いつぞやの尾根川さんのように、電話で話しながら思わず頭をぺこぺこと下げる。胃にブスッと棘が刺さる。栗を()()ごと食べたらこんな感じなのだろうかと、他人事のように思った。

 私は電話を切り、深くため息を吐いた。
 こちらとしても売りたいのは山々だけれど、なかなか売れない。はっきり言って、こっちが泣きたい気分だ。桜木さんの『担当代わろうか?』という言葉が脳裏をよぎり、私は慌てて首を振った。桜木さんは私よりもずっと多くの案件を抱えている。きっと、その中には佐伯様のように気難しい方もいらっしゃるはずだ。もう少しだけ頑張ってみよう。そう自分に言い聞かせた。
 それに、久保田様がちょうど今、この物件を検討中だから、もしかしたらもしかするかもしれない。その事に一縷の望みをかけた。



 その日の午後、イマディール不動産を訪れた久保田様が仰った言葉を聞き、私は驚いた。

「エリアを変える……ですか? 学校はよろしいのですか??」
「それが、図面を見せたら妻も現実が見えてきたみたいでして。他の不動産屋さんでは『ご希望に合う物件が出たらご連絡します』と言われたまま音沙汰が無かったから、よく分かってなかったんです。住んでみてやはり狭くて引っ越そうとなるよりは、むしろ小中学生のうちに転校してずっとそこに留まる方が妻や子どもにもいいんじゃないかという話になりまして。藤堂さん、探してくれますか?」

 久保田様は申し訳無さそうに眉をハの字にして私を見た。それを聞いたとき、1番最初に私の頭に浮かんだことは『また佐伯様の物件、売れなかったな』ということだった。
 正直、残念に思った。けれど、すぐにそうじゃないよねと思い直す。私の今すべき仕事は目の前の久保田様の理想のおうち探しのお手伝いなのだ。久保田様にとって佐伯様の物件が売れるかどうかなんて、遠い町で起こった知らないカップルの痴話喧嘩くらいにどうでもいい話なのだ。

 私は申し訳無さそうに恐縮する久保田様ににこっと笑いかけた。

「もちろんです。ぜひ、お手伝いさせて下さい」
「ありがとうございます」

 久保田様はホッとしたように息を吐く。

「子育てしやすくて、住みやすい町がいいと思いまして。渋谷にある会社に1時間以内で通えると嬉しいのですが……。いくつか紹介して頂けますか?」
「はい。沢山ありますよ」

 すぐに思い付いたのは東急田園都市線沿いだった。渋谷から神奈川県内に向かって伸びる鉄道沿いは都心のベッドタウンとして閑静な住宅街が広がっている。最近再開発も進み、子育て世代に人気の駅も多い。それに、京王井の頭線沿いも閑静な住宅地が多いのでいいと思った。
 私はさっそく物件情報を数枚抜いて、久保田様に差し出した。久保田様はその物件案内を見て、目尻を柔らかく下げた。

「持ち帰って、妻や子ども達と見てみます。ありがとうございます」

 いくつかのご紹介した中で気に入った数件を封筒に入れたものを持ち、久保田様が笑顔でオフィスを後にされる。その後ろ姿を見送りながら、今度こそ気に入って頂ける物件があればいいなと思った。

 自席に戻ると、桜木さんに声を掛けられた。

「藤堂さん。久保田様、どうなった?」
「あー、力及ばすでして──」

 私は一部始終を桜木さんに話した。自分なりに探したけれど、ご提案できるご希望の物件が無いこと。その上で妥協案を提案したけれど、駄目だったこと……。

「そっか。まあ、あの条件だと正直厳しいよね」

 桜木さんは納得したように、少しだけ肩を竦めて見せた。そして、私の顔を見ると少しだけ笑った。

「藤堂さんのそういうとこ、すごくいいと思うよ」
「はい?」

 私は首をかしげる。

「大抵の同業者──俺も含めてだけど──は、あの希望を聞いたら、無理と判断して動かないと思うんだ。現に、久保田様のところには藤堂さん以外からは連絡がいかなかっただろ? だけど、藤堂さんは探そうと頑張った。そういう姿勢って、すごくいいと思う。藤堂さんの強みになると思うんだ。お客様に寄り添う気持ちが伝わるって言うか──」
「ご希望には添えなかったですけどね」

 急に褒められた私は、咄嗟に照れ笑いを作って気恥ずかしい気持ちを誤魔化した。桜木さんは微笑んでこちらを見下ろしている。

「うん、そうなんだけど──。いつの間にか、いかに売るかばっかりに目がいってたから、俺も見習おうって反省した。きっと、藤堂さんの強みになるよ」

 桜木さんは会話の中で何回も『藤堂さんの強みになる』と言った。
 そうだろうか? 今のところ売り上げには全く繋がらないので、そうは思えない。けれど、そうだといいなと思う。

 結局久保田様のご希望に沿うことは出来なかったけれど、少しでも理想に近いお家探しをお手伝い出来たなら、それほど嬉しいことは無い。これからも頑張ろうと、桜木さんの言葉に少しの勇気を貰えた。