だ。

 短い文章は、それだけだった。やり直そうとも、なんとも書かれていない。私からの反応を待っているのかも知れない。

「今さら、遅いんだよ」

 スマホの画面を見つめながら、乾いた笑いが漏れる。本当に今更だ。これが、イマディール不動産に入社したての頃だったらまた違っただろう。でも、遅すぎる。

 私は表示名の♡マークを消すかわりに、ブロックボタンをタップした。暫くすると既読が付いたのに反応が無いことを不審に思ったのか、今度は電話が鳴った。

「もしもし?」
「もしもし、美雪?」
「どちら様でしょうか?」
「え? 俺だよ、俺」

 間抜けな返事に、呆れた。お前はオレオレ詐欺の一味か! とツッコミたい衝動に駆られる。

「何の御用でしょうか?」
「久しぶりだけど、元気にしてる?」
「用がないなら切らせて頂きます」
「ちょっ、待てよ。俺、お前じゃ無いと無理かも」

 焦ったようにラインと同じ言葉を言う英二。なーに言ってんだかと、思わず失笑が漏れた。

「私とこれから先の人生を歩むのは無理だと確かに三国さんの口から聞きましたけど? 用は無いということでよろしいですね?」
「待てって! 俺らって、相性最高だったっしょ?」

 どの口がいうのか? アホですか??
 先に合わないと言いだしたのはあんただ。
 思いのほか凪いでいた心は、急激に怒りに塗り替えられる。

「さようなら。永遠に」
「まって──」

 ブチっと通話を切ると、その場で通話もブロックした。
 ああ、なんか凄く嫌な気分だ。せっかく綺麗に整えた私室を突然土足で押し入った人間に引っ掻き回されたみたいな。今日の鍋は水炊きにしてポン酢で頂くつもりだったけど、予定変更して激辛キムチ鍋にしよう。汗と一緒にイライラもさようならだ。


 ***


 昨日の今日で、この甘ーい雰囲気は目に毒だ。
 接客室で向かいに座る若い夫婦──橋本様は、とても仲むつまじい様子でカタログに夢中になっていた。今、購入予定の物件のリノベーションの計画を練っているのだ。

「私、やっぱりカントリー風がいいなぁ」
「じゃあカントリー風にしようか」

 旦那様が奥様に向かってふわりと笑う。奥様の鶴の一声で新居の内装の方向性はカントリー風になった。私は数多くあるカタログからカントリー風に合うものを集め、それを橋本様にお渡しした。

「ゆっくりとお選びになられたいと思いますので、こちらはお貸し出しします。次回までに壁紙やフローリング、バスルームなどをお選び頂けますか?」
「わかりました」
「はぁーい」

 30代で落ち着いた雰囲気の旦那様に対し、まだ20代半ばの奥様は少しだけ子どもっぽい口調。でも、旦那様はそれが可愛くてたまらないご様子で、終始にこにこしていた。新婚さん独特の空気が狭い接客室を覆い尽くしている。心なしか白いはずの壁紙がピンク色に見えてきたのは目の錯覚だろうか。